不足感

今ここ以外に事実が隠れているという思い込みから不足感を生産し続ける人間活動

今は平和だが将来はわからない

今は平和に生きれているが将来は不安だから毎日準備を続けよう、これは多くの方が抱き続けている思考のパターンです。今ここは平和だが、、、これが勘違いです。今ここに入り込めれば戦争中だろうが、火事場だろうがそこは平和、安堵、歓喜なのです。これ以外はありません。今ここはいつでも歓喜、安堵、平和なのです。今ここを離れ思考の世界(夢の世界)にどっぷり入り込むとそこから不足感が湧き出してくるのです。歓喜な状況、平和な状況、安堵の状況はないのです。今ここに一つになった時に歓喜、安堵、平和にシフトするのです。

将来のことは分からないが、まずは今ここで平和になる

今ここで平和、歓喜、安堵になれなければ将来なることもできません。そもそもそのような条件はないのです。今ここが歓喜、平和、安堵です。今ここが不足感、孤独感、欠落感ならば恐らく将来もこの状態でしょう、なぜならばこの事実を知らないからです。平和、歓喜、安堵とは条件を揃えて人間が手に入れるものではありません。平和、歓喜、安堵とはそれを求める自分が実はいないことを悟ることです。平和、歓喜、安堵とはそれを探し求める自分ストーリーの夢から覚めることです。

今ここで平和そのものになれてなぜ将来を心配するのか

将来の不安のほとんどは平和、歓喜、安堵になれない人の心理状態です。ですからそのようなものに振り回される意味は全くありません。平和、歓喜、安堵を手に入れる条件と勘違いしている人間活動者の思考がこの将来不安を生み出すのです。全存在の自我ゲームがこの将来不安を生み出します。自我ゲームから降りてしまえばそこには全存在(歓喜)しかないのです。全存在が将来不安を抱えるほどバカらしいことはありません。もちろんこの将来不安ゲームを楽しんでいるのも全存在ですから万事OKです。

スーパーコンピュターをアップデートする意味とは

知識が悪い訳ではない

知識をつけることは悪いことではありません。知識をつけることはこの現実社会で生き抜いていくために重要なことではあります。選択肢を広げます。むしろ知識をつけるために無心になって取り組めば学ぶことで無我に入ります、ワンネスに入ります。即歓喜、感動、至福です。学ぶことを通じて人間は神に戻るのです。

受験勉強も悪くない

受験勉強を通じて無心モード、無我モードに入ることは可能です、そこに思考が出る幕はありません、集中して勉学することは悪いことではないのです。人は何からでも無心モード、無我モード、夢から脱出モードに切り替えれるのです。知識を得ることから、無心、無我、全存在に入ります。

ワンネスがスーパーコンピュータを有効に使う

知識をつけることで無心、無我、ワンネスへの切り替えができたら次にこの知識を使ってスパコンを使って明晰に考察することもできます。スパコンを使い続けていれば不足感が湧いてくることを自覚できていれば危険なこともありません。スパコンを使う時は人間、自我モードに切り替わりますから長時間使用は避けなくてはなりません。思考=この心身こそは自分であるという自我モード起動スイッチです。

思考は自我モードに自身(全存在)を切り替える

思考を使えば自我モード全開に

思考自体は何も悪くありません。思考はこの体をサバイブさせるためのスーパーコンピューターです。だからこそこのスーパーコンピューターが優れているほどにこのスパコンを使い倒したくなります。ですがこのスパンコンは人間にしか使えません、つまりスパコンを使い倒す時に人間に戻るのです、人間であるという錯覚を強めます。人間モード、自我モードは苦しみ生み出しモードです。不足感湧き出しモード=人間モードですからスパコンを使い倒せえば使い倒すほどに不足感が湧き出してくるのです。スパコンで問題解決が終わった時には同時に不幸になるというおまけがつきます。

スパコンを使ったら即無心モード、無我モードにシフトする

無心モード、無我モードは幸福、至福、歓喜、安堵です。このモードにいる限り全存在が全存在に戻ります。人間錯覚モードが解除されます。幸福が幸福行為をするだけのゾーンに戻ります。スパコンはたまに使うのみにして基本は無心、無我、真我モードでいるのが得策です。無心。無我、真我モードには時間、空間という縛りがなくなります。思考、人間、自我モードでは時間と空間の制限を受けます。思考、人間、自我モードは全存在との分離ですから不足感、欠落感、孤独感湧き出しモードです。

優秀なスパコン使用者が自殺に至る理由

優秀なスパコンを持っている人はこのスパコンを使い倒したくなります。なぜならば大変大きな結果を連発できるからです。ところがこのスパコンを使っている時、自我モード、人間モード全開になるので不足感、欠落感、孤独感も全開になります。大きな結果を出すとともに不足感が全開になるというおまけが付いてきます。優秀なコンピュータを持つ人は、結果が出た後に自身の欠落感に絶望して自殺を図りたくなるのです。優秀なミュージシャン、優秀なエンジニア、優秀な実業家がたまに自殺しますがこのパターンは大いにあります。

電気自転車が最もわかりやすい

最初だけ電動、途中から自走

昨今電動補助付きの自転車がメジャーになってきました。この電動自転車は自我と無我の切り替えを大変上手く比喩できるのでこれで説明したいと思います。自転車は最初の数分だけ電動補助が起こります。そして勢いがのっら自走に切り替わります。電動は初動や、坂道のみ、あとは自走です。本来人間の思考もこのように使えれる大変便利です。これから何をしようか?では始めよう。ここまでは思考モード、自我モード、、、そして集中できてきたらそのまま無我モードです。お茶を入れよう、ここまでは思考、自我モード、、、お茶を入れ始めたら無我モード、、、書道、茶道、剣道の基本です。

自我モードは疲れる、自走モード、無我モードは疲れない

自我モード全開は大変疲れます、思考がめぐれば巡るほど心身こそは自分自身という自我が発動され大いなる一つと分断された状態です。不足感、欠落感、孤独感が湧き出てくる状態です。そして無我モード、無心モード、無双モードは大いなる一つそのものの状態、この状態は全く疲れないのです。歓喜、平和、安堵の状態になっています。いかに自我の時間を減らし、いかに無我の状態を増やすかこれがコツです。

無我モードで自走していて雑念が湧いてきたら即切り替える

無我モードでの自走運転モードは全く疲れず歓喜、平和、安堵の中にいるわけですがそれでも人間の体を持っている以上どこかで飽きます、雑念が湧いてきます。そうなったら思考モード、自我モードに切り替えて次の所作、動き、作業に切り替えていきます。そして初動負荷を乗り越えたらまた無我モード、集中モード、無心モードに切り替えるのです。ほとんどの時間を無心、無我、無双モードになると歓喜、平和、安堵そのものが1日を占めるようになってきます。何かを渇望したり、何かに執着したり、何かに囚われる日々からここで初めて解放されるのです。

仕事中毒の解説

仕事も中毒になる

常に孤独感、欠乏感、不足感が湧き出てくるこの人間という生き物は仕事すらも中毒化してこの感情を感じないように努めます。少なくとも仕事をしている間はこの不足感、欠乏感、孤独感を感じずにいられるからです。ですがこれらの感情から逃げるための仕事は大変疲れるために結局違う苦しみになって取って代わるだけです。体力を消耗し、思考を消耗し疲れ果てていきます。仕事をしていないと不安になるのはただ不足感、欠乏感を感じないように逃げているだけなのです。

仕事に集中し切ることでそこから悟りに入る

仕事に集中し無我の状態に至りますと、即歓喜、安心、安堵に至ります。仕事に入り込むことで安堵、歓喜、安心を体験できるのです。そうなりますと人はいつでもどこでも平和、安心、安堵に至れることを学習し仕事以外にも興味を覚えますし、スポーツ、エンタメ、あらゆるところから悟りに入るコツを掴むのです。集中している時は歓喜、安心、安堵そのものになれるのです。ですからもう仕事中毒にはなりません。

仕事中毒と集中は全く違う

中毒と集中は似ているようで全く違います。中毒はただの逃避であり集中は思考を削ぎ落とし歓喜、平和、安堵そのものになる行為です。中毒である逃避は一時的なごまかしを延々と続ける行為です。中毒行為に至る人はやればやるほどに疲れ果てていき、集中に専念する人は元気そのものです。なぜならば無我とは元気そのものだからです。

予定を入れたがる中毒について

予定を埋めていないと不安になるメカニズム

全存在であることを忘れ一個人の分離した人間であるという思いこみを始めた瞬間から孤独感、虚無感、不足感が湧き出てきます。そしてこの感情を自分の中で湧いていると勘違いをします。これがこの夢の仕組みです。なぜこの夢劇場ではひたすらにこの孤独感が湧くかといえばそういう理由なのです。予定を埋めて常に人に会う約束をすればこの孤独感が無くなるとさらにまた勘違いをします。人間が抱える孤独感とは実はこの孤独感なのですがこれを人は勘違いをして人に会えない孤独感なのだと解釈するのです。そのため365日人に会っても実はこの孤独感は解消されません。この孤独感を感じないように逃げ続けているだけなのです。

カンの鋭い人は途中で気づく

人に会っていても全く孤独感は癒されていないと、その通りなのです。人間が抱える孤独感とは人に会って解消されるものではないのです。勿論人に会うことが良くないとかを言っているわけではありません。人に会うことでその人に無心になって集中し真摯に向き合えば向き合うことで無心になり無我の状態になります。この状態は歓喜、安堵、平和、愛の状態です。何人の人に会うか、何時間会うかは実はどうでもいいのです。人と会うという行為を大切にすること、相手に集中することが重要です。ただの時間潰しではなくどこまで相手に寄り添えるか、相手に真摯に向き合う会話であればそこから悟りに入れます。その瞬間、歓喜、平和、安堵の中にいます。

孤独感と向き合うことで悟りに入る

一人でいることを人間は孤独だと勘違いしています。人間であることが孤独なのであって一人でいることは孤独なのではありません。何十人と一緒にいても本当の孤独感は一切解消されないのです。それは孤独の意味を履き違えているからです。孤独感は大いなる一つの勘違いから生まれてきています。ですから一人になることを恐れるのではなく一人の状態から悟りに入る、歓喜に入る、安堵に入ることが重要なのです。

女性の買い物中毒のメカニズム

女性が買い物好きな理由

人が買い物を好きな理由はなぜでしょうか?買い物というのは何かしらの欲しい対象です。海であることを忘れた波は自身が本来は広大無辺な存在であることを覚えていますから常に渇望感、不足感を抱えています。海の代替品、全存在の代替品を求めて日々生きています。その代替品の一つが買い物です。買い物で次から次へと買い続けるこの行為は大なる存在の代替品を得続ける行為なのです。ですがこの代替品は大いなる一つとは全く違い規模が小さいですから直ぐにお腹が空いてまた買い続けることになるのです。

男性がタバコを吸い続ける理由

タバコを通じて人間はニコチンを摂取しているわけですがニコチンはこの大いなる一つの代替品です。ニコチンでハイになりたがるのはこの欠乏感、欠落感を埋めるためです。ニコチンのような興奮剤は全て脳内に幸福ホルモンを分泌するわけですがこのホルモンで欠落感を一時的に埋めているわけです。ですがこれも分泌が終わればまた吸いたくなるということです。多くの方が一度タバコに手を染めると死ぬまで喫煙し続ける理由がこれです。

男性がお酒を飲み続ける理由

男性がお酒を飲み続ける理由も同じです。大いなる一つが自身をちっぽけなこの人間であると勘違いすることから欠落感、孤独感、喪失感が湧き出てくるわけですがこれをお酒が一時的に埋めてくれます。お酒も飲むと幸福ホルモンが分泌されるため飲み始めると多く場合死ぬまで飲み続けます。人間である以上お酒をやめることはほぼ不可能です。「人間やめますか覚醒剤をやめますか?」というキャッチコピーのスローガンを一度見たことがありますがこれは皮肉にも真実です。人間を辞めない限り基本中毒というものから逃げることは不可能です。自身は人間だという勘違い、そしてこれが全て夢だという腹落ち以外に不足感、喪失感、虚無感はなくなりません。それは自身が本当は完璧な全存在だからです。

海であることを忘れた波は疲れている

海であることを忘れると思考フルスロットル状態になる

海であることを忘れた波はなぜか不足感、欠落感、孤独感が半端なく中から湧いてきます。朝起きて寝るまでこの欠落感、欠乏感、孤独感をひたすらに埋めるために思考フルスロットルで動き回るのです。そして動けば第二波、三波の感情が次々に湧いてきますがこれらは先ほどの欠乏感、孤独感が形を変えたものであることは間違いありません。なんとかしてこの感情解消のためにあらゆる手を尽くし、頭を尽くし動きますがこのイタチごっこは半永久的に続くために徐々に疲弊してくるのです。よって人間はどこかで中毒対象を見つけ出し中毒行動でこれを乗り越えようとするのです。それが恋愛だったりTVだったりゲームだったりギャンブルだったりお酒だったりです。

なぜここまで何かに中毒になるのか?

この夢物語の中では常に不足感、欠落感、孤独感が襲ってきますからいかにこの感情を沈めるかに思考はフルスロットルになります。結果多くは何かしらに中毒になることでこれを乗り越えようとします。それをしている間思考を削ぎ落とせるような何かを求め続けるのです。人間にとって中毒とは現実逃避ではなく全く意味がわからないこの欠乏感、喪失感、孤独感を感じなくさせてくれる助け舟なのです。そしてこの思考の削ぎ落としを中毒ではなく全ての人間活動の所作からそこに入れますと夢物語から常に抜け出た次元にシフトできているので欠乏感を感じずにいられるのです。どのタイミングでも意識、気づきの意識に戻れる人は中毒とは無縁で生きられます。

この夢物語では湧き上がる欠乏感を中毒ではなく、思考フルスロットルでもなく、見抜くことで解決する

もしかしたらこれは誰かが見ている夢なのか?そのような疑問が湧いてきたらこの夢から覚める準備ができています。夢を見ているのは主人公ではなくこの夢をただ認識するものです。これまでこのただ認識するものにあらゆる名前をつけてきました。神、ブラフマン、キリスト、仏、空、、、名称は多くの場合この夢の登場人物達によって誤解されていきます。このただ認識するものがこの夢を見ています。湧き上がる欠乏感を主人公のモノと勘違いさせ主人公を右往左往させ時に積極的に時に消極的にこの欠乏感を埋めることを目的に動き続けさせてきました。何かに中毒になっても相決するわけでもなく、思考フルスロットルでも解決はしません。これが夢だと見抜き俯瞰することで深刻さを根本から無くしていくことでこの夢物語から認識するものが覚めるのをただ待つのみです。

苦しみ、欠乏感、孤独感から逃げるのではなく、、

なんとか誤魔化してこの夢物語の欠乏感、喪失感から逃げ続けるのは至難の技ですからそうではなくこれに向き合うこうことが重要です。準備ができた登場人物はこの喪失感に向き合うことでそこから無心に入る、無我に入る、全存在に入っていきます。喪失感の根源は自分自身そのものであり外にこの解決を求めても無駄です。自分自身が全存在であることに気づく以外この戦いは続きます。

海であることを忘れた波は損得でしか動けない

思考とは損得を判断するもの

夢の中の登場人物は思考をフルに使って存在しますがこの思考とは損得機械です。自身にとって何かしらの得があると思考が判断すれば動き、損があると思えば動きません。究極の損得マシーンなのです。そんなはずはない、親が子にかける愛情はどうなんだ?となりますが見ず知らずの子供の世話をする親がほぼいないように自分が腹を痛めた子供だからこその限定的な愛になります。これは本当の愛ではありません。子供を自分と同一視して愛情をかけているだけです。故にこの夢劇場ではどこまでいっても損得での人間関係が広がります。

夢劇場の登場人物に損得以外の期待をしないこと

この現実社会は夢劇場でありよって人間関係はどこまでいっても損得で行われます。どんなに深い関係の夫婦も、友人同士も突き詰めると損得がそこにはあります。自身は人間であるという錯覚をしたこの夢劇場の登場人物である限りこの縛りから逃れられないのです。自身は全存在ではなく別個の人間であると誤解したこの夢の登場人物は本来が全存在であるからしてどこまでいっても不足感の塊なのです。ですからこの不足感解消のために生き続けることになりどこまでいってもこの不足感解消に繋がらない行動は取れないのです。人間の行動のベースは完璧なまでに不足感の解消になります。

不足感をお互いに解消しあえるから関係を結ぶ

どんなに神聖な関係に見える人間関係でも人間=不足感であり、この不足感解消が人間の義務です。この人なら自分の不足感を何かしらで補ってくれる、これが人間関係を結ぶ動機でありこれ無しで成り立つ人間関係は皆無です。だからこそお互いの期待を満たして上げることができなくなるとその関係は破滅に向かうのです。なぜならば不足感を解消できない場合、苦しみと向き合うしかもう方法がないからです。夢物語での人間関係とは究極の損得関係でありここから抜け出すには夢から覚めるしかありません。

この夢物語は不足感、欠乏感がひたすらに湧いてくる

湧いてくる感情を自分のモノとしてこの物語は続く

全存在が思考を使ってこの夢物語を誕生させているわけですが、この夢物語は不思議なほど感情がどこからか湧いてきます。物語上はこの主人公の感情ということになっていますが実際はただ感情が湧いていてそれを自分の感情と主人公が捉えるという流れです。自分のモノとするという自動反応が起き続けるのです。感情が湧きこれを自分のモノにするというメカニズムが起き、それによってまた不足感が変換された感情が湧き続けるのです。こういう流れでこの波物語には感情が頻繁に登場するのです。

この心身こそ自分自身と勘違いすることで不足感が湧きそれを思考で解決しようとすることで他の感情に変換されていく

思考と感情はセットです。もちろんそれもただ湧いてきているだけですが。全存在がこの心身こそを自分自身と勘違いする思考が現れることによって不足感が湧き上がり、見かけ上全存在ではなくなったことで全存在の代替品を探すことにまた思考を使います。ところが思考が探してきた代替品はこの夢物語の中にあるモノから探し出してきますからこれは全存在のやはり一部でしかないのです。そうなればその代替品の賞味期限は瞬時に尽きることになるのでまた違った感情が湧いてくるのです。この感情は全て不足感の変容パターンでしかありません。この感情を解決しようとまた思考が湧いてきて全存在の違う代替品を探し出していきます。

ゆえにこの夢物語の中に至福を探すのは疲れる

自分自身(全存在)自分を分離させ渇望感を味合わせ、自身(全存在)の代替品を追い求めさせるのがこの夢物語の基本構造ですかなかなかしんどいゲームであることは間違いありません。ですがあらゆる感情、不足感、欠乏感、孤独感、虚無感、焦燥感、、、これらは全存在が全存在のままでは味わうことが決してできない感情ですから全存在はこの感情を味わえていることに感動します。全存在(感動)が焦燥感を意識することに感動(全存在)しているのです。全存在(感動)が焦燥感を一時的に解消できることに感動(全存在)するのです。ですからアジャシャンティーはこの状況を全てうまくいっていると表現します。