色即是空

鏡に入り込んだ神

これは神が見る鏡の姿

この世界は現象界、この現象界は幻影、反映、実態のない世界です、、ですがこの中での経験は確実に在る、感じる、、この感覚は間違いのない実在。この世界は鏡の世界にも関わらずなぜ、、経験という実感が確実にあるのか、、、気づきという間違いのない感覚が起きるのか???反映でしかないのに。それこそが神と、神の鏡が一体である証拠です。。。ただの鏡であるならば、、、経験は存在しない、、気づきもない、感覚もない、、全てないということになります。ですがその鏡の反映と神が一体で在るからこそそこに気づきが生まれます、経験が生まれます。色即是空、空即是色だからこそ、、気づきが湧くのです。

色の中で気づきが起きる、、そうかこれは空が作り出した世界だ

色は色だけでは気づきは起きません、現象は現象のみでは気づきはおきません、、そのままだからです。ですがなぜその中で気づきが起きるのか???それは空がそこに在るからです、、、空、神、絶対がそこにあるからこそ気づきという感覚が生まれます、、、この気づきの中で、、、この体が触れる全てに感覚が生じるからこそ、、空の存在が再確認されるのです。空(神)があるからこそ色(現象)に気づく、、色の世界で気づきが起きた時に、、なぜこの気づきが起きたのかという思考が湧く、、、そこでそうか空が在るあるからだという気づきが起きます。

色だけでは気づきは起きず、空だけでは気づきが起きない

色と空が完全一致しているからこそ、、気づきが起き続けています。。。気づきは先ずは起きました、、、この色の中での動きは完全に空が在るからこその気づきが起き続けます。。。その気づきの中で、、、この体が起こり、、この体の全五感が気づかれます、、気づきの意識の、、、これによってこの私の中に私が居るという思考が起き、、この思考に気づきの意識が気づきました。。。そして時間という思考が起こり、、私がこの時間、空間を歩むというストーリーが起こったのです、、それに気づきの意識が気づきます。

たった一つのエネルギー

今現象界は空の反映、空の鏡です、、、、空の目の前に現象界という鏡が突如登場し、、気づきが起きました、、これが気づきの意識です、、、、我々は綺麗な花に出会った時にそれに気づきますが、、、気づきとはこのことです。現象界に気づくとはそういうことなのです。空が反映されたこの現象界とは「気づき」が同時に起きる世界です。空、色、そして気づきです。現象界に気づく、、つまり空という存在にも気づくが起きます。

我々の日常生活

我々の日常生活はまさにこの連続です、、、「私」が居て「対象物」があって「見る」が起きます。「空」があって「色」があって「気づき」が起きます。。。気づきが起きることで「色」と「空」の存在に気づきます。空即是色、色即是空を毎日やっているのです、実は、、、、空と色は一つです、、、空という存在と色という空の鏡、、そして鏡に何かが映ることで、、、空の存在が確かめられている、、、「私」が居て「鏡に映る対象物」があって、、、体験が起こるから、、、体験をした「私」という存在を確認しています。

対象物がなければ

対象物がなければ、経験が積めず、経験をつめなければ「私」は存在できません。。。逆に言えばこのサイクルで「私」を作り続けているのが今です。体験を積むというのは、、「私」を作り出す作業のことです。我々はなぜ毎日せっせと動き続けて頑張って生きているかといえば、、、体験を積むことで「自分」を確認しているのです。ですが本当は空が在って、、その鏡としての現象が起こり、、そこに気づくことで、、、空という存在を認識している、、、そのサイクルの中にこの「私」が現れただけです。

このことが分かると

全てに気づいてください、、それはこの私ではなく、、、ただ気づくのです、、鳥の声、鳥という名前など本当はなかったことを思い出して、、、風の感覚、、風という名前などまるでなかった時を思い出して、、、ただ気づく、、、気づく、、、気づく、、、空が在り、、、色が現象として鏡として現れ、、それに気づく、、本当にたた気づく時、、、、空があってその鏡が在るというこのメカニズムが腹落ちします。

宇宙としての偏見

宇宙人としての偏見が抜け落ちると、、、

私は宇宙人である、、この偏見が抜け落ちますと、、、、宇宙としての人間活動が始まります。主語は宇宙です、、宇宙の中でこの体の活動もあるだけ、、、宇宙全体の活動もある、、、になります。宇宙そのものが主語になり、、、この体もあの体も全部が同価値になっていきます、、、全生命が同価値になる、、、全現象が同価値になる、それはそれが真実だから、、、それが真実だから、、、そこに吸い寄せられるのです。

主語が宇宙に馴染みがでると

主語が宇宙になります、、、「私が存在せず、自由意志もない」、、、ただこの宇宙現象が起き続けているだけ、、、その中にこの体も、全現象もただ在るだけ、、、、、ここが腑に落ちますと、、、次の段階に進みます、、それはではこの宇宙現象はどこで出来たのか???私はどこに居るのだ????この宇宙としての「私」はどこに存在するんだ???この疑問が湧いてくるのです、、、、すると全ての現象を現す「空、絶対」の存在が見えてきます、、、認識するから見えてくるのです、、、見えるから存在を感じるのではない、、認識が存在を起こすのです。

色即是空

釈迦はこれを「色即是空」と言葉にしました、、、これを理解するにはん万物は一つだという気づきが必要であり、、万物が一つだという気づきのためには、、、「この私は居ない、自由意志もない」という気づきが必要です、、そして「この私は居ない、自由意志もない」に気づくためには「この私が居て自由意志がある」という錯覚が必要です。この錯覚を起こすためには私と自由意思という言葉を覚える必要がある、となります。

真実に会う

我々は常に真実に会っている

私たちは真実の中に居ます、、、真実の中で夢を見ている状態です、、、真実が作り出した夢の中で私という幻想を生きるという私物語を体験しています、真実が。私が真実に出会うのではなく、、真実こそが私物語を作り出して「体験」という言葉では収まらない何かを感じています、「感じる」というのも言葉ですから、、ただ何かが起こり続けています。「起こる」というのも言葉ですから、、ただ「在る」わけです。そこを突き詰めていくと色即是空に入ります。

真実以外に行くことはできない

ここは真実です、真実が織りなす夢の中です。真実の中には一切の独立分離した存在がありませんから、、何かが何かを経験するなど絶対にない、ありえないのです。。。それは言葉が生み出した幻想です、、ですから、、我々はしょっちゅう言葉を使って全部を言葉で説明できると思っていますが、、真実では言葉で説明できることは何もないのです。。。言葉で作ったイメージは、、どこまでいってもイメージであり、、イメージの世界だけが何かが何かを経験することを可能にします。

真実を説明するという矛盾

真実には言葉で説明できることは何もありません、、言葉とはイメージを作り出す道具です、、イメージは真実の中でポコッと生まれたものです、、、、ポコッと生まれた物が初めて何かを経験できるのです。「私」というのはイメージであり、、このイメージが日々活動を行うというイメージが起こっています、釈迦(イメージ)は悟り、、解脱でしか救われないと解きました、、、それは当然のことです、、真実の中でイメージが実在しているという勘違いをし、、そのイメージがなぜ幸福になる、、ということが可能なのでしょうか???実在しないイメージがどうやったら幸福になれるのでしょうか????実在しない何かがなぜ不幸になれるのか???

「私」というイメージは幸福になれない

幸福になる、、には幸福になる実在がいなければならないのですが、、このイメージの世界にはその実在は完全に皆無です、、、、信じられない話ですが、、、全員が幸福になれません、、、全部イメージですから、、、「ミッキーマウス」が幸福になる、、無理です、、、、クレオンしんちゃんが幸福になる、、無理です、、、「私」が幸せになる、、無理です、、、誰も幸せになれないのです、、、この真実の世界には実在はないのです。

でも僅かながらの幸福は感じて生きていますけど

先ず物理学として、、実在しない存在は、、幸福にはなれない、、ここをブレてはいけません、、、しかしながらなぜ幸福という実感、、、不幸という実感、、、悲しいという実感、、辛いという実感があるのでしょうか、、、感情を感じるという実感は確実にあります、、、、、それは真実の中でその感情が起こり、、、真実が気付いているからです、、、真実が感情を感じる真犯人です。。。真実以外何もないのですから当然です、真実しか感情を気づく存在は居ません、、それ以外は全部イメージです、、、真実がイメージを生み出し、、イメージが、、何かを経験するというイメージが起こり、、、それによって感情を生み出し、、、その全てを真実が感じています。。。。この夢の世界で幸福になれる実在、不幸になれる実在、は皆無です。

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。

「在る」という感覚はどこから湧くのか?

空、絶対から

この世界で確実に存在する「在る」という絶対感覚、、この感覚は何をしていても存在します、、この現象の回の全ての動きに気づく存在「在る」という感覚です、、ではこの感覚はどこから生まれたのでしょうか。。この感覚こそが、、空、絶対という場所から生まれました、、「在る」という感覚を生み出す存在がある、、このことでしか空、絶対を感じることはできません。この空、絶対を感じることこそが究極の感覚、色即是空を感じることになります。

「在る」を生み出す存在としての自覚

空という絶対の場所、全てはここからスタートします、、ビッグバンを生み出した根源、この根源に我々の滑っては在ります、、、この場所に感覚を覚えることは最終段階、究極です。。空即是色を感じれる段階です。色即是空は、、この在るという存在を自覚することから気づきが起きます、在るが全部を起こし、それに気づいている、、、、その「在る」を生み出す存在、、「空」「絶対」という場所、、

これが分かったから何なんだ??

この質問が出ている時点で分かっていないんです、、ここに気づくのは絶対幸福、至福、静寂に気づくということ、、もう何も求めないということ、、、我々が現実の世界で探し求めていたのは全部これらの代替品であったという気づきが起きます。万物を生み出す存在が本当の私ならば、、この物理世界であらゆる種類の幸福を探すのは当たり前。この気づきが起きます、、、

夢だとしてだから何だ?

夢なのは分かった、、、

これはどう考えても夢です、、、夢を構成するエネルギーがこの私の正体です、、、夢を構成するエネルギー?それを仏教では色と言います、、色がある世界、、これを構成するエネルギーが私です。ではこの夢を見ているのは誰だ??それももう一つの私です、、、気づきの意識とか言ったります、、、、ではこの夢を構成するエネルギーはどこから生まれたのかそれが空です。

なぜ空が現れるのか?

これが夢で、この夢を見ている存在がいて、、この夢を構成するエネルギー(色)があって、、そうすると子の色を生み出す存在が必要になります、、そこで空が登場します。。。これによって色は空を生み出したのです。空が色を生み出しておいて色に気づく存在が現れる(気づきの意識)が現れ、結果空の存在に気づきます。色即是空です。

これが夢だと見抜き、空を見抜く、空と色は一つを見抜く

これは完全ある夢で、、、この夢のことを色と言い、、、この夢を見ている存在を気づきの意識と呼ぶ、、、そしてこの色を生み出す存在、空の存在に気づく、、、色は空であり、空は色でもある、、、私はこの世界を生み出した全存在、夢も私生み出した存在も私、、、私しかいないが、、、この私が作り出す世界は正気に溢れ、生命に溢れ、毎日、毎秒移ろう世界、、、究極のアートです。

この体の中を観察する

心臓も肺も

この体の中において何が起きているのか???心臓が動き血液が動き、血管が収縮し、、肺が動く、、勝手に自然に動き続ける、、、思考も同じ、、勝手に湧き上がり、勝手に無くなる、、、感情も同じ、、勝手に起こり、勝手に静まる、、、全部が全部全自動、森羅万象の動きでしかない、、、

だから何?

それが何の意味があるのか???ないのです、、、私と言われる体の中が完全に森羅万象の動きでしかないというこれが事実です、、これだけ、、、だから私の人生には価値があるとか、、嘘です、、だってただの森羅万象の動きでしかない、、、しかし森羅万象の動きに価値はないのか????価値も何もそれしかないのです、、、神の動きです、、、神の動きに意味を見出すのは不可能、、、

心配も後悔も滑稽

心配するも後悔するも意味がない、、、なぜならばこれが森羅万象の動きとして起こったのだから、、、森羅万象の動きを後悔する???誰が???ギャグです。森羅万象の動きを後悔できるのは森羅万象をコントロールできる存在です、、、誰????居ません、、、空から生まれた色(森羅万象)はただ動くののです、、目的もなく意味もなく、、、動くから動かない存在に気付けるだけ、、色即是空です。

形のある世界を感じる

形のある世界を感じるには、、

我々は形のある世界にいてその変化を今も感じていますが、、これは形がない世界があるからこそです。形のない世界があるからこそ形のある世界の変化に気づくことができているのです。もしも形のある世界しかなければ形のある世界に気づくことができません、、形のない世界があるからこそ今形のある世界に気づけているのです。空即是色です。その一方で形がある世界がなければ形のない世界に気づくこともできません、形のない世界しかなければ形のない世界に気づけないからです。。つまり形がある世界あることで形のない世界が誕生するのです、、色即是空です。

自分の存在を全く疑わない現代人

自我を作るのに三年がかりにも関わらず

生まれてきた子供に三年がかりで自我を形成させる、、自分という存在を認識させるにも関わらず、、我々はこの自我が絶対的な存在、実在だといつの間にか信じ切っています。。おかしい、、、元々そんなものは絶対に無いことを両親は知っています、、、なぜこの後天的存在に全権力を持たせるのか????自我の形成に伴って湧いてくる思考、、行動も一緒にして「その人の言動」となっていきます、そしてそれを赤の他人から評価される、さらにこの自分も人を評価する、、、

自我を否定すると、、、拒絶反応???うそやん

三年がかりで自我を形成しといて、、、あとでそんものは無いんですよ、、、と言われると、、拒絶反応が起きる、、、何かがおかしい、、、、この拒絶反応は、、、、無いことを知っている、、実は分かっている、、確信犯の反応、、、そうです、、、確信犯なのです、、、誰が、、、全体です。全体から起きた架空の存在「私」は架空ゆえにその存在を否定されると、、、激情が起きます。

架空の存在であることを知っている全体

全体からこの自我は湧き出しています、、そしてその架空の存在を起こし続けています、、、そしてこの存在を起こし続けるのは苦しいのです、、、ですから全体は苦しいに気づき続けている、、、、だがここで「自我ってないよね」という発言が起こると、、、「パニック」が全体か起きます。鼻を触り続ける友人に、、さっきから鼻を1時間触っているよ、、と言えばパニックが起こる、、、自我の存在を否定されると「パニック」がす自然現象として起きるのです。

自我がなくても何も問題なく毎日が進む

もともと存在していなかった自我、、ですからこの存在を無視しても何も問題は起きません、、、そしてそもそも自分が自由意志で言動を決めていたというこの不文律が実は幻想であったという気づきが起きますと、、、さらに問題が起きず進んでいきます、、、いや、、、自分が居ないが腹落ちすると、、、この人生そのものが消えてなくなり、、、ただこれがある、、に変わる、、ただ経験だけがあるに変わる、、、何もない、、、全部が現象、、、空足是色、色即是空が腹落ちします、、腹は幻想ですが、、、