自由意志

方便の活用

「私」という方便

私とは方便です、自由意志も方便です、自由行動も方便です、、、、ですが我々の社会は今この方便を前提に回っているのですからそこを回避することはできません。急に私なんていないんだし、自由意志もないんだし、、を前プッシュで動いても活動が難しくなるだけです。そうではなく社会に出れば方便を中心に生きます、そして何か反省すべき点や悩みが起こった時に、、この真実に帰るのです。

自我活動の映画

自我の活動、観念の作用を理解した上で社会に出ますと、、もうそこは自我活動の映画のようです。様々なドラマが半端なく繰り広げられています。面白くて仕方がない、、先ずは見かけ上の他人で自我の作用、自我の延命作用をしっかりと観察するのです。そして真実がこの自我の偽りを見抜けるようになった時に、、あれ????なんか凄い軽いんですけど!!!が起きます。

幼稚園に入学する前に

幼稚園に入学する前、、、家では子供に徹底的な自我形成教育をします。要は方便を学ぶわけです、、徹底的に。そしてその方便を幼稚園という実践の場所で鍛えるわけです。小学校中学校とその学びはエスカレートするわけです。そして社会である程度順応できたならば、、次は方便を方便と分かって利用する時期に入ります。嘘を嘘と分かって利用するのです。それが自己超越です。

それでも自我は動く

本当はないけども、、、、

「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」これは完全な嘘です、洗脳です、錯覚です、、このことが仮に理解できたとしましょう、、、ですが、、、残念!!!朝起きて会社に行けば自我バリバリ、自動行動バリバリで生きていかないといけないんです。結局これじゃ意味なくないんですか??????違うんです、、もしも何かをやらかして後悔の念が襲ってきたら、、、その時に思い出すのです。この事実を、、すると後悔できなくなります。

話しかけられれば、、、

話しかけられれば自分が居ないなんて思えるわけがないんです、、その時はおしゃべりに夢中になって話倒しますよね、、この体の中の自分として。。。ですが後悔が起こった時に思い出すのです、、、あ、、完全にこれも自動運転で話をしていたんだなと。そうやって痛みが襲ってきそうになったら思い出すのです、真実を。方便とは利便性がある時は使えばいいのです、、そしてそのデメリットが出そうになったら思い出す。

方便としての自我活用

自我も自由意志、自由行動があるというのは嘘ではあります、幻想ではあります、、ですがそれを真実だと思える能力が人間にはあるんです。ですからこれは方便として使いこなします、仕事をする上では「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」という方便は役に立つんです、、、だから使えばいい、、、でもそれによって苦しむのは滑稽です。真実ではないんだから。

あの時に戻れれば

残念!!!

人間ならば誰しもが思うこと、、、あの時ああしとけば!!!!です。今頃は億万長者に、大株主に、最高の結婚生活を、、です。この妄想、妄想癖、幻想、幻想癖こそが人間を苦しみの渦に巻き込む力です。逆に言えばこれしかないんです、人間を苦しみ漬けにしておく方法は!!!!「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この洗脳こそが人間を苦しみ無限地獄に落とす罠です。

ない!!!

ないんです本当は、ないんです真実は、、、、ですが人間はこの洗脳にまんまと引っ掛かり、、、死ぬ直前まで後悔と妄想を繰り広げるのです。「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この認識を作り出す仕掛けが人間にはあり、、、だから神は人間ごっこができるわけですが、、これはこれで相当に苦しい、、、みんなヘトヘトです。

一旦真実に戻るべ

大人になるために先程の勘違いを起こされ、、そしてこの勘違いが強い人間ほどに、、優秀と評価されまんまと騙され続けてきたわけですが、、、これはヘトヘトになるんです、、もうキャパオーバーです。リミット超えです。ということで真実に戻りましょう、一旦、妄想、空想、幻想癖を一旦治療する必要があるんです。本当は完全自動、オートマティックシステム、化学反応的に思考、行動、感情は起こっているだけ、、だから我々は完全な傍観者です、この人生について。

勘違いの自動連鎖を止める

「私には自由意志があって自由行動があって何者かになる力がある」この勘違いが埋め込まれることによって、、我々は日々悩み、日々苦闘します。そしてその悩む、苦闘もそのまま自動システムに取り込まれ、、その次の展開が次々と起こります。これはテトリスと同じです。完全自動の中に悩み、苦闘も参加し異種格闘技戦のように現象が勃発します。これを止めるにはどうすればいいんですか?????参加しないことです、、この自動システムに、、、こうすればああすれば!!という勘違い思考を止めるのです。すると無駄な感情症状が消え失せ神経症的な症状も消えます。

言われてみれば

悩み始めた時期

面白い話ですが、、、幼稚園時代って悩んだ記憶がないんですが、、、自由意志を使い始めていると感じ始めた小学生ぐらいから悩みって増えてきた感覚があります。さらに中学生ぐらいになるともっと増え、高校、大学と選択肢が増えていると感じるに従って悩みも増えます。さらに就職となると、、より選択肢が増えるので、、、本当にこの道でいいのか?????という疑問が常に常にありました。

選択肢が増え選ぶ自分が居るという錯覚

本当は違う道があるんでは???この選択は本当に正しいのか????一番後悔しない道を選んでいるのか????人間は常に失敗を恐れ適正解を選んでいるかを気にしながらいつもいつも生きています。ですが本当は自由意思自由行動は一切ないのでその悩みの全てが無駄なのです。そして自由意思自由行動がないのならば自分という存在は居ないも同然です。

ノンデュアリティは分かった

ノンデュアリティ ってそういくことなんですね!!!じゃあこれからどうしようか?????じゃないんです。ノンデュアリティが分かったということは悩むことが出来なくなっちゃうことなんです。自分の行動を気にすることができなくなっちゃうことなんです。映画を見に行って、、なんであそこであんな行動しちゃったんだ????って悩むことができませんよね!!!それです。

100トン級の重り

つまり、、、、100トン級の重りが突然外れたみたいなものです。重力が急に無くなったみたいなものです。重くなれないんです、期待もないし、未練もないから。。自分を憂うこともできなければ何も期待もできない、、、未練なし、希望なし、、、のスーパーお気楽人生です。例えホームレスになってのたれ死んでも、、、全くもって未練が残らない、、なぜならば、、、自由意志も自由行動もないのですから。そしてこの軽さが実は生命力そのものであり逞しいのです。

もう「何か」にならなくていい

自由意志の弊害

私たちは自由意思というものを持っていると錯覚しているので「何者か」になれるかなれないかは「自分」に全て責任があると本気で考えています。ですが「自由意思」は本当はないのでそれを「行使」する「自分」も本当は居ません。そうなると「何もか」になれる「自分」が居ないのでしすから「何者か」には絶対になれないことが分かります。「自由意思」というのは実は大変な弊害があるのです、この概念によって人は後悔し希望を持ちをエンドレスに繰り返すのです。

なぜ出来ない????

なんであんなこと言っちゃたんだろう????なんで????なんであの時あれを出来なかったんだろう?????人間はこうやって苦しんでいます。結局今日もあれができなかった、、、残念!!!!全部は自動運転、ノーコントロールです。その後悔の発想が間違っています。妄想です、幻想です、自由意志と自由行動があると思っているのは。

究極の絶望

自由意志も自由行動も自分も居ないなんて滅茶苦茶つまらない、、生きる意味なんて全く感じないですよ!!!そうですよね!!自我全開、自由意思全開だと思っている人からするとそう感じるでしょう。ですけどもともと自由意志、自由行動がなかったんです、それでこれまで生きてきたんです。これからそういう生き方に変えましょうということではないんです。自由意思、自由行動、自我があると信じて今まで生きていただけで一度も存在しなかったという話です。

あれ????

つまりこの体が「自分」じゃないということは、、所有する何かが存在しないということだけど、、、逆に言えば、、、全部が全部自分ってこと?????そうです。全部が全部自分です、見える全て、感じる全て、聞こえる全てが自分です。つまり自分の中にこの体もあって体が自分の中を動いているのです。この体の中に「自分」が居るんじゃなくて自分の中にこの体もあるのです。魂の中にこの体があるんじゃなくて見える全てが魂なんです。

尊敬も軽蔑もない

自動運転に評価をするって??

この体、この思考、この感情は完全に自動運転、自動操作で動いています。つまり全自動洗濯機のようにノーコントロールっです。その状態で街を歩けばあらゆる行動を人は取っているのです。全自動洗濯機のように人は動いていますから、、、そこに評価とか完全に無意味です。あの人は尊敬できる、この人は尊敬できないって「自由意思」があるという前提の話ですよね???????残念!!!!ないんです、そんなものは。

自由意志があると信じれる自由がある

この世界がとんでもないのは「自由意思」があると信じる自由があるのです、そして多くの人はそれを信じています。その結果あらゆる観念、価値観が構築され、、そのフィルター越しに世界を見るという多様性の構築に成功したのです。つまり「自由意思」がるという観念によってこの世界はとんでもなく多様化したわけです。とはいえ真実は「自由意思はない」のです。ですから尊敬できる誰かも尊敬できない誰かも存在しないのです。

それって楽しいの????

そうだとして、、、それって楽しいのでしょうか?????完全な風任せ人生を認めて退屈じゃないですか?????試しにやってみてください、、、めちゃくちゃ気楽、お気楽、安堵、平和です。忌嫌うべき人が全くいない、幼稚園時代の人間関係です、、、あいつは責任感が足りない!!!という評価なんてしなくていいんです。だって自動運転ですから。こんな気楽で楽しい人生ありますか????

悲劇から喜劇へ

悲劇は体になりきった状態

この体は絶対に私だ、そしてこの思考も間違いなく私だ、、、この緊張状態、密着状態が、、緊張感と分離感を激しく作るのですが、、、この時人は全てが悲劇になります。面白いことに密着すれば密着するほどにこの私はこの体の動きに完全に振り回されるのです。コントロールしようと思えば思うほどに暴れ馬感覚になるのです。それはそのはず右に行くぞ!!!と意気込んでもそれとは全く関係なく勝手に動くからです。自分自身が全くコントロール不可であることからストレスも激しく、、ゆえにこの状態は悲劇です。

体と距離を置く

この体のやることはもう分からん、体に任せちゃえ!!!やる気があるときはやる気に任せやる気が出ないならばそのやる気に任せる、、風任せ運任せだ!!この諦めがある程度ついてきますと、、、悲劇は喜劇になっていきます。こういう人生じゃなきゃ嫌だ、こういう人生以外は歩みたくない、、という理想は崩れ去り、、体に任せてしまうということです。要は馬(体)の動きに「私」が合わせるという感覚です。もう勝手にしてくれ!!です。

そのそも自由意志も自己も無いじゃないか!!!

そして最後は、、そもそもさー自分も自由意志も見せかけで、、本当はないじゃないか!!です。構造的にありよがないのです。この現象は全て空の影、幻、反映ですから、、独立した何かなんて存在するわけないしい、その何かに自由意志があるなんていうのも錯覚に決まっている、、、です。これが喜劇からの解放です。究極の諦め、、あとは馬の動きをただ観察し、、馬になりきり(あるがまま)生きていくが続きます。もうそここには馬(体)に乗る自分は居ないことが分かっています。

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。

自由意志の否定は輪廻転生を崩壊させる

そもそも

輪廻転生とは、、人間が行った誤った行為を来世で解消するために何度も生まれ変わり霊的成長をしていくことが前提で起こった考え方です。ところが人間には自由意志がなく、、全ての行動言動は自動反応であるというのが真実です。つまり人間の全行動はワンネスから起こる現象に過ぎないことからそこに間違いなどあろうはずがないのです。自由意志を行使した結果時に過ちを犯し、それを改善するために生まれ変わるという概念は完全に勘違いであることが分かります。

解脱とは勘違いからの目覚め

つまり解脱とはそれらの勘違いからの目覚めであるということです、人間には自由意志もないし自我も存在しないという気づきが起こりまでこの自我ストーリーが続いていたというだけの話です。今世で犯した罪は来世で償います、、という考え方は、、真実ではなく大誤解です。輪廻転生とは大誤解をベースにした概念に過ぎないということです。そういった大誤解から目覚めて真実に目覚める時、、そこにはワンネスしかなく、、最初から悟っていたという気づきが起こります。

自我を前提にしたストーリーの消滅

解放、目覚め、解脱とは、、、自我を基本にしたストーリーの消滅です。本当は自我は現象幻でしかなくつまり現れて消える概念です。この概念が分離と緊張という「苦しみ」を起こし、それをこのストーリー上で解消しようとする動きが人生であり輪廻転生なのです。そもそも自我は幻であり実在はしていなかったという気づきは自我をベースにしたストーリー全てを崩壊しその後に残るのは自我が存在しない現象のみです。そこには分離と緊張は存在せず真の安らぎが残ります。

雲(私)の終焉

詐欺師

私とは、、この五感を使って環境に気づき、自由意志を行使してこの体を守っていく存在でした。ところがこの気づきは私のものではなく、、気づきが最初からあったことが証明されました。さらに自由意志とは名ばかりで実は勝手に湧いてきた思考でした。。。この証明から「私」は詐欺師の烙印を押されてしまったのです。そうなるともう私に関心が集まることはありません、芸能界から関心が消えた「ショーン○」さんのように誰も見向きもしなくなるのです「私」に。すると私(雲)は空に自然と再吸収されます。

私(雲)が空に再吸収されると

私が空に再吸収されますと、、、もう私がこの空には漂わなくなります。すると私の人生(雲)も消えていきます。そこからはこの体がただ経験をしていく、、という状態になります。そのまま「私」が抜け落ちるのです。勿論便宜上は私は現れますがそれは全現象に気づく「私」ではなく、、、、名前だけ、、、幼少期の軽い軽い日々が始まるのです。

将来を不安に思うことができない

いまここに全部があって、、私がそれを支える空であることが分かって、、、将来不安とか逆に難しいのです。現象の全存在である私が、、、、老い先が心配で、、、、、とはなりにくい、、、はっきりとこの現象の背景、スクリーン、空であるという自覚が芽生えることで、、、現象(雲)を捕まえようというモチベーションが湧かないのです。そしてこの私が何者かになるという思惑は完全に消えます。期待もなく不安もない、、真の安らぎ(空)が現れるのです。