夢の中にどっぷりと浸かると視界全てから活気が無くなる

思考の世界にはまり込むと視界から活気がなくなっていく

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの世界は広がります。人間の視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感を利用してこのバーチャルリアリティーゲーム、夢が広がります。人間としての人間活動において人間は形上経験を積み、それによって価値観が形成されていきます。この価値観が「これは夢だ」という真実から離れて行けば行くほどに活気がなくなっていきます。つまり地獄界に入っていきます。そこに出てくる登場人物は信用できない人ばかり、罵詈雑言、陰口、妬み嫉妬の世界です。夢であるという事実から離れれば離れるほどに生きていくのが苦しくなります。思考の世界、分離意識が進めば進むほどに頼れるのは自分だけという無限地獄に入ります。

本当は活気しかない

これは色の世界です、空即是色、空が色として出現する世界、生命が光の世界に変化します。これは生命です。夢は生命の多様性です。ライフの表現。神の表現、アートです。神のアートが濁って見えるのは勘違いが進んでいるからです。ある人を友人に紹介する時に「実はこの人は犯罪歴があって、、」と嘘をついて紹介すれば友人は歪んだ見方でその人を見るでしょう、そうすると本当に犯罪者のように見えてきます。つまり歪んだ見方で、価値観で真実を見ればこの神のアートはそう見えるのです。本当は活気しかないこの神のアートが濁って見えてきます。

生まれたばかりの子供たちは世界が光って見える

生まれてから3歳ぐらいまでの期間はこの世界は光って見えたはずです。なぜならばこれは神が見る夢であり、神のアートであり、生命の表現です。ところがあらゆる経験、知識を取り入れることによってこの夢を現実と誤解するようになり、誤解が進めば進むほどに歪んで見えてくる。真実とは遠く離れていくわけです。真実はこれは夢、以上です。大人は子供と違って見える世界が濁っています、この濁った世界で不足感が沸き続けそれをなんとか処理していく。このメカニズムを暴く時が今です。

人間が悟りを渇望する理由

常に穏やかな人に対し人は無意識に悟りという言葉を使う

実は悟りとはその人の人格とは全く関係がない、極悪人だろうと、犯罪者だろううと、詐欺師だろうとこれが夢だと腹落ちすればそれは悟りです。悟りとは人間が悟るのではなく人間扮する神が自身の存在を思い出すことですから人間役の役柄が王様だろうと一般人だろうと、詐欺師だろうと何も関係がありません。結局は神が何に扮していたかということであり本当の私は神、大いなる一つ、ワンネスであることに何も変わりはありません。そのような中で間違いなくこれは夢だという気づきが訪れます、どう考えても夢だと。現実思っていた目の前の現象が夢だという気づきが起こります。その時人は力が抜けます。

人間でいるのは苦しい

人間とは苦しい状態です、自身を人間であると盲信しこの現実社会にどっぷり浸かっているのは苦しいものです。それは人間扮する神の嘆き、飢え、叫びです。早く神に戻りたい、、ではないですが神はこの人間活動を楽しんでいるという同時に苦しんでいるのです。苦しむのは当たり前ですしそれは承知のこと、なぜならばこの広大無辺、深淵で、偉大な存在がちっぽけな人間の体を自分と錯覚する活動ですから想像するだけで絶句します。この絶句がアーティスト、クリエイターの怒りの元になります。岡本太郎の怒りは神の怒りです。尾崎豊の怒りは神の怒りです。

神でいるのは退屈

神がなぜこの夢物語を作り遊ぶのか、こればかりは神に聞いてみないと分かりません。恐らくこのなぜ?というのは人間の視点であり神に動機は必要ないでしょう。ただそれが起こったということになります。人間が悟りに渇望し、神に渇望するのは、、自身が神であることを本質では分かっています。だからこそ窮地に立たされた時に人は本能的に神に拝みます、仏の拝みます。悟りに興味を持ちます。人間扮する神は窮地に立たされることで八方塞がりになった時に最終手段本当の自分(神)に戻ろうとします。

それでも人は動き続ける、その道こそを至福にする

人とは不足感をバッグに詰めて歩む現象

宝くじに当たった人が数年後にはほとんど自己破産レベルにまで財産をなくす、、これ非常に有名な話です。これを今回は悟りの観点で説明したいと思います。人間はまず不足感を恐ろしいまでに抱えています、人間はその不足感がどこから来ているか理解していないのでお金、名誉、異性、、、など特定の何かを埋めればそれは無くなるはずだ、、、と予測を立てて生きています。だからこそ受験勉強や就職、結婚、大出世など、、大きな収穫物を目の前にすると胸が躍るのです。ところがです、人間のこの不足感は特定の何かで埋まるわけがありません。人間の不足感とは神が人間に扮することで生まれたものだからです。ここが人生というものを苦しくします。宝くじに当たったら、この人と結婚できたら、、この会社に就職できたら、、、これら大きな夢を叶えた人が目の当たりにするのが絶望です。

どうせこの不足感が埋まることはないのだから、、、

人間はいつかの段階でこのことに気づきます。。理想のパートナーとの結婚、安定した収入、、可愛い子供、、理解ある上司、、、これらを手に入れてもそれでも湧いてくる不足感、孤独感が終わることがないことをです。ということで仏教では「足を知る」という言葉が生まれるわけです。私は実はこの言葉が嫌いです、諦めとしては現実的でないと思っています。そうではなくこの不足感解決をヒントにして、機会、チャンスにしてそこから悟りに入ることを勧めています。そこに向けて完全燃焼する、そこに向けて無心になる、無思考になることで無我夢中の状態、悟りに至ことを勧めます。

完全燃焼、無心無我、無我夢中こそ、、神の道

無心になってお寿司を握る職人さんはその場で神になっています、無思考になって仕事に当たる人はそこで神になります。自分を忘れて子供の世話をするお母さんはその場で神になります。人間が行為そのものになるとき、そこには人間は存在しません。あるのは神の現れです。打算的に、小賢しくそこに当たるとそこに自我(思考)が残ります。結果的に最も苦しい道を歩むことになります。いかに入り込めるか、いかに完全燃焼に向けるか、いかに無心になってことに当たれるかが重要です。人間の無限地獄からの脱却は目の前の道を神にできるか否かにかかっています。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

神頼みが無駄に終わる理由

誰が神頼みするのか?

いざとなった時の神頼み、ピンチの時の神頼み、、では神頼みするのは誰か?それは人間扮する神です。人間になり切っている神が神に頼みごとをします。これは滑稽な行為です。なぜ神が神にお願いすることがあるのでしょうか?神が人間になり切っているからこそ欲求不満、不平不満があるのであってそこを解決しなければこの問題は解決しません。神が自身を人間であると信じているからこそ不平不満が湧くのであってこに不平不満を神に頼んで叶うのならば意味不明です。そしてもしもこれが叶ったところで不平不満は延々に続きます、神が人間であると勘違いしている限りは。

頼みも願いも見当違い

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って夢物語を送っています。この夢物語は神の不平不満が爆発します、神が人間という狭苦しい存在であると勘違いしているのでそれは当然です。その人間活動中の神が不平不満の解決を神に頼ること、これが神頼みです。意味不明です。神がわざわざ人間になって不平不満体験をしているのにその解決を神に頼るというこのジョーク。神社でこの事実を公言したら命はないでしょう。

パワースポットとは何か?

この夢の中ではパワースポットと呼ばれる場所が登場します。その場所に行けば幸運が訪れる、開運する、ラッキーが味方する、、、まー色々あります。そしてこの夢の中ではそれも起こるでしょう。夢の中ではあらゆることが起きます。ですがここでも厳しいことを言うならばそれによっていかに目的が叶っても夢が叶っても不足感が無くなることはありません。欠乏感が無くなることはないのです。なぜならば神が人間に扮してこの夢を生きている限り無限大の不足感が湧いてくるからです。そのことを理解するためのパワースポットならば大歓迎です。

無我夢中とは神になること

無我夢中という言葉は面白い

これは夢です、神が見る夢です。神が主人公である人間に扮して夢物語、ストーリーを体験する夢です。この夢の中で無我夢中になるとどうなるか、夢の中でさらに夢に入るとはどういう意味か?神に戻ります。夢の中で夢中になるということは夢から外れるという意味です、つまり神になるということです。ゲームに無我夢中になっている少年はその瞬間神になっています。仕事に夢中になっているプロは神になっています。これは最高のジョークです。子供が大谷翔平を夢見るとは、、、神になりたいと言っていることです。

何でも無我夢中になってしまう

私の適職はなんだろう?私の天職は何だろう?簡単です、無我夢中になれる仕事です、、、無我夢中になれるならばその瞬間神になります。神が夢から覚めた瞬間、神です。神がこの夢から抜け出すとき神になります。思考で考えてどうのこうの言うよりも無我夢中になれる仕事を探すべきです、その瞬間神になります。歓喜、安堵、平和が襲ってきます。

無我夢中万歳

この人生で無我夢中になれることを見つけたら人生は勝ちでしょう。無我夢中の状態は神がこの夢物語から抜け出た状態です、つまり人間から神に戻った状態です。人間扮する神が人間を辞めて神に戻った状態こそ無我夢中の状態です。だからこそ難しいことは考えず無我夢中になれることを探すべきです、お給料が少し低い、将来性がない、世間体が悪い、、これらを理由に無我夢中になれることを避けるならば神になるチャンスを逃します。

どうせ夢ならば遊び倒す

夢だからこそ真剣に生きる

これは夢です、ワンネスの見る夢です、神が見る夢です。夢の中で人間扮する神が人間活動をする夢です。夢ならば本気になれない、夢ならばしらける、夢ならば適当に生きよう、、これも理解できます。ですがなぜこの夢を神、ワンネスが作ったかを考えればそれは間違いであることが理解できます。神は完璧、安全、安堵、平和、愛そのものでありだからこそそれ以外の経験を積みたかった、これが答えです。だとすれば適当に生きるよりも真剣に生きる方が様々な感情を得ることができます。この夢、ゲームを真剣に遊び倒すことでその目的は達成できます。

失敗、失望、落ち込み、は夢、ゲームの醍醐味

スーパーマリオを真剣にプレイしない人間はゲームで感動もありません。真剣にこれに打ち込むことで感動があります。真剣だからこそ失敗すれば悔しいし、落ち込むし、頑張れる、、そして上手くいったならば感動、幸福、歓喜も訪れます。ゲームは真剣だからこそ面白いのです。この夢、神が作った夢も同じ、真剣に遊び倒すのが正解です。夢ですからどうせ大したことがない、、だからこそ真剣に遊んでしまうということです。夢中になること、無心になること、無思考になることで遊びながら神になる、歓喜になる、平和になれたらさらに最高です。

夢だからこそ映画のように生きれる

人間がハリウッド映画に魅了されるのは信じられないほどにスペクタルな人生をそこに観れるからです。自分の人生では絶対にできないようなチャレンジをそこに観れるからです。ですがこれが夢であると分かってしまったらもう映画に負ける必要はありません。映画の主人公ばりに人生をチャレンジで満たすことは可能です。映画はなぜ深刻な気持ちで観なくて済むか?それは幻想、ドラマ、作り物だからですよね。そうしたらこれも夢です。これも幻想です。これも神が見る夢です。何を恐れる必要があるか?という話になります。

どうせ夢だから笑って暮らす

例えば濡れ衣を着せられ、、

例えばですが友人から最大限の裏切りにあったとしましょう。預けていたお金を全部横領されたと、、、多くの方は死にたいほどに傷つくでしょう。ところがです、、、これが夢でありその友人は登場人物の一人に過ぎないということを心底理解していたら彼の行動を責めるという感情が湧くでしょうか?多分湧かないはずです。なぜならば彼の心情を察し、彼の思考回路を想像してこうこうこういう理由でやったんだな、、という推測を元に人はその人間を恨むのであってこれが夢であると分かっていたらそのような推測をしません。夢ですから。夢を見ている存在の思うように展開しているだけです。勿論友人を突き詰め、白状させればそれなりの理由を吐くでしょう、、ですがそれすらも夢の中での出来事です。徹底的に真実追求に命をかけて友人を追い込むこともできますが、夢の中でそうなっただけと開き直ることもできます。

夢だと分かっていて果たして深刻になれるか?

これが夢だと分かっていて日々の出来事に果たして深刻になることはできるでしょうか。これが夢なのになぜ深刻に捉えることができるのか?ということです。人々はこれをとんでもない確実な現実であると捉えて生きています。みんなで「これは現実である」という暗黙のルールを決めて全員で縛りあっています。勿論夢の中で。これが幻想、夢であると心から理解できるともう深刻に物事を受け止めることができなくなります。夢だと分かればこっちのもの、もう脇役の顔色を伺う必要はありません、脇役の心配も全くする必要がない、、脇役はこの夢にリアリティーを与えるために登場します。クッパやクリぼう、ピーチ姫のように。ですがこれは全部幻想、夢です。

夢だと分かっていて果たして悩むことはできるか?

これは夢です、どう考えても夢です。神が見る夢の中で主人公として私を演じている夢です。これを夢だと分かったときに果たして重く悩むことはできるのか?ということになります。夢の中であらゆる悲劇、惨劇、事件が起きたとしてもそれも夢です。勿論、家族や親友、大事な仲間に何かあったらその瞬間悩むかもしれません。ですがそれでも夢です、残念ながら夢です。夢の中で起きる出来事の全ては夢を見ている存在(ワンネス、神)が好き勝手に決めていますから諦めるしかありません。これをサレンダーと言います。

観念が変わると新しい問題が登場し最終的に神に戻る

観念は世界を変える

大きな体験をすると観念が変わります。例えば大病をする、大借金をする、倒産する、投獄にあう、、これらの体験は確実にその人の観念を変えます。この人間ゲームにおいて観念が変われば見ている世界が変わります、全く新しい人間関係、それに付随する問題が登場します。人間ゲームにおいてあらゆる経験がその人の観念を構築していきます。ゲームのOSが切り替わり次のゲーム展開が変わっていきます。

観念を変え続け最終的に「これが夢だ」という観念にする

ワンネス総指揮、人間夢物語はワンネスが人間に扮する夢です。この夢において人間はあらゆる体験を積んでいくわけですがそれによって観念、信念が書き換わっていきます。大きな病気に遭えば体を大切しにし、大好きなことをやって死のうとするでしょう。投資に失敗し大借金をすればお金中心の価値観が崩れるはずです。観念が変わるとこの夢物語が変わります、見える世界が変わります。これは夢です、そのぐらいは簡単に起こります。あらゆる体験を重ね、あらゆる目標、渇望を叶えたにも関わらずそれでも満たされない自分がいたときにこれが夢であることに気づきます。この夢の中で人間をしている限り至福には至れないと。

最終的に自分は実は夢の中の登場人物だった、、、という観念

良い大学に入らなくてはならない、良い就職先を見つけなくてはならない、良い伴侶を探さなくてはならない、、子供を良い学校に入れなくてはならない、、これらは観念です。観念は大きな体験とともに変化していきます。お金よりも健康、名誉よりも小さな幸福、仕事よりも生きがい、、、と観念は変わっていきます。これが神が見る夢のシステムです。観念が変われば世界が変わる、夢ですから。そして最終的な観念、それがこれが夢だと気づくこと、誰の夢か?神が見る夢です。これは神の夢で私は神が扮する主人公なのだという気づきです。

GOOGLEグラスの1億倍リアルなワンネスグラス

グーグルグラスはこの世のカラクリを暴く

グーグルグラスが注目を集めています。その中ではあらゆるエンタメを楽しめる、さも目の前にアーティストが居るかのようにゲーム展開されます。そのグラスを掛けるだけで3D展開された画像、音楽が聞け、本当に目の前に世界が広がっていきます。最終的には前に広がる何かに触れるような錯覚を作り出すようです。。。もしもこのグーグルグラスが10000億倍緻密で高性能のものが製作されたら、、、果たして人間はそれをゲームと見破ることはできるでしょうか。まずできないでしょう。目の前のキャラに触れて、体温も感じれ、香りも嗅ぐことができたときにそれをゲームと見破れるかということになります。この夢は神が作った夢です、人間様がこれを簡単に見破れるわけがありません。

ワンネスグラスは思考をインストールする度に見える世界を変えていく

この世界はグーグルグラスではなくワンネスグラスです。神がワンネスグラスをかけて人間体験をするゲームです。このワンネスグラスでは人間が何かを経験し信念を書き換えていくと見える世界が変わっていきます。思考がこのOSをアップデートしていき見える世界を変えていきます。経験し信念が書き換わるとOSがアップデートすることで見える世界が変化します。妊娠すると街中に妊婦さんが増えるように、ベンツに興味が出ると街中でベンツを見かけるように、買いたいスニーカーが出ると、町中でそのスニーカーを履く人が増えます。ワンネスグラスは信念の書き換えでいかようにも見える世界を変えます。

最後はワンネスグラスを外して神(ワンネス)に戻りたい

ワンネスグラスの問題点は、そのグラスをかけている限り本当の意味でストレスは解消できないということです。ワンネスグラスをかけている限りワンネスの状態(歓喜、平和、安堵)に戻れません。どこかでグラスをかけているというこの事実を発見する必要があるのです。どこかでグラスを外してやっぱ裸眼最高だよなと思い出す必要があるのです。ワンネスグラスはワンネスが退屈、ストレス、孤独感、苦痛感を楽しみながらもやがてか安堵、平和、歓喜を思いだすための道具です。