自分

友人からの裏切り、この時自分の中に何が?

自分の中で起こったことを精査する

例えば友人から裏切られたとしましょう。例えば彼氏を寝取られたと、、、この時自分の中からどのような感情が湧いてくるか、、、、前から怪しいと思っていた、彼氏を奪うとは本当にゲスな人だ、、幼少期に何か不幸があったのでは?これが一度では無いはず、、あの髪型も服装も全部男を誘惑するためのものだ、、逆に友人の彼氏を狙ってやろう、、、、まあこんな感じであらゆる思考、感情が湯水のように湧いてくるでしょう。この全てを自分は自分の体から湧いてきたと勘違いします。この思考、感情はこの体無くしては絶対に湧いてこない、だからこれらの思考、感情は私のモノだ。誰がこれを疑うことができるか?ということです。ですが実際は違います、これら全ては気づきの意識、全体から湧いてきています。それをあなたの体がキャッチしただけです。そしてさも自分がこの感情、思考は湧き出したのだと勘違いします。そしてそれを脳に記憶させます。

思考と感情をテーブルに出してください

もしも思考と感情が本当にあなたのモノならばそれを今すぐにこのテーブルの上に出してみてください。当然出ません、、、思考も感情もテーブルの上に載せれるような物質ではないからです。あえて言えばエネルギーです、そのエネルギーは体の中に物質として蓄積されるわけでもなくただ脳に記憶されます。このエネルギーを作り出したのは自分自身だというこの錯覚がこの人生劇場、自分劇場をエキサイティングなモノにします。ですが実際はこの思考、感情は気づきの意識、全体からただ湧いたのであってそれを自分が所有したと錯覚しただけです。

この自分ゲームをすると、、、

このメカニズムを理解することができても、、、これからも当然あらゆる感情、思考は湧いてきます。ですが一旦この事実を腹落ちすることができれば湧いてきた感情を自分のモノにするというコレがなくなります。この体(自分)と湧いてくる感情、思考を切り離すことができます。そしてこれからもこの体を使って活動すればまたあらゆる思考、感情が湧いてきます、ですがそれは自分のモノではありません。ただ気づきの思考、全体から湧いてきただけです。マリオのプレイ中に湧いてくるあらゆるプレイヤーの感情とマリオが一切関係ないように、実はこの体と湧いてくる思考、感情は何も関係がないのです。

全体験、全感情、全思考を自分のものにしていくマリオは固定観念が形成される

マリオの固定観念

マリオはゲームをスタートしてあらゆる敵キャラに出会います。ノコノコ、パタパタ、メット、ゲッソー、、、などなど、、、これらの敵と対戦していくことでマリオは独自の経験、湧いてくる感情、湧いてくる思考を自分のモノとして取り入れていきます。脳にある記憶機能でそれらを積み上げていくのです。ノコノコは軽い相手だかが階段で出会うと厄介、パタパタは上から降りてくる時が危険、ゲッソーさえいなければあの時クリアできたのに、、、とゲーム中の経験、感情、思考を全部まとめていきます。これが重なり合って一つの固定観念が形成されていきます。

人間の固定観念

人間の固定観念も全く同じ原理で形成されます。出会う人々によって様々な経験を積みそれを自分のモノにする、出会う人々によって経験がありそこからあらゆる感情が湧いてくる、そしてそれを自分のモノとする。出会う人々によってあらゆる思考が湧いてくる、そしてそれを自分のモノにする。経験、感情、思考の全てを自分のモノとする。これによって自身の固定観念、価値観が形成されます。この固定観念、価値観はそれゆえ人によって全く異なります。価値観が全く異なる人同士がコミュニケーションをするわけですから当然理解できない部分が発生します。

全く異なった固定観念によるトラブル

人間とは固定観念を所有する動物です。人間とは自身の経験、感情、思考を全て自分のモノとして蓄積していく動物です。それによって固定観念が形成されます。この固定観念はそれゆえ人によって全くことなるのです。この全く異なった固定観念を所有した者同士がコミュニケーションをとるわけですから常に分かり合えない部分が発生しそこがトラブルになります。世の中から人間関係のトラブルが決してなくならない理由とはここです。

固定観念自体が錯覚

話を最初に戻しますと、、、人間が独自に所有する経験、感情、思考、、、これらは実は人間のモノではありません。人間が何かしらの行動を起こすと経験、感情、思考が発生しますがこれらの全てはただ湧いてくるのであって決して人間のモノではないのです。マリオが動いた時の経験、湧いてくる思考、湧いてくる感情はプレイヤーから湧いたモノです。これをマリオが自分のモノと勘違います。人間も全く同じで動くと湧いてくる感情、思考は気づきの意識、全体、神から湧いたモノです。これを自分のモノとすることから錯覚が生まれ、固定観念が生まれるのです。固定観念とは大いなる勘違いから発生しています。固定観念の相違によるトラブルとは大いなる勘違い同士のトラブルでありだからこそ解決が難しいのです。

全体にとってこの自分は退屈すぎる、、

マリオがもしも敵と戦わなかったら、、、

もしもマリオが敵と戦わなえないゲームに変更されてしまったら、、、大変退屈なゲームになります。マリオが通る道を全キャラが素通りにしていってしなえば退屈極まりないゲームになります。なぜか?マリオには戦うという機能しか用意されていないからです。マリオは歌を歌うことも、スポーツをすることも、ビジネスをすることも何もできません、ただジャンプして走るという機能しか用意されていないのです。これは人間も同じです、全知全能の神がこの無知無能の人間ゲームをしています。もしも人間が何もしなかったら退屈なのです、神が、気づきの意識が、全体が、、、です。人間は活動してくれて初めて気づきの意識は安心します。

活動して活動して活動して、、、もうこの退屈脱却ゲームに辟易したら、、、

神、気づきの意識、全体がこの人間活動をするのは、、、何もしなければ退屈極まりないからです。人は何もしないと退屈という感情が湧きますが、、あれは確実に気づきの意識から湧いています。そしてそれを人間は自分のものにする、、、「あー退屈だ、、、」となるのです。何もしないと退屈が湧いてきますが、、、気づきの意識は、、ただ人間が何もしていない状態、、、マリオが何もゲームに参加しない状態が、、、耐えられません。人間にとってマリオが戦うしか能がないように、、、神にとって人間とは活動するしか能がないのです。ということで人間は今日も活動します。ですがもしもこの活動地獄に辟易したら、、、ゲームのネタバレを探求するゾーンに興味がでてきます。自己実現からの自己超越です。

今日も私は自己超越活動をする

神は人間を作りましたが人間は神に比べ無知無能ゆえに何もしないでいると退屈になっていきます。そこで人間に活動をさせます、人間は食べたり飲んだり寝なくては生きていけないように設定されているのはそのためです、もしも人間が太陽光を吸収でき何も食べず、寝ず、飲まずに生きていけたならば何もしないでしょう。この状態は神にとって退屈極まりない状態なのです。このブログを書いている私は、毎日ブログを書くということをすることで活動しています。活動していると神が満足しているのが分かります。何もしていないと神は退屈になり退屈という感情が湧いてきます、それをこの私は感じ取り自分のものにすると、、退屈だなーという言葉が湧いてきます。

時に敵を作って自分を維持する

この体の中に自分が居るというリアリティーを出すには敵の存在が一番

誰もこの体に話しかけてくれなければこの体の中に自分が居るという錯覚を維持しにくくなります。そのためこの体はあえて環境に敵を作ってその敵にこの体を攻撃させることで体の中に自分が居るという錯覚を強化させます。敵を使って悪口をこの体に言わせます、敵を使ってこの体に残業をさせます、敵を使ってこの体にパワハラをさせます、敵を使ってこの体にセクハラをさせます、、、そうすると被害者になれるので、、、私はなんて不運なんだ、私はなんて残酷な状況に居るんだ、、私だけがなぜこんな酷い目に、、、、と体の中の自分劇場に入り込めるのです。ですが本当はただ体がそのような経験をしただけでそれを経験しているのは気づきの意識です。

時に恋愛をしてこの体の中に自分が居ると信じ込む

恋愛はこの体の中に自分が居るという錯覚を起こすのに最適です。私のことを彼が好きでいてくれる、私のことを彼が一生の伴侶と認めてくれた、私のことを彼が誰よりも大切に思ってくれた、、、、これでこの体の中に自分が居るという錯覚を強化できます。ですが実際は彼がこの体に向けたメッセージ、態度です、そしてそれを気づきの意識が経験します。

時に映画にハマってこの体の中に自分が居ると信じ込む

映画の登場人物はほぼ全員、この体の中に自分が居ると信じ込む仲間です。ですからこの私、この体の中の私は映画を観るとホッとします。私と同じようにみんな悩み苦しみ生きている、この体の中にしっかりと居続けることは大変なんだと錯覚を起こせるからです。TV番組を観てもほぼ全員のキャストが体の中に自分が居るという大前提でトーク番組が展開されていきます。もしもこの体の中には自分が居ませんよと話すタレントが現れたならば翌週からそのタレントを見ることはないでしょう。

五感からの自分錯覚を見破る

食事を食べる

牛丼を食べます、視覚に牛丼が見えます、これを体は自分が見ていると錯覚します。ですが気づきの意識が見ています。お箸を手に取ります、お箸の感触を感じます。これを体は自分の体験として捉えます。ですが実際は気づきの意識がこれを経験しています。お箸が牛丼を掴み口に入れます、舌が牛丼に触れます、これを体は自分が感じていると錯覚します、ですがこれは気づきの意識が経験しています。鼻が牛丼の香りをキャッチしました、これも気づきの意識が経験しています。五感は常にこれを感じているのは体の中の自分であると錯覚を起こしたがります。ですが全部気づきの意識が経験しています。

マリオがクッパと戦う

マリオの前にクッパが登場しました、恐怖心が湧いてきます、これをマリオは自分から恐怖心が湧いてきたと錯覚します。実はプレイヤーが恐怖心を感じています。マリオはクッパがジャンプしているのを見ます、マリオは自分がその事実を見ていると感じます、ですがこれはプレーヤーマリオがクッパのジャンプを見ているのを見ています。クッパがマリオに襲いかかってきました、クッパの攻撃をマリオが受けます、、この時マリオは自分が攻撃を受けたと錯覚します、ですが本当はプレイヤーがマリオが攻撃を受けた経験をしています。マリオが経験していることは全部その外に居るプレイヤーが経験しているのであってマリオの中の自分錯覚ではありません。

感じているのを中とするか、外とするか

マリオの中でスーパーマリオを感じているとするのも自由、マリオの外に経験者が居るとするのも自由です。マリオの中に自分が居るとなると深刻さが増し、マリオの外に自分が居るとなると深刻さが薄くなります、というよりも深刻になれない。この人間ゲームも全く同じ、この体の中に自分が居るとするか体とは全く関係ない気づきの意識がただ経験しているかで深刻さが変わってきます。

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。

愛そのものが本質だから自分は愛されたいと願う

本質は愛

我々の本質は愛です。この愛は対象を必要としない愛です。ですから人間社会で使われている愛とは意味が違います。とはいえ人間、自分は愛されることを強く願います。本当に自分は愛されているのか?という思いを強く持ちます。これこそが我々の本質が愛そのものであった証拠です。自分という全体から分離した存在は愛から分離した存在でもあります。ですからこの分離意識を持った瞬間から愛を追い求めるのです、故郷(愛)を追い求める旅に出るのです。その最もシンプルな形が愛されたいという欲求です。

この二元世界での愛は条件付き

本質は愛そのものであるから自分は愛に飢えます、愛を渇望します。ですがこの二元世界での愛は対象に向ける愛であってこれは本当の愛ではありません。あなたが愛してくれるならば私も愛します、愛しているならば証拠を見せて欲しい、、愛というものが交換条件に使われてしまうのです。本当の愛とは取引を必要としない愛のことです。取引を必要とする愛は偽りの愛です。この自分劇場の世界においては本当の愛は存在しません。

母親が自分を忘れて子育てに没頭する時、愛だけがある

母親が自分を忘れて子育てに没頭する、子供の食事、着替え、眠り、、、この時母親は人間ではなく愛そのものになっています。自分という存在が消え去り愛がそこにあります。見返りを必要としない愛そのものに触れた子供は自身の本質をそこから思い出すのです。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。

「自分=全体」も正確には間違い

自分という感覚は分離したからこそ芽生えた感覚

自分がない時、全体だけがあります。本当に美味しい物を口にした時自分を忘れます、、その時に全体としての自分を感じません。ただ歓喜だけがあります。存在を自覚する自分はそこには居ません。かなり高度なレベルの話になってきました。本当に良い音楽に聞き入る時、自分を忘れます。その時歓喜、幸福だけがあります。これを感じる自分が居なくなります。自分が全体に戻った時にはそれを自覚する存在が居なくなるのです。本当に面白い映画に魅入る時自分を忘れます、その時楽しいだけがあります、、、それを自覚する何かは存在しません。この映画を楽しんでいる「自分」を自覚する時、その映画を楽しんでいません。ナルシストがどこまで行っても薄っぺらいのは常に自分を手放せないからです。

自分は神である、、、間違い

本当に全体に戻っている時、、、私、自分という感覚はなくなります。ですから私は神、私は全体という感覚はないです。私はワンネスもないです。書道にのめり込み書と完全に一体になっている達人は私は全体、神だ、、、などという感覚を持っていません。何もない、、、、ただ認識だけがあります。私は神である、私は全体である。。。これは主体客体の世界、、、二元の世界の感覚なのです。これは非二元、ノンデュアリティーのメッセージです。主語があってその主語が何かを認識する世界は分離の世界です。この体の中に自分が居るという世界と変わりません。

フルマラソンを走り終えて、、、

人はフルマラソンを走り終えた時に、、、自分は安堵している、、自分がやり切った、、、自分はほっとしている、、、という感覚を持てません、、、、本当の安堵、本当の安心だけがあります。自分のことなど一瞬で忘れます。本当の安堵、安心とは自分が居なくなった時に訪れるのです。だからこそ自分は本当の安堵、、などという感覚はありません。フルマラソンを毎年のようにチャレンジする人は、、実はこの感覚を得たくて走っています。自分というものを完璧に忘れ去った時の安堵、安心、歓喜が忘れられなくなって走ります。なんという皮肉でしょう。完全なジョークです。

「実は自分が居ない」という絶望的なメッセージ

悟り、ノンデュアリティーが陽の目を見ない理由

悟りもノンデュアリティーも陽の目を見ることがないメッセージです。実は自分が居ない、、などというメッセージは気が狂ったメッセージであり危険極まりない内容です。自分が居ないなどと病院で話せば、、即入院患者リスト入りです。二度とそこから退院できることはないでしょう。ですが自分がこの体の中に居るという人間の共通認識はどこまで行っても科学的に証明できません、医学的にも証明できません。99.99999%の人々がこの体の中に自分は居ると思い込んでいるからこそこれが既成事実になっていうのです。

朝から晩まで狂ったように忙しい日には自分が居ることを忘れている

この体の中に自分が居るなんて当たり前ではないか?そのように考える人の、、、絶望的に忙しい日にはおそらく自分の存在を忘れているはずです。自分のことを忘れている時が確実にあるということは自分がこの体に居るということを放棄しています。そしてそれでも全く問題なく生活できています。自分がこの体の中に居るという感覚がなくても何も問題なく上手く生活は回るのです。これはどういうことでしょう。覚者が「この体の中に自分は居ない」と気づいた後も普通に生活をし仕事をできるのはこのためです。

むしろ自分の存在を忘れてしまっている人の方が上手くいく

辛い仕事というのはその仕事に集中できない仕事のことです。その仕事をしているとあらゆる雑念が湧いてきてなぜ私がこの仕事をしなくてはいけないのか?と考えてしまう仕事こそ辛い仕事です。楽しい仕事とは仕事に熱中できて自分の存在を忘れてしまうような仕事です。これを天職と呼びます。自分の存在を忘れれるような恋愛、仕事、遊びこそが楽しい、、これは誰でも知っている事実です。