目の前の全体は本当に全体なのか???

九州で土砂災害が、、、

毎日ニュースを騒がす様々なニュースは本当に起きているのでしょうか????答えは起きていません。あなたの目の前以外で何かが起きるのは不可能なのです。事象というのはあなたの五感無くして起きようがないのです。ですから全てのネットニュースは見なくて大丈夫です。なぜならば何も起きていないからです、あなたの目の前以外では。これは物理学です、あなたの五感がなければ何かが起きる起きたということを証明できないのです。

九州で戦後最大の土砂災害が、、、

こんなニュースがあっても一切気にする必要がありません、なぜならばあなたの目の前で土砂災害が起きていないならば起きていないのです。いやそんなことはない、九州でそれを目撃をした人が何千人も居る、、、しかしそれは情報です。事実ではありません。目の前に全体があるにも関わらずあなたの目の前以外で何かが起きるならばもう目の前は全体ではないのです。非全体になってしまいます、非神、非ワンネス、非オールザットワンになってしまいます。

目の前は絶対に全体

覚者が話す内容は一致しています、目の前が全体だった、目の前が全てだった、いまここしかない、、、全会一致でこの意見です。先ずはそこを認めてしまうことからスタートしましょう、すると不思議にも全くニュースに興味がなくなります、そしてニュースを見ていないにも関わらず何も問題なく毎日が進んでいきます、それは当たり前のこと、、、目の前以外に世界(全体)は存在しえないのです。

清原選手の薬物摂取について

彼には何の決断力もない

清原選手の薬物摂取報道は日本中を騒がせましたが、、この事件の当事者清原氏が薬物に手を出すか出さないかの決断は最初から決まっておりただ決まっていることが起きました。彼は薬物には絶対に手を出したくないと日頃から考えていようと何も関係なく薬物に手を出すことが決まっていたのです、これが事実です。清原選手のことを非難する人々は当然そのことを理解していません、日本中の全員が思考に関係なく薬物に手を出す可能性があるということを。

薬物に手を出さないと神に誓っていようが何の関係もなく。。

全ては決まっている、我々はその決まったシナリオに沿って生きていくだけ、そこには思考など何の力も働かない、、これが事実です。本当に良い人だったのになぜ???人の善悪など何も関係なくその人に起こることはどんどん起きます、人の思考などその前では完全な無力です。その事実が分かることでどうなるか??自分という人生に興味がなくなっていきます、なぜならばそこに影響力をもって関わることは不可能だからです。

周囲の事件も周囲の反応も興味がなくなる

毎日ネットニュースを騒がしているあらゆる事件は全て最初から決まっていることです、それを起こすことができる個人は存在しません。そのニュースを見て騒ぎ立てる周囲すらもそこには思考は全く関与できていないのです。ただそれが起こるように設定されていただけです。そう考えますとそのニュースを深く考察するなど全くの無意味、因果関係を洞察して「自分」の参考にしようという思いも無意味です。

観念とは方程式

見える世界で観念が分かる

我々は本来たった一つのエネルギーの中に生きています。ですがそう見えないのは我々に観念があるからです、先ずはこの「自分」が居るという観念、これがこの自分ストーリーをスタートします。ここからスタートしてあらゆる観念がこの見える世界を分離独立させていくことになります。ということは見える世界がどんな世界かでその人の観念が分かってしまうということになります。

どのような世界に居るか

分かりやすく言えば、、、我々は価値観を共有している人と人間関係を結んでいます。会社や組織など、、同じことに価値を置いている人々と生活をしているはずです。例えば都会に出る人々は都会に価値を置いている、田舎に住む人々は田舎に価値を置いている、、、だから見える世界も似てきます。全く同じ世界を見ている人は居るわけがなく似ているけど違う世界を生きているのです。

観念を見抜く

観念書き換えによって生きる世界が変わっていくのは間違いない事実です。ですがこれは最初のステップです、観念が書き換わることで世界が変わるというこの事実に着目します。我々はとんでもないメカニズムの中で生きているのです。このとんでもないメカニズムを創造したのは誰か?神です。神はこんなとんでもないメカニズムを作り出しその中で小さな神体験を起こしたのです。小さな神とは「私」のことです。

観念とは定義

思考が材料、感情が大工

バシャールは言います、「観念とは定義、家の設計図、思考が材料、感情が大工」であると。大変面白い発想です。もしも定義が「人生は苦しい」という定義ならば、、思考や感情がフル回転すれば、、、「人生は苦しい」が証明されます。定義がオカシイ場合、真面目な思考、感情を所有すればするほどしんどい人生になります。思考フル回転、感情フル回転は地獄への入り口になります。

観念、定義を変えよ

今の人生が苦しいならば、、、思考、感情を変えるのではなく、、、定義、設計図を変えます。設計図が変われば後は思考、感情がダブルワークで家を速やかに建ててくれます。あなたの今の家の居心地はいかがですか???もしも居心地が悪いならば人生の定義を変える必要があるのです。例えば「高収入が幸福である」という定義を持って生きてきたがいつまで経っても違和感が消えない、、、この場合、、この定義を変える必要があります。

定義を変え続け最終的に定義を超える

一番大きな気づきとは観念が変わると見える世界が変わってしまうという事実です。この事実に気づくことが最重要です。これによってもう今居る世界に対し絶望も希望も求めません、なぜならば観念によって変わるという事実こそが凄すぎるからです。我々は小さな神です、大いなる神のエネルギーの中に住んでいます、だからこそ観念の変化がそのまま見える世界を変えてしまうのです。

こうなったらワクワクは思考の策略

大金持ちになったらワクワク

結果を期待してのワクワクは嘘のワクワクです。実際にそのような状況になるかは分かりませんし、そのような目的での行動では全体との調和が起こりません。例えば10億円を得れるからと10年間絶対にやりたくない仕事を我慢してやろうということになったとします。10年後のワクワクを期待するわけです。。。すると毎日が不調和な日々に襲われます、毎日毎瞬ごとに不調和が起こります。感情が湧き出し、思考が湧き出し、、自我が強化され全体との分離が進みます。恐ろしい不快感を感じながら10年間を過ごすようになります。

10年後のことを考えて何とか心を落ち着かす

10年後には10億円、これを考え続けることでなんとか精神状態を維持しようとしますがこれすらも思考です。思考が湧けば湧くほどに自我が強化されて全体との分離が進み全体との不調和が起きます。もしかしたら10億円を手に入れることができるかもしれませんが10年後には体は病み、人間関係は破綻し、家族も失いと、、、とんでもない状況が待っているかもです。

10億円手に入れたとて

10年間の忍耐の結果10億円を手に入れたとしましょう、、、、散財に散財をして豪華絢爛な生活をできたとしましょう。。。これで本当に心が晴れると思いますか???この豪華絢爛な生活は全部お金の力であって本人の力ではありません。どこまで行っても自信がつきません。これによって本当の人間関係が築けれることはありません。さらに、生活に飽きてきたときにそれを解消するにはまたお金が必要になります。そこでまたお金を使う生活をすればいくらお金があっても足りないのです。

最初からワクワクにいく

最初からワクワクすることをします。最初からワクワクすることを行います、見返り結果を一切期待することなく。これによって最初から全体との調和を味わうことができます、最初から平和、安堵の世界に入り込みます。自分が求めていたことがここだったという気づきが起こります。これさえしていれば最初から幸福だったんだという気づきが起こります。良い人生を送るって最初からできるのだという気づきです。結果を期待することで不調和が起き苦しかったという気づきが起こります。

人生とは常にその人にとって完璧

人生=観念

人生はその人にとって完璧です、例え周囲からは最悪の状態、その人にとっても最悪な状態であってもやっぱり完璧なのです。なぜか???それはその人の観念が完璧に反映された世界だからです。その人の目の前にあるのは紛れもなく神エネルギーが漂っています、これは全員同じです。ですがこの神エネルギーがその人の脳内の反映であることも全く平等です。ということでその人の目の前にはその人の観念、価値観が反映された世界が漂っているのです。

人生イコール観念ならば、観念を変えるだけ

たった一つの神エネルギーが目の前に漂い、それは全員同じこと。この神エネルギーがその人の観念によって書き換えられる、、これも同じ。ということでもしも人生を変えたいならば観念、価値観を変えればいいのです。どのようなことを体験したいか、、体験する現実はその人のこれまでの観念が反映されたものです。たった一つのエネルギーが観念によって分離独立し今目の前に出現しています。これが現象化の正体です。

観念で現実が変わるという事実に着目する

最重要事項は、、観念でガンガン現象界を変えていきましょう!ということではなく変わるという事実に隠されたこの世の真理に気づくことです。なぜ観念が変わると世界が変わるのか??ということです。正確には観念を明日から変えようで突然変わるなどありえず、、、観念を変えることよりもその事実に着目することが重要です。我々が小さな神、ミクロコスモスと呼ばれる所以です。マクロコスモス(神)はマクロコスモスのままでは何も体験できずミクロコスモスを創造することで小さな神体験を回収します。

観念が簡単には変わらないメリット

観念が現実を作り出し見せてくてる

観念が簡単に変わってしまったら、見える世界が簡単に変わってしまいますから混乱します。簡単には観念は変わりません、だからこそ多くの人は同じ世界を日々体験しているのです。毎日全く違う世界が広がっていたら人は混乱します。観念が簡単には変わらない=見せる世界も変わらない、、だからそこに集中して取り組めるという話です。

現実という鏡、投影を見て自身の価値観を知る

この世界は大きな神が小さな神体験をする世界です。人間という小さな神がその価値観に則った世界を生きています。小さな神である理由は価値観、観念が変わると見える世界も変わってしまうという変幻自在の世界に生きている、価値観を決めるのは小さい神こと「自分」です。これが小さい神体験です。価値観が変われば世界も変わり経験も変わる、、これを大きな神はやってみたかったということです。

小さい神体験

大きな神は小さい神体験をすることで神が神のままでは体験できなかったことを体験することができるようになりました。大きな神はこれによってあらゆる思考、感情、経験を積むことに成功したのです。だからこそ簡単に悟りを開いてゲーム終了など絶対にありません。簡単にゲーム終了ならばこの小さい神体験を構築した意味がないのです。大きな神は間違いなく小さい神体験を全部体験したいはずです、全部の感情、全部の思考も含め。ということで諦めるしかないのです、楽しいことだけして死ぬことを。

インターネットの世界はこの世を露わにする

ネット上の情報はどこにある???

インターネットを我々は何気なしに使っています。今ではもう若者、大人の生活においてメインになったのは間違いないでしょう。特に子供など遊びのほとんどがネットを介しています。では我々が普段親しんでいるネット上の情報はどこにあるのか???という話です。答えはサーバーということになりますが、、サーバーの中をかっぽじって見れば一体何があるのか???恐らく無機質なチップしかないでしょう。間違いなく情報を閲覧できることはありません、物理的に。つまり我々が普段親しんでいるこの画面、ソフトは物理的には実在していないのです。

我々が見ているこの物理的世界も実在しない

覚者は悟り、、この物理的世界は実在していないことを理解します。インターネット情報と同じ画面上には間違いなく見えますが、、、実在していない、、あるように見えるだけ、、、、これが我々が普段接している世界そのものです。見えるし、触れれるし、香れるし、味わえる、、だけど実在はしていない、、、どこまで行ってもインターネットの世界と同じなのです。幻想だけど楽しめる、幻想だけど苦しめる、、これはネットもこの世も全く同じです。

ネットの中身は実在しないから無視???

ネットの中身は実在していない、、、だから無視でいい、、この意見はピントがズレています。誰もネットを強要されて遊んでいないはずです、皆好奇心、怖いもの見たさでネットを始めたはずです。今では携帯電話にデフォルトでネットがついており使い倒しています。それは便利だから。この人間世界も同じ、大きな神が人間体験をしたくてやっています、実在していないからヤらない、、という話はピントがずれています。

観念がなければこの夢は誕生しない

思考、観念、ビリーフが無ければこの夢は成立しない

思考、観念、ビリーフはこの世界を構築するプログラム言語です。この世界は自身の思考、観念、ビリーフに支えられています。逆にいえば観念が全くなければこの世界はただのエネルギーになります。プログラムがないのですから。この夢、我々が生きているこの幻想は我々が構築したプログラム言語で成立しておりそれが普段の我々の生活、経験、入ってくる情報から成り立っているのです。

人生を変えたければ価値観を変える、人生を辞めたければ思考を手放す

人生を真剣に変えたいのであれば価値観を変えなくてはなりません、価値観が変われば見える世界も変わります、脳が重要というモノのみを見せてくれます。その重要であるという価値基準が変わるのですから見える世界は変わって当然です。ですが価値観を変える、観念を変える、ビリーフを変えるというのはあくまでもこの小さい神のストーリーの中に話であり、このストーリーの中に居る限りは本当の苦しみから解放されることはありません。価値観がなぜ見える世界、感じる世界、触れる世界を変えるのか、、ここにフォーカスしていきますと人間の構築が理解できます。これは神として小さい神(人間)を観察する視点です。主人公が神になります。

視座が変わる

自分の人生というものに圧倒的なリアリティーを感じ、閉塞感、拘束感、閉鎖感の中に居る時人は絶望的な気持ちになります。ですがこの人生は小さな神の体験ストーリーであることを理解し観念、価値観が変わるとこの人生も変わることが理解できますと閉塞感にヒビが入ります、少し隙間ができます。その隙間から光が入ってきます。その光とは大きな神の光です。そして最終的には自分は小さい神ではなく元々大きな神であったという気づきが起こります。

なぜこの物理的現実に圧倒的なリアリティーを感じるのか?

物理的現実は幻想だが、、、神そのもの

スピ好きの多くは勘違いしています。この世は幻想、幻覚、夢、、、だからリアリティーを感じなくていい、、、そうではありません、この幻想は圧倒的にリアルです、なぜならばこの幻想の構成要素は神そのものだからです。神にリアリティーを感じないとしたら一体何にリアリティーを感じればいいのか?という話です。今目の前に見える幻想、物理的現実は神の変化です。ここにリアリティーを感じないわけがないのです。

リアリティーは感じるがその現実の多くが曇っている、ここが問題

究極の現実、リアリティーが曇っている、、ここが問題なのです。なぜ我々が生きているこの世界が曇っているのか???おかしい、、ここに違和感を感じなくてはなりません。目の前に神の変化、神の現象化がるならば、、なぜ曇っているのか???ここが最重要なのです。小さな神である我々はこの変幻自在の現実を曇ってみることさえできるということです。完全クリアー、輝く世界に見ることもできれば完全曇り、ネットリした世界にも見ることができるのです。その鍵を握っているのが観念、ブリーフ、価値観です。

神が曇っている、、、

多くの方はここに疑問を持っていません、なぜ私の神は曇っているのか???です。神は曇った存在ではありません、曇って見せることができる存在です。神は輝く存在ではありません、輝いて見せることができる存在です、人間の前で。今目の前の神が曇っているならばその価値観、ビリーフ、観念から変える必要があります。輝く神になるまで価値観、観念を変えていきます。ですがここで重要なことは観念の中に縛られている間はどこまで行っても観念という檻の中に居るのも事実です。解放とは観念の檻からの脱出です。