目覚め

目覚めとはビッグバンの個人的経験

個人が弾ける

ビッグバンとはたった一つなるエネルギーが弾けこの宇宙全体を構築することです。なぜビッグバンが弾けたか、それは絶対、無、空の投影、存在の再認識です。個人が目覚めるのも同じこと、個人という枠が壊れ全体の再認識が突如として起こることです。小さなビッグバンと言っていいでしょう。再認識とは個人がなくなった時に全体だったという気づきです、神の偉大さ、全体の偉大さの再認識のことになります。ビッグバンとは無、絶対が、絶対のままでは絶対の偉大さに気づけないということ始まりました。

自分の爆発

自分という存在があるからこそあらゆる体験を積むことができます、個人という小っぽけな存在であるからこそこの宇宙の大きさを確認できます。これが全体の全体確認です、全体は全体のままでは全体の大きさを経験できません、そこで個人という小さな存在を作り出し全体の大きさを体験するという試みです。ですがこの個人という存在を維持したままでは居心地の悪さ、退屈感、違和感を解消することはできません、そこで個人の爆発です、、個人が実はいなかったという気づきそれを起こします。すると全体は全体に戻るということを経験するのです。

絶対が弾ける

絶対が弾けたのがビッグバンです。絶対は絶対そのものですがそれでは絶対の偉大さを経験できない、、そこでビッグバンが弾け絶対の投影が始まりました。ビッグバンが弾けることでそこにはあらゆる生命現象が起こりそれを気づきの意識が気づきます。絶対の多様性を気づきの意識が認識します。その延長線上が人間です、人間は独自の進化を遂げこのビッグバンが作り出した世界の中にさらに世界を作り出すという発明を起こしました。これによって人間はこの宇宙全体の中にさらに世界を作り出したのです。人間が夢の中の住人と呼ばれる所以です。

八方塞がりは分離錯覚脱却のチャンス

八方塞がりは実はチャンス

八方塞がり、、、こんな状況には死んでもなりたくない、、、これは人間の思考からでてくる考えです。思考はこの「自分」を存続させるるため、この分離錯覚システムを維持するために構築されていますからシステムの崩壊危機をなんとしても避けたいわけです。ですから八方塞がりになりそうな状況に近づきもしません。最初からそのような状況になる可能性があることを事前に感知し近づきません。逆にいえば自我、思考が嫌がることとはこのシステムを崩壊させるチャンスを秘めているのです。

八方塞がりで自我が消える

自我の最大の特徴はこの自分というシステムを維持することになります。ところがこの自分が八方塞がりのピンチに陥った時にはどうしていいか分かりません。思考をフル回転しても逃げ道がないような状況に追い込まれたならば思考は機能を失います、思考することを止めるのです。するとどうなるか?思考がなくなれば自分、自我は維持できませんからいきなり無我になるのです、分離錯覚が終わるのです。突然自分が消え失せ宇宙全体に戻ります、そこは歓喜、平和、安堵の世界です。そして宇宙全体が主導権を握り分離した体ではなく全体の一部として思考が再び活躍し危機を突破するのです。この体験をしてしまった自我は最初は何が起きたか理解できませんが徐々にこの感覚を思い出します。

自我が消えると分離が消え宇宙全体としてに起こりがある

火事場のクソ力が良い例ですがあの瞬間に自分というシステムは完全に崩壊し分離錯覚が消え失せます。全体の中にただ体、思考、感情があるだけ宇宙のアートの中にこれまでの「自分」が存在することになります。普段では絶対に乗り越えらえないような危機をある種簡単に乗り越えてしまうのです。火事の後自我は再び主導権を取り戻し分離錯覚が戻りますがこの経験を忘れはしません。そして分離錯覚が外れた状態、自我が抜け落ちた時の平和な感覚を再び憧れるようになります。事故による奇跡の目覚め体験です。

先ずは空を知る、次に色の素晴らしさに目覚める

空を知って驚き、色の素晴らしさを再認識する

人はこの世の真実を知ったときに驚きます、実はこの世は空の現れで見える世界は空が色として現れているだけ。本質は空である、、だから実は何もないということを知ります。この衝撃は凄まじくこれまで超現実と思っていたこの視界が実は空の現れであるということです。何もない、、、ただそれを在るように見えているだけ。ということになります。

実は何もない、、、からの

究極を言ってしまえばこの世は無です。何一つ実態のないものの現れです、ですから我々のこの経験も体も思考も感情も何もかもが実態のないものから生まれてきているのです。この事実を知ることは虚無感の創出につながります。ですがよく考えてみれば実態のない世界に我々はいるにも関わらずとんでもない喜怒哀楽のドラマが日々繰り広げられているのは事実でありこれは虚無とは全く違います。

改めて色の織りなす世界の脅威に驚く

この世界は空から創出さているとしてこの色はその創造物ということになります。この色の創造物は凄まじくとんでもなくリアリティーがあります。実際には何一つ分離しているものはないのですがこの色の世界では各々が自由に動き回るのでそう見えます、完全に分離しているようにハッキリと見えます。だからこそこの分離世界を堪能できるわけです、ですがこの分離世界に分離体としてどっぷり浸かっていますと中々疲れるということになります。なぜならば全く分離していないにも関わらず分離しているという大いなる勘違いをしながら生きるからです。この居心地の悪さは無我を知れば知るほどに無視できなくなるのです。だから人はどこかのタイミングで色の幻想に興味を失い本質を知ることに興味が湧きます。色の世界での分離体験では本当の至福、歓喜、安堵にはたどり着かないことを知っているからです。

無我を知れば知るほどに、、、自我に興味が無くなる

実はこの世界ではどこからでも無我に入れます、無我とは歓喜、平和そのものでありこの状態を知りますと人間関係、社会関係など色の世界に対する興味が失せていきます。なぜならばその世界の中を放浪しても本当の平和が存在しないことを知っているからです。ですがそうなってしまうとなぜこの色の世界があるのか?そもそも平和が無いならば色の存在理由は何なのか?ということになるのです。実はこの色の世界は空を知ることで逆に面白くなります、本当の自分として再びこの色の世界を遊び倒すことができるようになります。本当の自分がやりたいこと、情熱を傾けれることにこの体が使われるという主従関係の逆転が生まれるのです。

極端な価値観は映画に没入している証拠

人は全員信用できない

主人公がとんでもない悲惨な事故に巻き込まれたとき、その人はとんでもない経験からのとんでもない価値観を構築します。人は絶対に信用できない、、という信念、観念です。この価値観が強固に構築されますとそれを通した映画が上映され、、その人の周りには確かに信用できない人が多くなっていきます、街を歩けば信用できなそうな人がやたらと目につくようになります。その人の価値観がそのような風貌な人を探し当て見つけるのです。こうしてその人の人生は必然的にそのような信用できないような人々に囲まれるようになり屈折した人生を生きるようになります。

価値観に優劣はないが没入具合は人それぞれ

そもそもその人は被害者にも関わらずなぜさらに歪んだ価値観を刻み込み、歪んだ人生を歩まなくてはならないのか?不公平だ、、、これを気持ちがよく理解できます。ですがこの映画の目的とは最終的にこれが映画であることを見抜くことだとすれば、、、ハッピー映画を延々と観るよりも悲惨な映画を観る方が気づきが早いのは事実です。そういう意味では全ては完璧に平等です。ハッピーほのぼの映画よりもミッションインポッシブルのような敵しか登場しないような映画の方が、、これは映画だと見抜けるかもしれません。

その人がどのような価値観でどのような映画を生きているかを観察する

人間関係すらも目覚めのチャンスです。出会う人がどのような価値観でどのような映画を観ているのかそれを観察します。全てを観察対象にしてしまうのです、そうすれば人間関係に集中しそこから無我に入れます、そこから悟りへの入り口になります。その人がどこまでこの映画を映画と見抜けずに生きているか、もしも見抜けるチャンスがあるとすればどんな言葉がいいか?全てが無心、無我へ入り込むチャンスです。映画に入り込みすぎて自分の映画のことしか話さない人、映画に飽き飽きし早くこの映画を卒業したい人、、あらゆる人がこの私の映画には登場します。

眠るに入るから目覚めがある

思考との同一化は眠りに入ること

目覚め体験、覚醒体験、気づきの一瞥、、、、悟りを開く時にこの言葉を使うということからも我々は通常眠っている状態に似ています。起きているのに眠っている???意味がわかりません。要はこういうことです、気づきの意識、目覚めの意識がこの思考と一体化、同一化している状態は役に入り込んでしまった役者のように本来の自分を忘れてしまっている状態なのです。起きているけど、、寝て夢を見ているような状態なのです。夢を見ていることを気づいている気づきの意識はハッキリとありますがハッキリと寝ている状態なのです。ですからこの同一化に気づくということは目覚めると表現するのです。

目から鱗が落ちる

目から鱗が落ちるって全く自分では予期できません。いつのまにか勝手にそれが起きます。これと目覚めは全く一緒、夢を見ている時にこれって夢ではないか?という急激な気づきが起きます。この目覚めを誘発する行為こそが無我に入ることです。全作業、全行為に対して集中してことにあたることでいつでもどこでも無我に入る癖を付けていきます。これは起きている状態を最初に経験してしまう方法です。起きている、目覚めた状態が分からなければそこに意識的に入ることができません。思考の雑音に関しても意識的になることです、思考の雑音を意識して観察することで雑音が無くなります。この状態が無我です。これを毎日意識的に行うことで眠った状態で目覚めた状態を日々疑似体験できるようになります。

昔の覚者が山に篭ってそれを成し遂げた理由

昔は悟りを開くというと山に篭ってというのが通説でした、、、人間は俗世間に居るとどうしても情報に溢れ人間関係に縛られ思考のフル回転を制御できなくなります。それを避けるために意識的に人を避け、無我に入りに行ったのだと思います。今の世の中でそんなことをすれば社会復帰するのもままならなくなってしまいますから先ずは全行為に集中する、思考の雑音に意識的になる、、、これらから無我体験をするのがいいかと思います。毎日無我体験をしていると無我が強烈に目覚めたくなっていき自我を叩き起こします。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

負の感情と形あるものへのしがみつき

負の感情解消を思考は形に向ける

人間から負の感情が湧いてきた際に思考は形あるモノを求めます、例えば食事、、、食事を食べると負の感情を一掃できます、勿論一時的ですが。食事を食べて食べて負の感情、ストレスを解消します。この際に思考はなぜ食事がストレス発散になるかを考えません。なぜならばそこを突き詰めると自我の存続に関わるからです。実は負の感情の発生源は自我であることに気づかれてしまいます、そのためそこは考えない。食事などの形あるモノがなぜ負の感情を解消するか?それは大いなる一つの代替品の確保だからです。形あるモノは全て大いなる代替品になる可能性があります、これを手に入れた瞬間思考の回転が止まり自我が解消され負の感情が抹消されます。実はこれが起こっています。手に入れたその瞬間思考が抜け落ち自我が抜け落ち負の感情が解消されるのです。

思考に解決を求めればひたすらに形に依存する

思考が行うことは基本短期的解決です。とにかくショートスパン、その場が取り持てばそれでいいのです。だから負の感情が湧いたら思考は即座に何かしらの形を求めるのです、子供が泣いたら即座にオモチャを探し出し子供に与えます。これを大人になってもひたすらに行うのです。何か負の感情が湧いたら形を探すのが思考の定石です。ちょっと疲れたら即カフェに入る、ストレスが溜まったらお酒を手にする、退屈が湧いたらTVを見る、、、これを一日中やっているのです。思考をフル回転させればさせるほどに自我は強固になっていき負の感情発生量が徐々に増えていきます。このメカニズムが破綻する時まで来ると人は目覚めに興味を持つのです。

負の感情は目覚めるまでひたすらに続く

負の感情の根源は自我ですからこの自我が主導権を真我に明け渡すまで延々に続きます。人間はいかに恐ろしい存在をこの体の中に構築してしまったのか?です。ですがこの自我構築は真我の遊びです、大いなる一つの遊びです。ですから深刻なことは実は何もないということです。真我の中に自我という独立した存在を作り出しこの自我から負の感情が延々と湧き続けそれを解消し続けるというゲームです。自我が王座を真我に譲ればその瞬間に負の感情は湧かなくなるのです。徳川幕府が天皇に王政を戻したのと同じです、これを無血で行うのか流血で行うかです。

自身の事業が完成しても負の感情が湧いてきた時に諦めた

私がなぜこの分野の研究に打ち込んだかと言えば、、、20代に仕事でストレスが溜まり、好きな仕事について世の中の役に立てればストレスはなくなると決めていたからです。ところが実際にそれを成し遂げた時に喪失感が湧いてきました、もう人生で何かチャレンジすることはないのか?とです。自己実現さえすれば自分の人生は終わりと思っていました、だからこそ全てを捨ててこれに当たっていたのです。ところが違った、喪失感が無くならない、、、これは大変なことになった、、、悟りを開くしかない、、こういうことです。

負の感情が湧いたらそこから不幸な自分を演じる自我

自我の作戦は常に稚拙

悲しい、苦しい、辛い、、、このような負の感情が湧いた時に自我、思考はどうするか?甘えることに慣れている思考は「不幸な自分」「大変な自分」「落ち込む自分」を演じます。なぜこれをするか?これをすれば周囲の大人が動いてくれることを学習しているからです。周囲の大人、特に両親が自分のために行動してくれることを自我は学習します。これによって自我は悲しい、苦しいなどの負の感情が湧いた時は塞ぎ込んで見せてこの感情解決を図るのです。ですがこの作戦には大きな落とし穴があります。それは感情の解消に思考(自我)を使ったということ、これによって自我は肥大化しさらに負の感情を生み出しやすくなるのです。

大人はこのような稚拙な行動を見抜かなくてはならない

大人が取るべき行動はこのような稚拙な行動を子供が取ったならば直ぐにそこを見抜き改善を図ることです。もしもこれを見抜かずにその作戦に乗ってしまえばその子供の自我はこの作戦を何度も使い続けることになるのです。何か落ち込めば落ち込んで見せるという演技に拍車がかかるどころか、、、無意識(常に)に感情と行動がセット化していきます。結果自我の肥大化は一途を辿り負の感情が毎日湧くような体質にシフトしていきます。

大人とは、、頭脳、IQとは何も関係がない

頭脳レベル、IQがその人の成熟度とダイレクトに関係するならば東大生は皆大人ということになりますがそうではありません。むしろ思考が発達していると負の感情の解決方法を思考に委ねる結果になり負の感情湧き出しからの思考フル回転が定番化します。思考が考えだす作戦は常に過去のデータから湧き出されそれは自我をさらに強化する結果になるのです。自我の肥大化はそのまま負の感情(ペインボディー)の肥大化に繋がり苦しみのメカニズムは完成します。

それでも苦しみは目覚めのためにある

負の感情とそれを解決する思考のメカニズムは勿論苦しみのメカニズムです。ですがそうは言ってもこのメカニズムは悪なのか?といえばそうではなくこのメカニズムは最終的には目覚めを経験させるための苦行のようなものです。宇宙には一切無駄なものはありませんからこのメカニズムは人間を目覚めに誘う荒療治のようなものです。私自身悟り、ノンデュアリティーの学びを始め、、、このエゴ、自我のメカニズムを学んできましたがこの核心にあってはなかなか理解が深まらない、、つまり自我の抵抗に相当に合いました。それだけ人を目覚めに渇望させる大きなポイントなのだと思います。

good dreamかbad dream の違い

人間の思考が見せる世界

我々は思考が見せる世界に住んでいます。世界を見渡せば物や人物、風景で溢れていますが全てに名前がつけらえていて実は我々はその名前が付いたものだけを見ています。名前がついていない物はこの世に存在していないと同じ我々はそれを感知できません。これが分離の世界の定石です。この世界の始まりは自我というものが目覚めていき先ずは自身の分離がスタートです、これによってその自分が見る世界が広がりました。だからこそ我々が望む生活とはその世界がグッドなモノ、そして避けたいのはバッドな世界です。ですがそれらは全部分離の世界という枠から逃れられないという特徴があります。

ブッダは言った「この世には苦しかない」

分離方法を変えていけば確かにこの世はグッドな世界になるかもしれません、ですがそれも分離の世界であるということに違いはなく、、結果自身からネガティブな感情が湧き出し続けます。こに分離の世界に住んでいる状態でネガティブな感情が湧かないということは絶対になく常にその処理に追われ続けます。ではこの分離の世界の枠から抜け出すにはどうしたらいいか?先ずは自身の分離の罠から抜けることです、自身が実は思考によって分離した存在であるというこの罠から抜けるのです。思考によって独立した自分が居るという洗脳にかかっておりこれを見抜くことです。

人間とは考える葦である

誰が言った言葉かはわかりませんがこれが人間の共通認識です。人間、私とは考える葦である。この体の中に考える私が居る。。これで自身の分離はスタートしたのです、ですがこれはアイデア、発想の域を抜けることができません。実際には考えることによってこの私は確実に居ると信じ切っているのです。でも時々この嘘に人間は気付いています、大震災や、大事故、大怪我、大ハプニング、、、自分のことなど完全に忘れ去って事にあたっている時に恐ろしいほどの安堵が襲ってくることを。絶対絶命のピンチになぜか心が穏やかになることを、、、このことを人は実は知っています。これらの経験が積み重なり人はこの大嘘に気づくようになります。

ネガティブな感情が湧いてきたら、、、自分ごとににしないで観察してみる

先ほどのようなハプニングは人生で何度もないために人はすぐに自分というモノに引き戻され普段の生活に戻ります。普段の生活はまたネガティブな感情が湧き続ける生活です。仕事も辛いのが当たり前、家事も辛いのが当たり前、人間付き合いも面倒で当たり前、金銭事情を世知辛くて当たり前、、、これが人間のデフォルトです。ですがこの感情を使って悟りを開く方法があります。このネガティブな感情が湧いてきたらそれを自分ごとにしないでそれを他人事のようにじっと観察します。湧いてきた瞬間からその感情を誰のもにもしないでただ観察するのです。この感情を観察する事に没頭してみてください、、、するとその感情が消えていきます、むしろそれを通じて平和が湧いてきます。意味がわかりません、、、、辛いを観察していたらそのまま平和に切り替わる???意味不明、、、これが人間を騙し続ける自我のカラクリです。

自我は全感情を自分ごとにして自我を存続させているだけ

自我の策略を解説します。自我は湧いてくる感情を全部自分ごとにします、そして多くのそれらのネガティブな感情を思考を使って解決します。この人間としての当たり前の行動、これが自我の策略です。当たり前に湧いてくるネガティブな感情、これをまず自分ごとにしなくてはこの自我システムは維持できません、そのため湧いてきた感情を全て解消します、、そしてしれを思考(自我)が解決するのです。思考とは自我のことです、自我を作っている大親分が思考です。思考がネガティブな感情処理に活躍すればするほどに自我は大きく肥え太っていきます、結果ネガティブな感情もより肥大化していくという流れです。ネガティブな感情が発生するには仕掛けが必要でありそこには大きく自我が関わります、というよりも自我というシステムこそがこの感情発生装置なのです。このメカニズムを打ち砕く一番効果的な方法、それは湧いてくる感情に反応しないということです、、、信じられないかもしれませんがこの感情に思考でもって解決を図ると自我が肥大化するというとんでもないカラクリが働くのです。これで人間は自我システムから逃れられなくなります。悟りを開くなど夢のまた夢、、となるわけです。でも実はこんな簡単なカラクリを見破るだけで自我システムは発動しなくなるのです。この自我が解体した状態、思考がただの思考に戻った状態こそを悟りと呼びます。

この私も目の前に居る友人も同じエネルギーで出来ている

全く同じモノで出来ていてなぜ違いが出るのか?

この世を構成している物質は全て神エネルギーです、そうなるとなぜ違って見えるのか?ということになりますがこれは水蒸気、水、氷で理解出来ます。この三つを構成するん分子はH2Oです。この分子の状態、振動数が異なるだけでこの世では全く違う形状に見えるのです。振動数が違えば全部バラバラに見えてしまうそれだけです。物理学者はこの分子を解剖していくと全部同じモノで構築されていることを知ります。そうするとこの世に見えてい全部は分離していないことを認めざるを得なくなるのです。では人間にはこの世界が分離しているように見えるのか?人間の体こそ世界を分離して感じることができる機械、マシーンだからです。五感が振動数の違いをキャッチして分離しているように見え、聞こえ、匂え、味わえる「振動数違い分離勘違いマシーン」です。

人間だけがこの体、他の動植物を分離して見れる

最重要な説明をしていきます。人間は五感が発達していてこの世(神エネルギー)の振動数、回転数の違いをはっきりと認知することができます。これによってこの世を究極のレベルまで分離して見ることができます、さらにその震度数の違う塊に名前を付けて整理していきます。この整理方法を世界中の人々で共有するというところまで進化を重ねていきました。これによりこの自分は間違いなく独立していて他の生命現象も独立しているという大いなる勘違いをして見せたのです。ですが本当は人間のこの五感能力がそのように振動数の違いを分解整理しているだけなのです。だから覚者は目覚め「何も無かった」と宣います。自分もこの世も分離しているように感じていただけだったとなるのです。

赤ちゃんはこれを知っている

赤ちゃんはこのことを知っています。実は何も分離していないことを、、人間がなんとかこれを強引に分離整理して生きていることを知っています。何も分離していない世界で分離しているという強引な理論で必死に生きている動物、それが人間です。「自分も世界も分離しているに決まっている、なぜならばそう感じるから」このガンコ親父のような屁理屈を必死に死守する民族こそ人間です。