もっとこうすればいいのに、、、

それは100%ない

もっとこうすればいいのに、、、もっとああすればいいのに、、、個人は人の行動をああだこうだと判断しますが、、、、残念ながら、、、、その判断は完全なる大誤解、無意味、無理解の象徴です。。。なぜならばこの現象界で起きる全ては真我からただ起こっているからです、、、そこに関われる個人は居ないのです、、、そうすると個人はただの操り人形、、、、そんなもんです。。。

つまりこの現実の全ては、、、

つまりこの現実の全ては神のアート、真我の表現です、、、この表現に意見を言える個人は存在しません、、、もしも意見が出たとしても、、その意見も真我から見かけ上の個人を通じて起きています、、真我が意図的にそれを表現しているわけでもない、、、真我から勝手にそれが起こっているのです。。それを判断するのは全くの無意味です。

ただし被害者になる必要もない

全ては真我の表現、、だとしても、、、それに反応をしないわけではありません、、、隣人の猫が勝手に家に侵入してきた、、、だがこれも真我の表現ならば黙って受け入れよう、、違います、、、ただ淡々と、、隣人にそれを伝えればいい、、、ここに感情は一切入らない、、真我の表現だから、、、だけです。感情がいらないのです、、、ですが嫌なことは嫌とはっきりと言いましょう。。

神から愛される?

神と人間

神様が居て人間が居て、、、、これでは神と人間二つの存在がこの世界に誕生してしまいます、、、これは間違い、、、神から、、、「人間」という言葉が生まれ、、人間という「イメージ」が誕生しました、、人間というイメージ、幻想が神の中で現象として生まれたのです。神がこのイメージを愛する、、、違います、、神から「神が人間というイメージを愛するというイメージ」が生まれたのです。。「かみ」も言葉ですからイメージです、、この世界は(これもイメージ)ただ現象だけがある、、、です。

悟りとは投げやりとは全く違う

投げやりは、、そこに価値を見いだしていない

悟りとは究極の諦め、、ですがこれは投げやりな生活とは全く違います、、、究極の諦めとは全部が全部自動反応であり、全部が全部神からの起こりであり、、全部が全部神が気づいていたという事実に気づくことです。この見かけ上の私は何一つ関わっていなかったという気づきです。。。その気づきが起きたときに、、、全現象、全感情、全思考、全行動が同価値になります。同価値ということは投げやりとは全く違います。

全てが神の表現、、

見かけ上のこの体も、、私というアイデアも、、、全部が全部神の表現すから、、、全ては神です、神そのものです、、、これでどうして投げやりな感情が生まれるのか???全てに神を感じます、全ての行動に神を感じます、、、これは投げやりとは真逆な感覚です。。。。損得にこだわるということは、、全部が全部神の表現であるという感覚を忘れています、、、この状態で、、得を極限まで追っかけても虚しいだけです。

自分を許す、、の本当の意味

本当はこうやるべきだけ、、、まいっか、、ではない

自分を許す、、、というのは、、、「本当はこうやるべきで、、、だけどできない自分を許します」というのではありません、、、、この見かけ上の自分には一つたりとも自由意志はなく自由行動もなく、自由責任もないということを認めることが本当の許すです。この究極の許しが起きた時に、、他人を攻撃したいという衝動が完璧に終わります。自分を攻撃しまくっているから他人を攻撃したいのであって、、これが完全に終わります。自分を一切責めれず、、他人を責めれない、、、

今回だけは自分のことを褒めてあげたい

今回はよく頑張った、、今回の自分だけは褒めてあげたいです、、違います、、、全部全自動、、頑張っていない時も頑張っている時も、、、全部全自動なので、、、全部褒めていいのです、、、、朝から晩まで飲み歩いている日々も、、全部全自動です。。。神が行う経験、神が感じる経験に優劣があるならば神は神ではなくなってしまいます。。

全ての行動は神から起きる

見かけ上の私という体を通じて起こる全思考、全感情、全行動は神から直接起こります、、この全言動に対して判断を下せる存在は誰でしょうか???神です、、、神が自分で全言動を作り上げ、、それを自分で判断するとう動きが起きているのです、、、ですがこのメカニズムに気づいてしまったらもう判断は意味がない、、、だって判断したって、、どうしようもない。。判断を下しているつもりのこの私は神が作り出したイメージです。

イメージの住人

言葉の世界

見かけ上の我々はイメージの世界の住人です、、、この体も、この木も、このコップも、この椅子も、、、全部が全部言葉で成り立っている時点で、、、その言葉のイメージが想像され、、、そのイメージをこの現象に照らし合わせて生きています、、私というイメージが。便宜上言葉を覚えた我々人類は言葉の力の偉大さに気づいておらず、、、言葉にすっかりと飲み込まれているのです。

一人一人が全く異なったイメージを持ち、イメージの世界に生きている

一つ一つの物は名前がついていて、、この名前について人は各々のイメージを作り上げます、、、このイメージをこの現象に重ね合わせることで、、分離した現象界が生まれます、、、イメージが全員異なるということは、、全くもって異なった世界に生きていることになります、、、、本当は本質のみ、一つのエネルギーのみです。ですがそこに重ね合わせた言葉のイメージが異なるために、、違う世界を生きるというイメージが湧きます。そしてどんなイメージの世界を私というイメージが生きようともそこは苦しいのです。なぜならば本当の静寂の世界、平和な世界、至福の世界を既に幼少期に体験しているのと、、本質はそのことを知っているからです。。つまり本当の体験者(真我)がそのことをいつも分かっています。

言葉というラベルの功罪

言葉が作ったこのラベルは各々に異なったイメージを作り出させ、、この体が生き抜く上で役に立ちます、、、この体は確実に楽に生き延びることができるようになりました、、、しかしどっぷりイメージの世界に閉じ込められてしまったことで、、、精神的にはいつも苦しい、、、なぜだ????となります。生きてはいるけど、、苦しい、、、このメカニズムを打破するには、、、この事実に気づかなくてはなりません。

真実に気づけば

真実に気づいてしまえば、、もうイメージに惑わされない、、、この見かけ上の私もイメージに過ぎず、、だからこそこの見かけ上の私の幸福を追い求めても意味がないこともわかります。本当の私とは、、この言葉を作り、、イメージの世界を作り上げ、、、その中での経験の全てを回収している存在だという気づきが起きます。

全員がピカソのように絵が描けたらピカソの絵には価値はないのか???

人類が苦しむ原因

人類が苦しいのは、、、この人類は比較の中でしか幸福を得れないと考えているからです。。。ピカソの絵を飾っていた家で、、、人類全員がピカソレベルの絵を描くことができるようになった時に、、、その絵にはもう価値はないのか???という話です。。。我々は本質が見えない世界に没入することで本質を求める代わりに他人との比較の中で幸福を得ようという努力をしているのです。

他人より収入が良いから幸福なはずだ

他人よりも収入が二倍もある、、だから俺は良い会社で働いている、、だから俺は幸せに違いない、、、全部イメージの話です、、、そういうイメージを作り上げイメージを感じているだけですね。。俺は幸せに違いない、、という思考(イメージ)を感じているんです。。。そうではなく、、、本質、絶対幸福、に今なってしまえば、、もうイメージの世界を感じなくていい、、、イメージの世界でもがかなくて良くなります。

イメージの世界から抜け出る

これは全部イメージ、、これことに気づくことが悟りです、、、言葉を覚え、言葉がイメージを作り、、そのイメージをこの現象に重ね合わせ、そのイメージの中で生きている、、、これを真剣に信じることで苦しみが生まれる。。絶対幸福、静寂、至福の世界に、、イメージを作り上げ、、イメージを感じていいます。。勿論それを起こす存在は神でありそれを感じるのも神です。。。私は実は神なのです、、この体の中の住人と思っていた(イメージ)この存在は神だったんです。

下北沢

この言葉にイメージを作る

見かけ上の私は下北沢という街に住んでいますが、、やはり見かけ上の他人にそれを話しますと、、「下北沢って古着の街ですよね」「下北沢ってオシャレですね」「下北沢って汚いですよね」「下北沢って若者の街ですよね」「下北沢って美容院ばっかりの街ですよね」と各々のイメージを話してきます、、この下北沢という言葉に全員がイメージを持っている、、つまり言葉とはイメージなのです。

イメージとイメージの擦り合わせ

下北沢にできた「ターリーズ」行きました????広いですよね!、、なんか明るすぎじゃないですか?店員さんがまだ慣れていないですよね、、、各々が「ターリーズ」というイメージを伝え合い、、すり合わせをしています。これが言葉の力です。。。。そしてそのイメージをしながらそのお店に行くと、、、そう見える、、これが言葉の威力です、、イメージ力、、、

イメージの世界に居るのが苦しい

世界中に対して良いイメージを想像し、、その想像の中で生きていようと、、、例えば「私は世界一運は良い」というイメージを持っていきていようとも、、、この「私」をイメージしている時点で本当は苦しいのです、、なぜならば「私」はイメージであって本質ではないからです。。この本質の世界の中にイメージのストーリーを作り上げ経験を作るのが苦しいのです、、本質でしかない絶対幸福(神)がイメージの世界に閉じ込められています。

トムクルーズがミッションインポッシブルをやり続ける

トムクルーズがミッションインポッシブルの映画の役をやり続けるのは大変です、、、あの役ができるのはトムクルーズ本人があの役に成り切れるからなのですが、、、これは大変なこと、、、イメージの世界に居続けるのは大変なのです、、、、これは神も同じで、、、神がイメージの世界に入り込むと、、苦しいが同時に湧いてきます、、これを感じるのは勿論神です。。。この苦しいを終わらせたいという衝動も湧いてきます、神から。この衝動を感じるのは勿論神です。

時間は言葉

言葉は全部イメージ

時間という言葉を覚えるまでは、、、子供は時間という存在は全く存在していない世界に居ました。。。子供は自分が時間を過ごした、、など感じたことがなかったのです、、、、ところが「じ・か・ん」という言葉を覚えたことで時間というイメージができました、、、移り変わる世界に「時間」が登場したのです、、、、これによって「私」が時間の中を生きている、、、というイメージが完成しました。。時間というのがそもそもあったのではなく、、、時間という言葉を覚えることで、、、時間というイメージが想像されたのです。創造といってもいいでしょう。

「わ・た・し」

私という音の組み合わせを覚えることで、、、この世界に「私」というイメージが登場しました、、、この体を現象界の中で見つけると、、、この「私」も一緒に登場します、、、『あ、わたしだ!!』です。私って絶対に居るよね、、、となります、、ですがこれはイメージです。。イメージが現象界と重なり合っているのです。この私は道を歩けば、、、私というイメージが、、、動き、、景色が変わり、、私が歩くというストーリーを創造しています、、、この想像は神が行い、、そしてこれを神が感じます、、、、

私をイメージし、私が感じているというイメージをし、それを神が感じる

唐揚げを食べている時、、、唐揚げというイメージ、、をこの私というイメージが、、食べるというイメージをします、、そしてこの唐揚げを食べた瞬間に味が起きます、、これを神は感じ、同時に私が食べたというイメージが起きます、、次に美味しいが湧きます、、これを神が感じます、、次に「私は美味しい」を感じたというやはりイメージが湧きます、、これを神が感じます、、神は私をイメージしながら全経験を感じているのです。。これは神の一人芝居です。

作り、イメージし、感じる

この現象界は

この現象界はたった一つのエネルギーの変幻自在の活動が先ずあります、、これはたった一つであるゆえに、、、独立分離した存在はこの中では存在できません、、、もしも可能とするならば、、、この世界の中でイメージをするしかない、、これを可能にしたのが「言葉」です。。音の組み合わせを使って、、、この世界の中に「独立分離した風」の作品を作っていきました。この見かけ上の私も全く同じやり方です。これでこの世界には私が居て、親がいて、兄弟がいて、家があって、、学校があってと、、、分離物体が急増していくわけです。

本当は今も一つ

本当は今も完全に一つのエネルギー場です、、、この中で言葉を使いイメージ活動をしています、神が、、神が言葉が作ったイメージをこの現象界に重ね合わせ、、、独立分離した世界にやはり独立分離した私が居るというイメージ活動をしているのです。。。このイメージ活動が上手くいきますと、、、孤独感すら湧いてくるようになります、、、完全な成功、、イメージがしっかりとできている、、、私が孤独だ、、、はイメージ力の賜物なのです。。。なぜならばそんな存在は、、、イメージ上のものです、、、イメージ上の私が、、、孤独感を味わう、、、凄いことです。映画を観て泣くのと全く同じ、、、これもイメージの世界です。

神の感じるという力

このストーリーは神の完全なるイメージの力です、、、、言葉を生み出し、、イメージを想像し、、この現象界を分断し(イメージ)、、その中のやはりイメージである「私」を登場させ、、全経験をこの「私」が所有し、、時間のある世界(イメージ)の中で生きている、、、時間も言葉、、これもイメージです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、、時間はこの世界には存在していません。神はたった一つのこの現象界に独立分離した「私物語」を作り上げ、、、感じています。

神が言葉を使ってイメージを見ている

この世界は言葉が作ったイメージの世界

「り・ん・ご」この三つの音の組み合わせで、、、りんごという果物がイメージできます、、、「ワ・イ・ン」この三つの音の組み合わせでワインという飲みものをイメージできます、、見かけ上の私は、、言葉を暗記して、、その言葉のイメージを想像し、、、その想像とこの現象の組み合わせの中に住んでいるのです。思考しているときは、、言葉を駆使して、、、イメージを作り上げ、、この見かけ上の「私」が織りなす、、イメージの世界のストーリーを制作しているわけです。言葉を暗記することでこの想像行為が可能になりました。

現象を眺める度に

現象を眺める時に、、、その現象が視界に入り、、次のこの現象がかつて覚えた「や・か・ん」というイメージと合致し、、、独立分離した「やかん」を見ることができています。言葉を覚えることで、、この現象界の中で、、分離したことになっている「やかん」が登場します。。この学びが無ければ、、見かけ上のその人の世界には「やかん」は登場しません。

この芸当はができるのは神だけ

この芸当ができるのは神だけです、、音の組み合わせ「み・か・ん」でみかんをイメージする、、これを感じているのは神です、、この音を起こしたのも当然神、、これを見かけ上の私が感じている、、という思考を津壽太のも神であり、、、そうイメージするのも神です。。。これがこの世が夢であると言われる所以です、、、神が言葉を駆使してこの一つでしかない世界に分離した「もの」が存在するというイメージを起こし、それを見ている「わたし」もイメージしました。。このイメージを感じているのは神です。神が作ったイメージで神はそのイメージを神は感じています、、どこまでいってもこれは神の一人芝居です。