観念

人生ドラマを操り余裕を作って悟りに至る

本当は操れないが、、、

言葉では矛盾ある表現になりますがそれを踏まえて説明します、、、人生ドラマはその人の観念が織りなすドラマです、、、そのため、、、その観念が変わればその人生が変わります、、、その観念は体に溜まった負の感情をダイレクトに受けます、、、負の感情が溜まった体は、、、その感情を味わうのを避けるために、、思考が湧きます、、、、その思考が重なり合って観念が書き変わっていきます、、多くの場合その思考は感情を味わいたくないがための思考ですから、、真実に繋がる思考ではありません、、結果幻想の中でさらに幻想を作り出し、、擬似体験という真実から遠い場所に安住します、、そこが苦しい場所です。

感情を積極的に成仏する

体のマッサージ、ストレッチなどを積極的にして、、溜まったエネルギーを発散しますと、、、思考でこれを隠蔽する必要が無くなっていきます、、、、結果観念と向き合うということができるようになります。感情はクリアリングされ、、、、残されたのは観念のみに、、、、映し出された世界は、、、観念そのものです。。。。そしてこの観念が反映された世界に対し湧いてくる自動反応、思考、感情を見抜き、、、逃げることなく、、、今に居る時、、、感情を隠蔽するという動きが起きなくなるのです。ただここで感情を観察する、味わうが起きます、、、24時間が瞑想になります。

諦めるとは全く違う

これは感情を諦めて受け入れるというものではありません、、、感情を思考で隠し、、、体に隠蔽していくという負のサイクルを打破する積極的活動なのです、、、、感情が湧いたら湧かせたまま、、、その感情は観念から自動的に湧いただけですからそこを俯瞰する存在になりますと、、、自我OSシシテムが緩み、、ただその場で静寂、平和に包まれるようになるのです。

体が作り出したシステムエラー

体は全部知っています、、体は自我OSシステムの成り立ち、、問題点を完全に理解しています、、、ですから自我OSシステムを卒業する日を実は待っているのです、、、ですが自我OSシステムは自動反応を起こし続けるが故これを止める方法がないのです。意識を体に戻します、意識を体に戻すことで、、、自我OSシステムに縛られない余裕がでます、、、体は学習します、、自我OSシステムが機能しない方が、、、体も楽だと、、、、すると体が自我OSシステムを卒業する方に協力的になるのです。

体は全部知っている

体は自我が必要悪であることが分かっています、、、ですからこの必要悪自我OSシステムを必要がないという状態に導きたいのです。。。そのためには脳に知識を入れ自我OSシステムの不必要性を覚えさせ、、、脳がこの機能を手放すのを待つのです。宇宙全体を動かす、、本当のOSに体をチューニングし、、シフトを促します。。。。ですがこの全ての動きは全自動で起きますから、、これをコントロールする個人は存在しません。

OSの自動反応

会話は相違のOSが反応しているだけ

会話とは双方のOSが自動反応を起こし、、ただ反応が起きているだけです、、、、データベースにある全記憶が元になってOSが自動反応を起こすのです、、、ですから会話とはただお互いのOSを強化することにしかなりません。そして見える世界は全記憶がベースになった観念が元になっておりそれがアウトプットという形で画面に移ります。観念はその場でディスプレイに映し出されるのです。

この世界は観念が映し出すディスプレイ

この世界は全記憶によって形成された観念が作り出したディスプレイ映像です、、これが今我々の目の前に映し出されています。。。この体も当然その真ん中に映っているはずです。ですがこの体だけが映像なのではなくこの体以外も、、観念が映し出すディスプレイ上に映像化されます。。この現実が幻想と言われる所以はここにあります。画面上に写った友人が、、言葉を投げかけますと、、、OSが作動し自動反応を起こします。

私も相手も実在しない

このプログラムで分かる通り、、、自我という存在はOSであり、、実在はしません、、、反応を起こすプログラムに過ぎません。自分という存在ありきの思考という反応も自分という存在ありきの感情も、、自動反応で起き続けますから、、そこにフォーカスしても意味があるわけではない、、、勿論その反応にフォーカスし、、とことん付き合うこともできます。

あの手この手

幻想の数々

この世界は幻想です、、幻想と思って生活してみてください、、、すると面白いことに気づきます、、、直ぐに現実だと勘違いが起きます、、、あまりにも現実的直ぎて、、、、確実に現実の中に閉じ込められます、、、なぜここまで現実的なのでしょうか???それは私の観念が、、、そう信じ込んでいるからです。鳥のフンが落ちてくる、請求書の山、、家族間のトラブル、、、全部が全部現実的なのは、、、これは現実だ、、、という観念が織りなす世界がこれだからです。

思考が敵

このあまりに現実的な世界を見たときに、、あらゆる思考が湧いてきます、、、ああしよう、こうしようと、、、、これがまた一番の敵になります、、、、この思考に巻き込まれ、、、感情に巻き込まれ、、、また振り出し、、、、ゲームオーバー、、、、この思考を幻想と見抜きます、、感情を幻想と見抜きます、、、気にしない、、

幻想に取り込まれない

幻想に取り込まれない、、、取り込めるのは、、思考、感情です、、、周囲の幻想ができることは限度があります、、、重要なのは、、、こちらから湧いてくる思考、感情、、、ここが一番の敵になります、、、、先ずは目の前の現実を!!!!とワンサカ湧いてきます、、、、それらを全無視し、、今目の前の幻想に向き合う、、そして、、、、感じるという100%真実に浸る、、、すると、、、雑念、雑現、、、に振り回されていない、、本当の自分が現れる、、、それが静寂の場所、平和の場所です、、、、なんだいつだってここに帰れるんだ、、という気づきが起きます。

形への同一化

幻想に同一化する

この体は幻想です、、100%幻想です、、この100%幻想であるこの体の中に自分というのが居て、、その自分として生きることでこの苦労がスタートします。100%幻想であるこの体の中に自分が居ると100%信じて生きているのが我々の真実です。これはどこまでいっても勘違いですからこの勘違いからくる苦しみからは解放されることはありません。

体が幻想????

そんなはずはない、、、体はしっかりと感覚を持っている、、、、そうではないんです、、五感で感知できるということのみです、、これだけが真実です、、、それ以外は全く証明できません、、、これが体が幻想である証拠です、、、ですからこの幻想の中に自分が居てという初期設定を辞めます、、、、幻想を幻想と見抜き、、自分の存在を無視します。

思考を観察する

思考を観察してみてください、、、多くの思考は、、自分という存在ありきの思考ではないでしょうか??それらの思考は完全に無駄です、、意味がありません、、、実在しない私に関するあれこれは無駄になります。そしてそこに付随する感情、、これらも意味を持ちません、、、全観念は私が居るという前提で構築され、、それに付随して感情が湧いているはずです。

その時起きること

そんなファンタジーのような発想は危険???違うんです、、今まさに我々はそのファンタジーに取り込まれ、、ファンタジーに閉じ込められているんです、、だから苦しい。全くもって実在しないこの世界で、、そこを見破れずに生きています、、、我々は経験、感じる、、という100%真実に立ち帰る必要があります、、この感じる、、、という実感(実在ではない)にしっかりと意識を向けます、、この実感の世界に意識を向けます。。。嘘の実在には目を向けません、、嘘の実在についてあれこれ考えても無駄です。

実在から実感へ

今目の前に幻想がある、、これは100%事実です、、、そしてその幻想に触れる、、100%事実、、そしてそれを口に入れる、、感じる、、、それも事実、、、この事実はこの世界の真実です。逆言えばこれ以外は真実ではありません、、、TVニュースで、、地震で五名死亡、、、これは言葉です、、言葉が作ったファンタジーです、、、幻想です、、、事実ではありません。。

この世界は無限の不在でできている

この世界はどう考えても無限の不在で構成されています、、、無限の不在なのですから見えるもの、触れる物、、、全部が全部不在です、、実在ではない、、、、ここをしっかりと認識する、、、すると今まで流れていた実在を前提にした思考が止まります、感情が止まります、、、静寂が増えてきます、平和が増えてきます、、、これらの静寂、平和は、、、これまで感じたことがない、、、いや幼少期に感じていた、、本当の静寂、、真実に触れる静寂です、、、そして、、触れている私も不在なのですから、、、不在の世界に漂う静寂に気づきます。

真実が観念思考プログラムを削除する

真実に触れる

観念思考プログラムを、、、思考のみで壊すのは不可能です、、、体験、経験という真実に触れることが、、、この観念思考プログラムを壊します、、、、、観念とはこの世界はこうなっているはずだ!!!という思考の集積です、、、あらゆる経験を積んだ記憶が、、、この観念を作り上げ、、、、その観念がこの世界に映し出します、、、現象を。そしてそれを直に経験することで観念通りの世界を体感するのです、、、その中でこれが真実であるという体験をしますと、、、この流れを断ち切ることができます、、、真実を真実のままに経験したら、、観念を通した世界が崩れていきます。

真実とは

真実に触れるとは、、、、経験そのものです、、、、経験は真実です、、、経験は絶対に嘘はない、、、、その経験に対して湧く思考は真実ではなく、、、観念です、、、、湧いてくる思考が観念の自動反射であることを見破ると、、思考を真実とは思わなくなります、、、思考、感情は観念が生み出した自動反応です、、、真実は経験だけです、、、、、経験だけですから、、意味はないのです。

経験に決まった意味があるのならば

経験に決まった意味があるとしたら、、、それは無限の現れでは無くなってしまいます、、経験には何も意味はないのです。。。あらゆる意味を付加することはできます。無限の意味をつけることができます。。ただそれだけ、、、真実は経験だけ、、、です。

経験を経験のまま感じ始めると

経験を経験のままに味わうことは真実を真実のまま味わうことです、、、真実に触れる機会が増えていきますと、、、、静寂、平和を味わえるようになります、、、思考、観念という世界に触れずに、、、そのまま経験という真実に触れるトレーニングをしていきます、、、、そこに意味をつけるという思考、観念の世界に入り込まない、、、そこは苦しいを感じる場所です。

真実を探す

今ここにある

真実とは予測、推測ではありません、、、真実とは間違いようのない事実です、、、これを我々の日常で探すとどこにあるのか?????コーヒーを飲んだ瞬間の味、、、温度、香り、、、この経験だけが真実です、、コーヒーは名前、真実とは異なります、、、コーヒーという実在、、、、これは分かりません、、、本当に実在しているという証拠は分かりません。。。。

この体

この体が本当に実在しているのか????全く分かりません、、、、ただし触れる感覚、香り、思考、感情を感じているということ、、、これだけは真実です、、、、これをずっとやっていると面白い事実が見えてきます、、、、物があろうとなかろうと、、、人が居ようと居まいと、、、経験という紛れもない事実だけがガンガン進んでいく、、、重なっていく、、、現れては消えていく、、、、、、あれ????これを生まれて死ぬまでやるんだという紛れもない確信が湧いてきます。

経験しかない

どうやら経験だけが真実でそれ以外は真実ではないぞ、、、、思考を寄せ集めた観念や価値観は、、、真実とは何も関係がない、、、、真実とは経験の寄せ集め、、、経験は有るが、、これは物体ではない、、、真実とは、、、物体がない経験の寄せ集めではないか??????真実とは実在しない経験という寄せ集め、、、無限の経験が集まった、、実在しない無限、、、、

どの感情も観念から生まれる

感情はまだ手放すべき観念がある証拠

感情とは実は観念が作り出しています、、、例えば小さな子供がぶつかってきても怒りは湧きません、これが大人であれば怒りが湧きます、、、、同じぶつかる、、、でも、、、、子供と大人では感情が異なる、、、つまり観念が感情を生み出しています。真実は観念ではありません、、、真実とは信念ではなく、、、ありのままです、、、、真実に浸っている時、、怒りは湧きません、、、なぜならば子供からのぶつかりも大人からのぶつかりも全くの自由意思不在の自動反応であることが分かるからです。

怒ることができない

子供には怒れず、大人には怒れるのは、、、自由意志の不在か実在かの違いです、、、大人であれば責任を持って、、、と怒りが湧くのです、、、大人とは自由意思という責任を負った存在なのです、、、責任と自由です、、、ですが自由はないんです、、、大人も子供も自由がないんです。そうなると怒りが湧くわけがない。。。

追いかけるべきは観念ではなく

なぜ人は真実を知りたくなるのか????それは今までの人生、、、全ての観念において本当の幸福に出会ったことがないからです、、、考え方を変えても変わっても、、、本当の幸せに出会えていない、、、、ということです。それならば真実を知るしかない、、、大当たりです。本当の真実とは、、個人は存在せず自由意志もない、、経験しかない、、実在する存在は皆無、、これだけです。

釈迦が見た世界

釈迦は宇宙をありのままに見た

釈迦は2500年前に、、、王の座を捨て悟りを開きました、、、彼は「私とは誰だ???」というただ一点の解明をし、、、、自我の不在を完璧に見抜きました。。。。私という存在は実は居ない、、、、だが確実に「在る」という感覚は100%在る、、、、これが何を意味するのか。。。本当はこの在るという感覚の中で全てがただ起きているだけなのではないか????という気づきを得たのです。

その瞬間

その瞬間、、全部が自分にシフトします、、、全部が自分の中で行われている、、、全部が全部自分の現象でしかない、、、、この気づきが起きるのです、、、、全部の現象がただの現れであるならば、、、、現象に優劣などあるわけがなく、、、この体すらも、、、この本、このペン、この財布、、、と何も変わらない、、、現象に過ぎない、、、全部に価値がないというよりも全部に価値が同等にある、、、となります。

全てが同価値

全現象、全思考、全感情、全行動が、、、、ただの現れであることに気づくと、、、全てが同価値になります。。。「私の思考」は「彼の思考」よりも絶対的に重要であり価値がある、、、から私の思考も彼の思考も完全に同価値になります。信じられない観念のシフトが起きるのです、、、そしてこの最後の観念は、、、真実ですから、、、観念ですらありません。。。

実は観念しか見ていなかった。。。

真実に気づきますと、、我々は実は観念しか見ていなかったことに気づきます、、、重要だと思っていることしか視界では観ることができず、、、我々は覚えた名前のついた世界にどっぷり浸かっていたのです。この気づきはもうこの私を幸せにするという欲求を奪い去り、、、欲望の全てが真実の完全把握に切り替わります。釈迦が見た世界を私も見たい、、、ただこれだけが欲求として強烈に残ります。

自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

起きる現象は観念、湧く思考は自動

身も蓋もない話

これはもう本当にジョークです、、完全なジョーク、、、起きる現象はこの私が積んできた経験から生まれた観念が映し出し、、、それに反応する「私」の思考は、、、勝手に湧く、、、、何これ????意味がない、、、全く意味がない、、、、「私」など完全に無力、、、操り人形どころじゃない、、、鳥籠、、しかもその鳥の反応は勝手に起こる、、鳥には自由意志もない、、、鳥籠の様子はガンガン変わっていく、、鳥の観念が変わるたびに、、、まさに無間地獄、、、

見抜く!!!

見かけ上の私には確信がありました、、、この世界は絶対に存在しないと、、だから情報を集めまくった、、、集めていくと観念が変わっていく、、あれやっぱりないかも、、、あれやっぱりないかも、、が経験として起こる、、、なぜならば観念が書き換わっていくから、、、だからよりこの世界は絶対にない、、は確かになっていく、、、このサイクルに入ったら止まらない、、なぜならば毎日その感覚が増していくから、、、この感覚が観念を書き換えていく。

信じれば経験できる

「この世界は絶対に存在しない」この確信を得たら、、、もう何も考える必要はない、、他のことは後回し、、だって絶対にこの世界は存在しないのですから、、、あとは情報集め、、、その裏付け情報、、、覚者の言葉の数々、、、すると体験が起きる、、、分かってくる、、、あれ???本当かも、、、が起きる、、起き続ける、、、そのプロセスは完全に無限、、、無限こそがこの世界、、、そしてどこかで全部が繋がる、、、全部の整合性が取れる、、、、なるほど!!!の連発、、、