幻想

思考と戯れる

いつでも思考していたい

思考とは妄想です、、思考とはファンタジーです、、、多くの方は目の前の現実(これも幻想)を使って体験ゲームをするよりも、、、思考というファンタジーに逃げ込み、、思考と遊びます、、、妄想のなかでさらに妄想をするという遊びをします。。。。。ディズニーランドに行ってスマホゲームに戯れています、、、山に遊びに行ってスマホゲームをしています、、、、今目の前に完璧な幻想が広がっているにも関わらず、、その中で思考というスマホにハマっているのです。

体の感覚を研ぎ澄ましていく

ストッレッチ、ヨガなどで体の感覚を研ぎ澄ませていきますと、、、現実(幻想)を感じる力が増えていきます、、思考しているよりも、、、体験が面白くなっていきます、、、思考に溺れるよりも、、体験自体に面白さが増していきます、、、ただ歩くだけで面白い、、、が湧いてきます、、、、感じるという本当のゲームが、、、楽しいということを思い出すのです。

思考、感情のトリック

思考、感情と戯れるのは面白ものです!!!なぜならば、、、自分で作っていないから、、、自分で作っていないからこそ、、、何が湧いてくるか分からない、、、、だから面白いのです、、、、ですが、、、これは何度もお伝えしますが、、、妄想、幻想という現実の中で、、、さらなるファンタジーを作り上げているのです、、それが思考の力です。。。

思考というドラッグ

ドラッグとは、、夢の世界に居るような錯覚をさせてくれる毒です、、、思考とはドラッグのようなもの、、、思考に意識を向けるとファンタジーを作れるドラッグです、、、このドラッグに溺れると、、、思考というファンタジーから抜けれなくなるのです、、、、思考、感情がどれほど辛いものでも、、そこは「渡る世間は鬼ばかり」同様楽しいのです。自分を主人公にした「渡る世間は鬼ばかり」を上映しているのです。

現実(幻想)を楽しむ

この現実こそがディズニーランドです、、、ネバーランドです、、、この現実を遊びつくためには思考というドラッグを一旦横に置いて、、、、思考を相手にしないことをお勧めします、、、勝手に湧いてくる思考、感情を無視していますと、、、ファンタジーが消えます、、、そして、、今目の前に広がる本当のファンタジーを楽しむ力がついてきます、、、、

コンフォートゾーンの崩壊

快適域

個人は、、、コンフォートゾーン、快適域の中で生きます、、、、会社員をやっている、、年収はだいたいこのぐらい、、、快適と思える生活を無意識にしています、、、、私というイメージは、、、、、、慣れ親しんだ空間、生活、友人関係を維持しようとします、、、、脳は、、、生き抜くために、、、快適域を設け、、、、その中で良くも悪くも生きるのです。

個人が居ない

個人が居ないとなりますと、、、、このコンフォートゾーンが崩れます、、、、、快適域に収まる個人が居ないのですから、、、快適域自体が消えてなくなるのです、、、、私というイメージに見合った、、空間、友人、財産、、、全てが消えてなくなります。。。。この時に気づくのです、、、、この快適域は、、、、実は個人という妄想を縛り付けていたのだと、、、この快適域こそが個人を絶対的なものに仕立て上げていました、、、、

あなたってこういう人だよね

〇〇さんってこういう人だよね、、、〇〇さんらしいね、、、これらは全部周囲が認識する、、、、「私」のイメージです、、、、、このイメージが、、、この私というイメージを強化します、、、、、やっぱり「私」ってこういう人なんだ、、、、と。。。。ですが全ては妄想、イメージ、概念です、、、、本当は、、、「私」は居ないんです、、、、、ですから「私」に見合った、ちょうど良い、環境は存在しません、、、、あえていうならば「私」とは見渡す限りの現象全てです、、、生命現象、幻想そのものです、、、、

怒りすらも瞑想に使う

怒りが湧いた時に、、、

この怒りは何だ???何が原因だ????あいつのせかい、こいつのせいか、、いやいや、、私がこれをやってしまったからか、、、、エンドレスに続く、、犯人探しの旅、、、、、、残念!!!!その全ては間違っています、、、怒りを引き起こす、、個人という存在が皆無なのです、、、、個人が100%幻想であって、、居ないんです、、、、、全部は全自動システム、、、ただそれが起きたのです、、、、そして怒りもただ起きました、、、この怒りはどうすればいいのか、、、、その怒りをどうにかしようとせずに、、、怒りすらもただ観察します、、、、

怒りを感じることも、、、静寂

信じられないかもしれませんが、、、怒りを感じることで静寂になるのです、、、、怒りすらも静寂の中で感じます、、、怒りとは解決すべき感情ではなく、、、怒りを感じることで静寂に入ります、、、怒りを解決する個人は居ないのですから、、、思考しても無駄です、、、、怒りを解決すべき思考現象に関心をもう持たなくていいのです。。。

思考の全ては間違っている

個人が居て、、自由意志があるという前提の全思考は間違っています、、、間違った思考に関心を持ち、、そこに意識をし続けても、、、不幸が続くだけです、、、無駄です、、、そうではなくこの日常を、、、個人が存在せず、、自由意志もないことを感じる場所にします、、、実践の場所です、、、すると、、、、本当にそうであることが分かってきます、、気づきの連鎖が起きます。。

観察の卒業

全ては観察から

自分が自由意思で何かをしている、、、という思い込みをしている人は、、、先ずはこのシステムを俯瞰して、、、、全ての現象の真相を理解する必要があります。今目の前の現象はどのように起きているのか???ここを理解する必要があるのです。実は「自分」など存在せず、、、自由意志もないことを言葉で理解します、、、するとそのような認識で観察する日常が始まります。あれ、、、本当だ、、言葉が勝手に現れ、行動も勝手に現れ、、全てが自分抜きで動いている、、、

この観察は十分に威力を発揮する

この観察は見かけ上の「私」に様々な気づきを促します、、この私という存在が実在していないということ、、周囲も実在していないということ、、、この世が幻想と呼ばれる理由、、、この世が一つと言われる理由、、経験しか起きていないということ、色即是空であるということ、、私は神だ、、ということ、、、全部が分かってしまいます、、、すると突然、、、観察する自分が消えます、、観察ではなく、、、生命、幻想、そのものになってしまう、、、

観察の卒業

最初は観察から始まります、、観察という実戦からスタートします、、、観察という行為からスタートします、、その行為によって様々な気づきが雪崩のように起きていきます、、これらの気づき、雪崩のような気づきが終わると、、、静かな静寂と、、見かけ上の私を取り巻く生命現象だけが残ります。友人と話をすればそこには間違いようのない自我の存在を想像します、、ですが直ぐに、、、真実に引き戻されます。

大草原で生きる家族

自我が存在しない世界

大草原で生きます、、、鳥や昆虫、野生の動物に囲まれて、、、見渡す限り自我という存在が全く居ない世界に居ると何が起きるのでしょうか????自我を忘れます、、自我を思い出す時間が減ります、、、やがて自我というアイデアが消え失せます、、、この状態が不快でしょうか????静寂と平和に包まれた世界です。自然無為、大周天、サマディ、、、呼び方は何でもいいのです、、自我という本来存在しないアイデアが消え、、大自然を覆うOSに変わるのです。

大都会

大都会は自我OS全開の場所、、全員が自我OSに操られて生きています、、、自我OSの自動反応を「私」がやったという思考は自動で現れ自我OSは益々幅を利かせていきます。ですがこのメカニズムを見抜くと、、、自我OSも自然現象と何も変わらない、、という真実が見えます、、、鳥も幻想、、人間も幻想、、、この私も幻想です、、、

父親が怖くて、、、

父の存在に悩んでいます、、

残念ながら、、この父親は幻想です、、幻想としての活動があるだけ、、、この幻想の活動が気に入らないのならば、、、逃げればいい、、、、「いや残された父が心配で、、、、」ですので父親は実在しないのです、、、父親というアイデンティティーが存在しますが、、これは思考、幻想です、、、父親と呼ばれる幻想の活動があるだけです、、、ですからそれを心配するのはエンタメです。。。

母親が病弱で、、

母親が病弱で、、、今後介護をしなくてはならないのでしょうか????母親は幻想です、、母親という幻想活動をしています、、人格も、、性格も、、個性も、、、幻想です、、、この幻想を助けるのが楽しいならやればいい、、辛いならばやる必要は全く無い、、、幻想ですから、、、、見捨てろ!!と言うんですか????違います、、幻想を見捨てることができないのです、、居ないんですから。

幻想と見抜いてからが楽しい

幻想なんだから

この幻想は見抜いてからが最高に楽しいのです、、、なぜか???周囲は真剣にこれを現実と思い込んでいます、、真剣に真剣にこれを現実と思考して生きています、、、その様子が最高に可愛らしい、深刻なあの人も、悩み続けるあの人も、、、全部がエンタメになっていく、、、その中でこの見かけ上のこの私は、、、周囲にこれは現実ですよ!!!と伝えていくが起きていている。これまではこれが現実だ!!!!と本気で思っていたのだから、、なぜ苦しいかが完全に理解できる、、、だから救いたいが湧いてくる、、、ですがこれは深刻なミッションではなく、、完全なるエンタメです。

悩んでいる「人」は居ない

なぜこれはエンタメなのか????それは悩んでいる様子はあっても、、悩んでいる「人」が実在しないからです、、、深刻そうに見えているだけ、、、人が実在しないのですから。。。。だからエンタメなのです、、、全く救うべき人は居ないにも関わらず、、救済活動だけが起きるのです、、、助けるべきピーチ姫は実在していないにも関わらずマリオは救出ゲームをやります。

会いたい「人」も居ない

会ってみたい人、、、、これは居ないんです、、実在はない、、、全部幻想です、、、ビヨンセに会って涙を流す、、、ビヨンセという活動があるだけです、、、ビヨンセという実在は居ません、、、、マイケルジョーダンという活動があり、マイケルジャクソンという活動がある、、、キムタクという活動がある、、、母親という活動があり、、父親という活動がある、、、幻想が動く様子、、それが活動です、、、

現実は厳しい、、

面白い、、、

現実は厳しいから、、、、、大人が頻繁にこの言葉を発します、、、残念!!!!幻想です、、、幻想しか存在しません、、、幻想だけが、、、この世界に漂います、、、その幻想が厳しいというのは理論が破綻しています、、、幻想は厳しくなることができないのです、、幻想ゆえに。幻想には何の力もなく、、ただそこに漂うしかできません。

いやいや、、働かなくては食べれないじゃん

この体が幻想だろうと、全部が幻想だろうと、、、食べなくては生きていけないですよね、、、、てことは働かなくてはダメですよね?????それを厳しいと言っているんです、、、、この体という幻想が水という幻想を飲まなくては生きていけないのは事実です、、、ただだからと言って働かなくてはいけない、、、というのは思考です、、それは思考でしかありません。昆虫を食べて生き延びれるならば、、、働く必要はありません。

周囲の幻想に合わせているだけ

我々が本当にやっているのは、、、周囲の幻想から外れた行動はしてはいけない、、、という思考に振り回されているだけです、、、、周囲は働く、、だから私も働く、、、、周囲は学校に行く、、、だから私も学校に行く、、、これをやっているから疲れるのです、、、周囲は幻想です、、、、幻想にどう思われる????何も起きていないのです、、、残念ですが幻想は何も感じず、何も思考せず、何も行動は取れません、、、そう見えるだけです、、それを幻想と言います。

この体はなぜ体験ができるのか???

意識のフォーカス

映画に夢中になっている時、主人公にどっぷり意識が集中し、、、殴られたら本当に痛い、、、という感覚が湧く時があります、、、、意識は意識をそこに集中していくと、、感覚を作り出すことができるのです。。。。人間とは意識が最大限体に意識を集中させ、、、五感を感じるまでに感覚が作られた状態なのです、、、本来体は幻想です、、、幻想にも関わらず五感が働くのは意識のなせる技です。

熟睡とは

熟睡とは、、体向いていた意識が、、、意識を止め、、、意識が意識に意識している状態です、、、悟りと同じです、、、意識のベクトルをこの体ではなく、、、意識そのものに戻します、、、、意識が意識していない状態に戻します、、、するとこの体での五感体験が終わり、、意識が意識上で起こる幻想をそのままに気づくという状態が始まるのです。

体が在るという絶対的盲信

この体の五感は絶対的過ぎて、、我々はこの体の存在を絶対的に盲信します、、、本当は意識がこの体にフォーカスすることで五感が生まれました、、、、逆なのです、、、幻想はどこまでいっても五感体験など出来ません、、幻想に意識が意識した時だけ五感体験が生まれるのです。。。。全てが幻想であることが分かったら、、体に意識を向けるのを辞め、、、全現象をそのままに受け入れる時に、、、、この幻想の素晴らしさに気づきます。

幻想は続く、どこまでも

マリオを実在と勘違いすれば、、、

マリオが実在するという勘違いをすれば、、、、マリオの全機能を証明する幻想が次々と現れます、、、どうやって味わい、どうやって触覚を得て、、、どうやって思考し、、どうやって感情を作るのか??????幻想であるが故に、、絶対にそれは出来ないのですが、、、、、幻想故に、、、アリバイ、証拠はいくらでも出来てしまうのです。今後医学が進化することでこの幻想はさらにさらに詳細になっていくでしょう、、、人間が真実を発見したのではなく、、真実が巧妙な幻想化を図るのです。

それ幻想だよ

五感を味わい尽くすだけで幸福になっていく、、、真実を味わい尽くすだけで真実に寄せられていく、、、なぜならばこれは全部幻想で、、、五感だけが真実だからです、、、意識が、、、この体という幻想に意識することで、、この体験が生まれました、、、、この体験は意識が作り出した、、、、意識の体体験です、、、重要なことはこの体体験を幻想の中で証拠を見つけようとしないことです。幻想は、、全可能性を、、、現実っぽくプレゼンします。