未来

五感、五感、五感、、非二元

今、今、今、非二元

五感を最優先して生きていくとは、今を最優先させて生きていくことにあります。今を何よりも優先しているか?過去や未来です。今は酸素量が多く、過去や未来は酸素量が少ない世界です。ですから覚者は皆今に居ろといいます。過去や未来ばかりを考えていると酸欠状態が続き苦しくなります。なぜ酸素が薄くなるのか、、簡単です今が薄くなるからです。今とは酸素そのものです。五感を優先させて生きていきますと今にしかいれません、つまり酸素しかない世界ということです。この世界で苦しむのは逆に難しいのです。

思考はいつも意識を過去未来に連れていく

今しかないのに、、、思考は好きあらば意識を過去、未来に連れ去ろうとします。そして酸欠状態を作り出しておきながら、、この酸欠を解消するためには、、、これをした方がいい、あれをした方がいい、あれが反省ポイントだ、、これが改善ポイントだ、、とさらに思考の波に飲まれさせます。この思考の常套手段を見抜くことです。何か苦しい、、と思ったら確実に思考によって過去、未来に連れ込まれています。直ぐに今に戻ることです。五感の感覚だけを感じて思考を追い出します。体は今にしか存在できません。

歩く時は思考を入れない

歩く際には、足が地面を感じる感覚、肩が風を切る感覚、歩行者の話し声、見える看板、道端の花々、、、これらをただ感じていきます。そこに思考を挟まない、、思考の世界に入らない、、これを練習していきます。そして思考が湧いてきたらただ放置する、、これにより今から離れることがなくなります。すると今がより今になっていきます、今が益々今になります。今がこちらに寄せてきます、今とは非二元、大いなる一つ、神です。

思考を意識して放置する、思考は無意識だと取り込まれる

思考が湧いてきたら意識して放置してみる

ニュース番組を観ればあらゆる思考が湧いてきます、、、この瞬間に無意識にしているとそのまま思考に取り込まれていきます。今日友人と会うという約束をする、、、するとあらゆる思考が湧いてきます、服装をどうするか?時間は守れるか?どこで食事をしよう、、、、そこから思考に取り込まれていきます。これが思考に対し無意識の状態です。非常に苦しい状態です。なぜならば今こそが至福、歓喜、平和であって、、思考の場所はそこから離れた場所、過去、未来です。

思考に対し常に意識的であれ

思考というものを我々は無条件で受け入れています、思考が湧くことを悪いことだと思っていません。勿論思考=悪ではない、、、ですが思考に取り込まれると苦しいのは事実です。なぜならば今、非二元、全体から離れるから。そこで思考に対し意識的になってみます、思考が湧いたら意識的に放置します。これを何度も何度も行っていきます。もう思考の無意識取り込みには絶対に付き合わないと決めます。

今とは平和、歓喜、安堵

今にある時、、、平和、歓喜、安堵が襲ってきます。今とは無我、無心のこと、、、そこは神が住む場所、全体が全体である場所です。そこに意識的に入り込みます、、、無心、無我、神に意識的に入っていきます。思考を意識的に放置して無心、無我に意識的に入ります。五感の経験に意識することそこは今、無心、無我です。五感とは体の感覚であり、体は今にしか存在できません。

五感と思考の綱引きに勝つ

五感は常に神に導く

体を使った五感に触れることは神に触れることです。体とは今にしか居ることができません、今とは全体のこと、神のこと、ワンネスのことです。五感に触れ続ければそのまま今、神、全体、ワンネスにあることです。ところが五感を感じると必ず思考が湧いてきます、この料理は新鮮だろうか?この香りは何の調味料だろう?このワインはフランス製か?あの看板は昨日見たっけ?どの五感からでも思考が割り込んできます、、、この思考の割り込みに乗ってはいけません。この思考の割り込みに乗れば、、、そのまま過去、未来へと連れ出され引っ張り出され、、、今、神、全体、ワンネスから離れていきます。

思考は過去、未来に意識を引きずり回す

思考が存在する場所とは過去、未来です。思考に意識を向ければそのまま過去、未来に意識が引っ張り出されます。過去、未来とは今、神、全体の波動が薄れた場所です。この場所に居続けると居心地が悪くなっていきます、酸欠になっていきます。一日中思考フルスロットルの人間は一日中酸欠状態にあります。思考の罠に引っかかったら直ぐに五感の感覚に戻ります。そこは今、全体、神です。

五感と思考の意識の引っ張り合いは思考に軍配が上がり続けてきた

五感と思考の引っ張り合い、、、多くの方は思考に引っ張られ続けてきたはずです。今、全体、神から、、、引き摺り下ろされ、、、酸素が薄い場所に連れて行かれていたはずです。それが思考が存在する場所、過去、未来です。何かを見てば思考が湧き、何かを食べれば思考が湧く、何かに触れれば思考が湧き、、、と一日中今から過去未来へと連れて行かれてきたはずです。もう思考に関心をもたない、、、思考が湧いてきても放置です。

完璧に触れ続けることで完璧に戻る

日々の生活の中の完璧に気づく

体というのは今にしか存在できません、体を過去や未来に持っていくことはできない、、そうなると体は確実に今にあることになります。ですが思考は違います、思考は過去や未来について考えます、過去を悔やみ、将来をを常に不安に思っているのが思考です。思考の特徴は今に在れないことです。そうなると体の感覚に一切の集中をしていきますとひたすらに今に在れることになります、体の五感だけを感じていれば常に今です。そして今とは完璧の場所です。今五感が感じることのみに意識を向け続けるということは今、完璧に触れ続けることになります。

思考が湧いても放置する

五感に意識を向け続ける、ただこれだけで、今、完璧に触れ続けることができます。全体に触れ続けることができます。そこに思考が入り思考に意識を向ければいきなり過去、未来に連れて行かれます。今、そして完璧から離れていきます。今、完璧から離れるトレーニングに入ります。そうではなく思考が湧いても放置して、、直ぐに五感で感じることのみに集中します、すると今、完璧に触れるトレーニングに入ります。どちらのトレーニングに集中するかです。

今、完璧、全体に触れ続けると、、、完璧が理解できる

五感に触れ続け、思考の罠に入り込まない、、思考が湧いても放置し続けますと、、、今、完璧、全体に触れ続けることができるようになります。1日のほとんどの時間を今、完璧、全体に触れ続けることができるようになります。そうなると今、完璧、全体が分かってきます、今、完璧、全体に馴染んできます。この延長線上に悟りがあります。常に今にある、常に完璧にある、常に全体にある、、常に悟りにあるです。

今ここに故郷があることを探求者は認めない

今ここにあってはいけない

遠い未来に故郷はあるべきで今ここに故郷があってはならない、、なぜならば遠くにあるという大前提で今まで来たのだし、これからもそうだ、、これが探求者の思考です。今ここが不満足、欠乏、居心地が悪いから探求を続けてきたというのに「今ここ」が故郷だと言われてしまったらもう何もできないではないか、、、という理論です。ですが本当のことを言ってしまえば、、、故郷はここにしかありません。なぜならば今我々が見ている本質は宇宙のアートそのものだからです。にも関わらずそう見えていないのは宇宙のアートを切り刻んでしまった「自分」が存在するからです。

幸せの青い鳥は真実

幸せの青い鳥、、この童話の真意は分かりませんが、、、今ここに全部、故郷があるのは紛れもなく真実です。なぜならば今ここに動く空、色が顕現しているからです。ですが我々はそれを見ることがっできません、我々ができることは切り刻まれた色の世界、色の残骸のみです。今目の前に灰色の景色が広がっているならばそれがあなたの切り刻んだ世界です。覚者は一切の切り刻みを見抜きありのままの色を見ているのです、ありのままの色とは動く神、宇宙のアート、ダイアモンドの変容です。

足を知ろう、、、は間違い

欲を捨てろ、、、これは仏教の常套手段ですが、、、真意を知らないでこれを忠実に守ろうとすればただ絶望的な人生を歩むことになります。確かに故郷はこの目の前にあります、桃源郷は今目の前にあります。ですがそれが見えない、、、、その見えない理由とは何か?それを見れていない「自分」とは何か?ここまで掘り下げていきますと「足を知る」の真意が見えてきます。この「自分」が貪って貪って今ここ以外に幸福を求め歩き続けてもこの不足感が解消することはない、、、これが真実です。この貪る「自分」の欠落、分離の真相を見抜くことで目の前に故郷が再び現れます。

宇宙全体の動きへの抵抗

自我は宇宙全体の動きに抵抗する

宇宙全体の動きは今ここで起こっています。宇宙全体の動きは現在起こります、この瞬間にです。今ここというのは時間ではなく時間を超越した瞬間、ここというのは空間ではなく空間を超越した瞬間です。思考と同一化した宇宙全体は脳の中の過去や未来を行ったり来たりすることで全体の動き、宇宙全体の動きと調和できなくなります。この人間だけが時間の中に住うことで今というこの瞬間からタイミングがズレていきます。宇宙全体の進化の動きから外れていく、、、これが人間の苦しみです。人間は思考を持ち過去や未来の中で思考をグルグルと回転させるようになりそのことでこの瞬間から乖離していきます。全体のリズムから外れた行動を取るようになり苦しみが湧いてきます。

自我の抵抗も遊びの一つ

だからと言ってそのことが悪いわけではありません。脳内の記憶の中を宇宙の全存在が行ったり来たりするのは面白い遊びです。それをすることで全体との乖離が起きそれは苦しみ負の感情を生み出しますがそれすらも遊びの一つです。ですがその遊びに疲れ果てたならば脳内の思考トリップから離れ無心、無我に入ることを心がけましょう。無心、無我に入れば自然と宇宙全体の動きと調和していきます。無心、無我がそのリズムを教えてくれます。苦しいという感情は自我が全体から抵抗をしている時に自我から発生するのです。宇宙全体の中で人間が宇宙のリズムと外れた動きを取る時苦しみが自然と湧いてきます。

思考と同一化し一生懸命将来を不安視すればするほど宇宙全体のリズムから外れていく

宇宙全体が人間の思考と同一化し、、そこにフォーカスした時、、脳内の記憶を辿りこれからの将来を憂うようになります。過去にはあんな酷いことがあった、だから将来はもっと酷いことが起きるに違いない、、、この状態は今と完全に分離した状態です、今にあって今に意識がないのです。今起こっている宇宙全体の動きから完全に外れた行動を取っていることになります。この宇宙全体とのギャップこそが苦しみを生み出します、、この事実を理解するようになると脳内の思考をフル回転して将来を憂うことがバカらしくなります。なぜならばその行為そのものが苦しみを生み出しているからです。

大いなる存在は思考と同一化し過去、未来を泳ぐ

記憶の蓄積で振り返る過去が積み重なっていく

人間の脳が進化を繰り返し脳が思考をするようになり、言葉も覚え記憶力がついていきます。こうなるとこの人間としての人生が着実に記憶となって蓄積されていきます。本来は大いなる存在がこの思考、感情、体と同一化することでこの自分映画は始まるわけですが記憶がたくさん積み重なっていくことで「自分」は過去を振り返るようになっていきます。過去を振り返るということは記憶の中を探るということです。大いなる存在、一つの宇宙生命体が思考に同一化し記憶の中の過去を振り返るようになるとそこは今(大いなる存在そのもの)から離れていくようになります。大いなる存在がまさかの人間の脳の中に意識をフォーカスしている状態です。この状態は大いなる存在にとって非常に居心地が悪くなるのです。人間として今に在るならばまだ居心地の悪さは少なくても人間の思考に成り切りさらに脳の中の記憶、過去にフォーカスするなど大いなる存在の究極の遊びでしょう。遊びは遊びですが苦しい遊びです。

過去が苦しかったということで未来不安ばかりを思考する

人間の思考に同一化した大いなる存在は脳の中の記憶、過去にフォーカスし、、過去を悔やみ、過去を後悔し、過去を悲しむ経験を味わいます。そして次は将来不安です、過去がこれほど酷かったのだから将来も不安が尽きない、、こうなるのです、、将来とは想像の中でありこれも人間の脳の中に存在します。大いなる存在の過去、将来という脳の中のトリップを続けるのです。こんな狭苦しい旅はあるでしょうか。ということで大いなる存在の脳内トリップは窮屈、苦痛を極めるのです。過去を悔み将来を憂うという行為がなぜこれほど苦しいのか?その種明かしを今しました。宇宙全体、全存在が思考と同一化し脳内をトリップするという意味不明な遊びをしているのです。

新しいチャレンジをしない、、、脳内トリップジャンキー

大いなる存在が自我に完全に取り込まれ日々安定、日々現状維持の生活をし始めますと、、、今を生きているようで実は過去や将来のことをばかりを考える生活に入っていきます。新しいチャレンジをしようとすれば情報を取ったり、新しい行動をするのですがそれをしないということは過去を嘆き、未来を憂う生活に入る可能性が高い、、、この状態は大いなる存在が人間の脳内をトリップし続けるという地味な遊びに興じ続ける生活に入っていくのです。これが悪いわけではありません、そうではなくこれは今(本来)から離れる苦しい遊びです。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

思考が過去や未来に存在する意味

「今ここに在る」を過去未来に連れていく

意識、全体、今ここに在るが思考に同一化すると、、思考は過去を思い、未来を思い、、、意識を今から逸らせます。本来は「今ここに在る」は今に在るわけですがこれが思考に同一化することで過去、未来へと旅に出るのです。「今ここに在る」が思考を通じて過去を考える今に変わります。今ここに在るは今ここに在る時に本来のバイブレーション、振動で在るわけですが思考の同一化し過去や未来に旅をしますと波動が荒くなっていく、重くなっていくのです。これが居心地の悪さを生み出します。

「今ここに在る」は過去未来のストーリーを体験したかった

「今ここに在る」は思考との同一化を達成し初めて未来や過去に意識を向けるということを達成します。未来過去を行ったり来たりするスケボー、サーフィン体験です。時間という波の上をサーフするのは大変面白くエキサイティングです。意識にとって思考と同一化するのは本来の状態ではないですから非常に不安定、疲れるのもまた確かです。この状態はバイブスが低いのです。思考というのはこの自分の過去の体験に依存しておりそのため今という場所には居れません。そのため「今ここに在る」という意識にとって安心にてストーリーに浸かれるわけです。「今ここに在る」は今に戻ったら「今ここに在る」になってしまいます。思考との同一化から離れてしまいます。思考と同一化に成功している限り過去、未来という時間軸の中に居続けます。この場所はエキサイティングだが疲れる場所、負の感情を延々と湧いてきます。ですがこれを思考が解決を図ることでまたここの居続けることができます。

「今ここに在る」は思考が使えないような状態に陥った時だけ今に戻る

「今ここに在る」は思考と同一化すると「今ここに思考として在る」に変わります。「今ここに思考として在る」は思考に連れられて過去や未来への旅を続けます。熟睡時や、、思考も介在できないようなアクシデントに見舞われた時にだけ思考が壊れ、、「今ここに在る」に戻るのです。この状態は平和、歓喜、安堵と究極の至福状態で在るがゆえ、、、思考は直ぐに「今ここに在る」と同一化を図り思考の世界に引き込みます。これによって再び「今ここに在る」はエキサイティングだが疲れる過去未来旅行に出かけるのです。

自分が弱いと洗脳を受けたライオンは草を食べ続けて死ぬ

草を腹いっぱいに食べても居心地が良くならない

自身が弱いという洗脳を受けたライオンはシマウマ、象、虫すらも怖いと思い生きていくようになります。仕方なく草をコッソリと食べ続ける生活、草を食べても美味しくはありませんがそこは仕方がない、、徐々に草の育成に成功し大量の草を食べることに成功します。そしてその草を乾燥し寝床を完備、さらに草を燃やして暖を取ることにも成功。草から栄養分を抽出してサプリを完成、栄養価の高い食生活を維持。草を使って虫の繁殖に成功し大成功ライオンに。ですがなぜか居心地の悪さ、胸糞の悪さ、不足感が解消できない。。言葉にできないこの焦燥感は何か?そうです。自身が弱いという洗脳からくる気持ち悪さです。記憶の遠い部分に強かった過去ののことが残っていてそれが得体の知れない居心地の悪さを生み出しているのです。

全体が洗脳を受け、体の中に自分(全体)が居るという錯覚に成功する

この人間ドラマ、自分ドラマは実はライオンの洗脳と全く同じです。大いなる存在、全体が言葉の洗脳を受けこの体の中に居るという錯覚を起こしました。目の前にあるこの体の中に全体があるのだと、、これによって全体は自分はこの体だと勘違いして生きるようになります。体の中に入ってみたら何と脳の記憶力がありかつての勘違い行動が全て記憶されています。これによって全体の勘違い人間ドラマが誕生しました。この体の中に自分(全体)が居るという大いなる勘違いは居心地の悪さ全開です。人間として有名企業に就職し、ハイスペック伴侶を得て、ハイスペック住宅に居住、子供をハイスペック私立学園に入学させても癒えないこの居心地の悪さ、、という流れです。

全体よ、この夢から目覚めよ!

人間のこの人生とは完璧な作り物です。なぜならばそもそもこの体の中に自分は存在せず、この体を主人公にしたこの人生も錯覚だからです。強いライオンが自身を弱いと勘違いするストーリーが偽物のように、全体がこの体の中に閉じ込められているというこの人生ストーリーもまた偽物です。本当はこの視界に広がる全てが自分です。この視界(全部)がこの体の中に主人が居ると勘違いする強烈なジョークがこの人生です。過去も未来も人間の記憶が作り出したモノであり、空間も人間がここを動くことで在るということになりました。本当は全体の中でこの体がシフトしているだけです。