幻想

幻想は何も経験できない

マリオ

我々のこの体は完全に幻想です、、、幻想ですから、、、本来何も経験はできません、、五感などあるわけないのです、、、幻想ですから、、、、ですが五感は100%存在します、、、感じるから間違いないのです、、、、感じるから、、、この体は幻想ではなく、、、実在であるという勘違いが生まれているのです。。。。ですが幻想は五感を所有するなど不可能です、、、幻想とは実は存在しないという意味ですから。

意識と五感

意識は100%あります、、在るという感覚は100%あります、、、そして五感も100%あります、、、これは真実です、、、、ですが、、、それ以外は全部妄想です、思考です、、、、、我々は五感という絶対的な存在から逆算し、、、、、あらゆる空想を作り上げたのです、、、、五感があるから、、、この体も1000%存在する、、、、、五感があるから相手も、、、100%存在すると、、、、、ですがそれらの全ては推測です。

ディスプレイはどこにあるのか????

マリオはディスプレイに写った幻想です、、、我々のこの体もディスプレイに写った幻想です、、ではこのディスプレイはどこにあるのでしょうか??????これを頭で考えると、、、存在場所????ということにありますが、、、存在場所などどこにもありません、、、その発想がこの幻想界の発想です、、、、存在場所を発見したければ、、、、感じるしかありません、、、場所を思考で突き止めて、、見つけるのではなく、、今それを感じるのです、、、ここからそれを注視するのです、、、ここから、、それを意識するのです。

マリオが見た!

マリオが見たことにできる

この世界は幻想です、、、つまり我々はゲーム上のマリオに過ぎず、、、マリオが見るクッパも幻想です、、、ということはマリオがクッパを発見したときに、、「マリオ」がクッパを見たというのは幻想です、、、幻想は主体となってクッパを見ることは不可能です、、、幻想ですから、、、いやそんなことはない、、マリオには目があって、、網膜があり、、そこから中脳に繋がり、、、という一連の流れがあるではないか?????違います、、幻想とうとしてそれがあるのです、、、、幻想がクッパを見るのは不可能です、、、つまり、、クッパを見ることができるのは、、、視界そのものです。。。。「視界」が「視界」を見たのです。。。我々が見る「景色」を見ているのは「景色」です。

マリオが味わったことにできる

マリオが食事をする、、、口の中で味覚が広がる、、、、出来ません、、、なぜならばマリオは幻想であり、、実在しないからです、、、でも間違いなく、、味覚はある、、、舌にある神経が、、、脳に繋がり、、、残念!!!!それも幻想です、、、、「味覚」が「味覚」を感じたのです、、、ディスプレイが、、味覚をそのまま拾ったのです、、、起こる全部はその場で回収されます、、、、誰に????全体です。間違いようもない味覚が、、、「マリオ」「食べ物」の存在を幻想ではなく、、、、「実在」に感じさせていますが、、、これは感じていない、、、思考している。

「経験」を追求すれば、、、それに見合った幻想が広がる

つまりはこういうことです、、、これは無限の幻想ですから、、、、経験のアリバイを発見しようとすれば、、、どこまでもアリバイが続くのです、、、、全経験を証明するアリバイが、、、、この現象界、幻想界では誕生します、、、いつ誕生するのか??????発見しようと試みたその瞬間です。。。。マリオには当初は脳も、舌も、網膜も、神経も、、全く無かったのです、、、人間がなぜ????見えるのか???味わえるのか????と興味が湧き、、そこを探究した結果、、、それが現れたのです、、、全部が全部幻想です、、、幻想が見て、味わって、触れるというのは不可能なのです。

事実と違う解釈を前提にした世界

「私がした」は事実ではない

なぜ浮気をしたんですか???なぜ不倫したんですか???なぜ覚醒剤に手を出したんですか????この質問は「全責任を個人が取ることができる」という前提で話が進んでいます、、、、、ですが実際にはその行動が起きたときに「個人」という存在は実在していません。個人が不在の状態の行動をなぜ責任を取ることができるのでしょうか????この大前提が、、この社会の常識になっているために「生き辛い」という感情が湧くのです。

「私」は何もできないし、、存在すらしない

「私」が本当に実在するならば、、、全行動に置いてこの「私」が確実に認識されていないといけません、、、マリオゲームをやるときに、、、マリオは確実に認識し続けています、、、居ない時は絶対にないのです。だとするならば、、、この幻想のゲーム上でも「私」が消えていい時などあってはならないのです、、ではどうですか??????美味しいビールを飲んでいる時、、「私」を忘れますね、、、感動する映画を観る時「私」を忘れますよね!!!!、、、居ない時間が確実にありますよね!!!!おかしい!!!!

つまり「私」は都合が良い時現れる思考

つまり、つまり、つまり、、、「私」とはたまに現れる思考に過ぎないのです、、、思考の産物です、、全行動、全思考、全感情を作り出すなどの偉業を達成できるような代物ではないのです。これが大前提です、新しい時代の大前提です。「私」など全く存在していなかった、、、です。この新しい大前提をベースに生きるがスタートしますと、、、とにかく楽です、、、だってそれが真実だからです。無理くりこねくり回して作り出した「私」物語が終わります。

人生ドラマを操り余裕を作って悟りに至る

本当は操れないが、、、

言葉では矛盾ある表現になりますがそれを踏まえて説明します、、、人生ドラマはその人の観念が織りなすドラマです、、、そのため、、、その観念が変わればその人生が変わります、、、その観念は体に溜まった負の感情をダイレクトに受けます、、、負の感情が溜まった体は、、、その感情を味わうのを避けるために、、思考が湧きます、、、、その思考が重なり合って観念が書き変わっていきます、、多くの場合その思考は感情を味わいたくないがための思考ですから、、真実に繋がる思考ではありません、、結果幻想の中でさらに幻想を作り出し、、擬似体験という真実から遠い場所に安住します、、そこが苦しい場所です。

感情を積極的に成仏する

体のマッサージ、ストレッチなどを積極的にして、、溜まったエネルギーを発散しますと、、、思考でこれを隠蔽する必要が無くなっていきます、、、、結果観念と向き合うということができるようになります。感情はクリアリングされ、、、、残されたのは観念のみに、、、、映し出された世界は、、、観念そのものです。。。。そしてこの観念が反映された世界に対し湧いてくる自動反応、思考、感情を見抜き、、、逃げることなく、、、今に居る時、、、感情を隠蔽するという動きが起きなくなるのです。ただここで感情を観察する、味わうが起きます、、、24時間が瞑想になります。

諦めるとは全く違う

これは感情を諦めて受け入れるというものではありません、、、感情を思考で隠し、、、体に隠蔽していくという負のサイクルを打破する積極的活動なのです、、、、感情が湧いたら湧かせたまま、、、その感情は観念から自動的に湧いただけですからそこを俯瞰する存在になりますと、、、自我OSシシテムが緩み、、ただその場で静寂、平和に包まれるようになるのです。

体が作り出したシステムエラー

体は全部知っています、、体は自我OSシステムの成り立ち、、問題点を完全に理解しています、、、ですから自我OSシステムを卒業する日を実は待っているのです、、、ですが自我OSシステムは自動反応を起こし続けるが故これを止める方法がないのです。意識を体に戻します、意識を体に戻すことで、、、自我OSシステムに縛られない余裕がでます、、、体は学習します、、自我OSシステムが機能しない方が、、、体も楽だと、、、、すると体が自我OSシステムを卒業する方に協力的になるのです。

体は全部知っている

体は自我が必要悪であることが分かっています、、、ですからこの必要悪自我OSシステムを必要がないという状態に導きたいのです。。。そのためには脳に知識を入れ自我OSシステムの不必要性を覚えさせ、、、脳がこの機能を手放すのを待つのです。宇宙全体を動かす、、本当のOSに体をチューニングし、、シフトを促します。。。。ですがこの全ての動きは全自動で起きますから、、これをコントロールする個人は存在しません。

OSの自動反応

会話は相違のOSが反応しているだけ

会話とは双方のOSが自動反応を起こし、、ただ反応が起きているだけです、、、、データベースにある全記憶が元になってOSが自動反応を起こすのです、、、ですから会話とはただお互いのOSを強化することにしかなりません。そして見える世界は全記憶がベースになった観念が元になっておりそれがアウトプットという形で画面に移ります。観念はその場でディスプレイに映し出されるのです。

この世界は観念が映し出すディスプレイ

この世界は全記憶によって形成された観念が作り出したディスプレイ映像です、、これが今我々の目の前に映し出されています。。。この体も当然その真ん中に映っているはずです。ですがこの体だけが映像なのではなくこの体以外も、、観念が映し出すディスプレイ上に映像化されます。。この現実が幻想と言われる所以はここにあります。画面上に写った友人が、、言葉を投げかけますと、、、OSが作動し自動反応を起こします。

私も相手も実在しない

このプログラムで分かる通り、、、自我という存在はOSであり、、実在はしません、、、反応を起こすプログラムに過ぎません。自分という存在ありきの思考という反応も自分という存在ありきの感情も、、自動反応で起き続けますから、、そこにフォーカスしても意味があるわけではない、、、勿論その反応にフォーカスし、、とことん付き合うこともできます。

今という誤解

誰もいない

街を歩けば全員が今ではなく過去に存在するか、、思考を思考しています、、、空想の世界に居ます、、、空想に意識を向ける理由は、、、今感情を味わいたく無いからです、、、仕事に行きたくない、、、、嫌だ、、、、この時人は思考に逃げます、、、、「私」がやりたくないことをすれば、、、感情が湧き、、、これを隠すために思考がフル回転します、、、幻想のこの世界で、、真実に触れるのではなく、、幻想に意識を集中させます。

居る場所が違う

会話をしていても、、、相手は、、感情を味わないように思考していますから、、、内容がありません、、、その思考は、、、感情から意識を逸らすための思考であり、、意味はそれしかないのです。。。。負の感情を生産できた体に居ますと、、、思考に逃げるという行為がなくなるため、、、無駄話に意味を見出せなくなります、。。今は話をしたいことを話ししたいのです。

幻想の世界で幻想する無駄

ここがまさに幻想の世界です、、、無限の無在が現す鏡の世界です、、、この鏡の中の世界で、、思考に意識を向けるとは、、写ったこの鏡の幻想に触れずに、、、さらに幻想をします、、、何も経験が起きていません、、、経験だけが真実ですから、、真実に触れていない、、、真実を感じていない、、、

幻想の中で幻想を作りその中で経験を積む

ここが幻想の世界です、、この幻想の中で思考するとうのは、、幻想の中に居て、、さらなる幻想を想像し、、その中で擬似体験をしています、、、擬似体験に逃げているのです、、、ここの経験は虚の中の虚ですから虚しい、、、が湧きます、、虚しいという感情は、、、経験の密度が低いのです。そうではなくこの幻想の世界で思考を見抜き、、思考の取り込まれず、、ただ経験を積めば、、、、充実、満足が湧いてくるのです。

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

現実に住まない

同じ場所

同じ場所に居てもこの場所を幻想と見抜かず居る場合と、、完全に幻想であると見抜いてここに居るのでは、、、全く意味が変わってきます、、、ここを本当の実在の場所だと思えば、、この体も実在し、、ゆえにこの体には私という存在は実在し、、、と実在の連鎖が起こる、、、これは勘違いの連鎖と言ってもいいでしょう、、この勘違いの連鎖は輪廻転生、、、時間を超えて起き続けるという無限ループに入ります。本当はこれは幻想であり、、ゆえに目の前にはただ幻想が起こり、、、我々はただ経験だけをしている、、、そこには何の意味もなく、、ただ経験だけが積み重なっていく、、、、この体も幻想ですから私など居るはずもなく、、居るという思考だけがある、、、、

随分違う

要は同じ場所(幻想)に居ながら、、まるで違う展開が起こっていくのです、、、、真実に住めば(住む自分は居ない)静寂、平和が漂い、、、この自分に執着すれば苦しいが続く、、、これだけです、、、これを幻想と見破ると、、、鳥の声さえ神々しく聞こえ、、、太陽の光も神々しい、、、なんという幻想、、、何という緻密で正確な幻想、、、、なんという感覚、、、、と感動が嵐のように巻き起こります。。

感動の嵐

これが幻想だと思えば、、、、見かけ上の私が行く場所、行く場所にとんでもない、、、展開が広がり、、、、世界はエンドレスに湧き上がっていきます、、、、、品川駅に着いたら、、、何も無かった、、、が起きえない、、、、毎秒毎秒現象が起き上がり、、、、去っていく、、、、これが寂しいとか、切ないとかではない、、、、壮大な神のアートです。。。。

思考は直ぐにストーリーに持ち込む

全ての現象を

思考は何でもストーリーに持ち込みます、、、例えば雨が降る、、、という情報が起きたときに、、、では明日は傘を持って行こうか、、辞めとこうか、、そういえば明日は残業が、、、などなど、、、全部の現象の私のストーリーに持ち込み、、善悪、良否、損得の判断でもってこれを迎えます。本人はそのことで本人の得るメリットが向上すると思っているのですが、、そのストーリーの中こそが苦しいのです。重要なことはこの場所はストーリーの場ではないという気づきです、、、その時その時何が起きるか全く分からない超現実、、それが真実です、、、超現実に住むと、、そこは静寂、平和が漂います。

現実という幻想に住まない

多くの方が思っている現実は幻想です、、この幻想の中に、、私というやはり幻想を作り出し、、、私(幻想)が存在する場所(幻想)を作り上げました、、、その中でなんとかこの私は安全に楽しくそれなりに生きていこうと、、頑張っています、、、、だから全ての現象は私ごとに捉えられ、、、進んでいきます。。。これが苦しみの歩みになります。本当はこれを幻想と完全に見抜き、ゆえにこの体も幻想であり、、ゆえに私と呼ばれるこの存在も完全な幻想であることを見抜きます。この幻想の世界に、経験と呼ばれる感覚だけが真実としてあり、、、その経験がただ毎瞬毎瞬起こっている、、、この経験を全部集めた存在は真実、神、大いなる一つと呼ばれます。

あの手この手

幻想の数々

この世界は幻想です、、幻想と思って生活してみてください、、、すると面白いことに気づきます、、、直ぐに現実だと勘違いが起きます、、、あまりにも現実的直ぎて、、、、確実に現実の中に閉じ込められます、、、なぜここまで現実的なのでしょうか???それは私の観念が、、、そう信じ込んでいるからです。鳥のフンが落ちてくる、請求書の山、、家族間のトラブル、、、全部が全部現実的なのは、、、これは現実だ、、、という観念が織りなす世界がこれだからです。

思考が敵

このあまりに現実的な世界を見たときに、、あらゆる思考が湧いてきます、、、ああしよう、こうしようと、、、、これがまた一番の敵になります、、、、この思考に巻き込まれ、、、感情に巻き込まれ、、、また振り出し、、、、ゲームオーバー、、、、この思考を幻想と見抜きます、、感情を幻想と見抜きます、、、気にしない、、

幻想に取り込まれない

幻想に取り込まれない、、、取り込めるのは、、思考、感情です、、、周囲の幻想ができることは限度があります、、、重要なのは、、、こちらから湧いてくる思考、感情、、、ここが一番の敵になります、、、、先ずは目の前の現実を!!!!とワンサカ湧いてきます、、、、それらを全無視し、、今目の前の幻想に向き合う、、そして、、、、感じるという100%真実に浸る、、、すると、、、雑念、雑現、、、に振り回されていない、、本当の自分が現れる、、、それが静寂の場所、平和の場所です、、、、なんだいつだってここに帰れるんだ、、という気づきが起きます。