空即是色

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。

インナーボディー

感じるということ

エックハルトは著書の中でインナーボディーの覚醒の重要性を説いています、、、体はマッサージなどをすると感じます、気持ちが良い、、と。。この感覚、、この感覚を感じているのが神です、、、神が感覚を経験しています、、、つまり体の感覚に沿ってマッサージをしている期間、、神がそれを感じています、、だから見かけ上の私はマッサージを好みます、、、

美味しいという感覚

何かを食べて美味しいという感覚を覚えます、、この感覚は神が感じています、、、見かけ上のこの私ではありません、神です、感じているのは、、、だから人は大金を払ってでも美味しい料理を食べるのです、、その瞬間神になっているのです、、、感じるのは全て神です、、、美味しいお水、美味しいご飯、美味しいお酒、、全部神が感じています。

感じるを意識する

体の感覚を良くして行きますと、、、この体は中からエネルギーを作り出します、、空から直接エネルギーが注がれてきます、、、空即是色の場になります、、この体が、、エネルギーが溢れ、、何もしていないのに、、何の目的もなくてもやる気が溢れてきます、、、

「在る」という感覚はどこから湧くのか?

空、絶対から

この世界で確実に存在する「在る」という絶対感覚、、この感覚は何をしていても存在します、、この現象の回の全ての動きに気づく存在「在る」という感覚です、、ではこの感覚はどこから生まれたのでしょうか。。この感覚こそが、、空、絶対という場所から生まれました、、「在る」という感覚を生み出す存在がある、、このことでしか空、絶対を感じることはできません。この空、絶対を感じることこそが究極の感覚、色即是空を感じることになります。

「在る」を生み出す存在としての自覚

空という絶対の場所、全てはここからスタートします、、ビッグバンを生み出した根源、この根源に我々の滑っては在ります、、、この場所に感覚を覚えることは最終段階、究極です。。空即是色を感じれる段階です。色即是空は、、この在るという存在を自覚することから気づきが起きます、在るが全部を起こし、それに気づいている、、、、その「在る」を生み出す存在、、「空」「絶対」という場所、、

これが分かったから何なんだ??

この質問が出ている時点で分かっていないんです、、ここに気づくのは絶対幸福、至福、静寂に気づくということ、、もう何も求めないということ、、、我々が現実の世界で探し求めていたのは全部これらの代替品であったという気づきが起きます。万物を生み出す存在が本当の私ならば、、この物理世界であらゆる種類の幸福を探すのは当たり前。この気づきが起きます、、、

形のある世界を感じる

形のある世界を感じるには、、

我々は形のある世界にいてその変化を今も感じていますが、、これは形がない世界があるからこそです。形のない世界があるからこそ形のある世界の変化に気づくことができているのです。もしも形のある世界しかなければ形のある世界に気づくことができません、、形のない世界があるからこそ今形のある世界に気づけているのです。空即是色です。その一方で形がある世界がなければ形のない世界に気づくこともできません、形のない世界しかなければ形のない世界に気づけないからです。。つまり形がある世界あることで形のない世界が誕生するのです、、色即是空です。

現象の動き(色)に気づくには、、動かない存在(空)が必要

動き続ける現象界を感じる

鏡を見てください、、、もしも鏡の中の映像が動けば気づきますよね、、それは鏡を見つめる動かない存在がいるからです。これと同じでこの現象界の移り変わりに気づくには、、移り変わらない存在が必要になるのです。そうです、、そして我々は日々この移り変わる現象に気づき続けています、、そうです、、、色を生み出す空なのです。

スクリーンは真っ白だから映像に気づく

スクリーンは真っ白だからこそ、、、スクリーン上の映像に気づくことができます、、、空とはスクリーンのこと、そしてそこに映る映像こそが色、現象界です。この現象界を「私」が見ているというのは完全な錯覚、、そうではなく空としてこの色の動きを感じているのです。朝起きて何が起きるのか、、空即是色がスタートします、、、この体も現象、この体が何かを見ているというのも現象です、、全てを包み込む空があります。

マインドはただ否定する

マインドはこれを否定します、、、マインドはこの体を所有する「私」がこの現象の世界を五感を使って生きていると真剣に信じています、、、ですがそれはないのです、、そう思い込む思考がただ全体、空から現象として(色)起きるのです。そうです、このマインド主体のドラマも色としてしっかりと起きているのです、空から。これが良いとか悪いとかは一切なく、、ただその現象が起きていま。

この体がマリオだと思って生活する

マリオだと一日中感じて生活する

この体はマリオ同様3D映像です、五感で感じる蜃気楼です、空からの現象です。つまり空洞、幻影、ゼロ、空即是色です。ですから今日を1日この体をマリオだと思って生活します。そして周囲もマリオゲーム同様3D映像、幻影、空からの現象(色)です。マリオゲームですから歩いても本来周囲の画像が切り替わっているだけでマリオの位置は変わりません。マリオは土の感覚、階段の感覚、アスファルトの感覚を感じますがこれはあくまで感じるのみ踏み込む対象は全て3D映像です。

話しかけれられてもマリオとして対応する

話しかけられることもあるでしょう、その際にはマリオに成り済まし対応します。こちらからマリオとして話しかけても良いかもしれません。マリオになり切らない限り怒りや、憎しみ、嫉妬の感情は湧いてこないでしょう。マリオになり切らない限りそこに映る現象(人)と本気で仲良くしたいなど思わないはずです。つまり人間関係(映像関係)は軽いのです。深刻になれません。

マリオは腹が減るのだから働かなくては、、

問題なのはこのマリオは腹も減るし、光熱費も払わなくてはなりませんから、、まあまあ面倒なわけです。ということで働かなくてはならないでしょう、ですがマリオの名誉のために働く、マリオの名声のために働く、マリオの評価を上げるために働く、マリオの女受けを良くするために働くといった衝動は到底湧いてきません。なぜならばマリオはただの3D映像です。そういう意味ではかなり気楽でしょう。

マリオから出てくる欲求が少なくなっていく

この体をマリオだと思って生活していくとなぜか欲求が減っていくのが分かります、なぜか孤独感が少なくなっていくのが分かります、なぜか不足感が少なくなっていくのが分かります。これぞマリオマジック、悟りマジックです。この世界のカラクリが見えてきて同時に苦しさが無くなっていくのです。なぜならばこのマリオが実在しているという本気の思い込みこそが「苦しみ」の根源だからです。逆に言えばこのマリオゲームではマリオが実在しているという思い込みからくる「苦しさ」を脱してしまったらもう負の感情は湧きようがありません。それしかないのです。

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

経験以外全部嘘

お酒を飲んでいる時

俺はバーでお酒を飲んでいて、、酔っ払って良い気持ちになった、この状況において本当に起こったことは何か???これを五感で説明するとこうなります。俺の体は映像です、俺の体という映像が、、やはりバーという映像の中に入っていき、そのバーと呼ばれる映像の中で、、椅子と呼ばれる映像の上に座り、、その時にお尻の映像の部分に感触がしかっりと確認し、、ウイスキーと呼ばれる液体が入ったグラスを映像で確認する、、その映像グラスをやはり映像の手で触れたところ間違いなく感触があり、、口と呼ばれる映像の中に流し込んだところ、、口の中に感触が確実に在った、そして何かが香ったという経験があり、、、その後に気持ち良いを感じた、、五感を通じた経験が次々に起こり続けていきます。ですが物理空間で物質が在ったということを証明する経験は皆無です。経験以外は何も証明できないのです。バーという場所も、ウイスキーも、グラスも、椅子も実在することは証明できません。

経験は間違いなく在る

自分もバーも、ウイスキーの存在も全く証明できませんが、、、経験は間違いなく証明できます、、そこに嘘はありません。この世界は経験は確実に証明できますが、、物質は全く証明できない世界なのです。覚者がいう「何も無かった」はこのことであり「全部自分(経験)だった」もこのことです。この経験とは誰のものでしょうか、、、自分という物質を証明できない以上、、経験だけがあった、、で終わりです。すると経験=根源ということになります。ですが経験は物質ではありませんから「経験=根源=無」です。空即是色の色で在るこの世界は経験だけがある世界だった、、、だから空(無)でもある。色の中で空を感じることになります。

色(現実)の中で色々やっていたが結局経験しかなかった

色の世界は現象界の世界、、あらゆる物が溢れた世界です。この世界で自分(物質)がこれらの物質に囲まれ人生を謳歌するのがこの人生、、、ですがどうやら経験以外何もない、、物質が実在していない、、、無だった、、、経験は確実に在るがこれを寄せ集めても無は無です。色は所詮幻想で色の中で経験だけをしていたんだ、、というよりも経験だけが在った、、、色即是空、空即是色

全てを自分ごとにする癖

全ては自分に向かって起きている

事実ではこの自分という存在とは何も関係なく現象が起き続けるだけです。自分など何も関係なく現象が起き続けそしてこの自分の体を通じても様々な事象が起き続けます。これを止めることができる存在は居なくただ淡々と事象が起き続けるのです。本当にただこれだけです、風が吹き、太陽が周り、雨が降る、この体も動き、発言もし、思考もする、、これが延々と起き続けています。そこに自分が居るという思考が湧き起こると事象は自分に向かって起きているという思考もまた起きるのです。

今までも自分とは何も関係なく起き続けこれからも起き続ける

これまでの自分人生もこの自分とは何も関係なくあらゆる事件が起き続けました、そしてこれからも同じように起き続けます。その事象を自分に向かって起きていると捉えるが起きるのか、自分など存在せずただ起き続けると捉えるかによって人生の重みが変わってきます。自分に起きたが湧くのか、ただ起きたが湧くのかです。事象に名前というラベルが貼られているこを見抜くと自分というラベルも剥がれ落ちていきます。

自分以外のラベル剥がし

自分というラベルを剥がすのは難しいものです、ですが周囲のラベルを剥がすのは意外と簡単まずはそこからスタートしましょう。雲という決まった物質は存在せず空に薄く広がった白い模様を雲と呼んでいるだけ、川という決まった物質は存在せず陸の間を流れる水を川と呼んでいるだけ、海という特定の物質があるのではなく水が広がる彼方を海と呼んでいるだけ、、、名前が付けられた事象は実は区切りなどなく、、こちらの勝手で区切りらしきものを設け呼んでいるだけ、、この作業を延々と続けそこに自分を付け加えたのが我が人生。

ただ生命現象が広がっている

これまでもそしてこれからも私の目の前にはただ生命現象が広がっていきます。名前というラベルを剥がしてしまえばたった一つの根源が移ろっているだけです。そしてそこに自分という個別の生命体など居るはずがない、、自分というラベルを最後に剥がすと全てになります。色即是空、空即是色があるだけです。こんなことが分かって何になるのか?その疑問が湧くうちは分かっていないだけです。

色即是空、空即是色

先ずは空の理解が起きる

先ずは空の理解が起きます。普通に生きている我々は空の存在など、本当の自分の存在など全く興味なく生きています。目にする全てが新しく、目にする全てが輝いている、、この色の世界でただできる限り楽しく生きることだけを考えて生きていくようになります。ですが途中でどうも雲行きが怪しい、、どうも苦しいことが多い、、、こんな人生を今後も生きていき何か意味があるのだろうか?そのような疑問を持ち始める人が現れます。そしてその人はいつの日か実はこの世は幻想で(色)本当は空が本物であるという悟りに入るのです。

次に色の世界の再確認

この世は実は空の現れに過ぎない、、この気づきを得た人は、、実は私の存在すらも幻想で私が居るように感じているだけだという悟りを開きます。実は私も私以外もあった一つのエネルギーでできていて、ただ在るだけ。この気づきが起きます。ですがたった一つのエネルギーの様々な表現があるだけという世界は虚無でもあるわけです。ではこの私と感じるこの体、思考、感情は一体これから何をするのか?という話です。

空からの衝動

そこは心配はご無用です、私の本質を本当に理解し始めますと、、元私のもとに全体、本当の私からの衝動が起こるようになってきます。興味は湧くテーマが次々に湧いてきます、そしてそれをやるための恐怖心というのが全く湧いてこないのです。ただやりたいだけ、だからやろうが延々と続きます。自己超越状態の行動だけが続くのです。そこには駆け引きも腹のさぐり合いも無い、、ただ本当の自分からの衝動だけがあります。そしてそれを実行に移すとき、色の世界のこれまでの知識が非常に役に立つ、まるで王に使える最強の戦士のように思考がフル回転するのです。