切り分けることができない世界を切り分ける

どこまでが樹木でどこからが樹木ではない

この世界は人間の視覚において切り分けやすい形で切り分け、、そこに名前をつけて強制的に独立した事象を作り出していきます。人間の視覚上、、樹木は、、根っこ幹、枝、葉っぱを含めてのものですが、、人間の視覚でなければ、、根っこは恐ろしいほどに広い可能性はあります。さらに根っこに吸い上げられていく栄養分は人間の視覚では認識できないことからそれは省いていますが視覚によってはそれを含めて樹木と呼べるわけです。葉っぱから飛び散る花粉は樹木に含めるのか???これも人間の視覚によるものです。つまり人間という動物をベースに名前でもって現象を切り分けているわけです。

本当は何も切り分けることはできない

食べた栄養素はどの瞬間から人間の一部になるのでしょうか???口の中、胃の中、腸の中、毛細血管に入った瞬間、血液の中に入った瞬間か???と全くもって曖昧です。つまり人間という存在すらどこからどこまでか?が全く決まっていないのです。つまり人間と食べ物の境目は曖昧、排泄物と人間の境界も曖昧、、というよりも境目を明確に決めることは不可能であり、、全ては便宜上分離しているとみなしているのです。

にも関わらず

にも関わらず人間のこの体の中には自分が居るという思考が湧き上がり、、あたかも独立した体の中に自我が実在しているように人間は振る舞います。突き詰めてみれば全ての現象は全て繋がっていて切り分けることは不可能にも関わらずです。当たり前のことですがたった一つの実在するエネルギーの投影がコレ、現象界ですから分離できようがないのです。にも関わらず分離しているという前提で物事を理解していくから複雑怪奇な感情に襲われていくのです。

とはいえそれが悪いわけではない

分離するのは悪いことだ、、と言いたいのではありません。分離して見えるのですからそれは別にいいのです。本当は分離などしていない、本当はこの体も分離などしていない、、本当は観念が投影した世界に見えるだけ、、本当は、、、至福とは本当の世界です。分離に疲れたら本当に戻るほかありません。

(Visited 5 times, 1 visits today)