思考に関わらない

ただ湧いては消えていく思考に振り回されない

思考はとにかく湧いてきます、青空に湧いてくる雲のように、、次から次へと、、、ですがこの思考に関わってしまうと思考ループに取り込まれます。その思考ループは誰もが知っていますが苦しいゾーンです。雲に巻き込まれた飛行機、思考に引っかかってしまった意識は苦しいのです。思考は放っておけば消えてしまいます、ですが人間はこの思考に敏感に反応します。そして苦しみの時間が継続します。

思考というエネルギーを掴まない

思考というエネルギーを一度掴むと長くそこに巻き込まれることになります。ですから思考が湧いてきても放置します。放置して消えて無くなるのを待ちます。それよりも日常生活の感覚に意識を向けます、五感に意識をむけます、、、体の感覚、五感の感覚は今にしか存在しません、体の感覚に意識を向けるとそのまま今に入れます、今とは非二元、ワンネスのことです。これを言葉で理解するのではなく体で感じます。体で非二元を感じていきます。

人と話をしているとなぜ楽か?

人と話をしていると相手の話を聞くという行為が入ります、この瞬間思考を使わずに済みます、思考しながら話を聞くのが難しいのでその瞬間思考が外れるのです、そして話を返している瞬間思考が止まります。要は人とのコミュニケーションは五感を使うということです。その瞬間非二元を感じることができるのです。

色即是空、空即是色

先ずは空の理解が起きる

先ずは空の理解が起きます。普通に生きている我々は空の存在など、本当の自分の存在など全く興味なく生きています。目にする全てが新しく、目にする全てが輝いている、、この色の世界でただできる限り楽しく生きることだけを考えて生きていくようになります。ですが途中でどうも雲行きが怪しい、、どうも苦しいことが多い、、、こんな人生を今後も生きていき何か意味があるのだろうか?そのような疑問を持ち始める人が現れます。そしてその人はいつの日か実はこの世は幻想で(色)本当は空が本物であるという悟りに入るのです。

次に色の世界の再確認

この世は実は空の現れに過ぎない、、この気づきを得た人は、、実は私の存在すらも幻想で私が居るように感じているだけだという悟りを開きます。実は私も私以外もあった一つのエネルギーでできていて、ただ在るだけ。この気づきが起きます。ですがたった一つのエネルギーの様々な表現があるだけという世界は虚無でもあるわけです。ではこの私と感じるこの体、思考、感情は一体これから何をするのか?という話です。

空からの衝動

そこは心配はご無用です、私の本質を本当に理解し始めますと、、元私のもとに全体、本当の私からの衝動が起こるようになってきます。興味は湧くテーマが次々に湧いてきます、そしてそれをやるための恐怖心というのが全く湧いてこないのです。ただやりたいだけ、だからやろうが延々と続きます。自己超越状態の行動だけが続くのです。そこには駆け引きも腹のさぐり合いも無い、、ただ本当の自分からの衝動だけがあります。そしてそれを実行に移すとき、色の世界のこれまでの知識が非常に役に立つ、まるで王に使える最強の戦士のように思考がフル回転するのです。

湧いては消えていく思考が真実を捉えられるわけがない

思考は雲のようなモノ

湧いては消えていく思考はまるで雲のようなモノです。この思考が真実を捉えることなどできません。この思考が全く湧いていないときに真実が現れます。ですからこのブログで散々お伝えしているように思考のメカニズムを理解して思考がない状態を実感していく以外にありません。思考はあくまでも現れては消えていく雲であり真実はこの思考、雲がない空にあります。思考をグルグル回す行為は空に雲がたくさん現れて空を隠している行為であり思考・雲が湧けば湧くほどに空は曇っていきます。真実が隠れていきます。

思考・雲ができることはこれらがない状態が真実・空であることを伝えるだけ

朝から晩まで思考をグルグル回すことは空に雲がガンガンに湧いている状態のこと、、、思考・雲が出現すればするほどに空は曇っていき空が見えなくなっていきます。この状態は居心地が悪く辛くなっていきます。にも関わらずく空が曇れば曇るほどに思考・雲がフル回転することで空は真っ黒に曇っていくわけです。そして真っ黒になって意気消沈し疲れ果てて考えるんを諦めた時にまた空・真実が現れるという皮肉なことが起きます。ですがすっかり思考はそのことを忘れまた一日中考えるという行為を没頭します。思考中毒とはそのようなことです。

どうしたら思考が湧かないで1日を過ごせるかを考える

思考というものが雲ようなモノで出現すればするほどに空を曇らせる、そして曇れば曇るほどに真実の光が遮られ苦しくなることは理解できたと思います。そうなれば答えは簡単、1日を思考抜きでいかに過ごすかだけを考えればいいのです、何かに集中する時人は思考を忘れます、全作業を集中して行うことだけを考えす、集中して行えれば思考は湧いてこなくなるので空が晴れてきます。さらに負の感情が湧いてきた時に思考が自動反応で起きないように観察します。負の感情からの思考自動反応が起こったら直ぐにそれを観察することで思考の湧き出しを止めることができます。すると空は一日中晴れた状態を維持できます。空が晴れている状態を意識的に作れるようになりますとその状態が当たり前になり思考・雲の自動反応に鋭敏になっていきます。

自分至上最高の出来事、自分発見

自分を発見することがこの自分劇場最大の祝福

進学、就職、結婚、出産、出世、、、、人生の中であらゆるおめでたい行事は多々ありますがその中で最も大きなお祝いとは何か?それは自分が自分の存在を発見することです。一般的に言われている自分という存在はこの体の中に主人公がいるという認識です。ですがこの設定での自分がいる限り、進学、就職、結婚などのあらゆるお祝い事を重ねても常に不足、不満が残ります。完璧な就職、結婚、出産、出世はこの自分人生には存在しません、必ず何かしらの不満が残りその解消に向けてまた走り出すようになります。自分人生においてこれを散々やってきた人はある時気づきます、これを続けても終わりは来ないと。ということでこれに気づいた自分はもう世の中の祝事に興味がなくなります。それよりもこの苦しみ、不満、不足が続く自分という存在は一体何なのか?ということです。

自分人生を諦める

どうやらこの自分という存在を前提にした人生には至福がこないことはいつやら分かってきます。というのも成功者の自殺、芸能人の自殺、幸福の絶頂に見える人の自殺を見ても辻褄が合わないことが多すぎるのです。ネタバレにはなりますが他者の死は自分とは関係はないのですがそれでもそう見えます。自分人生を生きてきて多くのハードルを超えてきても全く不足感が減ることがない、この事実だけを見てもどうも雲行きが怪しくなるのです。自分人生を一旦諦めて自分という存在に切り込んでみる、そんなアイデアがこのブログを書いている自分に何年か前から訪れました。自分人生はとりあえず横に置いて自分とは何なのか?という話です。

自分というものを調べてみたら文字に答えが書いてある

自分というものが入っているこの体は一旦何なのか?その疑問を追求すべくこの自分は鬼のような書籍を読み漁りその解明に乗り出しました。するとまさかのその答えは自分という漢字にしっかりと刻まれていました。自分とは「自らを分ける」と書きます。とんでもない意味です、自らを分けたものが自分、こんな意味の言葉で我々は自身を表現していたのです。分けるという言葉は分離をいみするわけですが一体何からの分離なのかという話です。答えは「全体」ということになります。我々は全体から分かれた存在である、だから不足感、孤独感、喪失感がどこまで行っても拭えないのです。もっと詳しく言えば我々は全体から分かれたつもりになっている存在ということです。分かれたつもり?そうです、初期設定が勘違いだということです。これで自分人生、人間人生において永遠の至福が来ないことがわかりました。

先ずは全体があった

そこから自分が起こった

先ずは全体しかありませんでした、これ、あれです。視界に広がるこれ、あれだけがありました。動物、自然、花、太陽、空、雲、これ名前は元々ついているわけがなくただ目の前に映る諸行無常、変化する何かがありました。そこにこの動く体というものを発見します、お腹が空き、排泄が起こる、そして寒いと感じるこの体を発見します。ただこの時点では自分と自分以外という感覚はありません。やがて視界に広がる中にこちらに話しかける物体(人間)が登場します、その物体は食事の面倒を見てくれたり排泄の処理をしてくれる、そしてどうやら何かをこちらに向かって話しかけています。音だけがします。その物体はなんと7年間近くをかけてこの動くモノには名前があり、それがどうやら自分という存在であること、そして自分以外の存在があること、、そして目に見える動く、もしくは動かない何かに一つ一つ名前があることを教えてくれました。

一番近くに常にある動くモノを「自分」と呼ぶ

これによって自分と自分以外が誕生しました。自分はこの見える世界で最も大切であるらしく、この自分を大切にしなさいと。そしてこの自分の中には思考というものが起き上がりそれも自分のものだと、さらに怒りや悲しみなどの感情もたまに湧いてくるがこれも自分のものだよと教わりました。不思議なことに自分という存在を理解すればするほどにこの感情が沢山湧いてきます。その感情は多くの場合心地が良いモノではなくだから自分はそれを消したくて他の人間と一緒にいたくなります。全体は最初からあったし今もありますが今の全体は自分と自分以外に分かれています。

自分ができてから空間ができた

自分という存在が誕生してから空間ができました、自分がキノコを取りに行く際にそのキノコは向こうの山にありました。自分が向こうに行かなくてはならなくなりました。すると向こうの山に行くには距離があり、その距離を行って帰ってくるまでに時間というモノが誕生しました。本当は空間も時間も存在しないのですが独立した「自分」というモノが誕生し自分が「自分以外」と接触することで空間と時間が誕生したのです。

悟った人はいないの真相

悟った登場人物はいる

これは夢です、夢ですからどんな登場人物も登場できます。天使も、宇宙人も、何でもです。そこに悟った人というのも登場します。例えば現代であればトニーパーソンズ、アジャシャンティー、プンジャジ、大和田菜穂、雲黒斎さんなんかでしょう。夢の登場人物としては悟った人は当然現れます。ですがこれは夢ですから人間風の登場人物ということだけ、人間という確立した風の登場人物が現れる、ただそれだけです。

悟っていない登場人物もいる

悟ったと言い張って実は悟っていない風の登場人物もいます。怪しいインチキ系の宗教団体のグルのように。ですがこれもただの登場人物ですから実際はいません。居るように限りなく見えますが実際はいません。夢の中の登場人物としては居るように確実に見えます。成功者も、芸能人も、著名人も、詐欺師も登場人物としては確実に登場してきますがですがそれも夢では居るが実際は居るように見えるだけです。夢ですから。

空中浮揚するヒマラヤ聖者

空中浮遊するようなヒマラヤ聖者もこの夢の中では出てくるかもしれません。もしもあなたがそれらの書籍を読んで興味を持ち、実際にヒマラヤに行けばそのような聖者が今でも居るのかもしれません。ですがこれは夢ですから例え居るように見えてかつ触っても触覚があり、実際に確実に空中浮遊しているかもしれません。あなたの前で。しかしそれも夢です。夢の中で確実に居るように見える、触れるだけです。そのような聖者から多くのことを教わることも良いでしょう、興味がもてれば。そしてあなたがその師匠の教えにより空中浮遊できるようになるかもしれません。ですがそれも夢の中での事実です。ワンネスがあなたを通じて見続ける夢でしかありません。

自我は思考、体に集中すると自我は抜け落ちる

この心身こそは自分という錯覚は思考で行われている

この現象界にあるエネルギーは全て全存在、海の表現です。ですから思考も勿論その表現の一つです、表現の一つである以上悪いとか良いとかは一切ありません。つまり思考は悪ではありません。そしてこの思考を使って人類は発展してきました、思考こそが人類繁栄の主役です。この事実は変わりません。ですがこの思考はこの心身こそが自分自身であるという錯覚を引き起こす張本人でもあります。海であることを忘れ波が自分だと勘違いさせている真犯人です。全存在ではなく個人であるという勘違いを引き起こす真犯人です。人間の苦しみは間違いなくこの思考こそが生み出しています。これもまた事実です。ではこの思考を抜け落とし自身を全存在、海であると腹落ちさせるにはどうしたら良いのでしょうか。それは思考ではなく体を使うことです。体に全意識を集中するとそれに反比例して思考は弱まっていきます。例えば火事の時に子供を助けに行く母親の行動は体がおこなっているのであってそこに思考が入り込む余地はありません。オリンピックの短距離奏者が思考を使いながら走るということもありません。剣道の真剣勝負に入ったら思考の出る幕はありません。この時自我(この心身こそ自分という思考)は抜け落ち剣道術者は人間ではなく全存在になっています。マイケルジョーダンがプレイに集中する時に自分はマイケルジョーダンだという思考は抜け落ちしています、彼はプレイ中神になっています。

思考を観察するという行為に無心になる

思考を観察するという行為の凄さの理由は、思考を観察するのは自我にはできないということにあります。思考こそが自我ですから思考を観察するのは自我ではなく無我です。そう波になる前の海です。自我が形成される前の全存在、神、大いなる一つです。思考はこの存在以外に観察できないのです。だからこそ思考を観察するという行為は大変効果的です。ですがこれができない方は日々のあらゆる雑務に集中することで自我を抜け落とし無我に入ります。自我が抜け落ちた時には常に無我はそこにあります。なぜならば自我は無我の中でしか存在できないからです。自我がなくなった時に無我が現れるのではありません、自我は常に無我の現れです。無我を隠す無我の表現です。

空は常にあるがそれを隠す雲

私たちが生まれてきてこれまでの期間で空がなかった日はありません。空は常にありました、ですが空を雲が覆い隠し一時的に空が見えなくなってしまった時間はあります。自我と全存在、自我と大いなる一つの関係はこの雲と空の関係に似ています。全存在は常にあります、全存在がなかった日はありません。ですが時に自我がこれを覆い尽くし全存在が見えない時間があります。自我がない時は快晴です。自我が空を覆い隠す時は全存在は隠れて見えないということになります。大人になると自我は常に現れていて全存在を隠す時間が増えていきます。空が見えないからといって雲が必死になって活動すればするほどに空は雲で覆い隠されてより隠れてしまいます。これが我々人類を苦しめるメカニズムです。苦しい時は自我(思考)を活動させるのではなく自我(思考)にお暇してもらいましょう。思考を徹底的に観察する、もしくは無心になって何かに取り組むことで思考は行動を控え全存在が姿を表します。雲が消えれば空が見えます。

海であることを忘れた波は無価値観を感じながら生きていく

海であることを忘れた波は自分は小さいという無価値観を持つ

本当は広大な海であるにも関わらずその中のごくごく一部の波であるという錯覚、自覚、誤解を抱えた波は地震には価値がないと当然思うようになります。この広大な大海原で1%にも満たないこの小さな波に価値を見出すのは難しいものです。この無価値観をベースに今後この波を人生を歩んでいくことになるのです。これが波物語無価値観編です。

無価値観をベースに物語を作っていくからこれは辛い旅になる

自分自身は本当に小さく、弱く、影響力もなく無価値な存在であるという初期設定をした波はその後この観念をベースに大海原を動きていく旅を続けていくわけです。これは非常に辛い旅です。ですが実際は波ではなく海ですからこれほど悲惨な勘違い、大間違い、大誤解はないのです。そして自分にとって都合の悪い事件が起こる度にこの無価値観という観念を強化していくことになるのです。無価値な波が何を手に入れようと、何を達成しようとそもそもの設定が無価値ですから不毛感が無くなることは絶対にないのです。

ふと自身が海であることを思い出してしまう波が現れる

キリスト、ブッタ、トニーパーソンズ、ラマナ・マハルシ・大和田菜穂さん・雲こくさいさん、、などといった覚者と呼ばれる人がたまに現れるのは当然です。無価値だと思い込んでいた波が突然自身は海であることを思い出すという事故が起きるのは当然だからです。なぜならば波として生きながらもそこにはしっかりと常に大海原が広がり1秒たりとも自身からこの大海原が離れたことはないからです。無価値である波と思い込む観念以外そこには最初から何もなくただ海が最初から広がっていたのです。