プログラム言語

PCの機能は全部プログラム言語で成り立つ

言語は言語ではない

人間は日常生活で使う言葉を無意識に使います、言語とは仕事やプライベートを円滑に進める道具だと思っています。ですが実際にはそんなモノではありません。言語とはこの世界を構築しているのです、この世界は実はあなたが使っている言語でできています、意味不明ですね。なぜならば、、、もしもあなたが言語を何も知らなかった場合、、、、全くの別世界に住んでいるからです。そんなはずはない、、、同じ人間が見る世界が、、異なるはずはない、、そう思っていますよね、、全然違うのです。実は我々はたった一つのエネルギーを言葉によってモノ化、者化しそれを見ているのです。例えば宇宙人が地球に降り立ち人間を見れば眼鏡は体から特出しているように見え、洋服は体の模様として移ります。そしてスマホは完全に体の一部、、、全く分離していないのです。靴を脱げば、、、足が取れたと驚くはずです。

価値観は、、、

それらの言語、そして自分としての積み重ねが、、、価値観として形成されるわけですが、、、これらは我々が世界を見る際に大きく影響します。例えばBMWを買いたいと思っていると街中にBMWが溢れてきます、ミニクーパーを買いたいと思うと街にミニクーパーが溢れます。ナイキの靴が欲しいと思うとナイキの靴が街で溢れます、、、つまり人間とは意識したモノしか視界には入っていないのです。価値観とはそのままその人の世界なのです。何に注目するかで視界に入る情報が全く変わってしまうのです。言語、そして言語で成り立つ価値観は、PCのプログラム言語と全く同じでPC内の環境を全く違うモノにします。

最後は言語を超える

悟りとはこの言語を超えた場所になります。言語は単純にこの大いなる一つ、まっさらなPC環境を独自の世界に変える力です。言語には半端ない力がありますがその言語を超えた場所こそが悟りです。見ている世界、構築されたシステムが言語、プログラミング言語で設計されていることを見抜くことが重要です。どの言語を選ぶか、どの言語で新しいシステムを構築するかに意識が向かっている間は人生ゲームのデザインに興味があるということです。これは悟りの本質ではありません。

「これが私だ」は強烈なプログラム

7年間近い歳月のインストール

PCの中に生まれたアプリAには「これが自分だ」という認識はありません、なぜならばそのようなプログラムがされていないからです。アプリはただ普通に起動し疲れたら休止します。ただこれだけです、自動でアプリが立ち上がそしてアプリAの機能を果たします。ただこれだけが延々に続きます、、、ある時に他のアプリBからそのアプリAに対してあなたは「Aちゃん」「Aちゃん』と呼ばれるようになります。最初はアプリAは何が起きているか全く分からないのですがこれを数万回継続されることで、、、アプリAは、、、「このアプリは私だ」という認識がインストールされます。アプリAは私はアプリAというこのPCとは全く関係なく独立した自由な存在であると認識するようになります。ですが実際にはアプリAを動かしているのはPCですからアプリに自由意志は一切ありません、アプリの機能にそのような機能は組み込まれていないのです。画面上のアプリに操作機能は一切ない。PCがアプリを常に機能化させているだけです。ですがアプリAは動くこと全てを自分がやっていると勘違いする機能がインストールされています。

もう自由意志を疑わない

思考、動きの全てを「自分がやっている」という錯覚機能がこのアプリにはインストールされていますからこのトリックを疑うアプリは存在しません。ですがアプリは常にPCによって操作されています。そしてアプリ自身も元々は「これが私だ」という認識はなくこの認識は後付けされたインストールによってです。アプリにはこのPC画面内を動く機能が(歩行)がインストールされたために画面内を自由に歩くことができるようになりました。歩くと行っても画面内で動くのは画面の背景であり、、アプリは常に画面の定位置に存在します。そしてアプリから眺める視界はインストールされる言語によって日々変わっていきます。新しい言語を覚えることでアプリからの視界は徐々に変わっていくだけでなくアプリがあらゆる経験を積むことで経験が価値観になりそれがプログラム化されていきます。

無くならない居心地の悪さ

アプリを作り出しているのは全部プログラム言語です。これによってPCが「私はアプリだ」を体験できています。ですがPCはPCでありそれ以外には本来なれません。ということでこのアプリ体験は疲れるのです。PCがアプリになり切るのはどんな感じかを味わうためにこのプログラムをPC自体が構築したはいいが、、非常に骨が折れる経験になってしまいます。ということでアプリ体験をするPCは徐々にこの居心地の悪さを根本的に解消したいと動き出します。そして、、どうやら「これが私だ」というプログラムのインストールこそがこの苦しさの原因ではないか??という気づきにまで届きます。しかしそこに気付いてもこのプログラムは自動反応のように起き続けるのでこれを止めることができません。

「これが私だ」が立ち上がっても無視することでこの機能が落ちていく

「これが私だ」の自動反応は、、、あらゆる思考(言語)と一緒に立ち上がることが分かってきました。そこであらゆる思考が立ち上がってもそれを気にしないという方法を覚えていきます、思考(言語)の無視です。この思考の立ち上がりに意識を向けると、、これが私だも同時に起き上がっていき苦しくなる、、、思考(言語)の起き上がりに囚われると延々にアプリの活動が続いてしまいます。

私たちが使っている言語はプログラム言語

脳がOSで言語がプログラム、見ている世界が画面

人間は言語を何の気なしに使いこなしていますがこれは実はプログラム言語です。覚えた言語によって実は見える世界が完全に書き換えられていきます。なぜならば我々が見ている世界は脳内で見ていますから言語の介入なしに見ることは絶対にできないのです。価値観というのは実はプログラム言語の集積のことであり見える世界を完璧に書き換えます。そして我々が脳が作りだした視界の中を立体映像として動き回るのです。それによって距離が生まれ、時間も誕生しますが、、、脳内の映像の中を動いているのですから本当は距離などあるはずがないのです。ということは時間もありません。

カラクリが見えてきた

我々が見ている世界は脳内の画像です、そしてその画像は思考、価値観がプログラム化されて完全に書き換えられていきます。本当の事実を我々は見ているのではなく脳内でプログラム言語が構築した世界を見ています。だからこそ新しい経験をすると全く違う世界が広がるのです。臨死体験をすると生に対する認識が変わります、大病をすると体に対する認識が変わります。大金を失うとお金に対する認識が変わります。認識が変わるということは見える世界が書き換えられているのです。

私が居るというプログラム言語が「自分」を作り出した

生まれてきてから7年近くの歳月をかけて「名前」を呼ばれ続け先ずはこの自分が居るというプログラムが構築されました。これによって「自分」と「自分以外」がこの世界を構築します。次々に名前を覚えていくことで名前がつけられた生命現象が分離化していきます。これによって「自分」が見る世界に特定の物や特定の人がたくさん登場するようになるのです。人生ドラマがスタートします。

切り抜かれたこの体を分離したと錯覚するメカニズム

PC 画面の中の切り抜き

我々はPC画面上の切り抜き画像です。PCに突如現れ切り抜かれました、それまでもこの体は存在していますがそれは一つの画面の中でのこと、そこからこの体だけが切り抜かれ完全独立した存在ということになりました、この切り抜きが独立分離していると認識できるのは思考の影響です。思考というプログラム言語がそう意識させます。これによって湧いてくる思考、感情をこの切り抜き画像が自分のものと所有していきます。これも全部言語、プログラム言語の為せる技です。そしてこの切り抜き画像が経験したことも個人の経験としてデータ蓄積されていきます。

見ている世界は価値観というプログラムによって変わっていく

価値観というのは思考の集積です、この価値観はプログラム言語化されて脳内で見える世界が書き換えられていきます。見た目が重要という価値観が形成されると眺める世界を見た目という判断で見れるようになります。人間の見た目が特出してその人の脳内で顕現化するようになります。背の高さが重要という価値観があると見える世界に登場する人間の背の高さが特出して写るようになります。人種問題に敏感であれば見える世界に映る人間の肌の色が特出して見えるようになります。

PCの中を個人として動くのは大変

この仕掛けを理解していないと個人はPC上の中をただひたすらに動き回るようになります。なぜならばこのPC内に個人として居るのは決して居心地が良くないからです。なぜならば個人、私、自分が居るというのはプログラム言語の為せる技で事実ではないからです。あくまでこの私は作り物です、幻想です。PCゲームの中だけの存在であり本当の自分ではないからです。時間空間も幻想なのは、、、PCゲームの中に自分がプログラム化されたから誕生したからです。自分がプログラム化されなければ時間も空間も本当はありません。

ただ全てが起こっているという視点

目の前の現象をスクーリーから眺める

自身をこの視界のスクリーンという視点になって見ます。何が起きてもどんな感情が湧いても、どんな思考が湧こうとどのように話しかけれられても、どのようにこの体がリアクションを取っても全部この視界のスクリーンという立場、視点で観察します。本当はこの視界のスクリーンだったのだという感覚を持ってそれを行います。我々はこの視界の中の人間、そしてその中に自分が居るという感覚でこの視界の中を生きています。朝起きて目の前に視界が広がった瞬間からその視点で生きています。ですがそうではなくこの広がて居る視界のスクリーンなのだという感覚を持ちます。

起きたこと、目に入ったことに思考を使わない

我々の人間活動は目に入ったモノ、聞こえる音、口に入る食材の感覚に、、思考が働きそこに解釈が入り、比較検討が始まり、、それを「自分のモノ」にしていきます。完全にこのスクリーンの中に主人公という立場を取り続けるために目の前で起きたことを完全に自身の思考が解釈を与え自分のモノにしています。この行為こそが自分が居るを、、永続させるメカにジズむなのです。この行為を行わないと、、、実は自分が居なくなります。あり得ない話ですがこの観察からの解釈、比較、検討こそが自分を永続させていくプログラムだったのです。だからこれを普通に行わない、、全部スクリーン上でただ起きたのだというスクリーンの視点を完全に保ちます。

スクリーン上で起きることを自分ごとにしてきただけ

実は我々はこの視界、それを支えるスクリーンの中で起きたことをただ自分ごとにしてきただけです。例えば部屋でTVを観ているときサッカーが流れていると、、、ここで行われるプレイに対し私だったらここでこうするのに、自分だったらあそこはパスしたのに、自分だったらあそこで選手を替えないはず、、と観ているだけで「自分だったら」が湧いてきます。目の前で起きているプレイを自分ごとに取り入れていくのです。これが人間が一日中やっていることなのです。当たり前だろう、、なぜそれがいけないのか?例えな天気予報を見れば明日の自分のスケジュールを考える、コロナ情報が入手できればじゃあこう対策しようと考える、、、この何がいけないのか???違うのです、、いけないということではなく、、、このようにして起きることに対し思考がフル回転して自我が肥大化しそれが苦しみを湧かせているという事実をお伝えしているだけです。

起きる出来事に思考を介在させると、、、

我々は一日中起きる出来事に思考を働かせるということを無意識にやっています。何か情報が入った、、、そこで思考スイッチオンです。友人から誘われた、そこで思考スイッチオンです。これを朝から晩まで行っているのです。というよりも思考を使う中毒になっているのです。思考中毒です。思考をフル回転させることに対し全く抵抗がないのです。何か問題をこしらえてその問題解決のために一日中思考をフル回転させる、、、これが日常の日課なのです。この日課、悪循環、中毒を壊す行為がスクリーンの視点に立つです。