自分

自分を理解してくれる人を求めて

自分を分かってもらうために

この自分、体の中の自分は実際は居ませんから、、、自我は本能的に自分を認識してくれる人、認めてくれる人を求め続けます、、、実際には居ないのですから、、非常に苦しい、、だからこそ自分を認めてくれる存在は圧倒的に重要になります、、、自我は常に常に自分を構ってくれる人を求め続けます、、、

この人は私を分かってくれる、、、

最大の自我生存戦略は自分を徹底的に理解してくれる人の存在です、、、この人が居れば、、、自我は一生生存できる、、、だからこそ、、、その相手を大切にします、、、自我は自身の存在を認めてもらうことでホッとします、、、ところが、、、本当の自分は自我ではありませんからそれでも苦しいは解放されない、、、自我は生存できるが苦しいは解消されない、、、これが争いの火種になります。

争いが絶えない

自我は自分を認めてくれる人がどうしても必要、しかし自我を自分だと勘違いしたままでは苦しいが終わらない、、、このジレンマに苦しみ続けます、、、だからこそ悟りが重要になります、、自分はこの体の中ではなく全体、大我であるという再認識が起きない限り、、この苦しみは終わらない、、、この苦しいを相手のせいにして相手を責め立てたりまします。だから争いが終わらない、、、

なぜ自分は幸福を求めるのか??

自分は不幸だから

幸福を求めていない人はいないでしょう、、ではなぜ幸福を求めるのか??不幸だからです。。。普段酸素を求めている人はいません、、ですが水中に潜ると、、、酸素を求めますね、、、水中には酸素がないからです。つまり幸福を求めるのは基本不幸だからです、、、ですから不幸を背負った状態で、、幸福を求めても無駄なのです、、、水中(不幸)から出なければなんの意味もないのです。

水中から出るには、、、

水中から出る、不幸からでるには、、、今が不幸であることを完全に認めることです。。。今が不幸だから幸福に興味があるのです、、、基本はここです、、、そしてなぜ不幸なのか???個人であるという状態は絶対的に不幸なのです、、、ここが重要です、、、人間のこの体を自分として生きるのは絶対的に不幸なのです、、全員が、、、では自分とは何なのか????自分とはこの体ではなく、、この体、、森羅万象の全てです。

森羅万象が自分であるという実感が湧かないが、、、

森羅万象全てが自分自身であるという実感が湧かないのですが、、、それはそうです、、、何年間もかけて、、、この体が自分であるという学習をしてしまったのですから、、その思い込みを作るには莫大な労力がかかっているのです、、、ということでこの思い込みを外すには莫大な労力がかかります、、ですがこの試みはどこかで必ず成功します、、、なぜならば、、、それが真実だからです、、、真実の前に概念は崩れます、、

自分を再定義する

自分の再発見

悟りとはズバリ、自分の再発見です、、、いやいや、、自分のことは知っていますよ、この体のことです、、この認識、概念、感覚が真実ではないから常に違和感が湧き出しています、、この思い込みが間違っているから苦しいが湧くのです、、、この自分とはそんな小さな存在ではなく、、、この世界を運営する全てなのです、今何かに気づいた存在です、、今このブログを理解したエネルギーそのもの、、今このブログを読むという経験を作り出した存在です。この経験はこの体があってこのブログがあって、、見るためのスマホがあって、スマホの電源があって、、と全条件のことです、、

この体と相手の体

この体と相手の体があるから会話ができます、、私とはこの全てです、、この体からでる声と相手の体から出る声、、これによって起こる会話という経験、、この全てを運営しているエネルギーが私です、、、相手の声が聞こえるという経験、、その声から意味を見出すという経験、、、これをそうなりたたせる存在、、これが私です。相手の声によって自身が不快になるという経験が起きました、、この全てのメカニズムが私です。

ここから駅まで歩く

ここから駅まで歩きます、この体の足があって、、踏みつけるアスファルトがある、、視界にはお店が並ぶ、、この全てを成り立たせているエネルギーが自分です、、この経験を運営している全てです、、、そしてこの現象が起きる場所、空間も自分です。。。感情が湧くための場所、思考が湧くための場所、、これも自分です、、色も空も自分です、、

全部自分だけど所有権はないですよ

ニューヨークの高層ビル

ニューヨークの高層ビルも我々の本質でできています、、つまり我々です、、、ですが所有権はないですよね????そうです、、後付けのラベルを所有する個人は別に居ます、、、ですがそのラベルのエネルギーは我々の本質ですし、、、ニューヨークの高層ビルを所有する個人を構成するエネルギーも我々の本質です、、どこまでいっても我々の本意以外が存在しないのです。

最初から自分の物ならば、、

勿論旅行に行くにはお金がかかりますし、、何かを所有するにはお金がかかります、、、ここからはどうしても逃れられない、、、ですが、、本質は全部自分なのだ、、、という絶対的理解に達しますと、、、何かを手に入れたい、何かを欲したいという衝動が希薄になっていきます、、、、今というこの状況が決して苦しくない、、これまでの苦しみを解消するための衝動が無くなっていくのです。

欲求も衝動も思考も湧かない

万物を構成するエネルギー全経験、全感情、全思考、全衝動を構成するエネルギーが我々の本質であるという絶対的理解に達しますと、、、焦りが消えます、、個人という存在に全フォーカスができなくなります、、個人のみを特別扱いできなくなるのです、、、すると思考、感情、衝動の絶対量が減っていきます、、

この自分が居るという瞑想

我々が行っているのは自分が居るという瞑想に集中している

自分が居るという瞑想に集中した状態、、それが我々の瞑想活動です、、、自分が100%居るということを瞑想している、、、この瞑想が苦しいのですね、、、過去にあらゆる経験を重ねてしまったがゆえにあらゆる感情が自動反応で起きます、、例えば犬に噛まれた記憶はあれば、、犬を見るたびに怖いという感情が湧き起こります、この感情を感じたくないがゆえに思考が湧き上がるという自動反応が起きます、、、これによって思考していることにすら気づかない状態、気づきの意識が自分が居るに集中している状態になるのです。

感情が勝手に湧き上がり、思考が勝手に湧き上がる

何か行動が起きれば過去の記憶によってあらゆる感情が自動反応で湧き上がります、、この感情を避けるために思考がさらに湧き上がるという二人三脚が起きます、、、負のスパイラルです、、思考に無我が取り込まれ、思考を観察する存在(無我、気づきの意識)が思考に集中しきっている状態です。これが苦しい状態なのです。。全体が部分に集中しきっている状態、閉塞感を全開で感じることができる状態です。

閉塞感を全開で感じているのに

閉塞感を全開で感じる活動(瞑想)をしておいてこの苦しさをなんとか解決しようとしているのが我々です、、、ですから答えは自分活動、この瞑想を辞めてしまうことなのです、、今この場でこの瞑想を辞めてしまうということです、、何をしたらいいですか??今この場でこの人間活動、自分が居るという瞑想、活動を止めることなのです。これ以外に方法はありません。逆に言えば、、、この瞑想を今完全に終わらせてしまえば、、悟りに入ります、、気づきの意識が深まります。

自分を極める

他の誰かを目指さない

思考はあらゆることを言ってきます、、あの仕事に就けたあいつが羨ましい、あの顔に生まれたあいつが羨ましい、あの身長に生まれたあいつが羨ましい、、、と、、、こうして他人を羨むという思考がエンドレスに流れてきます、、、ですが本当は自分を極めるのが最も最速最短で幸福になれます、、、、自分を極める????自分はこれ以上の自分にはなれなかいから困っているんだけど。。。もっと能力を高めるってこと??違います、、自分の存在を知るだけです。

自分の存在ならば嫌なほど知っている

自分の存在なんて嫌になる程知っていますが、、、、違います、、、その自分はこの体の中に居ることになっている自分ですよね、、、違うんです、、これは偽りの自分です、、、、実態のない自分のことです、、、私が今話している自分とは、、、私が居るというこの紛れもない感覚の自分のことです、、、はっきりと今意識がありますね、、、これぞ自分でしょう、、、これはもう絶対に間違いない存在です、、、、この絶対に存在する存在、、、この存在はどこに居るのでしょう???体の中ですか、、違います、、その証拠はないでしょう、、、この全体の存在は、、いまここ全部に居るのです。

思考が渦巻いている時、、、

思考が渦巻いている時、、、この絶対なる存在の意識が、、、思考の中に閉じ込められます、、思考のオンパレードに絶対なる存在の意識の焦点が注がれ続けます。絶対なる存在が絶対なる存在ではなく思考に取り込まれ続けます、、、これが苦しいを湧き出します。ただこれだけです、、、思考に取り込まれることが無くなると、、、絶対なる存在は絶対なる存在として起きる全てを観察します、、これが静寂です、苦しみからの解放です。

自分をどう定義するかで自分以外(世界)が定義される

世界とは自分以外の定義である

本当の世界を知りたければ本当の自分を知ることです、、、自分が定義されると、、自分以外が定義されます、、これが見える世界(自分以外)になります。私たちは世界を見る前に、、、自分を定義し、自分以外を定義することで、、、定義された世界を見ているのです。分離解離した世界が目の前に広がっているのは定義された世界を見ているからです。自分をどう定義するかで、、自分以外(世界)が定義され続けているのです。

自分の再定義は、、世界の再定義

自分をどう定義するかで見える世界(自分以外)が定義され、、それに反映した世界を自分が今見つめています。自分という定義が変わってしまえば、、見える世界(自分以外)も定義が自動的に変わるため、、変わってしまいます。小さな子供は自分というものを定義していないので、、、見える世界も定義されていないのです、ワンネスに生きています。

自分が見える世界全てだった

本当の自分とは見える世界(森羅万象)そのものです、、自分以外と思っていた世界が自分なのです、、そしてこれを見てきたかつての自分の体も森羅万象の現れ、、です、全部ひっくるめて自分です、神です、気づきの意識です。自分の再定義が完成しますと、、、自動的に自分以外が再定義されます、、今回にあっては自分以外は無くなるという再定義です。全部が自分だったという再定義が完成します、、、すると見える世界が変わっていきます。

機能としての自分を生きる

自分とは機能

悟りを開いたから、、、この個人とは全く無縁に生きていく、、これは不可能です、、、名前としての自分、機能としての自分は存在します、、、この夢の中で。交通違反をして警察官に呼び止められているにも関わらず「自分は居ないから」と言って逃げれば捕まります。機能としての自分を果たしてしっかりと違反切符を切ってもらう方が楽です。つまり機能としての自分はしっかりと果たしていくことになるのです、夢の中で。

どんな機能を果たしたいですか???

思考が湧いてもただ全体から起こっただけ、行動が湧いてもただ全体から起こっただけ、、このように気づきの意識の立場で言動の観察を始めますと、、、空白の時間が増えていきます、、、、自称自分に全く邪魔されない時間が増えます、、、役割を果たす時間が増えていきます、機能としての自分を果たす時間が増えていくのです。その時に中から湧いてくる衝動こそが気づきの意識そのものの衝動、機能としての自分をいかに果たすかの衝動です。

全ては自分の捉え方次第

この個人絶対的に存在すると考えますと、、、思考の波に飲み込まれていきます、、、思考はこの個人の損得のために一日中フル活動しているのです、、、、これが個人で生きている人たちの苦しさなのです。全部の言動はただ全体から湧いている、、このような視点で言動を観察しますと、、、思考が湧いてこなくなります。。。思考は観察されると静かになるのです、、、その結果機能としての自分が果たす役割が増えていきます、、この状況は深刻さがなくただ楽しいが湧いてきます。

自分は今疲れている、、と気づきの意識が気づいた

全部が全部

全部が全部このパターンです、、気づいているのは全て気づきの意識です。私はコーヒーが嫌いだとう思考が湧くのを気づきの意識が気づいた、、、、私はりんごが好きだ、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づいた、、、、です。。。この自分は、、、どんな思考が湧いても、、、それに気づくことはできません。気付くののは全て気づきの意識です。

あの人は元気だなー、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づいた

人のことも全部コレです、、、、あの人っていっつも元気だよなー、、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づきました。あの人って性格悪いよなー、、、、という思考が湧くのを気づきの意識が気づきました、、、という感じ、、、そうです、、、全部気づきの意識の中で気づかれているのです、、、、この神羅万象は気づきの意識が気づくためのステージなのです。

だとしたら、、、目の前の体調が悪そうな老人の感情は??

目の前に老人が居て、、調子が悪そう、、、そのことに気づきの意識が気づいています、、、映像として、、、ですが老人の感情は分かりません、、、そうなると気づきの意識はそこは気づかないのか???そうです、、気づきはありません。。。。え???調子が悪そうに見えているだけで実際には老人に感情はないのか???はいありません、、あれば気づきの意識が気づきますよね。。。。

究極の諦めは気楽、、、

究極の諦めです、、、目に入る周囲の人々の感情は実在していない、、、芸能人が、、、TVで謝罪会見、、、ですが感情は実在していない????例えばVTRであれば当然、、映像のみですから、、見た瞬間には感情は湧いていませんよね、、、、ですがこれが生放送でも同じことです。。。これで他人のことを深刻に考えるのが不可能になりました。

なぜ自分を忘れることが出来る???

物事に集中する時、、自分を忘れる???

無我夢中になって仕事に取り組む、、、無我夢中になって時間を忘れて友達とお喋りを、、、、自分を忘れている時間って意外にあります、、、自分を忘れる????そんなことがなぜできるのでしょうか???車に乗っている際に、、、車を忘れて、、、右に曲がる、、、車を忘れて左に曲がり・、、車を忘れて自分だけブレーキを、、、できません、、、、車が存在するから車を忘れた行動などできない、、、、自分を忘れてお喋り、仕事ができるのは、、、自分が居ないからです。

私は〇〇です。

私は国会議員です、、私は東大卒です、、、私は父親です、、、私は会社員です。。。。全部肩書きです、、、それは名詞です、、、、自分を直接的に証明するものでは全くありません。。。自分とは実態がないものなのです、実態があるならば、、、データで出せるはずです。。。ない、、、そうです。。。自分とはどこまでいっても架空の存在なのです。

さあ、、、本当の自分を思い出す

自分が居ないならば、、、、この間違いなくある、、、在るという感覚は何だ??間違いなく存在する、、、この感覚は何だ????そうです、、、、存在そのものが在るのです、、、間違いなく、、、間違いないからこそ、、、この体に上手に取り込まれました、、、この体の中に存在が居るという錯覚が起きたのです、存在から。自分は居ないが、、、確実に在るという存在が在る、です。そしてこの存在の中で全てはただ起きています。在るという中で。