私=探求

私とは探求のこと

私とは探求です、というよりも探求するために作られたのがこの私です。私とは神が勘違いしてこの体、思考、感情を「自分」だと認識する存在です。神の意識がこの体、思考、感情にフォーカスされきった状態こそこの私です。故にこの私を支えているのは神の勘違いでありだからこそ常に違和感を感じ続けることになります。この私が居るというこの認識こそが不快感を生み出し私はこの不快感を解消すべく探求し続けることになります。

探求は悪くない

私とは探求ですから探求は決して悪くありません。ですがこの探求を続けている限り「私」は存在し続けますからこの違和感は消えないということになります。私は常に探求し、その探求が私を存続させ続けるというメカニズムに入り込んでいきます。けれどこの探求を継続させ続けていきますと、、徐々にこの探求には終わりがないことを知ります、肌感覚で理解できてきます。そこで私はこの探求の旅を終え、なぜ私は探求してきたのか?という疑問の解消にシフトするのです。

私はこのエネルギー全体、神、ワンネス

この私が探求するという旅には終わりがないことを薄々ながら理解できてきた私は、、この探求の根本解決に乗り出します。そもそも探求で答えが出ないならば、、私にはこの解決は不可能ということになります。そうしますと「悟り」系と言われる書籍にすがるしかない、、、「私が居ない」という身も蓋もないメッセージにすがる以外に解決がないことを悟ります。

皆は分離の世界を生き、私は非二元を生きる

ただし非二元を生きる「今までの私」はいない

街を歩けば多くの人が「自分」が先ずそこに確実に居てその自分がこの分離の世界を確実に生きています。自分という体、思考、感情の寄せ集めである存在を生きながら他の人々の中で生きています。全員がこの「自分」に確信を持ち、名前がついた分離した物、人の存在にも確信を持ちながら生きています。これが幻想の中に住んでいると言われる所以です。ですが本当はこの自分も、、あの人も、この人も全て勘違い存在物であって実は何もにというのが真実です。真実とは何もない、、これだけです。何かが起きて、誰それがいて、、、全部後付けの空想劇です。私も他人にも実は境界線は皆無で境界線があると信じ込む後付けの存在達がいるだけです。実は何も起きていないのです、今目の前に広がる世界には実は何も起きていないのです、信じられない話です。自分にもその他にも名前を付け合って何かが起きているということにしているだけです。

非二元のみ

非二元のみがあるだけです、これがあるだけです。そこに名前が後付けで付けられ何かがあるように何かが起こったかのように表現する後付けの「私」がいるだけです。我々が見ているこの世界は名前が付けられた世界だというだけであり名前がついているから何かが起こっているように感じることができているだけです。このあり得ない解釈、解釈も後付けですが、、、この真実に気づいた人は唖然とします。この真実に気づいた人はこれを他の人に伝えたいと思うかも知れませんが思わない可能性も高いです。なぜならば伝えたいその人は後付けだからです。つまり誰もいないということが分かってしまうからです。

ピカソの絵をパズルのようにバラバラにしてみたらそれが動いているように見えた

もしもピカソの絵が流動的な物体であったとしてその各部分に名前を付けてみたとしましょう。そうすると毎秒、毎分ごとにそれが動く、、、元々何も存在せずただ動く絵があっただけだったのがその中の名称がついた物たちが毎秒ごとに動くように見えるようになります。そしてその動きの中でトラブルや衝突が起こることもあれば吸収や合体が起こることもあるでしょう。これらのドラマは名前が付いたから起きたのです、名前を付けなければドラマなど起きようがないのです。あるのが絵の中の動きだけです。これに気づくことを「悟り」と呼びます。悟りとはなんてことはない、、人間の活動の根源を明かしただけです。

宇宙が行う能力は実は私のモノ

自然治癒力は自分の力

なぜこの私は強い者に惹かれるのか?強いボクサー、強いアスリート、強い政治家、強い実業家、、、とにかくこの私は強い存在に憧れます。それはそもそもこの私とは全宇宙でありこの世の全ての力だからです。自然治癒力、血液を回す動き、消化から排泄、とこの体の中で行われる全ては自分の力でありさらに太陽、地球の自転、公転、大気の流れ全てを動かす力こそが自分です。だからこそ人間という自覚を持ちながらもあらゆる強さに憧れるのです。

この私が行うことは自覚できているだけ

この私が行うこと、例えばこのブログを書き、読書をし、仕事をし、会計をし、生活を回す、、、このことを自分の力であると我々は思っています。ですがこれは自由意志が及ぶ範囲のことを示しています。本当はこの自由意志が及ばない全ての行為が自分の行為です、その中のごく一部、自由意志が働く分野のみを自分の力であると錯覚するのがこの人間です。だからこそ違和感を感じ力強い者に憧れを抱き続けるのです。本当はそうではなく宇宙が行う全行動、全能力こそが自分の力です。この体が行う、しかも自由意志の範囲で行う行為はその極々一部ということになります。しかしこれも私の能力の一部です。

何を達成しても満足できない理由

過去のオリンピック金メダリスト受賞者の中でも自殺者が居るかもしれません、、、金メダルを受賞するぐらいの達成をしても満足できないのがこの人間です。なぜかと言えば金メダルを受賞する以上のこと、この地球を自転させる、公転させる、気温を保つ、海流を動かす、万物の全行為を動かしている存在こそが自分でありだからこそ金メダルを獲得するぐらいでは満足できるわけがないのです。万物を動かす存在がこの体、心を自分であると意識することがこの人間活動です。人間として幸福になる、人間として安定する、人間として歓喜を味わう、、これらが全て刹那的、一時的、短絡的なのはそもそも自分が人間でないからです。

この私も目の前に居る友人も同じエネルギーで出来ている

全く同じモノで出来ていてなぜ違いが出るのか?

この世を構成している物質は全て神エネルギーです、そうなるとなぜ違って見えるのか?ということになりますがこれは水蒸気、水、氷で理解出来ます。この三つを構成するん分子はH2Oです。この分子の状態、振動数が異なるだけでこの世では全く違う形状に見えるのです。振動数が違えば全部バラバラに見えてしまうそれだけです。物理学者はこの分子を解剖していくと全部同じモノで構築されていることを知ります。そうするとこの世に見えてい全部は分離していないことを認めざるを得なくなるのです。では人間にはこの世界が分離しているように見えるのか?人間の体こそ世界を分離して感じることができる機械、マシーンだからです。五感が振動数の違いをキャッチして分離しているように見え、聞こえ、匂え、味わえる「振動数違い分離勘違いマシーン」です。

人間だけがこの体、他の動植物を分離して見れる

最重要な説明をしていきます。人間は五感が発達していてこの世(神エネルギー)の振動数、回転数の違いをはっきりと認知することができます。これによってこの世を究極のレベルまで分離して見ることができます、さらにその震度数の違う塊に名前を付けて整理していきます。この整理方法を世界中の人々で共有するというところまで進化を重ねていきました。これによりこの自分は間違いなく独立していて他の生命現象も独立しているという大いなる勘違いをして見せたのです。ですが本当は人間のこの五感能力がそのように振動数の違いを分解整理しているだけなのです。だから覚者は目覚め「何も無かった」と宣います。自分もこの世も分離しているように感じていただけだったとなるのです。

赤ちゃんはこれを知っている

赤ちゃんはこのことを知っています。実は何も分離していないことを、、人間がなんとかこれを強引に分離整理して生きていることを知っています。何も分離していない世界で分離しているという強引な理論で必死に生きている動物、それが人間です。「自分も世界も分離しているに決まっている、なぜならばそう感じるから」このガンコ親父のような屁理屈を必死に死守する民族こそ人間です。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

もしも記憶がなければ私の人生はない

もしもあなたに記憶がなかったら

人間は実は大きな勘違いをしています、もしもあなたに記憶する力が無かったら自分の人生というのは存在しません。昨日の自分も、一昨日の自分も、自身の親も、自身の友人も存在しません。なぜならばこれらの存在は全部記憶が作り出しているからです。記憶があるからそれを友人、自分、親と認識するのであって全部記憶に頼っています。ということは記憶力がない動物、昆虫には自分の人生がありません。???つまり自分の人生というものを歩んでいるのは人間だけということになります。世界中の全ての生命体の中で自分の人生を生きているのは人間だけです。自分のことを蔑ろししやがって、自分のことを軽く扱いやがって、、自分の人生には希望がない、、、このように悩んでいるのは人間だけです。

記憶力が人間に発達してから人生が生まれた

元々人間は自分人生を生きていたのではありません、記憶力というのが身についてから自分人生が始まりました。混乱してきますね。人生があるのが当たり前だと全人類が考えていると思いますがそれが事実ではありません。人生とは記憶力がある生命の遊びなのです。自分というこの分離した感覚を所有し続けるには記憶力が必要になりますし、、それを維持し続けることで映画のフィルムのように人生劇場を記憶し続け人生が成り立つのです。

人生が苦しいから人生は無しにしよう、、ではない

この人生が作りモノならば明日から人生を歩むのをやめよう、、、そう思ってもまた明日からも人生は続きます。なぜならば昨日の自分の記憶がガッツリあるからです。そうではなくこの自分人生、自分劇場がどう形成されているかを理解することです。そうすると重さが少し抜けます、こうしなくては、、、ああしなくては、、という重さが半減していきます。人生という確固たる事実はなく、、人生とは人間の記憶力が作り出していると腹落ちすると深刻さが減ります。人間を深刻にしている原因とは、、、この人生が本当に存在しているという錯覚です。

神が作ったこの夢の中で主人公(私)は他の登場人物の心配不要

スライムの心配をする勇者はいない

ドラゴンクエストで昨日退治したスライムを心配するプレイヤーはいません。マリオカートで二位に蹴落としてしまったクッパを心配をするプレイヤーはいません。ポケモンで退治したモンスターを思いやるプレイヤーはいません。もう分かりましたよね、この夢物語、現実社会で主人公である私が攻撃してしまったので相手のことを何ヶ月も心配する必要は一切ないのです。残念ながら主人公以外に自由意志や隠れた感情はありません。とてつもなく傷ついたと言ってきたとしてもそれはそいう表現が生まれただけです。クッパが本当に傷ついたとマリオにゲームで伝えてきてもその状況は事実でも本当ではありません、ゲーム上そうなっただけです。ですから我々は他人の心配は今後一切する必要がありません。そんなことよりも私のこの不足感、欠乏感、孤独感を埋めることだけを考えればいいのです。

スライムは悪意があって勇者を攻撃したのではない

逆に言えばあなたがどんなに酷い扱いを他人から受けたとしてもそれはあくまで夢、ゲームの中であってそこに悪意はありません。信じられないかもしれませんがゲームと同じですからそうなります。勿論その相手に真意を尋ね、なぜこのような扱いをしたのか?と聞き倒せば何かしらの感情を吐露するでしょう、相手は。ですがこれもゲーム上そう言っているだけであってそこには実は何もないのです、夢ですから。多くの方はなぜ?このような扱いを?なぜあいつはこんな性格なのか?なぜ?と三日三晩考えてしまうかもしれませんがそれはスライムに攻撃した理由を聞き続けるのと同じぐらい愚かなことです。

スライムが嫌いならば遠ざけるそれだけ

勘違いをしてはいけないのはだからと言って他人からの攻撃を無抵抗で受けろということでは断じてありません。ガンガン抵抗しやり返せばいいのです。重要なことは相手のその攻撃に理由がないということです、これは夢です。夢での行動に理由はないのです。夢の創造主が勝手にそうしただけです。人間のような高度な頭脳を持った存在であって相手はスライムではない、、このように思う人もいるかもしれません。ですがこれは神が作った夢です、神のコントロールなしにこの夢が進展するはずがないのです。神の許可なく動ける登場人物はいません。

神は人間に成り切ってはいるが「私はある」というこの感覚は神の感覚でしかない

今ここに「居る」という感覚は神の感覚

これは神夢です、神が創造した夢です。人間を主人公(私)にしてこの夢を創造しました。神は人間に成り切ることでこの夢はスタートしていますがでは神感覚と人間の感覚はどのように区別すればいいのでしょうか?区別はできません、なぜならば人間も神の創造物だからです。思考が湧き、感情が湧き、五感を感じているのは全て人間扮する神です。神が今この瞬間も自身を人間と勘違いしながらこの夢、ゲームを堪能しているのです。

この世に苦しめる神など存在するのか?

この人間活動を認識しているのは神ですから苦しみも切なさも、息苦しさも、孤独感も神が感じています。人間のフリをして。神以外が認識することはできません、人間とは姿形の生命現象であってこれは独立したものではありません。神がこの夢の中を活動するための仮の姿です。マリオに感情はありません、マリオを使ってゲームをクリアした時に喜んでいるのはプレーヤーです。これはこの夢物語でも同じです。マリオを使ってに喜怒哀楽は全部プレーヤーが感じているのであってマリオではありません。マリオの使い勝手の悪さも、マリオのジャンプ力の低さに対する苛立ちも、マリオが横にしか動けないもどかしさも全部プレーヤーが感じています。

人間としての孤独感は、一番の勘違い

人間活動の最も大きな要素は孤独感をいかに感じないようにするか?これをクリアするために朝から晩まで我々は人と触れ合い続けています。どんなに人間関係が苦しくてしんどくても我々は人間を求めます。神が作ったこの夢で主人公はこの私ですがそれ以外は全部神が作った脇役です。主人公とは全くの別物、別次元です。ですからこの夢の中で多くの友人、知人、家族に囲まれてもこの孤独感が埋まることはないのです。神が扮するこの主人公(私)が実は神であったと気づくまでこの孤独感は続きます。