自由意志

情報

自我

自我とは情報です、、鈴木家の息子、A社の社員、男性、長男、A型、東大出身、、、、、全部情報です。これをかき集めたのが自我です。ここに宝くじ3億円が当たれば、、、それが加わります。そうすると湧いてくる思考が変わります、感情が変わります。詐欺で騙され全財産を失えば、、、また情報が書き変わり、、、湧いてくる思考感情が変わります。思考感情は書き換わった情報によって確実に変わるのです。

そこに自由はない

宝くじ3億円が当たっても湧いてくる思考感情を全く影響されないようにしよう、、、これが出来るならば、、自由意志はあると言えます、状況と思考が全く関係ないのならば、、思考は自発的でしょう。ですがそれはありえない。だから思考とは感情とはあるがままなのです。外的環境によってただ反応するだけです。

気づく

外的環境によってガンガン書き換わっていく自我、しれに付随して思考感情が自動的に湧き続ける、、、この事実に気づきますと、、、自我に対する態度が変わるんです。なんであんなこと言ったんだろう???そうかそう反応したんだな。なんであんな偉そうな態度を取ったんだろう???そうか、、そう反応したんだな。です。つまり自我から派生する思考感情をコントロールすることは不可能であり、、自我も勝手に変わることに気づくことでしかこの流れを変える方法はないのです。自我の存在が外的環境による創作物であるという真の理解が起こって初めて自我が形成されなくなっていきます。自我から派生される思考感情も止まります。

システムの理解

自我及び思考感情とはこのシステムの理解不足から起こるのです。自我という実態ありきの思考感情は自我が実態はないことが分かると湧きようがないのです。悟りとは自我の完全理解です。自我及び思考感情の完全理解が、、自我システムを崩壊させ、、あるがまま、大いなる存在を露わにします。

本当の自由

嘘の自由

本当の自由とは、、、自由気ままに生きることではありません。自分勝手に生きる=自由ではないんです。自分勝手を自由と履き違えても構いません、、試しにやってみてください。直ぐに飽きます、、こんなもんか、、、何にも楽しくもない。大学時代って本当に時間がたくさんありますがその時間を有意義に過ごせる人ってほとんどいません。だいたいが家でゲームをやるかバイトに明け暮れて過ごすだけです。つまり自由とは大したことがないのです。

本当の自由とは

本当の自由とは、、あるがままを受け入れることです。外部環境で起こる全てを受け入れます。この体で起こることも受け入れていく、、全思考、全感情、全行動はただ起こっていると受け入れます。自由意志などなく全てがただ起こっていることに気づきます。この私などはただのイメージでしかなく、、そのイメージに派生した思考感情がただ起こっていることに気づくことです。

完全な自由の中で

我々は完全な自由の中で不自由な発想を生み出し、、その発想によって苦しんでいます。この体の中に自分が居るという制限という概念を起こし、、その概念によって「不自由」という感覚を起こすのです。本当は完璧な自由の中に今も過ごしてします。自由でなかった時だ今までないのです。不自由な存在という概念を起こし、体がしっかりとこれに反応して苦しみます。

気づけ!!!

それイメージですから

あなたには言ってなかったけど、、「あのビルは私の家族のものなの」、、、、、これを物心ついた時に告げられれば、、、、、「マジか!!!、え???じゃあ俺って金持ちで実は働く必要すらないんじゃね???」が起こります、自動的に起こります。そして次の日から発言が変わるんです、「みんなそんなに頑張って勉強してるけど、、ほどほどにね!!」です。キャラがあれ???あいつ変わったぞ。。。なんか、、偉そうじゃね???と周囲は騒めくでしょう。

間違いなく変わる

何が起きたんでしょうか?????イメージが変わったんです、セルフイメージが一瞬で書き変わったんです。エグいぐらいにイメージチェンジです。実は自由意志はないというのは本当でセルフイメージが変わると、、発言も勝手に変わります、思考が変わります、感情も変わります。勝手に変わっちゃう全部を自由意志と呼べますか??呼べないんです。

実はあれ嘘だから

20歳の誕生日、、あのビルってさーいつ俺のものになるの?????それ嘘だよ、、、嘘に決まってんじゃん。こんなことが起きればまた全部がひっくり返るのです。。。「マジか!!!!やべ〜、、、、、いまからまた大学入り直して就活しないと!!!!」です。俺彼女になんて伝えようか???伝えないようにしよう、、、そしてどこかで別れた方がいいな。。。です。セルフイメージの崩壊です。完全崩壊、終焉。

そもそも

そもそも自我という実態あるなにかがあるんじゃないんです、自我というセルフイメージがあって、、そのイメージに付随して、、発言、思考、行動が勝手に起こっていたんです。だから重要なことはこのセルフイメージを良くすることではなくこれをイメージと見抜くことなんです。そうしないとここから出てくる思考、感情を真に受けるというギャグが起こります。セルフイメージに付随して勝手に起こる思考、感情、行動はただのお遊びです。

現象に浸る

現象の意味が真反対に

我々は今まで自由意志でもってこの近代文明を築き上げてきたと信じてきました。人間は動物とは違う、、人間には自由意志があり、、その自由意志があるからこそ野性的な原始的な生活ではなく、、近代文明を築けたのだ、、、と。ところがです、、それが勘違いなんです。この近代文明は人間の自由意志ではなく自由意志があるという勘違いによって成されたのです。

本当は

本当は、、ただその発想が根元から起こったのです。近代文明を気づきあげようという自由意志風の思考が起こったのです。我々が我々の力で築き上げるという思考が根元から起こりました。何が違うのか???全然違います。思考を作り出すのは人間には不可能なのです、百歩譲って作り出せても認識は絶対にできません。なぜか????認識とは同次元では起き得ないからです。マリオがマリオに気付くのは不可能なのです。マリオがマリオの思考にゲーム中に気付く????できません。

手放す

我々は何千年間も、、この勘違いを本気で信じてやっていたのです。途中キリストや仏陀が現れ、、これを説きましたが、、、理解が不可能。。キリストは殺され、釈迦も死に絶えました。本当は僕たちは、ただ起こる思考行動感情に振り回されているだけなんです。ただしもうこのことが分かってしまうと、、湧いてくる思考、感情を間に受けなくなります。「あそこに行かなきゃ!!!」が湧いてきても放置できます。だってただ湧いただけです、それを重視しないといけない法律はないんです。

分かると瞑想が始まる

根源からの現れを観察する「瞑想」

根源の理解が起こりますと、、日々の生活が瞑想に変わります。全現象が根源からの起りであるという理解、悟りは、、日々の生活を瞑想に変えます。それまでは人間活動がただ起こっていました、ですがこれからは瞑想が始まります。どういう瞑想か????あるがままの観察です。あるがままをあるがままに観察するという瞑想が始まるのです。

そこには環境をコントロールする自分が居ない

本当に面白いのですがそれまではこの環境に影響を与えることができる自分が居ると信じてきました。ですが根元の存在に理解が及びますと、、その自分の行動の全ては根源からの現れでしかなかったことに気づきます。環境に影響を与えていたというのは完全な勘違いでそれすらも環境の一部だったということです。環境と自分のキャッチボールはただ単純に反射でしかなかったっという突然の理解が起こるのです。

この自分の行動の全てが反射

この自分の行動が反射でしかないのならばこれらの全ては観察の対象でしかありません。外部環境、この自分、、全部が全部反射であって、、そこには何も自由意志の関与はないのです。そしてこの気づきの前も気づきの後も全く同じように反射が起こり続けます。ただし反射に振り回されるという苦しみが抜け落ち、、ただ反射を真の安らぎの中で観察するという状態が起こるのです。

苦しみの連鎖

止まらない

この世界は苦しみに満ちています、釈迦は悟りこの世は苦であると説きました。こに世界は苦であるはずですが、、人間は子孫を増やし続けます。この苦しみに解決方法を見出せないままに苦しみを連鎖させます。なぜでしょうか???簡単です、自由意志がないからです。ワンネスはどうやら、、この苦しみを終わらせる気はないのか??????ワンネスに意志など存在しません、、これは全部縁起、自動反応です。

勝手にどうにでもなる

この現象を起こしているのは神ですから、、、誰が神の心配をする必要があるのか???という話です。政治不破、災害、食糧不足、、、全部全部神が起こし神が経験しているのです、、誰が神の心配を知る必要があるのか???という話です。そういう意味では何も問題は起きたことはないしこれからもないのです。神の自作自演に問題が起きようがないわけです。

今の苦しみさえも

今私の苦しみって消せるんです、今消せます、、、この苦しみを味わってるのでは誰でしょうか????私ではないですよ、、私とは現れては消える概念です、、、この苦しみを味わっているのは神しかいません。あなたは孤独に苦しみを感じているつもりでしたが、、それを味わったのは神です。そうです私は神なんです。神ですから今起こっている現象の全ての出現者であり経験者です。この認識が苦しみを根本から消し去ります。

俯瞰

俯瞰できれば万事OK

そうだったんだ!!!なるほど!!これで全部OKになります。とんもない悪口を友人から言われたけれど、、、そうかそんな事情があったんだ、、これで溶けます感情が。なぜでしょうか????なぜか????ただ俯瞰できただけなのに、、、おかしい。。。。そうです、、、おかしいんです、、人はただそのトラブルを俯瞰できるだけで感情が溶けるんです。答えを教えましょう、、我々の本質は俯瞰する存在そのものだからです。究極の俯瞰者が「我々の本質」だからです。だから俯瞰すると感情が解けるんです、本質に吸い込まれます。

俯瞰、俯瞰、俯瞰

成長するということに定義をつけるならば「俯瞰力」です。いかに真実ベースで事実を俯瞰できるかです。小学生の喧嘩を穏やかに見られるのは「俯瞰」しているからです、大人は。つまり俯瞰して見れればこの世界は穏やかになります。いかに事件が連発しても「俯瞰」できれば穏やかなんです、微笑ましく事件を観察できます。悟りとは究極の俯瞰です。

私が居ないという俯瞰

私すら実は居なかった、、これは俯瞰の最終段階です、、自由意志が実はなかった、、これも俯瞰の最終段階です。。今ここ以外実は何も起きていなかった、、これも俯瞰の最終段階です。現象に気付いているのはこの「私」ではなくて究極の存在空だった、、これも俯瞰の最終段階です。。つまり穏やかの最終段階に至っていきます。

過去

過去を悔やむ???

過去というのは絶対に変えられないのですが人は後悔をします。本当はあの時ああしておけば、こうしておけば、、、です。ですが残念ながら人は何一つ決定権がないままに生かされています。そしていかに早くそこに気付くかんです。つまりこれからもそうだということです。勿論こちらにはこれからも自由意志はあるように感じます、だから何をすべきか考えることは何も問題はないのです。ですが真実をお伝えすれば、、、全部化学反応で起こった決断をしているのです。

あんな人になりたい

本当はあんな人生を送りたかったなー、、、、その発想がまさに勝手に起こったのです。だからその感情に縛られる必要がないんです。絶対にこんな家に住みたかったんだ、、、、という思考が勝手に起こったのです。だからその思考に縛られる必要がないのです。あいつを本当に憎んでいる!!!という発想が勝手に起こったんです、だからその発想に縛られる必要がないんです。

真実は雑念を消す

雑念は勝手に起こりますからこれをコントロールすることは勿論できないのです。ですがこの真実を知ると、、、雑念が起こりにくくなります。だって湧いてきた思考に対して過剰反応できないですよね。そうなんです、、真実は無駄な思考を起こさせなくします。私はそういう意味では真実研究家です、なぜそうなれたかと言えば結局はここに収まるのですから最初からそこを目指した方が早いと思ったからです。

で、どうすればいいんですか???

真実はこうなっているんです

真実ってこうなっているんです、、、で???どうすればいいんですか????が起こります。「自由意思ってなんです」「で???どうしたらいいんですか?」になります。どこまでいってもこうなんです。で???どうしたらいいんですか????、、、、で????どうしたらいいんですか???は真実が読みこまれていないから起こる質問なんです。

真実とは、、で???どうなるんですか??が起きないことです

自由意志はないんですよ!!!「じゃあこれからどうしたらいいんですか???」は成り立っていないのです。自由意志がないことが理解できますと、、もうその時点で楽なです、、だからそれで終わりです。じゃあどうしたらいいのですか????はその内容が腹に落ちていないから起こるのです。ですので真実とは質問が出てこなくなるまで読み込む、、これしかありません。真実を聞いて、、じゃあどうすれば???はないんです。

ルールを作ると苦しくなる

この宇宙にはルールはないことから、、勝手にこの宇宙にルールを作ると苦しくなります。この真実を伝えても、、じゃあどうすればいいんですか???が起こります。私たちは「苦しい」よりも苦しくない方が良いのですか、、ルールをやめていけばいいのです。でも会社に行かなかったら食べていけないですよね???それがルールです。そう決めれば、、そのルールによって苦しむのです。

我思うゆえに我あり

絶望

デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我あり」、、、この言葉は絶望の言葉です。思考を自分自身とした概念です。起き上がる思考を自分と定義したのです。これによって我々は思考共同体になったのです。ところがこの思考実は勝手に湧いてきては勝手に消えていくという、、存在です。何の自由意志もなくただ湧いてきて消えていきます。これを自分自身と定義してしまったがゆえに人間は地獄を味わうのです。暴れ馬に乗って私はこれを完全にコントロールしていると宣っているのですから。

先ずは暴れ馬を手放す

思考感情は暴れ馬です、、先ずはこの二つをコントロールできるなど思わないことです、そこに気づきます。暴れ狂うこの二つをコントロールなどせずに、、放置しましょう。ただ観察するのです、暴れ馬が今日も暴れているなーです。そこに乗っている「自分」など居ないと悟るのです。これだけでも十二分に楽になります。思考感情をコントロールなどできないことを悟りますと、、人生は一気に軽くなります。

コントロールできないならば

思考感情をまるでコントロールできないならばもうそこに乗っている「自分」なんてものは記号でしかない、、と悟ります。コントロールできない存在に「自分」などと称号を与えるからおかしくなるのです。自分とは便宜上割り当てられた「記号」です。そして「人格」などという概念もただの記号、キャラです。