覚者

今ここに故郷があることを探求者は認めない

今ここにあってはいけない

遠い未来に故郷はあるべきで今ここに故郷があってはならない、、なぜならば遠くにあるという大前提で今まで来たのだし、これからもそうだ、、これが探求者の思考です。今ここが不満足、欠乏、居心地が悪いから探求を続けてきたというのに「今ここ」が故郷だと言われてしまったらもう何もできないではないか、、、という理論です。ですが本当のことを言ってしまえば、、、故郷はここにしかありません。なぜならば今我々が見ている本質は宇宙のアートそのものだからです。にも関わらずそう見えていないのは宇宙のアートを切り刻んでしまった「自分」が存在するからです。

幸せの青い鳥は真実

幸せの青い鳥、、この童話の真意は分かりませんが、、、今ここに全部、故郷があるのは紛れもなく真実です。なぜならば今ここに動く空、色が顕現しているからです。ですが我々はそれを見ることがっできません、我々ができることは切り刻まれた色の世界、色の残骸のみです。今目の前に灰色の景色が広がっているならばそれがあなたの切り刻んだ世界です。覚者は一切の切り刻みを見抜きありのままの色を見ているのです、ありのままの色とは動く神、宇宙のアート、ダイアモンドの変容です。

足を知ろう、、、は間違い

欲を捨てろ、、、これは仏教の常套手段ですが、、、真意を知らないでこれを忠実に守ろうとすればただ絶望的な人生を歩むことになります。確かに故郷はこの目の前にあります、桃源郷は今目の前にあります。ですがそれが見えない、、、、その見えない理由とは何か?それを見れていない「自分」とは何か?ここまで掘り下げていきますと「足を知る」の真意が見えてきます。この「自分」が貪って貪って今ここ以外に幸福を求め歩き続けてもこの不足感が解消することはない、、、これが真実です。この貪る「自分」の欠落、分離の真相を見抜くことで目の前に故郷が再び現れます。

何一つ否定するものがない=ノンデュアリティー

否定するためには否定する対象が必要

何かを否定するためには先ず否定する「自分」が必要になります。さらに否定するための「対象」が必要になる。そして否定する対象があるならば肯定する「対象」も必要になる。こんな具合で否定とは分離世界でしか成り立たないということです。つまり否定をしている時点でそれはノンデュアル、非二元ではないということになります。非二元とは「対象」となる分離した存在が何もないということです。非二元を生きるとは対象が何も無い世界を生きるということになります、つまり完全なる一なるエネルギーそのもになるということです。これが究極の悟り、大悟です。

何十年間分離を学んできたのだから

我々は生まれてきてからひたすらに分離を学んできました。物に名前を付けてひたすらに分離を続けてきた、、結果相当数の名称を覚えその分だけこの見える世界は分離を極めたのです。何十年間かけての分離マスターです。そしてそれに辟易したならば、、融合マスターになればいいのです。融合マスターとは悟り、覚者です。徹底的に学んできた名称をカテゴライズしていき俯瞰していきます、俯瞰して俯瞰して情報が整理されていきますと、、つまり情報が融合されていきますと、、最後はたった一つのエネルギーに見えてきます。たった一つのエネルギーが秩序を持って最高のアートを描いていたのが理解できます。目の前に常に最高のアートが現れた状態になります。

分離マスターから融合マスターへの道

悟りを目指すということは単純に融合マスターを目指すことになります。これまで学んできた情報の究極の整理です。「要は、、」「端的に言えば、、」「とどのつまり、、」情報を伝えるのが上手い人は必ずこれをします、、分かりやすい説明とは、、情報の整理のことです。このマスターになっていくのです、、、悟りを目指すとはこのことです。覚者は、、、見ている世界をそのまま表現しますが、、、あれを理解できたら苦労はしない、、、我々分離世界を生きている人間は徐々に情報を整理していくことで同時に見ている世界を整理していきます。情報整理、情報融合の行き着くところは悟りです。

覚者とは映画のバラシ監督

映画の途中で「バラシます」と言っている人

映画業界では「バラシ」と言って完成した撮影用セットを解体する時に使う言葉があります。撮影が終わったら当然この撮影セットは必要なくなりますからこれを解体する必要があるからです。バラシ、、、撮影中の役者さんからすれば完全に役に入りきりその舞台で演技に興じていれば、、いきなり舞台がバラされてしまうと変な気分になるはずです。この「自分」という存在が舞台がバラされていくことで同時に無くなっていきます。この自分は舞台、セットあってこその話、、、セットが解体されていくのに役に没頭したままというのは先ず不可能でしょう。覚者と呼ばれる人々はこのバラシ監督です。本当は名前なんてないんですよ、全部後付けで名前を決めてみんなで覚えてさもそれが実在しているかのようにみんなで共通認識しているだけなんです、、こんな言葉でバラシを行います。当然その中の映画に出演中の人々は何を言っているんだ?という話です。なぜならば見えている世界に本当は名前もなく何もないならばこの「私」も居なくなることになってしまうからです。

この現象界のバラシは簡単

この現象界のバラシは簡単です、、、名前が後付けで人間は名前を暗記するとそれがさも実在するように見る力があるということを説明するだけです。人間の特殊能力、現象に名前を付けさらにそれを記憶することができる。この特殊能力ゆえに人間はこの現象界にあらゆる物体、人物が居るかのように思えるのです。覚者はこれを解説していくバラシ監督です。最終的には役に飲めりこんでいる人間に「ということであなたも居ない」と言い放ちます。セットが実は作り物であるように、、あなたも役になり切っているだけですと。これで解散となります。私主人公の映画が。

「バラシ」が終わって深刻さが抜けたら映画と分かった上での人生がある

この映画、自分主人公映画は「バラシ」が終わって何にもなくなった後に再び映画と分かった上で映画を組み立てるということができます。全部分かった、確かにこれは映画で本当はセットも他の役者もいなく、自分もいない、、、それは分かったからまたこの映画を楽しみたい、、、ということです。そうなるともうこの劇中で深刻になることも落ち込むことも驚くこともできない、、、ですが今度は役を演じているという大自覚の元何かしらをやりたいという衝動が生まれてきます。映画だと分かっているからこその衝動があります。

ノンデュアリティーには何も起きない

何かが起きるためには名前が必要

この世界では実は何も起こっていません、、、何かが起きるには名前というのが必要になりますが名前とは人間が後付けで決めたことでありそれがもしも無かったら何も起きようがないのです。そうですこの非二元の世界には何も起きていないのです。何も起きていない世界に何かが起きたということにしたのが人間です、あらゆる生命現象に名前をつけていくことで何かが起きたということにしたのです。

誰もいない

本当はこの世界には誰もいません、生命現象の一部に名前をつけて人間と称し、さらにその人間に個別の名前をつけました。これにより誰それなにがしがこの世に誕生したのです、、、本当は何も誰もいなかったのです。か覚者はこれに気づいてしまった人達です。誰も何もない世界が本来であり全部は後付けで名前をつけてそのような出来事、自分が居るということに無理くりしているのです。そしてあらゆることに名前を付けまくることで宇宙の生命現象を分断化し分裂かし、支離滅裂化し、、、居心地の悪い世界を作り上げたのです。全部は無理くりの話です。

誰も何もないならば何が問題なのか?

世の中に問題がるなんていうのは、、人間が勝手にあらゆる物、ことに名前を付けてそういう問題というものが起こったとしているだけです、本当は常に何も起きていません。何かが起こるには名前が必要ですがその名前は全部後付けですからその出来ごとに意味などあるわけがないのです。意味があるためには名前が必要になるのです、どうしても。ということでこの私のブログにも意味など何もないということになります。これが本当の事実です。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

「体験の主体」が「価値観」という「フィルター」を通じて映画を見ている

価値観は全員違うから見ている映画も違う

この世界は大変優れていて思考が変わると見ている世界が変わります。そして主人公も全員違いますから世界も主人公も異なる千差万別な映画が毎日上映されそれを「体験の主体」が楽しんでいるということになります。主人公の体験は記憶に蓄積されていき、さらに体験は思考と感情という反応を得ていきます。これら全てを脳は記憶して価値観を日々変換していきます。この価値観はこの映画のフィルター、映写機です。価値観が変われば映写機が変わり見える世界は確実に変わっていくのです、我々は生きて死ぬまで毎日変わり続ける価値観(映写機)で毎日移り変わる映画を見ているのです、そしてそれを体験しているのが体験の主体、気づきの主体、全存在ということになります。

映画だと気づいて生きているのはもう卒業間近

例えばあなたが強盗に遭おうとしましょう、すると次の日から強盗っぽい人間、風貌の人間があなたの視界に入るようになっていきます、それまでは全く気にもしなかった風貌の人間があなたが生きる世界に頻繁に登場するようになります。例えばあなたが白人の女性と大恋愛をしたとします、するとあなたの生きる世界、視界において白人がその日から頻繁に登場するようになります。街を歩いていても目に入るのです、確実に。同じ世界を生きているしこれからも同じだと思っていたら大間違いです、人間が大きな体験するとその日から確実に見える世界が変わっています。これを覚者は映画、夢、幻想と表現します。このメカニズムを理解するには人間として体験が必要になります、これを学校の授業で生徒に伝えても恐らく意味が分からないでしょう。

あまりにこの映画は優れている、、、

主人公の価値観で見える世界が変わってしまうような映画は巧妙すぎてこれを知ってしまうともうハリウッド映画を観ていられなくなります。この私が観ている映画の方が確実に完成度が高く緻密でエキサイティングです。ですからこれを映画と確実に見抜いた今でもこの映画への関心が全くなくなるということはありません、むしろ今後映画に出てくるだろう脇役の登場、ドラマの進行にワクワクします。ただし私自身は価値観の変換にはもう興味がなくということで見える世界が様変わりすることもないはずです。

眠るに入るから目覚めがある

思考との同一化は眠りに入ること

目覚め体験、覚醒体験、気づきの一瞥、、、、悟りを開く時にこの言葉を使うということからも我々は通常眠っている状態に似ています。起きているのに眠っている???意味がわかりません。要はこういうことです、気づきの意識、目覚めの意識がこの思考と一体化、同一化している状態は役に入り込んでしまった役者のように本来の自分を忘れてしまっている状態なのです。起きているけど、、寝て夢を見ているような状態なのです。夢を見ていることを気づいている気づきの意識はハッキリとありますがハッキリと寝ている状態なのです。ですからこの同一化に気づくということは目覚めると表現するのです。

目から鱗が落ちる

目から鱗が落ちるって全く自分では予期できません。いつのまにか勝手にそれが起きます。これと目覚めは全く一緒、夢を見ている時にこれって夢ではないか?という急激な気づきが起きます。この目覚めを誘発する行為こそが無我に入ることです。全作業、全行為に対して集中してことにあたることでいつでもどこでも無我に入る癖を付けていきます。これは起きている状態を最初に経験してしまう方法です。起きている、目覚めた状態が分からなければそこに意識的に入ることができません。思考の雑音に関しても意識的になることです、思考の雑音を意識して観察することで雑音が無くなります。この状態が無我です。これを毎日意識的に行うことで眠った状態で目覚めた状態を日々疑似体験できるようになります。

昔の覚者が山に篭ってそれを成し遂げた理由

昔は悟りを開くというと山に篭ってというのが通説でした、、、人間は俗世間に居るとどうしても情報に溢れ人間関係に縛られ思考のフル回転を制御できなくなります。それを避けるために意識的に人を避け、無我に入りに行ったのだと思います。今の世の中でそんなことをすれば社会復帰するのもままならなくなってしまいますから先ずは全行為に集中する、思考の雑音に意識的になる、、、これらから無我体験をするのがいいかと思います。毎日無我体験をしていると無我が強烈に目覚めたくなっていき自我を叩き起こします。

今ここに全体として在るから、今ここに思考として在るに

これはトリック

今ここに全体として在る、、、、これが本来の認識です。我々は確実に今ここに在ることを知っています。誰が何と言おうと私は今ここに在る。。。これだけは断言できます。この在ると言う感覚に何一つ疑問はないはずです。今ここに在ると言う感覚は全体として在るのです。ただしこの全体は諸行無常、移り変わる世界です。私は在る、、、の中で見える世界は移り変わっているのです。これが真実です。ですがこの在るという感覚を思考が乗っ取っている、、これが自我のメカニズムなのです。Iam 私は確実に在るを、、、思考が乗っ取り、、、私は今ここに思考として在るに書き換えているのです、常に。だからこそ思考は常に湧いてきて自身の存在を主張し「私は在る」を乗っ取り続けるのです。私は今ここに思考として在る、、は思考の乗っ取りですから、、この人間人生が幻想、ドラマと言われるのです。

思考は常に乗っ取り続ける

今ここに在る、、、これが本来です。本来はこれだけです、、この、、今ここに在る、、、のなかで諸行無常、万物は移り変わっていきます。今ここに在る、、、の中で森羅万象が起こり続けています。この中に体が起き上がり、思考が起き上がる、、、この思考の活動に今ここに在るが同一化し、、、今ここに思考として在る、、が誕生しました。思考の今ここに在るの乗っ取りでもあり、、、今ここに在るのい思考との同一化です。今ここに在る、、は平和歓喜安堵そのものです。これが今ここに思考として在る、、、になると違和感が湧き上がり続けるのです。なぜならばこれは完全なる誤解だからです。

今ここに思考として在る、、はとてつもなく不安定

今ここに思考として在るは、、本来の形ではありません。今ここに在るがスケートボードに乗っているような状態です。そしてこのスケートボードに乗っているを本来と勘違いしている状態なのです。スケートボードは不安定ですから急に降りてしまったりします、、、するとまさかの大変安定感があって安堵が込み上げてくる、、それは当然ですよね。ですがスケートボードは直ぐに「今ここに在る」をボードの上に乗せてしまいます、これが本来だよと。ところがやっぱり何かアクシデントがあると、またボードから外れる、、、すると平和、歓喜、安堵が訪れる、、、、ところがやっぱりボードがしゃしゃり出てきて「今ここに在る」を上に乗せます。これが今ここに思考として在るです。ボードに乗っているのはエキサイティングで楽しいのですがやはりしんどいわけです。

不安定だから「今ここに在る」は楽しいが常に戻りたい

「今ここに在る」の思考同一化体験は大変エキサイティングで楽しい、、ですが同時に非常に疲れます。長くこの思考同一化体験を続けたい気持ちと、、早く「今ここに在る」に戻りたいの両方の気持ちで揺れ動いているのです。思考は「今ここに在る」との同一化により活動を活発化させ「今ここに思考として在る」を助長します。「今ここに在る」は思考との同一化を止めればいつでも「今ここに在る」に戻ります。この状態に意識的に居れる人を覚者と呼びます。「今ここに在る」が本来の姿です、むしろ「今ここに思考として在る」が後付け、錯覚、変異です。「今ここに思考として在る」が「今ここに在る」に戻るためにはあらゆる方法がありますが、全作業に集中することで思考を抜け落とすか、、、湧いてくる思考感情を観察し同一化から脱却する、、、そしてこのブログの内容のように「今ここに在る」しか最初から無かったんだに気づくことです。

思考と感情の繋がりから悟りに入る

感情から逃げない

パワフルな人は負の感情が湧いた来た時点で思考ではなく行動、アクションを起こしてこの負の感情からの逃避を図ることができます。私などはその一人で負の感情が湧いてきたら筋トレ、仕事、ブログ制作、断捨離、読書と何かに集中してこれを取り除いてきました。この行動は無心、無我、大いなる存在と一つになることを可能にしますから積極的にこれを行ってきました。ですがやはり負の感情から逃げてきたという事実は間違いなくそのため私は悟りというモノに対する関心興味が尽きることはなかったのです。覚者、悟り人はどうも自分とは違う、この確信だけが私をそこに貼り付けにしたわけです。エックハルトトールの書籍を読むと何かに集中すること、そして思考、感情を観察すること、この二つを大いなる一つになるやり方と提案しています。

感情が湧いたらそれをただ観る

パワフルであればあるほどに負の感情が湧いたその瞬間に何かしらのアクションを起こしそれを回避できます。ですがそのやり方だけでは負の感情の根源を見つけることはできません。特に集団で一緒に居る時など何かしらのアクションを起こせないですから非常に苦しい時間になってしまうのです。その点思考、感情を大いなる一つになって観察するというのは素晴らしいアイデアです。思考、感情と一緒になってしまうのではなく思考、感情を観察する気づきの意識、大いなる一つにその場でなる。これが私にとっても新しい大きなチャレンジになりました。

感情が湧いたらそれを消し去るのではない

感情が湧いた時にそこから逃げる、この時逃げる自分という存在は継続されます。負の感情が湧いた瞬間にその場から立ち去れば確かに負の感情を味わうことを避けることができますが逃げる自分の存在は付いて廻ります。そうではなくその感情をしっかりと観察する、その思考をしっかりと観察する、、、その観察する存在とはまさに大いなる存在、気づきの意識です。今自身から負の感情が湧いてきている、その感情を徹底的に観察してやろう、、、この新しいメカニズムが自身から自我を抜け落としその場で大なる一つになれます。このメカニズムが新しい自分、大いなる一つを出現させます。その場で歓喜、平和、安堵が訪れます。

マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。