蜃気楼

思考が湧いた瞬間、全体になれる

思考が湧く瞬間を見逃さない

思考が湧く、、この瞬間に注意を向けます、、思考が湧いたら、、今全体からその思考が湧いたことに気づくのです。思考は完全にこの自分(蜃気楼)ではなく全体から湧いてきます、、ここに完全集中するのです。「スタバに行きたい」これが湧くのを感じます、、今全体から「スタバに行きたい」が湧いたぞ、、「ラーメンを食べたい」、、、、今全体から「ラーメンを食べたい」が湧いたぞ、、この連続です。

思考は100%全体がら湧き出ている

この現象界において何かを湧かせることができるのは全体だけです、自分という蜃気楼(現象)に湧かせる力はありません、蜃気楼(自分の体)はあくまで湧き上がった存在です、、現象です。湧き上がった現象が何かを湧き上がらせてしまったら、、それはもう全体の監督不行届になってしまいます。全体の面目丸潰れです。ということでこのルールは実は単純明快なのです。スタバに行きたい、ラーメン食いたい、パチンコ行きたい、、は私という蜃気楼を経由はしますが、、全体から湧いているのです。

私という蜃気楼を経由しているだけ

思考というのは私という蜃気楼ありきで様々起きます、私という蜃気楼ありきでフル回転している時、、苦しいマックスです。全体から苦しい苦しいが湧いてきます、、ですがこの苦しい瞬間、、思考の湧き上がる大元を見るのです、、今どこから湧いたっけ????全体です。全体を見つめるのです、、するとまさかのその場で静寂に包まれていきます、、、全体の存在に常に注力するのです、、、全体の仕業であることを見抜くのです。全体が思考を使ってこの蜃気楼にリアリティーを与えていることを見抜くのです。

何かに集中する、瞑想の極意

瞑想とは目を閉じるだけではない

日本の武道、茶道など、あれは瞑想です。動きに完全集中することで無我に入っていきます。型に入り込むことで型になりきり自分が型に溶け込んでいくのです。この時自分はこの世から無くなります。人は何かに集中し始めると、、自分が居なくなるのです。目の前の人との会話に集中しますと、、自分が居なくなります。この状態を人は無意識に気づき毎日のことでこれをやっています。仕事が好きな人は仕事に集中しやすいのです、キャンプが好きな人はキャンプに集中しやすいのです。人とのお酒が好きな人は会話に集中しやすいのです。

楽しいは実は集中

集中からくる無我状態を覚えてしまうと、、刺激を求めるという行為に興味がなくなります。多くの人がパチンコ好きなのは大音量の音の中に入り、パチンコ玉が入るか入らないかで持ち金の増減が決まりれるというリスクを背負うことでゲームに集中できるからです。つまり集中できるならばなんでもいいのです。集中すると自分が消え去り全体にその場でなれます。集中からくる恍惚状態は全体そのものです。何かに集中していれば、、1日何回も瞑想をしているのと同じです。

その場で集中に入る方法

ではその場で集中に入る方法をお伝えします。ただ目を閉じます、、そして先ず視覚から入る現象を完全にシャットアウトします、この時、、視覚から入っていた目の前の現象は完璧に無くなります。無くなっているように見えるのではありません、無くなるのです。視覚から入る蜃気楼が完全に無くなります。そして聴覚から入る蜃気楼に集中します、触覚から入る蜃気楼に集中します、嗅覚から入る蜃気楼に集中します。五感ではなく三感から入る蜃気楼に集中するのです。視覚から入るこの自分の体という蜃気楼は完全に無くなっていますから耳、肌、鼻という蜃気楼はもう存在していません。ですからそこには音、感触(触)、香り、、そのものが起き上がっているだけなのです。それを感じる自分(蜃気楼)は消えています。この三つに完全集中するのです。全体からの湧き上がりに完全集中します、、するとはっきりとそれらが静寂から湧いていることに気づきます。この静寂こそが全体です、そして音、感触、香り自体までも静寂に包まれているのに気づきます、音、感触、香りが静寂として湧くのです。激しい音の中に静寂を感じることができます。全て静寂で出来ていることが分かります。色(現象)が空(静寂)から湧いているのを感じます。そしてそこから静寂(空)に入っていきます、静寂そのもになっていきます、、最後に静寂だけになります。

助けなくてはならないピーチ姫は居ない

両親が瀕死の状態

突然両親が瀕死の状態になってこのまま二十年間は寝たきり状態、、多くの場合これは地獄、地獄絵図です。周囲からなんと不幸な、、なんと不運な、、という状態です。ですが事実だけを伝えればその両親は五感で感じる蜃気楼に過ぎず、そしてその両親がどんなに苦しんでいるように見えても(蜃気楼)そこに苦しみは実在しません。そしてそのように見える私も蜃気楼ですから実在しません。全てが現象、蜃気楼です。それが腹落ちした時に、、苦しい、しんどい、辛いが果たして湧いてくるでしょうか、、この「自分」ありきの思考感情は全く湧いてきません。この状態は八方塞がりでしょうか、、常に至福に包まれます。

八方塞がりは蜃気楼

八方塞がりとは全方位を困難で囲まれてしまった、障害で囲まれてしまった、、状態です。人生においては絶体絶命の状態です。ですがこれも事実を突き詰めていきますと全く困難ではないのです、、先ず八方を塞ぐ多くの場合は人間です、この人間が完璧な蜃気楼なのです、ですがそれを見抜くことでどうでも良くなります、上司も部下も、友人も妻も、旦那も子供も、、全部蜃気楼です。どう扱っても何一つ深刻なことは起こらない、、起こったように見えてもそれは見えただけです。深刻という感情はあくまでこの私が居るという前提で湧き上がるのであって実はそれ以外では実在できないのです。

八方塞がりから学ぶこと

八方塞がりから学ぶチャンスは大いにあります、、、周囲は「私」の感情思考とは何も関係なく「私」に危害を加えるということです。七方位が閉ざされてしまっていれば同情が周囲から入りそこは甘く見てもらえるのでは??よいう思考も湧きますがそんなこととは一切関係なく周囲は「私」に危害を加えることがあります。そうです、周囲の行動は「私」とは何も関係なく起こるのです。これぞ悟りです。こちらの事情は周囲の行動と何も関係がないということ。そして「私」の思考、行動も周囲の人間に関係なく次々に起こり続けるのです。誰一人「自分」に関係なく言動が起き続けるだけです。この状況で何を期待し何に失望するというのでしょう。

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

この事実を伝えなければならない相手は居ない

自分がそれに気づいたとて

悟りの勉強は面白い、ノンデュアリティメッセージは突き刺さる、、すると多くの人はこれを周囲の人間に知らせたいという衝動が起きたりします。ですがこの衝動は放っておいて大丈夫です。なぜならば知らせたい周囲こそがただの現象、3D映像、五感で感じる蜃気楼ですから教えたところでその事実は何も変わらないのです。そして相手には相手の人生があると本気で思っているかもしれませんがその人の人生は存在しないのです。

「スーパーマリオ」はあっても「スーパーノコノコ」はない

あなたの体はマリオでそのマリオの人生は「スーパーマリオ」と呼ばれています。ではマリオの脇役でちょいちょい出てくる「ノコノコ」にはノコノコの人生はあるのでしょうか????実際にはこのノコノコの人生「スーパーノコノコ」は存在しないのです。もしもノコノコの人生が在るとしたらマリオが見ていない場所でもノコノコの活動が続くことになります、ですがそのじような事実はないのです。ノコノコはマリオが画面の中心にいる場所の脇でたまに登場するしか存在できないのです。つまりノコノコは画面から外れると空、ゼロに戻っているのです。

ノコノコに感情が有るならば、、その場で全体が回収している

マリオはゲーム上、ノコノコを常に踏みつけ殺していきます、その際にノコノコは表面上痛そうな表情をして死んでいきます、ですがこの時ノコノコの中で悔しい、モドカシイ、残念無念!という感情は湧いているでしょうか?湧いていません。もしも湧いているならばその感情をTV画面は回収しているはずです。TV画面上でその感情を回収できます、マリオはその感情を認識できないのは当たり前としてゲーム本体は必ずこれを回収します。ですがそれが無いのです。なぜ言い切れるか、、マリオの感情を回収し、それを認識している存在こそがゲーム本体だからです。????ということは普段マリオが感じている悲しい、辛い、ムカつく、は、、マリオ(自分)ではなくゲーム本体が感じているのです。私が感じているつもりだった「悲しい」、「孤独」「妬み嫉み」「嬉しい」「楽しい」は、、、ゲーム本体が受け取っていたのです。つまり「私」はマリオの中に居るのではなく、、ゲーム本体だったのです。

私がゲーム本体ならば、、空ではないか、、、

私がゲーム本来ならば、、、私はこの現象界を現象化する空であり、ならば現象界そのもの色ではないか、、、その通りです。つまり現象界そのものであり、この現象を湧き出す存在なのです。ゲーム本体です。ゲーム本体であなければマリオの感情は回収できないのです。そしてこのマリオ(かつての私)を主人公にしたこのゲームはマリオのためだけに存在しておりマリオ(かつての私)オリジナルゲームです。ですからこのゲームには私(ゲーム本体)しか存在しておらず大いにこれを独占して遊び尽くせばいいのです。周囲の批判が怖い、周囲の評判が怖い、、、残念!!!周囲に居ると思われている人々(映像)には感情すら湧いていません。

この体がマリオだと思って生活する

マリオだと一日中感じて生活する

この体はマリオ同様3D映像です、五感で感じる蜃気楼です、空からの現象です。つまり空洞、幻影、ゼロ、空即是色です。ですから今日を1日この体をマリオだと思って生活します。そして周囲もマリオゲーム同様3D映像、幻影、空からの現象(色)です。マリオゲームですから歩いても本来周囲の画像が切り替わっているだけでマリオの位置は変わりません。マリオは土の感覚、階段の感覚、アスファルトの感覚を感じますがこれはあくまで感じるのみ踏み込む対象は全て3D映像です。

話しかけれられてもマリオとして対応する

話しかけられることもあるでしょう、その際にはマリオに成り済まし対応します。こちらからマリオとして話しかけても良いかもしれません。マリオになり切らない限り怒りや、憎しみ、嫉妬の感情は湧いてこないでしょう。マリオになり切らない限りそこに映る現象(人)と本気で仲良くしたいなど思わないはずです。つまり人間関係(映像関係)は軽いのです。深刻になれません。

マリオは腹が減るのだから働かなくては、、

問題なのはこのマリオは腹も減るし、光熱費も払わなくてはなりませんから、、まあまあ面倒なわけです。ということで働かなくてはならないでしょう、ですがマリオの名誉のために働く、マリオの名声のために働く、マリオの評価を上げるために働く、マリオの女受けを良くするために働くといった衝動は到底湧いてきません。なぜならばマリオはただの3D映像です。そういう意味ではかなり気楽でしょう。

マリオから出てくる欲求が少なくなっていく

この体をマリオだと思って生活していくとなぜか欲求が減っていくのが分かります、なぜか孤独感が少なくなっていくのが分かります、なぜか不足感が少なくなっていくのが分かります。これぞマリオマジック、悟りマジックです。この世界のカラクリが見えてきて同時に苦しさが無くなっていくのです。なぜならばこのマリオが実在しているという本気の思い込みこそが「苦しみ」の根源だからです。逆に言えばこのマリオゲームではマリオが実在しているという思い込みからくる「苦しさ」を脱してしまったらもう負の感情は湧きようがありません。それしかないのです。

私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。

この体という蜃気楼の中に自分が閉じ込められるという思い込み

その瞬間苦しいが湧く

この体は蜃気楼です、五感で完璧に感じることができる蜃気楼です。本来の蜃気楼は視覚の錯覚ですが、、この体は五感の錯覚です。五感を利用した錯覚がこの体です。この体の中に自分が居るというさらなる誤解が生まれますとその瞬間に苦しいが生まれます。なぜか??誤解しているのが全体だからです。全体がこの小さな体の中に自分が居るという思い込みが生まれたのですかその瞬間に苦しくなるのです。

朝起きて長澤まさみだったら嬉しいが湧く

ある女性が朝起きて鏡を見た時に、そこに長澤まさみの顔があったら嬉しいが湧くはずです。新しいドレスを着、、長澤まさみに見えたならば嬉しいが湧くはずです。髪型を変えてみたら、、え、これって長澤まさみ??と勘違いしたら嬉しいが湧くはずです。そうです。勘違いとは感情が湧くものなのです。なぜ人間は基本苦しいのか???それは全体がこの体の中に居るという勘違いを起こしているからです。この勘違いからくる苦しみを解消するために人は次から次へと目標や欲望を作りそれを達成しようとするのです。これが人生が苦であると言われる理由です。

この五感は勘違いを最強のものにする道具

殴られれば痛い、何かを食べれ味を感じる、太陽の光を眩しいと感じる、冷蔵庫を開けば冷気を感じる、この五感システムはこの体が蜃気楼ではなく実在していると実感するための最強ツールです。五感全開ですからどう考えてもこの体は実在している、、こう信じこめるわけです。そしてこの体が実在しこの体が自由に動くことからこの体の中に自分という確かな存在が居るという実感が湧くのです。ですが五感で感じたのだから実在するというのは視界で感じたから蜃気楼は実在すると言っているのと全く同じです。見えるから実在するのだ、、五感で感じるから実在するのだ、、は破綻しています。

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

全体が回収できない感情はない

今目の前の相手の感情は「存在しない」

我々が今見ている世界において、、友人との会話は面白いものです。ですが我々は大きな勘違いをしています。それは目の前の相手には感情が湧き出しているはずだということです。例えばブラックジョークを失敗し相手が怒ってしまった時、相手の心の中に怒りの感情が間違いなく湧いているはずだと推測します。。。ですが実際には何の感情も発生していません。なぜそこまで言い切れるかといえば、、今この現象を作り出している存在、根源こそが私という蜃気楼を通じてこの世界を見ているという錯覚ゲームをしているのでしから錯覚であればなんであれこの現象界で起こる全ては根源が責任を持って全て回収しているからです。友人の中で怒りの感情が湧いたならばそれは推測などのレベルではなく確実に感じなければならないのです、根源が。なぜ私は寂しい、私は悲しい、、私は辛い、、を感じることができるかろ言えば目の前の光景の中で湧き上がった唯一の感情を根源が全回収したからです。「私」が見ている世界において感情はたった一つしか湧き上がっていないのです。

友人の感情も自分の感情も根源しか回収できない

自分のこの体から湧いている(本当は違う)感情は感じることができるけど、友人の感情は感じることができないのはこの世界では自分の感情しか湧いていないからです。根源だけが感情の全てを回収できます、自分は感情を回収できません、なぜならばこの自分の体は画像に過ぎないからです。友人の体(画像)から湧き出した感情が存在するならば根源が責任を持って全回収します。ということは今完璧な感情でそれを感じます。自分という完璧に独立した存在が実在するならば自分の感情のみを感じることができますが、そのような存在が居ない以上、、自分も友人も、友人Bの全感情が湧き出した瞬間根源が回収できるはずです。

生まれてきてこのかた、、目の前の全ての景色で湧いていた全感情を根源は回収してきた

友人6人で旅行に行ってきたとします、、、友人6人全ての感情が湧き上がっていたと思うでしょう、、一人は最高だった、一人はつまんなかった、一人はまあまあだった、一人は憂鬱だった、、自分は前回よりも楽しかった、、、ところが実際には自分と呼ばれる画像からのみの「前回より楽しかった」だけが湧き上がったのです。残りの五人から一切感情は湧き上がっていません。なぜならば感情を回収しているのは根源そのものであり、、本当は「自分」という存在も居ないことから、、フラットに見てそれしか感情は湧いていないのです。それしか感情を回収していないからこそ「自分」の感情という勘違いが起きているのです。