森羅万象

虫が部屋に入ってくる

ただそれだけ、、

虫が部屋に入ってきただけなのに、、、それが楽しい、、、、将来に対する不安も過去に対する後悔も完全に無くなってしまった時に、、、見える世界が変わります、、、、平和そのもの、、、、ニュースを見れば、、毎日それでも騒々しいですが、、、全くそれで心が動かない、、、いや動けない、、そのニュースを聞いて判断を下せる自分がいないのですから。。。そんなことよりも、、、ただ景色が綺麗、ただ虫が面白い、、ただ鳥が美しいになっていきます。

年金が貰えなくなるよ!どうするの???

年金が将来、貰えないみたいだよ!!!どうするの????どうもこうもそれを判断する自分が居なければ、、自由意志もないのです、、、どうもできんのです!!、、、以上、、、これは何もかも情報を得ないことではありません、、、自分という機能としては情報を積極的に集めそれに備えることは勿論可能です、、ですがその動きが森羅万象の動きそのものしかないということです、、、

老後に向けて森羅万象が動くのかも

老後に向けて森羅万象の動きがあるかもしれませんし、ないかもしれません、、、それは森羅万象の動き次第なのです。これが究極の答えです、、その上であえて便宜上の意見があるとすれば、、、そこに向けて無我に入るということです、、老後に向けての貯金に対し無我に入って働くということです、、、無我に入って働けばそこから静寂、至福、平和に入れます。

言いたいことは分かった、、でも出来ない

分かったことは実践する

水への顔付けに成功すると、、泳げるようになりますよ!!、、、、言いたいことは分かった、、でもそれが出来ないんですよ、、、、この手の流れは頻繁にありますね、、、、顔付けって概念、思考ではないんですよね、、、顔つけって実践です、行為です、、、顔付けをもっとももっと分かりやすく説明して欲しい、、、というのは自我の遅延行為なんです、、、自我が、、、顔付けをしなくてもいい理由を探している時間なんです、、、これだけです、、、、でも、、この遅延行為も森羅万象からただ起きているんです、、それが悪いわけではありません。

森羅万象の遅延行為に飽きることが起きる

私って理屈ばかりこねて結局動けないんですよね、、、、ここまで分かっていて動けないのはまだ飽きていないからです、、、動けないことに、、、本当に飽きていたら、、、話にもしたくないものです。。。ですから全く問題がない、、、森羅万象の動きにただ従うのみです、、、本当の飽きが森羅万象から起きれば、、、次に進むのです。

出来ないことも森羅万象の動き

この世界の動きの全ては森羅万象の動きそのもの、、、良否、優劣、善悪などそもそも全くないのです、、、森羅万象の動きに優劣、善悪、良否の判断を下すのは人間としての自分だけです。自分の損得を勘定して判断を下しているだけなのです、、その判断には何の意味もないのです、自分以外に。究極の癒しとはそのことに気付いてしまうことで、、究極の安らぎとは、起こる全てに判断をしないことなのです。。森羅万象の動きがただそうだった、、終わり、、、です。

肌感覚で同価値になっていく

差別がなくなる

男には厳しく女には優しく、、、先輩には優しく後輩には厳しく、、、老人には優しく若者には厳しく、、、と相手によって態度を変えるのはまー普通のことです、、、ですが生命現象の真実に触れていきますと、、、肌感覚でそれができなくなっていきます。なぜならば神羅万象の動きに優劣はないからです。。これを頭で理解して、、、優劣をつけてはいけない、、、これは混乱します。。。そうではなく森羅万象に直に触れることで、、そうなっていくということです。

本物を知ると、、、、

無我に入る、瞑想に入る、、、このように気づきの意識、真我に直に触れる時間を増やして行きますと、、、自然と、、、物事、人物に差別ができなくなっていきます、、、なぜならば差別がない世界に直に触れているから、、、例えば学校の先生は肌感覚で生徒に優劣を付けない感覚を持っていないと難しいでしょう、、これと同じで、、、この感覚を得るには、、、真実に直に触れる必要があるのです。

偽物に触れると、、、

差別分別された、、物がたくさん在る世界は、、、ファンタジーの世界、、脳内の世界です、、、この世界はファンタジーですから、、、ここに触れれば触れるほどに、、、真実から遠ざかります。。。肌感覚でこれが神羅万象の現れであることが分からなくなっていきます。すると物事に優劣をつけ、人に優劣をつけ、比較し、上下、善悪、良否の判断が強くなっていきます。これが苦しい世界への入り口です。

神羅万象にミスはない

自然界の動きに自由意志はない

神羅万象、自然界の動きに自由意思なんてものは存在しませんね、、ではなぜ人間だけが自由意志があるのか????ありません、、、神羅万象にミスはないのです、、、人間だけを特別扱い、、差別扱い、、なんてあうわけがない、、、、、いや、、だって今コーヒーを飲むか、飲まないか人間は決めれますよね???違います、、、決めているように感じているだけです。

総理大臣は一つの決断で、、、

いやいや総理大臣は一人の決断で、、国家予算を決めているではないか???違います、、、決めているように感じているだけです、、、、全部が全部神羅万象の現れ、、、その決断が現れたのです、、、そしてそれを私が決断したという思考も神羅万象から現れたのです。どこまでいっても我々はこの神羅万象の現れです、、、例外はないのです。

じゃあ、、今後の人生について考えなくていいのか???

考える自分が存在していないのです、、神羅万象の現れとして暫定的に自分が居るという発想が現れました、以上。この自分の人生をいかにしよう???が現れることもあるでしょう、神羅万象から。どこまでいっても森羅万象からの現れしか起きないのです。もしかしたら突然ホームレスになるという発想が神羅万象から現れるかもしれません、、もしかしたら億万長者になる方法が現れるかもしれません、、、全部神羅万象任せなのです。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。

「名前」をあらゆる物に付けたのは良かったが

名前は便利だが、、

名前を付けるのは便利です、金属の塊にスプーンという名前を付けることで「スプーンをとって欲しい」と一言で指示できるようになりました。木の塊に「椅子」という名前を付けることで「椅子に座っていいですか』と聞くことができるようになりました。幼少期の子供にとって唯一の仕事がこの「名前」を覚えることではないでしょうか。ですがこの便利な名前、弱点があります、、名前が付けられた全現象は人間の都合など全く関係なく移り変わってしまうということです。木は枯れていきますし、風も動き続ける、体は衰え死に、景気は変動し、人口も変動、年金を解消され、、と「自分」の都合など全く関係なく動き回るのです。

「自分」のコントロールなど全く利かない

人生が苦しくなったのは名前を付けたあらゆる生命現象、森羅万象が「自分」の都合など全くおかまいなしに動き続けてしまうということです。「妻」が自分からいきなり離れていき、「社員」が突然会社を辞めてしまう、「政府」がいきなり増税をし、「海」が突然水域を上げてくる、、、こんなことが人生ストーリー中エンドレスに起こっていきます。それはそのはず「名前」を勝手に付けらた神羅万象はそんなことにお構いなく今までもそしてこれからも変動するのが常だからです。

そして「自分」も「自分」にお構いなしに動き続ける

なぜあんなことをしてしまったのか???最後の頼みでる「自分」すらも「自分」では全く関係なく動き続けます。それもそのはずこの自分は感覚であって実在ではないからです。動き続けるこの体に「自分」という名前を付けて実在しているという感覚を持っているだけなのです。最初から最後までこれをコントロールできる「自分」など存在しないのです。そうですこの世界は神羅万象の揺らぎしかありません。最初からこれしかなく最後はこのことに気付いて終わりです。

絶対から生まれた「我在り」

絶対から「我在り」が出現した

宇宙が出現したその瞬間、「我在り」という感覚が生まれました。宇宙は絶対、無、空からビッグバンを起こして出現したわけですがその時に「我在り」という感覚が生まれました。私たちが今感じているこの「在る」という紛れもない感覚はこの時から永遠にあります。というよりも「自分」以外には時間は存在しないので「我あり」がただ在るだけです。その中に自分が誕生し、時間が生まれました。これは全部錯覚です。

「我あり」の中で神羅万象が動く

我ありの感覚の中で神羅万象が動いていきます。森羅万象は我ありの中で起こります、そして森羅万象は我ありそのものです。そしてそれを生み出したのが絶対、空、無ということになります。覚者とはこの絶対、空、無の存在に気づいてしまった人たちです。我ありの根源、色の根源、神羅万象の根源、ビッグバンの根源です。今私たちの目の前には宇宙現象が広がります、それを支えて居るのが我ありです。我ありの中であらゆる現象が起こり続けています。その中に「自分」が居るが起こり、自分と自分以外が在るという認識が後付けで起こります。

「我あり」は「我あり」に気づく

自分の解消、解脱、解放とは「我あり」がこの感覚は「自分」ではなかったという気づきです。夢の中で主人公は自分そのものではないという気づきが起こるのと同じです。主人公はあくまで夢の登場人物であり自分とは夢そのものであった、、これが「我あり」の「我あり」で在ることの気づきです。自分などそもそもなく「我あり」の中でそれが起こっていただけなのです。ですがそれを仕掛けたのは我ありです、見かけ上。

今ここに全体として在るから、今ここに思考として在るに

これはトリック

今ここに全体として在る、、、、これが本来の認識です。我々は確実に今ここに在ることを知っています。誰が何と言おうと私は今ここに在る。。。これだけは断言できます。この在ると言う感覚に何一つ疑問はないはずです。今ここに在ると言う感覚は全体として在るのです。ただしこの全体は諸行無常、移り変わる世界です。私は在る、、、の中で見える世界は移り変わっているのです。これが真実です。ですがこの在るという感覚を思考が乗っ取っている、、これが自我のメカニズムなのです。Iam 私は確実に在るを、、、思考が乗っ取り、、、私は今ここに思考として在るに書き換えているのです、常に。だからこそ思考は常に湧いてきて自身の存在を主張し「私は在る」を乗っ取り続けるのです。私は今ここに思考として在る、、は思考の乗っ取りですから、、この人間人生が幻想、ドラマと言われるのです。

思考は常に乗っ取り続ける

今ここに在る、、、これが本来です。本来はこれだけです、、この、、今ここに在る、、、のなかで諸行無常、万物は移り変わっていきます。今ここに在る、、、の中で森羅万象が起こり続けています。この中に体が起き上がり、思考が起き上がる、、、この思考の活動に今ここに在るが同一化し、、、今ここに思考として在る、、が誕生しました。思考の今ここに在るの乗っ取りでもあり、、、今ここに在るのい思考との同一化です。今ここに在る、、は平和歓喜安堵そのものです。これが今ここに思考として在る、、、になると違和感が湧き上がり続けるのです。なぜならばこれは完全なる誤解だからです。

今ここに思考として在る、、はとてつもなく不安定

今ここに思考として在るは、、本来の形ではありません。今ここに在るがスケートボードに乗っているような状態です。そしてこのスケートボードに乗っているを本来と勘違いしている状態なのです。スケートボードは不安定ですから急に降りてしまったりします、、、するとまさかの大変安定感があって安堵が込み上げてくる、、それは当然ですよね。ですがスケートボードは直ぐに「今ここに在る」をボードの上に乗せてしまいます、これが本来だよと。ところがやっぱり何かアクシデントがあると、またボードから外れる、、、すると平和、歓喜、安堵が訪れる、、、、ところがやっぱりボードがしゃしゃり出てきて「今ここに在る」を上に乗せます。これが今ここに思考として在るです。ボードに乗っているのはエキサイティングで楽しいのですがやはりしんどいわけです。

不安定だから「今ここに在る」は楽しいが常に戻りたい

「今ここに在る」の思考同一化体験は大変エキサイティングで楽しい、、ですが同時に非常に疲れます。長くこの思考同一化体験を続けたい気持ちと、、早く「今ここに在る」に戻りたいの両方の気持ちで揺れ動いているのです。思考は「今ここに在る」との同一化により活動を活発化させ「今ここに思考として在る」を助長します。「今ここに在る」は思考との同一化を止めればいつでも「今ここに在る」に戻ります。この状態に意識的に居れる人を覚者と呼びます。「今ここに在る」が本来の姿です、むしろ「今ここに思考として在る」が後付け、錯覚、変異です。「今ここに思考として在る」が「今ここに在る」に戻るためにはあらゆる方法がありますが、全作業に集中することで思考を抜け落とすか、、、湧いてくる思考感情を観察し同一化から脱却する、、、そしてこのブログの内容のように「今ここに在る」しか最初から無かったんだに気づくことです。