自由意志

「野垂れ死ぬは最悪」も観念

共通の観念

私たちは何か事件があると「最悪」「悲惨」「地獄」と当たり前のように事件を危惧しますが、これ世界共通ではありません。会社を首になるのは最悪、、これも国によっては当たり前。収入がゼロになる、、これも国によっては当たり前。16歳で村長の娘になる、、これも国によっては当たり前。つまりこの世界の悲惨はその人が作り上げた観念が起こすのです。最低最悪な事件すらも、、その人の観念が作り上げます。

最低最悪な事態

最低最悪の事態をこの「私」「自我」「エゴ」がなんとしても防ぐ、、これが私ストーリー、自我ストーリー、エゴストーリーの定石です。だから「私、自我、エゴ」の存在をしっかりと維持してくださいね、、、忘れたら大変なことになりますよ!!!という常套手段です。最低最悪な事態に陥らないためには「私」が絶対に必要ですから、、、です。

自ら脅し自ら必要とされる

自我とは本当は存在しません、、その自我が常に必要とされるには、、史上最悪な事態を防ぐためのヒーローである必要があるのです。こんな悲惨な目にあったら、、こんな地獄に遭いたくないならば、、これほどの不幸を避けるならば、、、この「私」が必要ですよ。自由意志を着実慎重に行使する「私」が。これによって自我は天下を取るわけです、長期政権です、本当は存在しないにも関わらずです。

自我にとって最悪な事態

自我の戦略とは反対に、、突然事故で全財産を失ってしまった、、突然会社で首になった、、、あれほど恐れていた事態が急遽起きてしまった。。。。やばい!!!!!!最悪!!!!!、、、、、ところがあれ???意外と思ったほどしんどくないぞ、、、緊急事態って無我夢中で現状を処理できて、、ピンチは一瞬だった、、もしくはそれほど辛くなかった。。。。。。自我最悪なピンチ、、、形成が逆転します。。。自我の信頼が崩れるのです。

死にたくなるほど辛いはずが、、、、

あれだけ恐れていた事態にあったにも関わらず実際にはそれほど辛くなかった、、、、これは自我にとっては恐ろしい事態なのです。脅しをかけて自我を必要とさせていたにも関わらず、、その作戦がもはや通用しないのです。観念、思い込みというものに対して、、恐怖心がなくなっていく、、観念を疑うようになるのです。

今理解できなくていい

悟りに関する理解

自由意志はないんですよ!!!これを聞いてそうなんだ!!とは絶対になりません。自我がこの手の話を聞いて満足して受け入れるということは絶対にないのです。まぜか??????自分の存在を大きく見せるために何千万円のマンション、宝石、高級車を買ってしまうような動きが、、、、自由意志はない!!を素直に受け入れるわけがないんです。自分を守るために全国中継の記者会見で嘘をつくようなエゴの動きが「自我は存在しない」を簡単に受け入れるわけがないんです。

ですが

ですが、、自由意志はない、自我は偽り、、、、この話を聞いている、読み込んでいるのは誰でしょうか??????私ではありませんよ、自我ではないんです、エゴでもないんです、、、大いなる存在です、、、全部大いなる存在が聞いている、読み込んでいるんです。頭に入らないと思っていますが、、違います、、読み込み拒否をしているんです。この内容を内容通りに読みこんでしまったら、、エゴシステムが消えてしまうんです。自我システムが上手く機能しなくなってしまうんです。だから拒否します。

「私」は年度末で終了です

この会員証は年度末まで、、この免許証は年度末まで、、この「私」は年度末までしか使えません。。。焦りますよね、困りますよね、、、、待ってよ!!!この感情が大いなる存在から湧き上がるのです。「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が体に反応しちょっと待ってよ!!!!が起こるんです。だから読み込みエラーが続きます、悟り関係の書籍は読み込みエラーがしばらくは続くんです。

少しずつ大いなる存在の読み込みが始まる

ところが大いなる存在はビビリではありません、大いなる存在は臆病じゃないんです、、、ですから少しづつ確実に読み込みエラーが解けていきます、、、自我のシステムが徐々に緩み始め、氷解し、柔軟になるに従って、、真実の内容を大いなる存在が読み込んでいきます。救われるには、苦しみを終わらせるには、、、真実に戻る以外にないことは大いなる存在が一番分かっているのです。

完璧の概念

過去を振り返って

過去を振り返ってみます。生まれてきて自我が形成されるようになり小学校に通い、、、あらゆる経験を重ねて今があります、、、、過去にはあらゆる選択ミス、後悔もあるでしょう、、、ですがその全てにおいて自由意志は一切ありませんでした、、すると過去は完全に人任せで行われてきました。。。人とは誰か???大なる存在です。大いなる存在の完全完璧な映画を我々は歩んできたんです。

今後の未来

今後の未来も、、、完全に自由意志がない状態で人生は進んでいきます、、では誰の人生なのか?????大いなる存在によって完全完璧な自動反応による人生です。これからも大いなる存在による人生を歩んでいきます。つまり私たちは私により私のための私の人生を歩んできたつもりであって、、、本当は完全な大いなる存在の映画を生きているだけなのです。

完全完璧

ですから、、、本当は全員の人生が完全完璧なのです、、完全完璧じゃないと思って後悔するのも完璧なんです、、そして実は完全完璧でそれに気づいていきていくのも完全完璧です。完全完璧じゃないと思って後悔しながら焦りながら生きていく完全完璧な人生と、、既に完全完璧であることに気づいて生きていく完全完璧な人生があるのです。

自由意志があるという感覚は残る

全て受け身の感覚で生きていけばいいんですね???違います。。。どれほど積極的に生きても、、その選択は最初から用意されていたということです。受け身で生きよう、積極的に生きよう、、というこの選択が実は用意されていたということです。自由意志を選択しているという感覚はこれからも変わらないでしょう。ですがその最終選択は用意されていたということです。これによって後悔、焦りという感情が湧かなくなっていきます。後悔、焦りは「私には自由意志がある」という思考が生み出したものだからです。

苦しみの本当の原因を知らないだけ

収入が少なくて苦しいんです。。。。

働いても働いても収入が上がらなくて、、、苦しいんです。。このような相談を受けた時に、、、それは嘘だ!!!!と思う人はまずいないでしょう。収入が少ないってひもじいよね、何のストレス発散もできないしね!!と共感するでしょう。。。。ですがですがそこが間違っているのです、そこの判断が間違っているのです。だから一緒になって収入が上がる方法を考えてあげちゃったりするんです。

「私が居る」という感覚のみが苦しみを作り出す

この世界の苦しみの原因の全てが「私が居る」という感覚です。「自由意志を持つ私がこの体の中に居る」この感覚だけがこの世界に苦しみを起こしています。収入、地位、評価、財産、、これがらシンプルに苦しみを生み出すことは不可能なのです。この私にそれが起きた時、、、、全部苦しいに変換されるのです。逆言えば「私」にかかれば全部が全部苦しいになるんです。

周囲はそんなこと気にしていないけど

残念ながら苦しんでいるのは「私」だけです、、、というよりも「私」という感覚だけがそれを起こしますから、、周囲に苦しいが大発生しているという事実はありません。たった一つの事実は今苦しいが確実に起こっているということ、今ここで。私という感覚が確実に今ここで苦しいが起こっているという事実だけが確かです。それ以外は全て空想妄想フィクション、、事実ではないんです。だから周囲がどうとかああとか実は本当にどうでもいいんです。周囲1千万人が「私」に同情してくれてもそう見えているだけ、そう感じるだけです。これが真実です。

自由意志の大大プレッシャー

自由意志はいつもプレッシャー

自由意志があるという大前提で生きていますと、、負けても買っても失敗しても成功しても常に常にプレッシャーが偽りの自身にかかってきます。というよりも負の感情が湧き上がります。憤りが起きます。本当は自由意志がないにも関わらずこれをあると信じることで、、体から反応が起こりストレスとして生じるのです。周囲は自由意志大前提で生きていますから、、いつの間にかその流れに流されているのです。

幸福も不幸もプレッシャー

自由意志において幸福を得ても不幸を得ても苦しみです、なぜならばその幸福は一瞬のものであり、、それを維持するためにはさらなる自由意志が必要になるのです。さらにこの苦しみの根源は「この体この思考が自分」という思考が生み出したものですから解決しようがないのです。自由意志を信じてしまった時点で我々人間は苦しみからは解放されないようになっているのです。

いつやるの???いまでしょ!!!

そんな難しいこと言わないでくださいよ!!!まーもしかしたらそうかもしれないけど、、、そういう内容は来るべき時が来たらいずれ分かるでしょ!!!!違うんです、、それこそが自我の延命作用なんです、、自我が発見されるのを先延ばしにしているんです。つまりこの真実に気づき始めたら、、悟っちゃった方が良いんです!!!ところがそれも自由意志ではなく勝手に起こることですからこの表現は矛盾しています。

自由意思がないことが分かるとドミノが崩れる

人間ドラマの最重要ポイント

面白い映画、ワクワクする映画って必ず仲間の裏切りがあり、悪者だと思っていたのが実は良い奴で、、、最終的には信頼していた組織からも裏切られ、、と次から次へと人の自由意志に翻弄されるのです。自由意思という設定なしに面白い映画って絶対に絶対にできないです。要は人間ドラマの最重要ポイントが自由意思なのです。だからだから悟りの最重要ポイントは「自由意志」ということになります。

「自由意志」がないが起こすドラマ崩壊

職場でのトラブル、恋人とのトラブル、家族とのトラブル、、、、、このトラブルを成り立たせているのが間違いなく「自由意思」です。あいつがこんなことを、あのタイミングこんなことを、、あんな言葉を浴びせやがって、、、、この感情の全てにおいて「自由意思」が100%あるが大前提ですよね!!!!!そうなんですこれがなかったら感情が湧きようがないんです!!!!自由意思がないとなったら、、、ただ受け入れるか拒否するかのみ、、責めるべき相手が居なくなっちゃうんです。

石が頭に当たり「怒り心頭」

公園を歩いていたら中学生が楽しくボールでサッカーをしています、ただかなりゲームに熱中していて周囲が見えていない。。気にせずに読書をしていたら案の定ボールが私の頭に直撃!!!!「何してんだ!!!」と振り向いてみたら3歳の子供が投げたボールだった、、、、その瞬間に怒りが消え去ります。。。相手が中学生ならば怒り浸透、、3歳の子供は怒りなし、、、この違いはなんでしょうか?????自由意思です。自由意志があると思っているから怒りが込み上がるのです。

自由意志があると思うから人を判断の対象にする

あの人はこういう人間だ

「この体この思考この感情が自分」説を信じていますと、、当然人のこともこのように見ます、すると相手から出てくる発言を自由意思から来るものと捉えるのです。その結果「発言の内容=その人のレベル」と判断します。ですが実際にはその発言はその人を通じて勝手にでたもの、湧いたものであってその人の自由意志ではないのです。私の観念がこの夢で投影し見かけ上のその人からそれが出たのです。

湧き上がる思考、感情

例えばこういうことです、幼少期に両親が子供に自我を芽生えさせるよう働くのは、、勝手に起きたものです。幼稚園、小学校、中学校の周囲の反応は全部勝手に起きたものです、、彼らの自由意志など全く働いていないのです。就職するしないも勝手に起きたもの、そこに自由意志は働きません。結婚もそう子育てもそう、、そこには一切の自由意志は存在しないのです。この現象において人を判断するということに意味はあるのでしょうか???全くないのです。

自由意志がないとハッキリ分かると

本当に面白いことに自由意志がないとハッキリ理解できますと、、自身を責めるという自責の念が消え去ります。するとその瞬間に平和が訪れます、、、その瞬間に安堵が訪れます、、その瞬間に歓喜が訪れるのです。そしてもう他人のことも責めなくていい、、、という安堵、平和、歓喜も同時に訪れるのです。「この体この思考この感情が自分」という洗脳が落ちることで、、本来の感覚が戻ってきます。

城としての自由意志はない

自由意志のカラクリ

我々は浮かんできた思考を自由意志と思っています、、そうだ、マック行こう!そうだ、スタバ行こう!そうだ公園行こう!!!あらゆる選択肢の中からそのアイデアをチョイスなどしているわけはなく、、、浮かんできた思考に乗ることでそれを自由意思と言ったりします。そして厄介なことに自分にも自由意志があるのだから他人にも当然あるはずだと固く信じるわけです!こうして自由意志と自由意志の関係性が始まったという大誤解を始めるのです。

独立した城であるには自由意志は必須

砂上の上の城を自分自身と信じるためには自由意志は超重要になります。これがあることで俺は存在しこの城の主人であると思うことができるのです。ですが上記のように自由意志はないのです、、そしてこの城には自分が居るという思考も勝手に湧き起こったものなのです。そしてこの城には自分が居るのだから相手の城にも誰かがいるに違いないという夢を見ているのです。

砂とは何か???

全部の城は砂でできているわけですが、、この砂は何でできているのでしょうか????それが空の現象化です、空が現象化したのが砂であり、、その一部が城として現れたのです。そしてそこには思考というものも現れこの砂を思考という観念で見るという現象が現れました。観念という現象を通じてこの砂を除けば、、あらゆる夢が広がっていくのです。時間があるという現象、空間があるという現象、、、これらが混ざり合いドラマが生まれます。

毎晩見る夢は誰が見ている????

自分ですか???

毎晩夢って見ますよね!!!あの夢っていった誰が見ているんでしょうか?????自分ですか???もしも自分ならば、、夢の展開って決めれるはずですよね????全くもって決めれないんです、夢の内容って。そうなると、、、これは自分ではないんです。すると誰だ?????あえて言葉にすれば全体、神、真我ということになります。では全体、神、真我には自由意志はあるのか???ということになりますが、、そんなものはありません。神が全人類80億人の見る夢を一人一人創作している????いやいやしんどいでしょ。

自分って思考なんです。

自分って何ですか????っていったら思考なんです、、これはペンです、これはりんごです、これは私です、、、、という言葉です。。。この言葉が、、、、何かを決めるって不可能なんです。りんごという言葉が、、、りんごを動かすってどう考えても不可能なんです。自分っていう言葉がこの体を動かすって不可能なんです。この体の中には自分が居るよね!!!この予想がこの体を動かすって不可能なんです。

夢の中には一つも絶対の存在って存在しないんです

夢って実在しないから夢なんです、、、昨夜見た夢に出てきた、、あのイケメンは今何をしているだろうか?????居ないんです、、、それを夢っていうんです。するとこの現実って呼ばれる夢の中の登場人物の全ては実在しないんです。つまりこの私、自分も実在しないんです。居るって信じることはできます。居るって思考することはできます。しかもその思考は今しかできないんです、未来永劫それを維持するのも無理なんです。

この話って嫌われるんです

テロリストがなぜ嫌われるのか????それは世界を混乱させるからです。それはこの悟り系の話も同じなんです、混乱させるんです、、、だから徹底的に嫌われます。だからこんな話は積極的にしない方が良い。こうやってブログに書いたり、YOUTUBEで見たり、こっそりやればいいんです。でも本当は全員が心の奥深くでは分かっているんです。

自由意志があるならば

いつも楽しいことを考える

自由意志が本当にあるならばなぜ人は一日中楽しいことを考えないのか?????今日は一日中楽しいことを考えるぞ!!!!無理です!!!!つまり自由意志はないんです。コントロールなど全くできないではないか!!です。自由意志はないんです、、そしてこれは夢です、完全に夢です、、この夢の中で自由意志が全くなくただ思考が起きているんです。夢からいつ覚めるかに全くもって自由意志は通用しないんです。

誰も彼も自動運転

この夢からいつ覚めるのか???全くわかりません、自由意志がないのですから。いつ解放できますか???全くわかりません、自由意志がないからです。ですから何も恐れず運命に従えばいいのです。自由意志がない中で何を頑張り何を無理するのか???です。

自由意志がないならば悟り本なんて必要ないのでは???

どうせ自由意志がないならば何のために悟り本、ノンデュアリティ系の本があるのか????何も必要ないじゃないですか?????悟り本はこの夢で勝手に湧き上がり、、そしてそれを読もうが勝手に湧き上がるのです。そこに意味なんてないのです、、その現象こそが自動運転で起き続けるということです。