完璧を映画にしてしまう完璧さ

我々の人生は映画のようなもの

我々の人生は映画のようなもの、そしてそこには主人公である「自分」が登場します。そしてそこには脇役がうん千人と登場します。自分の構成素材は完璧であり、脇役の構成素材も完璧、あらゆる環境が整いますがその構成素材は完璧になっています。完璧な構成素材を使って全アイテムが作られているのです。全アイテムの構成素材が完璧という同じ素材を使っているならば全部が同じものですからどうやって分離を作り出すのか??それが言葉という完璧な素材を利用します。言葉という完璧な素材を使うことで完璧しかない素材の中に違って見えるという完璧が起きました。これで自分、脇役、全アイテムが揃います。そしてこの完璧は常に動くので全アイテムが映画の中で動き続けることになります。

自分という完璧と、脇役という完璧が、、離れる

自分という完璧と脇役という完璧が離れるという動きが完璧に起こりますと、、悲しいという完璧な感情が生まれます。自分という完璧と脇役という完璧が結びつくと嬉しいという完璧な感情が生まれるのです。ですが自分は悲しいという感情を完璧とは思えないということも完璧に起こります。これが完璧ないの不完璧体験です。すると自分から「完璧」に対する衝動が湧くわけですがこの完璧はこの映画の中では「対象」としては存在しないため「自分」は完璧そうな対象を次から次へと探していくという完璧な旅が始まるわけです。

完璧という構成素材で最初からできている

自分という存在はこの映画の世界の中で完璧を探し求めるわけですが完璧な構成素材でできた対象は完璧には見えないために完璧を追い求めて人生を使うことになるのです。本当は対象ではなく全構成素材こそが完璧なのです、、このトリックに自分は気づくことができません。なぜならばあらゆる対象にはしっかりとした名前がつけられこの名前のついた何かの中から完璧を探し出すことしかできなくなっているからです。完璧なのは素材そのものであり見える対象ではありません。こうして自分は疲れ果てもうどうでもいいや、、となった時に自分が崩れ見える世界の完璧さの再発見が起こるのです。

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