偽りの自分

私だけが救われちゃっていいんですか???

いいんです

私だけが救われちゃっていいんですかね???何か都合が良い気がするんですが。。。。いいんです。なぜいいのか?????それは周囲は既に救われているからです。え?????周囲は既に救われている?????戦争が起こり飢饉で人が死に、テロが起き、、、、、どこが救われているんですか???????じゃあ聞きますが、、、、、苦しんでいるという証拠は?????どこに証拠があるんですか????そう見えているだけじゃないですか???????

分かっちゃうと分かっちゃう

少なくともあなたが生きる世界において、、、苦しみを感じているのはあなただけです、、本当はその苦しみもあんたが感じているのではなく、、、いまここに苦しいが湧いただけなんですが、、見かけ上はあなただけが苦しんでいるんです・。「この体この思考この感情が自分」という思考が湧きますとそれと同時に憤りを感じるようになっています、それは意地悪ではなく真実ではないからです。これを辞めちゃいます、、そうすると苦しみは無くなるんです。

そんなことしたら私が居なくなっちゃうじゃないですか?????

そんなことしたら私が居ないことになりますよね????この体この思考この感情が自分じゃなかったら何が自分なんですか??????大丈夫です、自分なんていう概念がなくたって「今に在る」という感覚は絶対になくなりませんから。。。。意識がなくなるんてことはないんです。今までは意織、今に在るという感覚の上の自分が存在するが乗っかっていただけです。だから無くなっちゃって大丈夫なんです。幻想が一つ消えるだけです。

同情は便宜上やればいい

本当のところは分からない

生きていると同情したくなるような状況ってあります、友人が大病にかかる、友人が大金を失う、友人が離婚する、、そんな時悟り、ノンデュアリティの観点からするとどういう対応が正解なのか????友人の大病、大金を失う、、これらは現象としては間違いなくそれが起きたんです、それは事実です。ですがその友人がそれによって苦しいという感情を本当に発現しているかは分からないのです。そう見えるという事実しかないのです。だからといって何も同情をしないというのも無理がある。ということで表面的に失礼がない範囲で同情を形にします。

お葬式に行って

お葬式に行けば親族が悲しんでいます。ノンデュアリティ の立場から本当の悲しみの感情がその方々から発現しているかは分からない、、というよりも発言していない。ですが便宜上同情を表面に出します。その現場で笑顔で交わすというとは無理あがる、というよりも表面上波風を立てるのです、だったらば演技として悲しいふりをするのは全く問題がありません。

重要なこと

重要なこと、それは演技をすべきかすべきじゃないかではないんです。重要なことは、、本当は親族が悲しんでいるという重い事実がないということです。世界は何も重くないのです、重く見えているだけで何も重いことが起きていない。表層上は何だって起きるんです、戦争、テロ、災害、、、、ですが悲しんでいる苦しんでいるという発現が実は起きていなくそう見えているということ。。。この事実は圧倒的に軽いんです。

そうです、自分たちは実はめちゃくちゃ軽く生きていいんです

両親が体調悪くて、、親の面倒でこれから10年間は、、、気持ちは本当に分かるんです、、そう見えます、、そして「苦しんでいるように」見えるんです。ですが真実ベースでお伝えすればそう見えているだけです、、それが事実です。無責任と思うかもしれません、ですが真実では何も起きていないんです、全てはそう見えてみるだけです。それを分かった上で上手くやるんです、大人として。

雷雨より晴天が良い????

全て偽りの自分にとって

今見ている世界が全てです、いまこここれしか起きていません。この中に「この体とこの思考が自分」という思考が立ち上がりその瞬間だけ偽りの自分が現れます。そうでない限りはたたこれがあるだけです。逆言えばここしかないのですから世界の裏側って存在しないんです。今部屋に居るならばここしか存在しません、世界の裏側に居ることになっているブラジル人は今存在しないんです。

雷雨よりも晴天の方がいい???

いまここにおいてより完全な現象と不完全な現象ってないんです、、、最善の現象と最悪な現象ってないんです、全ては完璧な現象です、、というよりも現象に善悪、高低、大小、、、ってあるわけないんです。ここしか存在しないのですから。この中に「偽りの自分」は思考として登場した時だけ、、その自分にとって善悪、ラッッキ〜アンラッキー、などの判断が勝手に起きます、、本当はただ移り変わる現象があるだけです。

常に本質に戻る

そんなこと言ったって、、偽りの自分としてこの人生を生き抜く必要があるのは何も変わりはないですよね????そんなことはないんです、、そういう思い思考が今湧いただけです。本質はただこれがあるだけ、以上です。その時に至福歓喜安堵が勝手に湧いてくるんです、、この場所を理解しますと、、もうドラマに埋没することがなくなります、そこの世界で生きないとダメですよね???という疑問が湧いてこないんです。

いつだってここに戻れる

思考が全く湧いてこない時、偽りの自分が湧いてこない時、至福歓喜安堵が湧いてきます、、、これを感じてください。。。そうすると何かしなくちゃ、何かを達成しなくちゃが起きるわけがないんです。なぜ何かを達成しなくちゃいけないかと言えば偽りの自分が登場すると苦しいからです。苦しいからそこから逃げるために目標が必要になるんです。偽りの自分を無理やり湧かせないでください、苦しくなるだけです。

ワクワクするとハッピーになる????

スピの大御所バシャール

ワクワクすることをしてください!!そうすれば人生は上手くいきます!!!これがスピの大御所バシャールが伝えたい内容の全てです。ですがこの内容、、大きな欠落があるんです。これをそのまま受け取っても正直しんどいんです。それを説明します、、、ワクワクすることをしますと人生が自動的に上手くいく、、これって本当ですよね。。。、無理して我慢して、、、嫌なことに向き合うよりも、、最初からワクワクすることやった方が結果的に人生が上手く進むはずです。これは夢ですから。

上手くいくのが偽りの自分

ですがですが残念ながら、、上手くいくっているのが偽りの自分(この思考この体この感情が自分)ですから結局はそこに戻ってくるんですね。上手く行ったのは俺だよね????に。するとこの思考こそが「憤り」を生み出しますから、、、またワクワクすることをしなくちゃ!!!!になります。人生を歩む自分という存在に戻ってしまう限り全部振り出しなのです。

真実から入る

真実はこうです、、偽りの自分「この体この思考この感情が自分」という思考こそが体に反応し憤りを生み出している、、、だからこの事実を理解することで負のスパイラルを壊すことができる。偽りの自分が嘘としてじゃあ本当の自分はどこに居るのか?????いまここ、ここです。この見える全部が自分でこれ以外にはないも起きいていない。そこに思考がたまに起き、感情がたまに起きるだけ。それ以外は全部妄想、空想です。

だからこそ

この真実があまりにシンプルであまりに簡単で全ての重荷を取っ払ってくれるからワクワクできるんです、、すると何かいいことが起きる、、そしてそれを享受していた偽りの自分はもう居ない。だから振り出しに戻らない。憤りが湧いてこない、、、だから至福平和歓喜、、、さあ何しよう???になります。主語が「偽りの自分」のままではこのドラマ夢からは絶対に絶対に抜けられません。

今問題がないということに誰も気づかない

このまま行くと、、、

この街は再開発されてやがて家賃は高騰するだろうよ!今年の総理の発言じゃ来年あたり税金が上がるだろうね!今年の冬の気温を考えると来年の夏は大変だろうよ、、、多くの人の話はこんな内容が多いものです。このまま行くと、、的な内容が非常に多い。。将来を憂う、、という独特の話が。ですが皆さんこれに気づいていない、、、、、その話をなぜ今できているのか??????問題がないからです。病気を患っちゃったから来年もつかわからないんだよ、、、、という話を今できているという事実。

就職が全然決まんなくて

就活中なんですが、、全然決まんないんですよね!!!と今その話をできてしまっているという事実。これは食べていけない気がするんです、、、と今その話を出来ちゃってるんです。今この瞬間は何も問題が起きていないんです。今この瞬間はなぜ大丈夫なんでしょうか????それは今というこの瞬間、このスペースは実は至福歓喜平和でしかないのです。その中で思考が湧き上がりその思考が体に反応してネガティブな感情が湧くのです。

思考以外にネガティブな感情を起こせない

簡単に簡単に説明すれば、、、鳥は生涯たった一度もネガティブな感情を感じることなく生を全うするんです。狼もチーターもたった一度もネガティブな感情を感じることなく生を全うします。しかしながら鳥には鳥の狼には狼の事件はあったはずです、、全く餌が取れない、炎天下、猛暑、寒波、、、、しかし、、、ネガティブな感情を感じることなく全うします。なぜか???それはネガティブな感情を起こすには思考の存在が必要だからです。

動物に問題が一度も起きないのならば

動物に問題が一度も起きないということは人間にも問題は本来一度も起きていないんです、、、、それを問題と捉える思考を今起こしているだけなんです。これをただ続けているのです。本当は今というこの空間には何も起きているわけがなく思考が何かを起こしています。思考の解釈によって事が起こったことになりそれに対し大変だ!という思考が起きるのです。これによってネガティブな感情が湧くのです。

大災害が来た!!!

大災害が来ました、、、、動くだけです、その時の状況に適した行動を一目散に取るのです、、この際に思考など湧いてこない、、もっと言えば自分という存在に構っている暇がない、、、「この体この思考この感情が自分」という思考が湧かないのです。。。つまりその時は安堵になっちゃいます。

行動から観察へ

思考が起こった時

これまでは思考が起こると同時に、、自分が起動します。。ようく観察してみてください、、「今日夜何食べようか????」が起こった時「自分」が起動しているはずです。友人から「今日飲まない???」とラインが入った時に「自分」が起動していないでしょうか????「今日何しよっかな???」の思考と同時に「私」が起動していないでしょうか????

思考と自分を切り離す

「なんかモヤモヤする」が起きた時に「自分」が薄っすら起動していないでしょうか????これを毎日観察してみてください、、、今まで我々は何かしなきゃ!!!!!という強迫観念に縛られてきたのです、、「なんかしなきゃ」です。。。だから常に前に前に進むベクトルが起動し、、観察する、止まって観察することに慣れていないんです。

今日一日観察しよう

今日は何かをする日じゃなくて、、、観察する日にしましょう。思考が湧いたらただ観察する、、、今こんな思考が湧いたな、、、です。それと自分をリンクさせない。。。。「イライラする」、、、が湧いたな、、、です。「じゃあどうしようか???」じゃないんです。それは今までのスタイルです。「どこか行きたいな!!」が湧いたな、、、です。「じゃあどこに行こうか????」じゃないんです。

思考感情を冷静に観察できるようになると

湧いてくる思考感情を冷静に観察できるようになりますと、、、その観察している誰かに既になっているんですい。思考=自分ではなく、、思考を観察する存在です。もうその時点で、、何かが変っちゃってるんです。アイデンティティがシフトしちゃってるんです。こんな簡単なの?????そうです、簡単だからそんなんでシフトするはずがない、、、という思考こそが罠だったんです。思考感情との同一化とは、、観察するだけで解消します。

自分らしくあるのになぜ努力が必要なのか????

普通に考えれば

自分以外の者になるのは当然努力が必要でしょう、、例えば役者が、、役に成り切るには努力が必要なのは理解できます。ですがなぜ自分が自分になるのに努力が必要なのでしょうか????我々はこの社会に適合しなければ生きていけないと信じています。信じていますからその観念がこの夢に投影されてそのように映ります。ですが実際には何か別の者になる方がエネルギーが必要なのは明白なのでそれは疲れるわけです。役を演じるといことを学習できたのですから次は役を演じないで生きるというプロセスに入ってもいいかもしれません。

ここからは努力はいらない

自我を形成するとは「この体この思考この感情が自分である」を信じそう活動することです。偽りの自己を完全の演じるわけです。これは努力が必要なのです、だってこれは偽りですから。その偽りの姿で、、さらに何者かになろうとするわけです、、政治家、役者、医師、パイロット、スポーツ選手などなど、、、これは非常に疲れますよね。演技にさらに演技を重ねていくわけですから。ですがこれをやることでこの体を守るという仕事をしてきたわけです。この先はではどうするか???まず大前提の「この体この思考この感情が自分である」は概念であって真実ではないことを悟ります。便宜上そう信じて生きてきただけだということ、そうなるとその偽りの自分が次にやる役割は全部偽りです。だから疲れていたことを認めるのです。すると得体の知れない憤り、疲れが吹き飛びます。

分かったところでどうなるの????

この質問が分かっていないのです、、この質問が出る時点で分かっていないのが分かります。そのことが腹の底から理解できますと、、至福歓喜平和が押し寄せてくるんです、、本当の自分が本当の自分でいればいいんですから!!そこに努力はいらないんです、、努力しなくていい状態に帰るんですからこんな安堵感はないんです。もう何かになろうと努力しなくていいんです。やるべきことがあるとすれば本当の自分が誰かを思い出すことだけです。

それでもこの体は残りますよね????

この体が自分じゃないって言われてもこの体は残りますよね?????しっかりと今もこの体はここにありますよ!!!!そうです確実にあります、、今それを認識してますよね?????その認識した存在こそが私です。この体という名前の何かを認識する存在が本当の私です。もうこれからは「この体が私だ」と思わなくていんです。この体を認識するのが私です。この体を通じて認識する全てに気づくのが私です。この体は認識できる現象でしかなくその現象を作り出したのが私です。そして目の前にそびえ立つ木々を作り出したのも私です。私しか居ないんです、、私しか居ないのならば、、、私という概念も最後は消え去ります。

至福に戻さない巧妙な仕掛け

観念通りの現実

この映画の凄いところは偽りの自己(この体この思考この感情が自分)があらゆる経験を積んで(錯覚だが)集めた価値観がそのままこの映画に反映され上映されるということです。これでは偽りの自己は自身が偽りで思うわけがなく『やっぱり!!!』とこの映画にこの主人公としてのめり込むkとになります。この世界ではこの私はしっかりと勉強しないと食べていけないよね!!!という価値観を持つと、、本当にそのように見える世界になるのです。これぞこの経験を積んでいる自分自身(偽り)の絶対的存在根拠になります。

今回のクッパはどうやらそうとう手強いぞ!!!

マリオをやっていて、、、どうも今回のクッパは見た目が強そうだぞ!!!という思考が湧いてきた時に、、その思考が反映され実際に強く感じた場合どうなるか????マリオはクッパの存在、マリオ自身の存在を疑うだろうか???ということです。これじゃ絶対にマリオが実は居ないなんて信じないのです。要は一旦マリオの存在を信じた時に、、周りの環境がマリオの観念によって都合よく変化するわけですから、、バレにくいわけです。

至福を感じてしまう瞬間

絶体絶命のピンチ、、いきなり大出血、大転倒、、、マリオ絶対絶命の危機、、、、こんな時があったとしましょう。。。。マリオが何も考える隙がなく、、全意識が問題解決に向かった時、、、どういうことだ???異常に気分が良い、、心が穏やかだ、、、こんな経験久しくしてないぞ!!!が起きます。その時ふと思うんです。。。なんで?????自分のこと考えている余裕がない時に、、なぜ????こんな楽なんだ????自分のことを一生懸命考えている時の方が苦しいって変じゃね?????です。

本当は誰もいないってマジかも????

そんな時に見かけ上の覚者が言っていた話がチラつくんです「本当は誰もいない」です。居るって思ってるから苦しんじゃね????間違ったことを信じてるから苦しいじゃね????自分が絶体絶命の時に至福をチラ見するってなんか凄い意味がある気がする、、、、、大正解!!!!!自分が居るって思えないぐらいにヤバイ時に至福になるって要は本当は居ないのが正解なんじゃねーの?????大正解!!!!!我々の本質は至福でしかないんです、、、自分が居るって思えないぐらいな状況の時、、、、本当の自分が偽りの自分に構っていられなくなり本当の自分に再発見したんです。

傷つかないから分かる

偽りの自分が居なくなると

偽りの自分が居なくなると、、、分かるんです、、いつ分かるのか????何を言われても傷つけないんです。。。。なぜか????言われているはずの本人(偽りの自分)が存在しないからです。何を言われてもプライドが傷つかない、、、そこに私は居ません。。。ということ。これは言われてみないと分からないんです。そして悪口を言われてもワクワクしちゃうんです、楽しくなっちゃうんです、、、なぜか???誰もいないこの体に向かってパンチを繰り広げてくる相手が面白いんです、滑稽なんです。

褒められても面白い

褒められても、、嬉しいが起きないんです。多くの方が褒めることってピントがずれているんです。偽りの自分ありきの褒め方をしてくるんです。だから全くピントがズレた褒め方をするんです。でも実際に起きた行動は偽りの自分がないことによる行動ですからどうしてもズレるわけです。偽りの自分が居なくなるとそのままで楽しいんです、だから行動する、、結果褒められる、、、という順番になります。

偽りの自分は

偽りの自分ありきの状態ですと、、、幸福になるために何かをするんです、、目的があるんです確実に。そしてその行動の結果幸福を見かけ上手に入れますと周囲から褒められます。そして幸福を手に入れれないと行動を非難されるんです。ところが偽りの自分が消えますと、、至福だから行動したくなるんです。最初から至福なんです、だから何をやっても褒められるんです結果が既に出ているからです。

既に至福だから

偽りの自分が居なくなりますと、既に至福なんです。だから何を言われても傷つきようがないんです、、むしろ面白いわけです。ピントがズレているから。ボクシングの世界チャンピョンが街の不良に絡まれるようなものです、、面白いんです負けるわけがないから。悟りを開いて絡まれると面白いんです。、だって奪われるものが何もないからです。

自由意志の大大プレッシャー

自由意志はいつもプレッシャー

自由意志があるという大前提で生きていますと、、負けても買っても失敗しても成功しても常に常にプレッシャーが偽りの自身にかかってきます。というよりも負の感情が湧き上がります。憤りが起きます。本当は自由意志がないにも関わらずこれをあると信じることで、、体から反応が起こりストレスとして生じるのです。周囲は自由意志大前提で生きていますから、、いつの間にかその流れに流されているのです。

幸福も不幸もプレッシャー

自由意志において幸福を得ても不幸を得ても苦しみです、なぜならばその幸福は一瞬のものであり、、それを維持するためにはさらなる自由意志が必要になるのです。さらにこの苦しみの根源は「この体この思考が自分」という思考が生み出したものですから解決しようがないのです。自由意志を信じてしまった時点で我々人間は苦しみからは解放されないようになっているのです。

いつやるの???いまでしょ!!!

そんな難しいこと言わないでくださいよ!!!まーもしかしたらそうかもしれないけど、、、そういう内容は来るべき時が来たらいずれ分かるでしょ!!!!違うんです、、それこそが自我の延命作用なんです、、自我が発見されるのを先延ばしにしているんです。つまりこの真実に気づき始めたら、、悟っちゃった方が良いんです!!!ところがそれも自由意志ではなく勝手に起こることですからこの表現は矛盾しています。