自我

全ては練習問題

練習問題としてのエージェントスミス

心を揺さぶる問題が起こるといましょう、、この心を揺さぶる問題はなぜ起こるのでしょうか????簡単です。自我の延命です、、心が揺さぶる問題が起きれば自我をこれを解決するか逃げるかするでしょう、つまりこの自我ストーリーの中でアクションを起こすのです。その際に心を揺さぶる問題はどうあがいてもこのストーリー上に自身が居ることを強く強く意織させられます。これが映画マトリックスのエージェントスミスです。今お前はこのドラマの中で解決を図らないと大変な目に遭うぞ、、という戦略です。

関心ごとの全て

例えば見た目に全く興味がない男性が、、、ファッションを揶揄されても全く問題にはならないでしょう。問題とはその方が関心を持っている分野なのです、、例えばその男性がキャリアに意識が高ければ、、、そこで問題が起きる可能性が高くなります。会社の倒産、左遷、低評価などです。これによって彼は心を揺さぶられこのストーリー、この自分に強く強く関心を寄せます。自我はエネルギーが注がれ益々このストーリーにのめり込むのです。

問題が起きても

関心が高い分野は問題化(エージェントスミス化)し襲ってきますが、、そこに関心を向けてしまっては自我システムの思う壺です。そこに関心を寄せるのではなく、、練習問題がきた、、私はどうもキャリアに執着しているようだ。。本当に重要なことはこの私は大いなる存在であってこも見かけ上の私ではない、、だからキャリアの問題はそれを示すために起きたのだ、、と真実に戻ります。つまり執着が形になって執着を教えてくれているのです。

キャリアの問題は重要なことではない

キャリアの問題は、、自身が大いなる存在であるという気づきに比べれば全く問題がありません。自身が偽りの自分ではなく大いなる存在であるという気づきが起きればその問題は真の安らぎの中で解決されるからです。そして仮に解決されなくても執着に気付くことで、、自我の柵がまた一つ無くなり自我はパワーを失います。その時景色が輝いていきます。問題の背景が輝いてくるのです。

全執着が溶けていく

何か大きな問題、心が揺さぶられる問題が起きたときは、、その分野に執着があることを教えてくれています。その問題が執着を露わにしてくているわけですから非常に有難いことなのです。なぜ私はキャリアに執着があるのだろう????それは私がそこで高い評価をされたいと願っているからに違いない、なぜ評価をされたいかと言えば自分(自我)の存在をそこで証明したいからだ。だが自我は幻でありそこで存在を証明したとしても本当は証明されないのだから同じことなのだ、、となります。

自由意志の否定は輪廻転生を崩壊させる

そもそも

輪廻転生とは、、人間が行った誤った行為を来世で解消するために何度も生まれ変わり霊的成長をしていくことが前提で起こった考え方です。ところが人間には自由意志がなく、、全ての行動言動は自動反応であるというのが真実です。つまり人間の全行動はワンネスから起こる現象に過ぎないことからそこに間違いなどあろうはずがないのです。自由意志を行使した結果時に過ちを犯し、それを改善するために生まれ変わるという概念は完全に勘違いであることが分かります。

解脱とは勘違いからの目覚め

つまり解脱とはそれらの勘違いからの目覚めであるということです、人間には自由意志もないし自我も存在しないという気づきが起こりまでこの自我ストーリーが続いていたというだけの話です。今世で犯した罪は来世で償います、、という考え方は、、真実ではなく大誤解です。輪廻転生とは大誤解をベースにした概念に過ぎないということです。そういった大誤解から目覚めて真実に目覚める時、、そこにはワンネスしかなく、、最初から悟っていたという気づきが起こります。

自我を前提にしたストーリーの消滅

解放、目覚め、解脱とは、、、自我を基本にしたストーリーの消滅です。本当は自我は現象幻でしかなくつまり現れて消える概念です。この概念が分離と緊張という「苦しみ」を起こし、それをこのストーリー上で解消しようとする動きが人生であり輪廻転生なのです。そもそも自我は幻であり実在はしていなかったという気づきは自我をベースにしたストーリー全てを崩壊しその後に残るのは自我が存在しない現象のみです。そこには分離と緊張は存在せず真の安らぎが残ります。

未来思考は決してポジティブではない

前だけを向いて

前だけを向いて行きましょう!!今は苦しくても。。。こういったスローガン多いですよね!!!実際私もこの手のスローガンに肖っていた時期もありました。前へ前へ前へ!!!ですが実はこれは自我の常套手段です。自我に依存している状態は基本今が苦しいのです、今は分離感全開です。今が苦しいので自我はとにかく先には幸福が待っているというスローガンを作るのです。今はとにかく苦しいだけどいつかこの苦しみからは解放される日がくるはずだ、、です。ですがどう考えてもいままでこのやり方が成功したことがない。

前に素敵なセルフイメージを作って

自我は前に素敵なセルフイメージを作ってこれを達成したらこんな幸福な自分に、これを叶えたらこんな素敵な自分に、これが成就したら最高の自分に、、、と人参を常に垂らしてきます。ですがなぜこれを垂らさないといけないのか????それは今は苦しいからです、今が不足だからです、今が孤独だからです。だから前に素敵な自我イメージを作りこの延長線上にはいつかは、、、という夢を置くのです。

叶える先にあるのは自分

この作戦の問題点はどれほど素敵な夢を叶えようとそれを享受するのが自分だということです。この自分がこのストーリーの主人公であることに変わりはないのです。ところがところが、、、この自分が分離感、不足感を生み出している張本人ですから、、、素敵な夢を分離感全開で叶えるだけなのです。つまりこの作戦の問題点とは、、絶対に至福になれない自分がこのドラマの主人公であるということです。

全く魅力のないメッセージ

絶望の終わり

自我とは分離感です、自我=分離感です。この枠からは絶対に絶対に自我は抜け出ることができません。自我が向かうところ分離感しかないのです。ですから自我は絶望的な存在なのです、そしてそのことを自我の向こうの何かは気づいています。ですから覚者は自我の終焉以外にこの苦しみを終わらせることはできないと断言するのです。ですがこのメッセージは自我を維持しようとする動きにとっては全くもって魅力のないメッセージなのです。何かを埋めれば何かを足せば、何かに気づけば、、いずれ私は幸福になれると信じて何十年間も走ってきた自我にとって、、、自我の消滅ほど不快なメッセージはないのです。

何かが幸福になるのではない

この世界にある何かは全部現象です、ですからその何かは幸福になるということは不可能なのです。今回の何かとはこの自分ですがこの自分もご多分に漏れず、、現象です、、つまり現れては消える幻想です、幻です。幻は幻ゆえに幸福になるということは不可能なのです。これが自我が絶望的な存在である理由です。自我という現象自体は完璧です、現象は完璧の表現であり自我は完璧なのです。ですが至福という観点から言えば自我は絶望的なのです。

絶望的な存在を終わらせるしかない

もしも出来ることがあるとすればそれは自我(絶望的存在)を終わらせることです、絶望的存在が終われば何が残るか、、、真の安心感、真の安らぎ、真の喜びです。自我とは引き換えにこれを手に入れるしか方法はないのです。自我とは引き換えに????誰が自我とは引き換えに真の安らぎを手に入れるのか????誰が自我とは引き換えに真の喜びを手に入れるのか????それは真の安らぎ、真の喜び、大いなる存在そのものです。

空(至福)の中で雲(一過性の幸福)を探すというギャグ

偽りの私(雲)は空(至福)に気づかない

我々(雲)が存在できるのは空(至福)があるからです。空(至福)がなければ雲(我々)が誕生することもありません。我々はこの空(至福)で生まれ最初はこの空(至福)を感じていました。徐々に徐々に自我が形成されこの空(至福)を感じることができなくなり結果この空(至福)の中で空(至福)の代替品(雲)を日々探すという愚かな行為をしているのです。

空(至福)から閉ざした存在『私』

私とはこの空(至福)から完全分離(錯覚)していると思い込む存在です。ゆえに至福に飢え、、私はあらゆる雲(一過性の幸福)を探し回っているのです。ですがこの私が得ることができる雲(一過性の幸福)は雲ゆえに現れては消えていく運命にあるのです。私は何か対象(雲)を探すことが習慣になっているために車、家、マンション、パートナー、地位、名誉、家族、、、と対象を次々に求めは次にいくという道を歩みます。本当はこの雲(対象)が存在する場(空)にこそ至福があることをすっかり忘れてしまったからです。

私が消えれば

結論から言えば私(雲)が消えれば即空(至福)に戻るのです。私とはそもそも存在などせずあると思い込む思考、感覚でしかありませんからないことが証明されれば存続できないのです。私がないことを証明するという前代未聞の行動がこの空で起きた時、、、私が消えるのは間近です。この空に存在している雲は全部が全部現象幻であって実在する存在は皆無なのです。そのことが分かってきますと私(雲)だけが実在するという理屈が無理があることが分かります。

有名人に憧れる本当の理由

エゴの集大成

有名人になるというのはエゴにとっては最大限の安心です。誰もが自分(エゴ)を知っているという状況は自分がこの世界に確実に存在すると証明できるからです。ですがなぜそこまでして存在を証明したいのか????それは自我エゴとは非連続性の存在現れては消える儚い存在なのです。だからこそこれを常に意織したい、、という衝動が有名人への憧れになるのです。自我最強バージョンです。

実際は

エゴにとっては有名人になることは素晴らしいことでしょう、ですが実際にそうなってしまったら、、さあ大変、、常に常に自分、エゴが現れるのです、、、その瞬間「本当は誰だ????」という憤りが生まれます。安心するエゴの動きと常に苦しいが湧き上がるという二重構造の感情に支配され苦しみ続けることになるのです。

有名人とはエゴの大肯定

有名人とはエゴを大肯定する動きです、、本当は非連続の幻であるエゴが完全に存在すると周囲から認められることになります。ですからこれからも有名人ビジネスはなくなることは絶対にないでしょう。有名サッカー選手が子供たちの憧れになるのは既に子供の中に自我が芽生えてきている証拠なのです。何者でもない存在では心許ない、有名になって存在を証明したいというエゴの動きです。

渡す世間は鬼(雲)ばかり

自我(雲)の延命作用

自我はこのドラマでは好んで被害者になろうとします。被害者になるということはこの私は確実に居ることを証明できるからです。医療ミス、金銭トラブル、ストーキング、、、なんでもいいのですが被害者という周囲から間違いなく認められる地位を獲得したいのです。何かを達成して地位を得るよりもはるかに簡単に自己を証明できるのです。自我は幻ゆえに、、その存在を証明してくれることならば何にでもしがみ付くのです。渡る世間は鬼ばかりというドラマがありますが毎週毎週誰かが被害者、加害者になることで自我の存在を明確にしているのです。そしてなぜそこまでしなくてはならないかと言えば自我とは非連続性の存在つまり雲なのです。

時に加害者(雲)、時に被害者(雲)

渡る世間は鬼ばかりでは出演者が上手に交代しながら、、加害者被害者役を繰り返していきます。時に加害者、時に被害者、、と回りに回っていくのです。重要なことは常にどちらかの役をやっていること、、やっていれば自分という存在を証明できるからです。ですがなぜ毎回毎回忙しくそれをやるかと言えば自分を証明し続ける必要があるからです。つまりドラマを引き起こしていないと自分を証明できないということこそが本当は幻想である証拠なのです。

空(本当の自分)以外は全員幻雲

この世界において空以外に絶対的な存在は居ません。空に浮かび上がる現象の全て(人、物、思考、感情)は現れては消えていく幻雲です。本当はそれが分かっているからこそ人はお互いの存在を記憶に留め、、幻ではなく絶対であると相互に錯覚しあっているのです。錯覚共同互助組合です。この動き(雲)が自我(雲)同士で起こるのです。

称賛されるよりも被害者は簡単

大谷翔平のようになれば自我は大大大満足で、、誰も大谷翔平の自我を幻とは思わないでしょう。ですがこれは最大限の努力が必要になり手間がかかるのです、そこで自我は被害者になり簡単に自身の存在を証明するということを学習したのです。あれ???私の存在薄いかも????そうだ被害者になろう!!!です。この動きを見抜いた時被害者になるという自我の動きが止まります。

読み込みエラー

空は悟りの情報をなぜ読み込みエラーするのか?

自我ドラマがまさに今上映中の中で、、あなたなんていませんよ!!自我なんて嘘ですよ!という内容のメッセージは読み込みエラーされます。スリサスペンス映画の上映途中で友人が話しかけてきてネタバレをしてきたら耳を塞ぎますよね。そうです、、自我はこの苦悩、苦しみ、憤りをまさにこのドラマの中で解消しようと集中していているのです。そのような中で水をさされると、、せっかくの活動がまさに水の泡、、ですから悟り系のメッセージは邪魔なのです。特に今何かを手に入れようとしている状態であれば尚更です。

何かを得ること何者かになることにウンザリした時に

悟り系のメッセージを読み込んでくれる時があるとすれば、、、何者にかなりたい、何かを手に入れるという人生にもうウンザリしている時です。この時であれば悟り系のメッセージ「あなたは居ない」は強烈に魅力的に感じます、何か大きな期待が膨らむのです。もう何かを追いかける人生に懲り懲り、結局何かを得たところで、、、この衝動が湧く時がベストタイミングです。

自然に自然に

もしもまだ悟り系のメッセージを読み込んでくれない、全く頭に入らないのならばそれはまだそにタイミングではないということ。無理してそこに執着するよりもあらゆる経験を積んだ方が楽かもしれません。増せた小学生がどうせ人生なんて頑張っても無駄、最初から悟っちゃった方がコスパいいでしょ!のノリで本を読んでも恐らく頭に入らないでしょう。なぜならばそちらに衝動が向かないから。

完璧なタイミングで

全ては完全完璧(空)の投影ですからこの現象界で起こる全ては完全完璧なタイミングで起こります。ですから今その方向に興味がないのならばそれが完全完璧なのです、そして今その方向に興味があるならばそれも完全完璧です。本当はもう苦しみを終わらせたいのに、、そう思っていたとしてもその思いが今出ていることが完全完璧なのです。

雲(自我)の最後の抵抗

固執している関心ごと

本当は私はこの体(雲)ではなくて空だ、、、この体(雲)この思考(雲)この感情(雲)が私(雲)なのではなく、、空そのものなんだ!!!!この気づきがある日突然起きます。ですが、、、それと同時に、、日々の関心ごと、将来への不安、両親との確執、本当はやりたかったこと、、などがフラッシュバックのように流れ(雲)また私(雲)にしがみ付く、、、が起こります。この全ての出来事は全て雲であり、、、この私(雲)を維持するための連発雲(記憶、思考)が起こるのです。

エージェントスミス

マトリックスの映画ではこの状況をエージェントスミス(雲)を使って表現しています。友人知人、両親、、、あらゆる人がエージェントスミス化して攻撃してきます。主人公ネオは彼らと死闘を繰り広げるわけですがそこの関心が行っている時点で実は負け戦なのです。個人の関心とは個人をこの世界に留めておくための戦略なのです。お金、ギャンブル、お酒、異性、マンション、アクセサリー、SNS、、、その人の関心が実はこの世界にその人を留めておくツールなのです。

全ての関心ごと

全ての関心ごとを観察し、そこの執着しない、、そして自身は空であるという自覚で過ごすことができるようになりますと、、過剰な関心攻撃は無くなっていきます。恐らくこれは自我に関心がむかなくなる時の自我の悪あがき、反抗期なのでしょう。本当はアピールしたい、だが直接ではバレる、、そこで関心事を記憶から引き出し、、意識をそっちに向けさせます。

勝負の行方は決まっている

どれほどにエージェントスミスの攻撃が半端なく毎回毎回この自我ストーリーに引き戻されてしまったとしても、、、最終的な勝者は既に決まっています。なぜならば、、雲(自我)が空(本当の自分)になるのではなく、、いままでも空(本当の自分)だったのです。生まれてこの方、空(本当の自分)でなかったときは一度もないのです、、、ただ雲(自我)を本当の自分と勘違いする思考(雲)が漂っていただけなのです。そしてそれによって観念という分厚い雲が現れその雲を通じてこの世界を見るという自我ストーリーが生まれていたのです。ただしどれほどそのストーリー(雲)が分厚いものであっても、、空(本当の自分)は常にそこにあって全くなんの影響も受けずにいました。それらが消え去りまっさらになってもやはりそこには空(本当の自分)が残ります。

「野垂れ死ぬは最悪」も観念

共通の観念

私たちは何か事件があると「最悪」「悲惨」「地獄」と当たり前のように事件を危惧しますが、これ世界共通ではありません。会社を首になるのは最悪、、これも国によっては当たり前。収入がゼロになる、、これも国によっては当たり前。16歳で村長の娘になる、、これも国によっては当たり前。つまりこの世界の悲惨はその人が作り上げた観念が起こすのです。最低最悪な事件すらも、、その人の観念が作り上げます。

最低最悪な事態

最低最悪の事態をこの「私」「自我」「エゴ」がなんとしても防ぐ、、これが私ストーリー、自我ストーリー、エゴストーリーの定石です。だから「私、自我、エゴ」の存在をしっかりと維持してくださいね、、、忘れたら大変なことになりますよ!!!という常套手段です。最低最悪な事態に陥らないためには「私」が絶対に必要ですから、、、です。

自ら脅し自ら必要とされる

自我とは本当は存在しません、、その自我が常に必要とされるには、、史上最悪な事態を防ぐためのヒーローである必要があるのです。こんな悲惨な目にあったら、、こんな地獄に遭いたくないならば、、これほどの不幸を避けるならば、、、この「私」が必要ですよ。自由意志を着実慎重に行使する「私」が。これによって自我は天下を取るわけです、長期政権です、本当は存在しないにも関わらずです。

自我にとって最悪な事態

自我の戦略とは反対に、、突然事故で全財産を失ってしまった、、突然会社で首になった、、、あれほど恐れていた事態が急遽起きてしまった。。。。やばい!!!!!!最悪!!!!!、、、、、ところがあれ???意外と思ったほどしんどくないぞ、、、緊急事態って無我夢中で現状を処理できて、、ピンチは一瞬だった、、もしくはそれほど辛くなかった。。。。。。自我最悪なピンチ、、、形成が逆転します。。。自我の信頼が崩れるのです。

死にたくなるほど辛いはずが、、、、

あれだけ恐れていた事態にあったにも関わらず実際にはそれほど辛くなかった、、、、これは自我にとっては恐ろしい事態なのです。脅しをかけて自我を必要とさせていたにも関わらず、、その作戦がもはや通用しないのです。観念、思い込みというものに対して、、恐怖心がなくなっていく、、観念を疑うようになるのです。