覚者

マリオは気づいた、動いているのは自分ではない

マリオゲームをやっていても騙される

大人はマリオゲームをやっていると気づきます、動いているのはマリオではない、背景だ。ゲームクリエイターならばそれは常識、キャラがゲーム上を自由気ままに動いているように見えますが動いているのは背景です。これはこの人間ゲームも同じ、動いているのは人間ではない、背景です。ではなぜ人間が動く感覚は実感できるのに、全体、背景が動くのは実感できないのか?これはこのブログ史上最重要質問です、答えは簡単、自分自身が実は背景そのものなので自身の動きに気づかないのです。いやそんなことはないではこの私の動きを私が感じるとはなぜだ?これも最強の質問、自分自身が背景そのものだからこの体(自分)異物の動きを敏感に察知しているのです、全体が。いや全体が察知していない、察知しているのはこの自分だ、違います。全体が察知した経験を自分(異物)のモノとしているシステムこそ自我です。

マリオは何も知らずに今日も自分が動いていると活動する、呑気者

この地球に住んでいる人間の中でどれだけの人がこの事実に気付いているでしょうか?恐らく1%もいないでしょう。この自分の五感、感覚、経験には絶対的なモノがありこのカラクリを見抜くのは至難の技です。ですが覚者と呼ばれる人々の意見が一致していることからもこの新しい事実は真実です。天動説が地動説に切り替わった時の大発明、「動いているのはマリオではない、背景である」「動いているのは人間ではない、全体である」動いているのはマリオではなく背景だ、、、この事実を突きつけて驚く大人がいないのは当たり前だからです。ですが人間に置き換えると途端に納得がいかなくなる、なぜならばそれほどまでにこの人間ゲームは緻密だからです。

大人を信じるな、大人は人間の苦しみを全く解決できていない、、

思春期になり大人に近づく若者が親のことを絶対的に信頼していない理由は何か?それは両親が幸福そうに見えないからです。ほどほどには幸福そうに見えるかもしれません、ですが絶対的に幸福には見えない、むしろ日々のニュースに狼狽、振り回され、絶望すらしているではないか。若者が将来に対し日々不安になっていくのは当然です。答えは簡単、地動説を信じこの自分の存在を勘違いした状態で至福に至ことは不可能ということです。

マリオの動きは全体がメイン

マリオが進んでいるのではない、全体が変化している

マリオゲームを進める時、マリオが前に向かって進んでいると多くの方は思っていますが実際は画面が動いているだけです。画面上の画面そのものが変化することでマリオは先に進んでいる錯覚を起こしています。これ実はこの物理次元でも同じでして人間が動いているではなく画面が変化しています。我々が駅に向かって歩く時変化しているのは全体景色の方です。我々の動きに連動して景色が確実に動いているのです。人間が動き回り景色、背景は全く動いてないというのがこの人間の共通認識ですが実際は逆です。

景色が変化している実感が湧かないのは我々が景色そのものだから

我々の本質は全体です、全体の方が本質であり、この体の中に居るとされる私、自分こそが偽りです。偽りの自分が駅に向かって歩く時に本質である景色が変化してみせます。本質が景色そのものですから景色が動く時に何も感じないのはそのためです。コーラは中のコーラの動きを感じることはできません、中の異物(自分)の存在しか認知できないのです。コーラとは景色、異物とは駅に向かう自分です。

目の前で動いている昆虫の前に進む感覚が湧かないのは自分自身だから

人間は完璧な勘違い、180度の勘違いをしています。実感が湧くこと、感じることは異物の全体の中での動きです。全体が全体のまま動く時そこには何もありません。目の前の木の成長をあなたは実感できません視覚以外で。気が伸びるそのものの感覚を感じることは不可能です。それは全体の全体による動きだからです。コーラのコーラによる動きです。コーラの中で異物が動く時にコーラはそれを認識します、その認識を自分のモノとするのが自分、人間です。覚者がいう「自分は全部だった」というのはこのことです。「自分が消え去り全体だけがあった」全体を感じる自分(異物)の消滅です。

この私も目の前に居る友人も同じエネルギーで出来ている

全く同じモノで出来ていてなぜ違いが出るのか?

この世を構成している物質は全て神エネルギーです、そうなるとなぜ違って見えるのか?ということになりますがこれは水蒸気、水、氷で理解出来ます。この三つを構成するん分子はH2Oです。この分子の状態、振動数が異なるだけでこの世では全く違う形状に見えるのです。振動数が違えば全部バラバラに見えてしまうそれだけです。物理学者はこの分子を解剖していくと全部同じモノで構築されていることを知ります。そうするとこの世に見えてい全部は分離していないことを認めざるを得なくなるのです。では人間にはこの世界が分離しているように見えるのか?人間の体こそ世界を分離して感じることができる機械、マシーンだからです。五感が振動数の違いをキャッチして分離しているように見え、聞こえ、匂え、味わえる「振動数違い分離勘違いマシーン」です。

人間だけがこの体、他の動植物を分離して見れる

最重要な説明をしていきます。人間は五感が発達していてこの世(神エネルギー)の振動数、回転数の違いをはっきりと認知することができます。これによってこの世を究極のレベルまで分離して見ることができます、さらにその震度数の違う塊に名前を付けて整理していきます。この整理方法を世界中の人々で共有するというところまで進化を重ねていきました。これによりこの自分は間違いなく独立していて他の生命現象も独立しているという大いなる勘違いをして見せたのです。ですが本当は人間のこの五感能力がそのように振動数の違いを分解整理しているだけなのです。だから覚者は目覚め「何も無かった」と宣います。自分もこの世も分離しているように感じていただけだったとなるのです。

赤ちゃんはこれを知っている

赤ちゃんはこのことを知っています。実は何も分離していないことを、、人間がなんとかこれを強引に分離整理して生きていることを知っています。何も分離していない世界で分離しているという強引な理論で必死に生きている動物、それが人間です。「自分も世界も分離しているに決まっている、なぜならばそう感じるから」このガンコ親父のような屁理屈を必死に死守する民族こそ人間です。

経験自己所有の法則

人間とは経験を自分のモノにしていく生き物

色即是空、この色の世界に実は独立したモノなどありません。この色の世界を構築しているエネルギーはゼロです。ですからこの色の世界はゼロエネルギーで構成されています。ゼロエネルギーがまるで生命が現象しているかのように見せています。だから色なのです。ゼロエネルギーですから例えば鳥が空を飛んでいてもそれを構成しているエネルギーはゼロです。ゼロが集まって鳥に見えている、鳥の感触がある、鳥の泣き声があるだけです。人間はこの色の世界において脳を所有すことでこの体の経験を全部自分のモノとして記憶します。この体が多くの経験を積めば積むほどに自分の経験が増えていくという流れです。これによって色の世界に全く別物の物語が作られました。人間ストーリーです。覚者がこの人間ストーリーのカラクリを発見したときに夢から覚めた感覚だと称するのは人間が勝手にストーリー仕立てにしていたと気づくからです。このストーリーは作り物です。

自分の人生は作りモノ

自分の人生とは作りモノです、なぜならばこの体が経験することを勝手に自分が所有したとしているだけだからです。本当はただ体に経験だけがあります。この経験を脳が記憶して積み重ねてこの自分の歴史だとしたのが人生です。人間の記憶機能がなければただ経験だけがある、そしてその経験は全体の経験です。これを人間が勝手に自分の経験だと言い張り楽しんでいるのです。ですがこの人間勝手経験所有ストーリーは全体が行なっていますからこれは全体の遊び、神の遊びです。遊びは遊びですがまあまあ苦しい遊びですからこの神の悪趣味に付き合う必要はないんです。

経験の全てを全体に戻す

この体の経験を全部この自分のモノにすることもできますし、この体の経験を全て全体のモノにすることもできます。体の中には自分は実はいないので当然です、記憶を起動しなければ経験はそのまま全体の経験になります。音楽が聞こえる、食事が美味しい、お腹が空いた、仕事を辞めたい、、全部全体のからの起こりであり、全体の認識です。自分が所有しなければ。後付けの自分に経験を所有させればエキサイティングで楽しいですが苦しくもあります。自分が欲しがる経験は積めないか、もしくは積んでも直ぐに不足感が襲ってくるからです。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

「実は自分が居ない」という絶望的なメッセージ

悟り、ノンデュアリティーが陽の目を見ない理由

悟りもノンデュアリティーも陽の目を見ることがないメッセージです。実は自分が居ない、、などというメッセージは気が狂ったメッセージであり危険極まりない内容です。自分が居ないなどと病院で話せば、、即入院患者リスト入りです。二度とそこから退院できることはないでしょう。ですが自分がこの体の中に居るという人間の共通認識はどこまで行っても科学的に証明できません、医学的にも証明できません。99.99999%の人々がこの体の中に自分は居ると思い込んでいるからこそこれが既成事実になっていうのです。

朝から晩まで狂ったように忙しい日には自分が居ることを忘れている

この体の中に自分が居るなんて当たり前ではないか?そのように考える人の、、、絶望的に忙しい日にはおそらく自分の存在を忘れているはずです。自分のことを忘れている時が確実にあるということは自分がこの体に居るということを放棄しています。そしてそれでも全く問題なく生活できています。自分がこの体の中に居るという感覚がなくても何も問題なく上手く生活は回るのです。これはどういうことでしょう。覚者が「この体の中に自分は居ない」と気づいた後も普通に生活をし仕事をできるのはこのためです。

むしろ自分の存在を忘れてしまっている人の方が上手くいく

辛い仕事というのはその仕事に集中できない仕事のことです。その仕事をしているとあらゆる雑念が湧いてきてなぜ私がこの仕事をしなくてはいけないのか?と考えてしまう仕事こそ辛い仕事です。楽しい仕事とは仕事に熱中できて自分の存在を忘れてしまうような仕事です。これを天職と呼びます。自分の存在を忘れれるような恋愛、仕事、遊びこそが楽しい、、これは誰でも知っている事実です。

するべきことは何もない

何かをして解決を望むのは全て自我

自分というのは常に何かをして目的を達成しようとします、問題を解決しようとします。これが自分の特徴です。自分は何かをしなければ何も変わらないと信じています。お腹が空けば食べて解決する、眠ければ寝て解決する、痩せたければダイエットする、部屋が汚ければ掃除する、、全てこの調子です。そこで自分は幸福になるためにも何かをして幸福になろうとするのです、これが今世紀最大の引っ掛け問題です。人間の「苦」の解消もこのスタンスで臨むがためにこの前で皆大敗してきたのが人間の歴史です。

不幸だけは何かをするだけでは解決しない

人間、自分というこの存在、この体の中に自分が居るというこの認識、これがこの苦しみを生み出しています。まさか主人公の初期設定がこの苦しみを生み出しているとは?ということで自分の人生とは苦しみのストーリーでありこれをいかに解消しようと24時間365日動きまくっても意味がないのです。ここに気づけるか、気づけないかで人生という意味が変わってきます。覚者が言う「するべきことは何もない」この言葉を言われた自分はただ困惑します、何を言っているのか?です。

何かをする時に、、それでこの自分の不足感がなくなるわけがない、という境地に立てるか

何かをする際に自分はこれで自分も至福になれるのでは?という淡い希望を持ちます。希望の会社に就職した時、希望の相手と結婚した時、希望の家を購入できた時、希望の年収を得れた時、、、ですがそれらの淡い希望はこの自分の前で木っ端微塵に打ち砕かれます。なぜならばこの自分こそが不足感製造機だからです。全体から分離してこの体の中に自分がいるというこの錯覚こそがこの不足感、苦痛を生み出しています。だから覚者は「するべきことは何もない」を伝え続けます。

これが夢である証明

夜見る夢も全く同じ

夜夢において主人公には五感というのがあると思いますが全五感を常に感じているかといえば全くそうではなく常に何かしらの一個だけです。夢の中で歌を歌えば歌が聞こえますから聴覚が発動していることにはなります。実際にはしてませんが。食事をしていれば美味しいという感覚、楽しいという感覚、、、、この時にもしかしたら音楽は聞こえなくなっているかもしれません。夢の中では何を感じるかは自由に決めます。これ重要です。一方この現実社会において、、五感は確実にあります、ですが私はこのブログを書いている時、靴下を履いているという感覚も下着をつけているという感覚も確実に無くしてします。五感とは実はフォーカスしたもの以外は消え失せます。変幻自在なのです。これって夢と同じですよね?

目の前で交通事故が起きたら

目の前で交通事故が起きたとしたら、、、自分の歯の痛み、二日酔いの気怠さ、睡眠不足の憂鬱感、、、全部吹き飛びます。交通事故の視界以外何もなくなります。五感とは実はフォーカスしたとこしか機能しません。これって夢の中と全く同じです。この現実は夢ではないって言い切ることができるでしょうか?夢の中で駅に向かって歩きます、夢の中では自分が進むと景色が誕生します。自分が進まなければ景色は誕生しません。この現実社会でもこれ全く同じです、自分が進むと景色が広がります。自分が進まなければ景色が広がりません。夢と何が違いますか?

夢の中で友人に電話する

夢の中で友人に電話します、電話すると友人がでます。それまで友人は夢の中には登場しません。電話することで初めて友人が誕生します。この現実社会でもあなたが友人にかけるまでは友人は誕生しません、電話して初めて誕生します。友人と夢の中で会う約束をします、あった時に初めて友人が誕生します。この現実社会でも同じ、会うまでは友人は誕生しません。仮にLINEではやりとりしていたとしましょう、するとLINEでだけは誕生します。夢と全く同じです。友人の存在とはあなたがアプローチした時だけ誕生するのです。夢と同じです。

夢と現実は何も変わらない

夢のメカニズムを理解できない人はいないでしょう。毎日自分で夢を見ているからです。ですがこの現実社会が全く同じメカニズムで進んでいるとは?こんな衝撃、こんなギャグ、こんなジョークあるでしょうか?私はこの真実に気づいた時に腰が抜けるほどビビりました。というよりもズッコケました。ギャグです。覚者が悟ると拍子抜けするのが理解しました。これってギャグですよね。

因果を超える

因果は幻想の一つ

犯罪を犯せば捕まる、横領すれば捕まる、交通自己を起こせば捕まる、、これらは因果応報と言って自分がした行動(因)が原因になって結果(果)が起こるということを指します。この幻想ゲーム、夢ではこれが起きます。ですから多くの宗教ではカルマ、ダルマ、報い、徳を積む、、など日頃の行動に気をつけなさいと唱えるわけです。教会に行けば懺悔があり、毎週のように教会に通います。ですがこれは夢ですから因果を超えて物事は起きます。徳を積み続けていたら直下型大地震が起きて全財産を失う、、こんなことも起きるわけです。因果は間違いなくこの幻想ゲームではありますが因果を超えても何でも起きます、夢ですから。

お釈迦様は因果に怯えるのではなく解脱せよと説いた

因果はこの夢、幻想ゲーム、バーチャルリアリティーでは確実ありますが、因果を超えて何でも起きてしまうこのゲームを因果で乗り越えようというのは無理があります。因果では至福に至れません。生まれて直ぐに台風で亡くなる子供、生まれて直ぐに地震で亡くなる子供、、因果で説明がつきません。勿論これも過去世、過去過去世が原因であるという因果で説明されてしまうのかもしれませんが。どちらにしてもこの夢では因果を超えて何でも起きますから今世は徳を積み続けて至福に至ろうなどという苦労はしないことです。積極的に苦しみに耐え抜いて過去のカルマ精算をしようなどとは思わないことです。釈迦はただ一つ、苦しみから抜けるには解脱しかないと説きました。

因果とただ「起こるだけ」の二つを理解するのに時間がかかった

自分自身はこの因果と、覚者が話す「ただ起こるだけ」の区別が全くつかず理解に苦しみました。理解に苦しんだというよりも覚者の言葉「ただ起こるだけです」が迷宮入りをさせました。コーヒーを飲めばカップが空になる、、この事実が目の前で起きているにも関わらず自由意志もなくただ起きるだけ、、非常に困惑したのを覚えています。因果は確実にあります、自由意志も見方によっては確実にあります。ただそれは夢の中で起きているということです。

夢の中に出てくるアジャシャンティーやエックハルトトールをどのように扱えばいいのか

なぜ夢の中にこれらの覚者と呼ばれるような存在が出てくるのか

アジャシャンティー、エックハルトトール、トニーパーソンズ、ラマナマハルシ、これらの覚者と呼ばれるような存在がもしもあなたの夢に出現したとしてそれをどう受け止めれば良いのでしょうか。夢の中に夢のカラクリを解説する登場人物が出現した、そう取るだけです。ですから彼らは登場人物であって人間ではありません。人間風覚者とでも呼べばいいのか、とにかく夢の中に出てきたキャラということになります。そして彼らを変に尊敬し、依存し、囲い込むというのもまた間違っています。尊敬しようと依存しようとそれは夢の中の登場人物でしかありませんし、彼らが話す内容も全て夢の創造主から湧いてくるだけです。ですからそれは時に真実を照らしているようにも見えれば見えない時もあるただそれだけです。

夢の登場人物の言葉を鵜呑みにしてもしょうがない

言葉とはこの夢物語の中でただ湧いてくるモノですからそれがラマナマハルシの言葉だろうが、エックハルトトールの言葉だろうが、トニーパーソンズの言葉だろうがそこに真実があるという保証は一切ありません。そもそも真実を正確に言い当てる言葉など証明のしようがないのです。ですからこの夢物語の中に真実らしきことを言っている登場人物がいる程度の認識でいいかもしれません。誰が何を叫んでいても説いていてもそれを認識している、意識してるのは全存在(真実)です。登場人物の全てが全存在の分離に見える現象、現象の全ては全存在が変容した表現です。

誰が本当のことを言っているのか

このは夢物語ですから誰が本当のことを言っているのかは永久にわかりませんし、分かるのは夢から覚めた時です。夢である以上その中の登場人物は変幻自在に変化する可能性すらあります。言葉ではこれが夢物語だと表現してもでは覚めた状態はこうだといい言える言葉はありません。言葉の限界はこの夢物語の中での表現を超えることができないことです。言葉とはこの夢物語の中でしか沸き起こらないモノです。言葉も勿論真実(真我)から湧いて出てきますが言葉が真実を証明することはできません。色即是色、空即是色、、、現象界は即ち全存在であり、全存在は即ち現象界です。