映画

完璧を映画にしてしまう完璧さ

我々の人生は映画のようなもの

我々の人生は映画のようなもの、そしてそこには主人公である「自分」が登場します。そしてそこには脇役がうん千人と登場します。自分の構成素材は完璧であり、脇役の構成素材も完璧、あらゆる環境が整いますがその構成素材は完璧になっています。完璧な構成素材を使って全アイテムが作られているのです。全アイテムの構成素材が完璧という同じ素材を使っているならば全部が同じものですからどうやって分離を作り出すのか??それが言葉という完璧な素材を利用します。言葉という完璧な素材を使うことで完璧しかない素材の中に違って見えるという完璧が起きました。これで自分、脇役、全アイテムが揃います。そしてこの完璧は常に動くので全アイテムが映画の中で動き続けることになります。

自分という完璧と、脇役という完璧が、、離れる

自分という完璧と脇役という完璧が離れるという動きが完璧に起こりますと、、悲しいという完璧な感情が生まれます。自分という完璧と脇役という完璧が結びつくと嬉しいという完璧な感情が生まれるのです。ですが自分は悲しいという感情を完璧とは思えないということも完璧に起こります。これが完璧ないの不完璧体験です。すると自分から「完璧」に対する衝動が湧くわけですがこの完璧はこの映画の中では「対象」としては存在しないため「自分」は完璧そうな対象を次から次へと探していくという完璧な旅が始まるわけです。

完璧という構成素材で最初からできている

自分という存在はこの映画の世界の中で完璧を探し求めるわけですが完璧な構成素材でできた対象は完璧には見えないために完璧を追い求めて人生を使うことになるのです。本当は対象ではなく全構成素材こそが完璧なのです、、このトリックに自分は気づくことができません。なぜならばあらゆる対象にはしっかりとした名前がつけられこの名前のついた何かの中から完璧を探し出すことしかできなくなっているからです。完璧なのは素材そのものであり見える対象ではありません。こうして自分は疲れ果てもうどうでもいいや、、となった時に自分が崩れ見える世界の完璧さの再発見が起こるのです。

京都に飛べば世界遺産が目の前に広がる

完璧とは「自分」にとって完璧なのではない

京都に今日旅行に行けば駅に降り立って直ぐに世界遺産が自分の前に広がります。ニューヨークに今日飛べば目の前に高層ビル群が広がります。もしもこれが映画だったら大変とんでもないお金を使って撮影場所を設置しなくてはなりません。この世界が凄いのは一瞬で目の前にパリ、ロンドン、世界遺産、大自然が広がることです。私にはパリに見えるが友人にはロンドンが写るということは絶対にありません。もしもこれが映画ならばこんな凄まじい映画はないのです。

自分にとっての完璧とは

自分にとっての完璧とは、、、一億円を広い、大好きな車を購入でき、大好きな彼女ができて、大好きなマンションに住み、大好きな仕事の恵まれ、大好きな友人に恵まれ、大好きな趣味に恵まれることでしょう。ですがこの完璧さは一瞬で飽きがきて完璧ではなくなってしまいます。もっともっとが一生続くのです。それはなぜか?自分という存在がこの世界に誕生してしまったが最後、思考の世界(空想)に入り込んでしまいそこは喜怒哀楽を味わえる完璧な世界、至福が存在しない場所なのです。至福(根源)とは私というラベルが剥げ落ち根源だけが広がる場所です。自分が居る(思考)を前提に生きれば思考の世界に迷い込みます。

自分が居なくたって完璧

これまでの人生とはこの「自分」を幸せにするための人生でした、ところがこの人生はどこまでいってもお腹が空く、幸福になれない、、、なぜならばこの「自分が居る」こそが空想だからです。事実はこの体の中には「自分」が居ません。居ない存在の自分を幸福にするなど不可能だからです。だから高級マンション、高級車を自分に与えても幸福にならないのです。これが答えです。自分なんて居なかった、、、これに気づいた時目の前に完璧な現実が横たわります。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

外に居るだけで五感が開き悟りが開く

五感をフル稼働させるだけ

そんな簡単な方法で????そうです人は五感が開けば悟りが開きます。悟りが開くとは五感が開くことなのです。めちゃくちゃ美味しいケーキを食るその瞬間、悩むことは不可能です。素晴らしい映画を観ながら悩むことは不可能です。五感をフル稼働しながら不幸になることができないのです。ということは自然に触れて五感をフル稼働すれば不幸になれない体になるということです。感じれば感じるほどに思考から離れてしまうのです。大切なことはこの事実を知っておくことです、五感全開、悟り全開の状態を覚えた思考はこの功績を自分のものにし自分を評価されたいという思考を湧かせこれに争います。

悟りが開いた「自分」をみろ

五感全開は悟り全開であり、、この状態は覚醒状態です。この覚醒状態をキープしよう、評価されたい、目立ちたい、人に教えたいという思考が湧いてくると覚醒状態が終わります。思考の波に襲われるからです。こんな覚醒した「自分」は評価に値すると思考するからです。これが思考の罠です。この思考を無視してさらに五感を開いていきますと悟りが開いてきます。五感がこの事実をより深く感じていくからです。

悟りを開いた「自分」を殺す

五感フル稼働状態は悟りフル稼働状態ですが、、この状態は周囲からの反応も良いのでこの状態を「自分」が独り占めしようとします。この状態すらも「自分」は所有しようとすることで自分を維持しようとします。覚醒を所有する自分が居るという思考が湧いてきてこの思考を維持しようとします。ここを見抜きます、思考の最終サバイバル術です。五感がフル稼働し思考が薄まったからこそ覚醒しているということが腹落ちしますともう「自分」という思考へのしがみつきも薄れていきます。

最初から全て決まっているならば

何が面白い人生なのか?

最初から全て決まっているんですよ、そうお伝えすると多くの方はでは何が楽しい人生なのか?と反応します。この反応こそが今不幸な証拠です、今苦しい証拠です。毎日が楽しくて仕方がないのならば最初から全て決まっていようといないとどちらでもいいからです。幼稚園の遊具で毎日楽しく遊んでいる生徒にこの事実を伝えても誰もショックを受けないでしょう。なぜならば今楽しいのだからそんなことはどっちでもいい、、ということです。

絶対的幸福感に包まれて

最初から全て決まっていると聞いて「良かった」「素晴らしい」と思う方は稀です。なぜならばこの「自分」はこの人生の全責任を任され運営してきたと信じ切ってきたからです。今更お役御免、社長職辞任、代表取締役解任は酷過ぎるよ、、、という話です。じゃあ「自分」はこれから何をして生きていけばいいのか??という話です。それは当たり前のこと、退職金もない、慰労金もない、慰謝料もない、、じゃやってられないというわけです。ですがこの事実が腹落ちしてきますと、、確かに自分が決めていないなー、、という事実が徐々に押し寄せてきます。そしてお役御免になった自分は徐々に忘れさられていく、、辞めた社長の影がいつの間にかなくなっていく会社と同じです。

桐島、部活辞めたってよ

この映画の中の桐島は、、映画の作中一切登場しません、桐島の周辺の映像のみ、、その中には桐島の姿が全くでてこないのです。霧島を知る知人、友人、同級生は全部でてきますが肝心の桐島が全くでてこないのです。ですがこの映画は完璧に桐島抜きで話が進んでいくのです。これがまさに自我、自分というものです。自分というものなど一切でてこないにも関わらずこの人生は完全に進んでいるのです。そして自分というのが本当は居ないのならばこの人生そのものが嘘、勘違いであることも腹落ちしてきます。この腹落ちは自分がするのではなく、腹落ちがただ起きます、湧き上がります。

桐島が実は居ないのならば

この映画では最初から最後まで全く桐島が登場しないのですが、、そうなればこの桐島を主人公にした映画そのものはただの映像になります、映像が移り変わりその登場人物が桐島がまるで居るかのように演技を続けていきます、桐島が絶対に居ると信じれるようなあらゆるシナリオが用意されこの映画は進んでいくのです。そして本当は桐島は居ない、、、これが我々の人生の正体です。生まれてきてからまるで「自分」というものが居るかのような扱いを受け続け、自分が絶対に居るという確信に変わる、その自分が「湧いてくる思考」を所有することで意思決定し人生を選択する「自分」に昇格していくのです。

最後はテクノロジーが人間を解脱させるのか??

テクノロジーの進化が解脱を生み出す

マトリックスという映画の大成功、ポケモンGOなどのリアリティーを取り入れたゲーム、バーチャルリアリティー、グーグルグラス、、、、あらゆるテクノロジーが人間というシステム、脳が作り出している世界に類似した世界を作り出します。テクノロジーが脳の機能をまるで模倣しているかのようなゲーム、ソフトが日々誕生していきます。悟りの学びをしてきた人間からするとこれってもう答えだよね、、という驚きです。

今までも人間を驚異的に変えたのは技術

考えてみれば産業革命が起こり人間の生活は圧倒的に変わりました、そして次が今起こっているIT革命、そこからのAI革命、、恐らく今回の技術革新は人間を悟らせる、解脱させるとこまでいくのではないか???そんな感覚を強烈に覚えます。バシャールが言うにはテクノロジー改革はハイアーマインドの物質化とのこと、、これも理解できます。オーバーソウル、集合意識との繋がりが強固になってくるとそこから情報が降りてきます。自我という思考の分断が緩めば全体との繋がりが強固になります。IT革命は人間としての生活を大きく変えていきますから自我の緩みを生み出す可能性があります。

悟り、ノンデュアリティがYahooニュースに載る時代が来るかも

YOUTUBEの視聴回数などを見ていても悟り、ノンデュアリティに関する動画の再生数はそれほど多くはありません。まだまだ世間のこの分野に対しての理解は少ないようです。これからどれほど技術が進みこれらの分野に対する関心が増えていくかが楽しみです。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。

覚者とは映画のバラシ監督

映画の途中で「バラシます」と言っている人

映画業界では「バラシ」と言って完成した撮影用セットを解体する時に使う言葉があります。撮影が終わったら当然この撮影セットは必要なくなりますからこれを解体する必要があるからです。バラシ、、、撮影中の役者さんからすれば完全に役に入りきりその舞台で演技に興じていれば、、いきなり舞台がバラされてしまうと変な気分になるはずです。この「自分」という存在が舞台がバラされていくことで同時に無くなっていきます。この自分は舞台、セットあってこその話、、、セットが解体されていくのに役に没頭したままというのは先ず不可能でしょう。覚者と呼ばれる人々はこのバラシ監督です。本当は名前なんてないんですよ、全部後付けで名前を決めてみんなで覚えてさもそれが実在しているかのようにみんなで共通認識しているだけなんです、、こんな言葉でバラシを行います。当然その中の映画に出演中の人々は何を言っているんだ?という話です。なぜならば見えている世界に本当は名前もなく何もないならばこの「私」も居なくなることになってしまうからです。

この現象界のバラシは簡単

この現象界のバラシは簡単です、、、名前が後付けで人間は名前を暗記するとそれがさも実在するように見る力があるということを説明するだけです。人間の特殊能力、現象に名前を付けさらにそれを記憶することができる。この特殊能力ゆえに人間はこの現象界にあらゆる物体、人物が居るかのように思えるのです。覚者はこれを解説していくバラシ監督です。最終的には役に飲めりこんでいる人間に「ということであなたも居ない」と言い放ちます。セットが実は作り物であるように、、あなたも役になり切っているだけですと。これで解散となります。私主人公の映画が。

「バラシ」が終わって深刻さが抜けたら映画と分かった上での人生がある

この映画、自分主人公映画は「バラシ」が終わって何にもなくなった後に再び映画と分かった上で映画を組み立てるということができます。全部分かった、確かにこれは映画で本当はセットも他の役者もいなく、自分もいない、、、それは分かったからまたこの映画を楽しみたい、、、ということです。そうなるともうこの劇中で深刻になることも落ち込むことも驚くこともできない、、、ですが今度は役を演じているという大自覚の元何かしらをやりたいという衝動が生まれてきます。映画だと分かっているからこその衝動があります。

「怖い」の真実

怖いは、、、自分が原因

よくよく考えてみればこの宇宙の動きは完全完璧であり何も怖いことは起きようがない、、、ただ自然現象、宇宙現象が移りゆくだけです。人間というこの浅知恵の動物の何億倍完璧なゆらぎの中で我々人間は生きています。ですが人間はその完璧なゆらぎの中で「怖い」を抱えながら生きています。これほど怯えた野生動物はいるでしょうか???将来不安、将来不安、老後不安、日本の行末、、、、病気でしかない

そうです、完璧なる神経症

人間という動物に完全同一化しますと「怖い」を抱えた神経症が完成します。人間という動物をただ動物だと俯瞰できると神経症は治ります。ただそれだけです。5歳児、6歳児の子供は学校から家に帰ると僕は僕は。。今日こうだった、ああだったを連発します、、、これは自分の存在を認めて欲しいからです。これは自然な流れです。ですが大人になると自然に気づきが起こります、、、この自分自分の自分は一体何だ?ただこの体、思考、感情を自分だと定義しているだけでその定義がなければ一体誰だ?ということです。

神経症脱却はこれだけ、、、自分を辞めるだけ

この体、思考、感情をひっくるめて「自分」とすると神経症に襲われます。怖い怖いが押し寄せてきます、波のように押し寄せてきます。この体、思考、感情を自分としないと決めると、、、怖い怖いが押し寄せてきません、、何のこっちゃです。映画の中に主人公になりきってミッションインポッシブルを見てみてください、、怖くて観れたモノじゃない、、、、心臓が破れそうなぐらいの衝撃を受けるはずです。。。。ですがあれは映画だから楽しめている、、、、

「自分ではない」として生きていけるのか?

逆にしっかりと生きていけます、常に冷静に冷静にこれまでの「自分」を観察できます。負の感情が襲ってこないので飄々と生きていけます。何をしていても負の感情に襲われることがなくなります。怖い、不安、危ない、危険が襲ってこない、、、常に平和、歓喜、安堵の中で動くことができます。なぜならば怖い、危険、不安は体、思考、感情との同一化が生み出してきたからです。マリオゲームをやるときにキャラに成り切ってやるか、プレイヤーとして冷静にやるかの違いです。