至福

AIに仕事を奪われる????

これは夢です

これは夢です、、AIに仕事を奪われるのではないか?????このように恐怖に慄いていますと、、本当にこの夢はそうなっていきます。AIが人類を駆逐する現象、夢が訪れるでしょう。なぜか????これは夢ですからあなたの観念が投影され、、あなたの観念通りの夢が完成していくのです。AIは人類を豊かにする、、そのような思考を強く強く信じればその思考が観念化され現象化され夢化されストーリーになります。

人間は全く働かなくていい???

そのように強く強く信じればそれが観念化されそれが現象化し、、夢化し、、その夢を「私」は生きることになるのです。じゃあ思いっきり楽観的な観念を持った方が得ですよね!!!!その通りです、、思いっ切り思いっきり気楽な観念を持てばそんな夢を生きることができます「私」は。ですがですがどんなに気楽な人生を夢の中で生きても、、、、違和感、孤独感、不満足感が消えることもありません。なぜならばなぜならば、、この「私」はまだ夢の中にいるからです。「私」という幻想こそが不足感の根源なのです。

これって夢じゃね????

多くの経験をこの夢の中でし尽くしていきますと、、、、なんとなくですが、、この現実って本当か????という疑問が湧いてきます。「私」のストーリーに忙殺されていたのが徐々に徐々に「私」を俯瞰する感覚を所有していくことになるのです。「私」の欲望にあまり振り回されなくなっていくのです、「私」の欲望に振り回されて「私」を信用できなくなっていくのです。「私」ってそんなに重要なのか???「私」って超面倒臭いよね!!!です。

悟り本に興味が湧く

「私」に振り回され「私」によって忙殺され「私」に裏切られ続けてきたことで「私」を信じることができなくなり、、、もうこの「私」を幸福にするという発想に徐々に疲れてきます、無理ゲーじゃね??です。そこで悟りに興味が湧くのです、、そういえば悟りって欲がなくなった状態だっけ???そういえば悟ると至福に至れるって聞いたような、、、それまでギャグでしかなかった悟りという言葉に興味がでます。この段階にまで行きますと、、悟り本が染み渡るようになる、、この体に、、そして自我が徐々に溶け出していきます。

人間関係のストレスさえ無くなれば

多くの人はそう思っている

人間関係さえストレスなければ人生は楽に決まっている、、多くの方はそう信じています。実際に会社員の方は会社さえ定年になれば何のストレスなく生活できると信じています。そして確かに退職後は一切の人間関係がなくなりますからそのストレスは完全に無くなるわけです。ですがその後の生活、人間関係がない生活は本当に充実した人生になるのでしょうか???答えはNOです、今度は生きていて虚しい、、が湧いてきます。

人間関係のストレスがない状態であれば

人間関係のストレスがない状態であればもうストレスはない、、そう断言できるほどに多くの方は人間関係にストレスを溜め込んでいます。ですがそのストレスを解消してしまっても次のストレスが必ず訪れます、これはもう必ずです。それだけは分かっているのです、、それはこの自分が自分であるという妄想、幻想を信じている限り続くのです。そしてこの現実が幻想、夢ではないと強く強く信じていれば必ず続きます。

夢の中では個人は至福に至れない

これは「夢」です、完全に夢です、、その夢の中で個人という主人公が誕生し、その活動が続きます。主人公である私はこの夢の中で自由意志を使って幸福を追いかけていると思い込んでいますが、、実際には自由意志は全くなく、、全部湧き上がる思考を自分のモノと思い込む思考に囚われているのです。例えば今から公園に行こう!!!は本当に自分が作っているのでしょうか??間違いなくただ湧いただけです、、これを自分の思考と捉えるというギャグを真剣にやっているのがこの人間ドラマなのです。

私だけ気付いても無駄では?

じゃあ私だけ、、私だけがそれに気付いて夢から覚めたとしても、、、それでもこの勘違いの現実は続くのですよね????そうです、続きます、、この夢の中ではみんなが大勘違いをして生きていますから。じゃあどうにもならないではないですか????それがどうにでもなるんです、なぜならば、、自分だけが勘違いが解ければ、、それで至福だからです。至福の状態での偽りの個人活動だけが続くのです。

夢は次々に関心に吸い込まれる

就寝中夢の中で

就寝中夢の中で次々に関心に吸い込まれていく経験を皆しているはずです。最初は幼少期の自分をやっていると思ったら突然会社員時代の自分に、そして次は社長時代の自分、、、と時間が常にタイムスリップされて展開が読めません。あえて読めると言えば、、関心に向かっていくことだけ。関心が遊びに向けば幼少期に、関心が受験に向けば受験時代、関心が結婚に向かえば結婚期間に、、と次から次へのタイムスリップします。この現実世界はそのようには行かないのですが、、関心が向く方向で情報が集まり始めそこでドラマが転換していきます。お金に全く興味がないにも関わらずギャンブルの知識が増えていくこともなければギャンブラーになることをない。

夢(現象)の役割とは?

この現実という夢は、、自身の関心に対して情報が集まりドラマが展開するメカニズムです。そして自身の観念が投影されたドラマ展開をしていきます。お金を持つと必ず不運に見舞われる、、このような観念を持っていると、、そのような展開になっていく、、それがこの現実と呼ばれる夢です。で???この夢ってなんおためにあるんでしょうか????この夢は無限(絶対、空)から作り出された夢ですから無限の体験をするための場所です。無限(絶対、空)の投影、影は無限の体験が起こり続けるのです。その中では私という主人公も当たり前に生み出され私ストーリーも起こります。ですがこれは観念であって真実ではないので、、苦しい、違和感も起こるのです。

楽しくなきゃ人生じゃない

そう強く信じる人の人生は楽しくなる可能性は高いでしょう、ですが楽しいに関心が強すぎるとそこに振り回される人生に同時になっていきます。そしてどんなに楽しい人生でもどこかで孤独感、不足感、違和感を感じるのです。。それがこの夢の宿命です、、夢の中でのキャラ確立とは全て幻想、思考、嘘です。真我(あえて言えば)が嘘の中にいて至福はないのです。ですからどんな観念に沿って生きても観念の外に出ないと至福はないことに気づく以外にないのです。

世界の中心で愛を叫ぶ

中心以外には居れない

これは夢です、完全なる夢です、、夢の特徴、、、それはこの主人公「私」中心にこの夢が展開されるということ、、、。いつもこの夢の中心には「私」がいるのです。中心以外に私が居ることは難しい、、のです。何が言いたいかと言えば一人一人の世界は、、その人の夢であり、、その人の観念が投影された夢を見ているのです。例えば人は必ず裏切る、、という観念を持っていればこの夢はそのように構成されていく。人は絶対に裏切らないという観念を持っていれば、、そのように展開していくのです。

どのように展開しても、、、

この夢がどのように展開しようと、、、この夢のメカニズムに気づけないうちは至福には至れません。どのような観念を持っても至福には至れないということだけが真実です。つまり最後はこの観念を捨てる必要があるのです、、観念とは思考の塊であり、、思考とは、、、意味解釈のことです。本当は全部が全部夢だとわかれば、、観念を持てなくなるんです。夢の中で「お金持ちは絶対にモテる」という観念を持てば恐らくそうなるでしょう、、ですが実際にモテモテになっても満足できない、、、だから次の観念を持つ、、、「家族を持てば幸福になれるはず」そして本当に家族を持つが、、満足できない。。。

観念を追いかけても、、、

夢の中で強烈な観念を持てば、、その観念を証明することになるのですが、、、満足できないんです、、それだけが共通点、、、至福にだけは至れないんです。そこで次々に観念を持ち、、実践し、それを証明していく。。。そして最後にたどり着く、、観念を証明しても無駄、、、この個人を中心としたこの夢の中に居てはいつまでたっても至福には至れないと、、、最後の観念を持つのです。そして夢から覚めた時に観念が消えてなくなります。これは夢だ!!!の後には観念が湧いてこない。

これが夢で、、何かに関心を持てるか???

持てない

これは夢です、本当に夢です、、、そして夢だとして、、、何かに強く強く関心を持つことは可能でしょうか????つまりお金に関心を持てばお金に支配され、異性に関心を持てば異性に支配される、、仕事に関心を持てば仕事に支配される、、、それだけのこと、、そして全部を手に入れたところで、、夢の中で至福には至れないし、、そのことをみんな分かっています。一番厄介なところは、、、就寝中の夢の中でなぜか知らないが、、、見たくな夢を見たりする、、、なぜ????自分には決定権がないのか???です。

我々は全くノーコントロールに関心を持たされる

私はお金に関心を持ちたい、、だから関心がある、、、なんてことはないですね!!!我々の関心とは勝手に湧き上がり持たされる、、そしてその関心に人生を支配されていくのです。つまりどのトラブルに巻き込まれるか全く分からない。。。。ということ。あえて言えば、、、夢から覚めることの関心を持てば、、夢に支配されなくなる可能性がある、、、ということ。ですが悟りに関心があれば悟りに人生が支配されるように簡単ではありません。

世の中の現象に関心が無くなったら、、、おめでとう!!

これが夢だって分かった状態で夢に没入するって難しい、、それはこの現実も全く同じ、、、この現実が幻想、夢だって分かってきますと、、没入などできないです、、、だから、、、、仕事、友人、家族、趣味、芸能、娯楽、ギャンブル、異性、、、全てに没入できない、、、。人間卒業、夢卒業は間近です。

夢の中で関心を持つと関心に支配される

例えばお金

夢の中でお金に興味を持てばお金がたくさん集まるかもしれませんがお金によってのトラブルも当然増えます。夢の中でそのような状況経験済みだと思います。これはこの現実世界も同じ、お金に興味を持って生きれば、、お金に関するメリットデメリットを両方手に入れるのです。お金は入るがお金のトラブルも増える、見入りはいいかもしれないが出るのも多い、、こうなるのです、、夢の中とこれは全く一緒です。夢の中でお金を追いかけますと、、本当にお金の情報、人脈が増えていきますよね、、なぜか、登場人物がお金関係ばかり。そしてお金のトラブルばかりが増えるのです。

例えば異性

夢の中で異性に関心を持ちますと、、異性に関する登場人物、人脈、事件がどんどん増えていきますよね。これはこの現実世界も全く同じです、、気になる異性、トラブル異性、上手くいく異性、、、どんどん増えていくのです。この世界が現実、真実であると思えば思うほどに異性に人生を支配されていきます。なぜか、それだけ真剣だからです。それだけ深刻だからです。これが夢だと思えば、、当然の結果です。

何に関心を持っても。。

夢の中でどんなにお金に恵まれ、異性に恵まれ、仲間に恵まれ、家族に恵まれても、、、至福には至れませんよね、、そしてなぜか毎晩見る夢はそのようにはなっていない、、自分の夢にも関わらず全くのノーコントロールです、、なぜか???簡単です、、思考は全くコントロールがきかないからです。そして仮にコントロールが効いて、、最高の夢ばかりをみても至福には至れないのです、、なぜか?????それは知っているからです、私の奥の奥にある存在が、、、これって真実じゃないと。そしてまさにそれがこの現実世界でも同じ、、全部を全部を手に入れても不安、違和感、孤独が払拭できない、、なぜか?????知っているからです、私の奥の奥にある何かが、、、これって幻想ですから、、と、、、これって嘘ですから、、、と。

普通の日常

普通の日常がいかに奇跡なのか

朝起きたときに、、普通に太陽の光が燦々と輝きます。これって別に当たり前のこと、太陽があって地球があって、、、こう個人は思うわけです。ですが太陽が輝いているというこの映像、、この映像を作り出すためには、、何も輝いていない光が必要になります、その上に太陽の光が重なることでそれに気づくが起こるのです。この何も輝いていない光こそが私の本質です。

友人と会話ができること

会話をするためには音に気づかなくてはいけません、、この音に気づくということを可能にするには音の下に静寂がないといけないのです、、常に静寂が下にあるからこそ、、、音に気づき続けるということが起こるのです。静寂の存在なしに音に気づき続けることは不可能なのです。

自分が居るという誤解を作る

我々が自我を維持し続けるためには自分が居るという思考を保持し続ける必要があるのですがそのためには思考に気づき続ける必要があります。そのためには無思考という状態が元になければならないのです。これが我々の本質なのです。我々はいかなる時でも本質ではない時はなにのです、、本質が本質であり続けるからこそ、、この人間ドラマも成り立つのです。勿論この人間ドラマは苦しいわけです、、その苦しみに気付けるのは、、至福が根底にあり、、我々の本質が至福だからこそ気付けるのです。

雲の動き(犬と猿)の戦いの勝負に意味はあるのか?

全く無い

ある雲の形状が犬に似ているから犬と名付け、ある形状が猿に似ているから猿と名付けました。やがてその二つの雲の動きがぶつかりあい結果猿の形状が残り、犬の形状は消滅した。ドラマで言えば猿の勝利、犬の敗北です。すると猿の自我からは喜びの感情が湧き出る、犬の自我からは悲しみの感情が溢れる、この戦いに意味はあるのでしょうか??このドラマに意味はあるのでしょうか???真実ベースとしては全部嘘です。ですがストーリーとしてはあらゆる感情が起き上がりそれは事実です。その感情には一切嘘はないのです。

どっちが本当なのか???

真実をベースにすればただ雲の動きがあるだけ、、時間もない、、何もない、、です。ですがドラマで言えば犬猿の戦いがあり感情が揺れ動きます。ドラマとしては100%時間も空間も感情もあるのです。ですが本当は何も起きていないのです。解放とはまさにこのこと、、何も起きていなかった、、そして何も起きていなかったという思考すら起きない、、なぜならばそれが起きる自我が真実では存在していないから。ただ犬が消え、猿が消え、感情が起きないだけ。

それでも雲は動き続ける

それでも雲は動き続けます、勝ち残った猿の動きはそれからも続くのです。ですがこれまでのように犬に勝った、猫に勝った、ネズミに勝った、、という感情は起き得ない、、、真実ベースですから。ただ雲の動きを観察し雲の動きを感じるだけ。吾輩は猿である、吾輩は犬である、、はもうない。猿に見える雲の動き、犬に見える雲の動き、、、という気づきが続くだけです。これは面白いのか???これに感動はあるのか???今までのような感情は湧かないけれど至福が続きます。

悟りは実生活で役に立つのか???

悟りって結局のところ得があるんですか???

損得勘定で言って、、、悟りって結局のところ意味があるのでしょうか????正直に言いましょう、、全くありません。だって得をすることになっている「自分」が居ないと断言するメッセージだからです。自分が居ないなら得はないですよね!!そうです、この世界のメソッドで最も個人に有害なメッセージです。ではなぜこのメッセージが必要なのでしょうか???簡単です、、個人は個人のままでは絶対に絶対に至福に至れないからです。なぜならば苦しみを作り出しているのがこの個人だからです。

動き回っている波に、、、実はあなたは波ではなく海の一部ですよ!!!

自由奔放、やりたい放題で調子に乗っている波に、、、あなたは波なんて大そうなもんじゃなく海なんです、、波なんていうのは名前でしかなくなて本当は存在しないんですよ!!!!と伝えれば、、冗談じゃない、、こっちは全部責任でやってるんだ!!!!変なこと言うな!!!と一喝されるでしょう、波に。

波という独立した何かは本当じゃない

波はいったいどこからが波でしょうか????海と波を分ける明確なボーダーラインってあるんでしょうか???あるわけがない、、つまり波という完全独立した存在など本当はないんです、便宜上つけた名前です。にも関わらず俺は〇〇○助という波であると宣う輩が生まれました、、それが人間です。これは真実じゃないんです、真実では波なんてものはないんです、、人間も同じ、そしてこの体の中の自分とやらも同じです。どこからがこの体ですか???体毛は??フケは???爪の垢は?大便は???出血中の血は????ボーダーラインがないんです。これって波と全く同じですよね。

悟りは個人には全く役に立たないが

悟りは個人には全く役に立たないのですが、、、究極のリラックスに至るのは間違いありません。究極のリラックスに至るのは個人ではありません、個人が実は究極のリラックスの一部でしかなかったという気づきが起きるのです。個人が実は至福の構成要因でしかないことに気づくのです。個人が気づいていたと思っていた全気づきが、、実は空即是色で自動的に起こっていたことに気づきます。これは究極のリラックスに至ります。

究極の静寂=私

全現象に気付く「私」

小さい頃ってなんとなく分かっていましたよね、「私」が全部だって、、だから至福に浸っていました。幼少期にこの体が「あなた」だと学習することで嘘を吹き込まれていったのです。本当は見えるものが全て私だって感じてたはずです。そしてそれが真実なのです。私という言葉は概念でしかなく、、本当は私など存在しませんから「私」を主語にした説明はあくまで間違っています。ですが言葉でこれを説明するときにはこの「私」という言葉を使わないと伝わらないので説明します。

全現象は究極の静寂によって全部気づかれる

人間の五感が全現象に気づいていると思っていますがそれは嘘です。それは幻想、ストーリーの中の話です。本当は全現象に気づいているのは究極の静寂です。この究極の静寂が、、起こる全てに気づくのです。音、色、香、気温、などなど、、、、ではこの体は一体何をやっているのか???そのままです、動くのみ。思考してますよね???思考は湧き上がるのですがそれはこの体の中では起こっていません、体の中で思考が起きるならばそれを究極の静寂が気づきます。思考はただ起こり、、それを気づきの意識が気づくのです。

究極の静寂が気づけない現象はない

究極の静寂は全現象に気付けるから究極の静寂であって気づけない現象は存在しません。友人が「手を振ったのになんで気づいてくれなかったの?」と聞いてきたとしても、、そんな現象は起きていないのです。起きていれば自動的に気づかれます、究極の静寂に。

今も究極の静寂としての自分が居る

世の中の現象(波)に深刻にならなくてもいいのは、、、現象は究極の静寂である自分が居なければ一切気づかれないからです。気づかれなければ現象ですらない、、そして現象は究極の静寂の一部でしかなく、、現象は直ぐに究極の静寂に吸い込まれていくのです。目の前で怒り狂っていた人も、、この体が違う場所に行けば静寂に吸い込まれて消えていきます。所詮は全てそのレベルのことなのです。