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海として生まれてきた者を波であると洗脳するには7年間の歳月がかかる

赤ちゃんは海としてこの世に生まれてくる

赤ちゃんがなぜ生まれてきて大人とコミュニケーションができないのか?それは彼ら彼女らは見た目は別個の存在ですが感覚は海として生まれてきているのです。そのため海が海とコミュニケーションしようとします、そこに言葉を介在する必要がないのは明らかです。海が海としてコミュニケーションするというのはあり得ることではないからです。ところが赤ちゃんは戸惑います、自分にミルクをくれるこの海(母)はコミュニケーションが伝わらないと。そして途中で気づくのです、目の前の海(母)は以心伝心できる相手ではないと。そこからはひたすらに父(別個の波と思い込む海)と母(別個の波と思い込む海)による別個の波であるという洗脳が赤ちゃん(海)に続くわけです。

7年間かけて完全洗脳が完成する

海として生まれてきた赤ちゃんにあなたは海とは別個の独立した波であるという洗脳、勘違いを起こさせていきます。これを人間界んでは教育と呼びます。波の世界の言語、概念、考え方、波として生き延びるためのサバイバル方法に至るまで、、延々とこの教育は続くわけです。赤ちゃんが完全に独立した波であるという実感を覚えるのにかかる歳月は7年ぐらいと言われています、7年間の歳月を使って叩き込まれたこの固定観念はそう簡単に解けるわけがなく故に子供になった赤ちゃんはもう自分の意思ではほぼこの洗脳を解けずに人生を終了させるわけです。それもそのはずいくら苦しみ悩んでもそれを解決しようとする思考が波言語だからです。思考を使えば使うほどに自身は海ではなく波であるという洗脳が強化されるのです。言葉は自身は波であるという大前提に作られています。波が作り出した言葉、思考を使って自身が海であったという記憶が戻るわけがないのです。逆に言えば言葉、思考こそが波を波で居続けるさせの、海であった時の記憶を思い出させないための最強の砦でもあるのです。言葉の主語は基本別個の独立した波であることが多く、言葉の基本構造が波の独自性を強固にするのです。

なぜ独立した波を前提にした理論が破綻しないのか

本来は海であるにも関わらず自身を独立した波であると思い続けるのは実は苦しいことです、なぜならば実際は間違いなく波は海の一部でありしかも独立していないからです。独立していると思い込むことはできても事実は独立していないのです。こんな矛盾を抱え続けて生きているのが人間という勘違い生命体です。こんな勘違いした生命体がルールを決め、法律を決め、道徳を決め、正義を決めてお互いを監視し合って生きているのですからそこに争いが絶えないのは当然のことです。お互いがお互いを勘違いしながら生きていて平和な関係が続くわけがないのです。世の中の悩みの7割近くが人間関係であるのは当然のこと。自身を独立した波であるという大きなる勘違いをした者同士の関係性はいずれ破綻を迎えます。

大いなる勘違いをした状態で日々前を向いて生きていこうとすればあらゆる幸福マニュアルが必要になる

自身を海ではなく独立した波であると勘違いした状態でそれでも生きていかなければならないのがこの人間ゲームです。当然苦しいわけです、なぜこんなに小さいのか、力がないのか、影響力がないのか、人気がないのか、稼げないのか、貧しいのか、、、とあらゆる不足感、孤独感、渇望感、絶望感が襲ってきます、それはそのはず海の広大な感覚、海の喜び、歓喜、海の安心感を知っている(当たり前)存在が自身を波と勘違いすればあらゆる感情が中から湧いてくるのは当然です。しかも生まれてきた時(赤ちゃん)は間違いなく海として生まれてきたのです。喪失感たるや半端ないのです。だからこそ芸能人はバレても不倫をするし、犯罪もするし、お金持ちがなぜか万引きをする、成功者がなぜか他人を羨むという珍現象が生まれるのです。それもこれも初期設定の勘違い、大海原が自身を波だと勘違いしたことからこの不幸は始まります。

目標を達成してもしなくても地獄

不足感を解消してもしなくても地獄

人間は不足感を抱き続ける動物です。人間が私は人間であるという自覚を持った瞬間に不足感が生まれます。全存在、いや存在しかないこの世界に個人という錯覚、幻想を抱いた瞬間に個人以外の他が生まれます。極小の自分の誕生と同時に壮大な他の世界が誕生します。ですがこれは自身に対する無価値観も同時に生み出すのです。それはそうです、見える世界全てからこの体だけが自分に縮小化された存在は息苦しくて仕方ないのです。そしてこの自分と称する存在に浮かび上がる思考は自分では到底コントロールできないという始末、無価値にも関わらずさらに思考する全くコントロールできないという無限地獄に苛まされるのがこの人間ゲーム、自我ゲームの真相です。これで人生最高、幸福、ハッピーしかないと宣っている人間がいたらそれは大嘘つきということになります。

苦しくて当たり前、苦しくないとしたら頭がおかしい

全存在がこの人間という体、思考のみを自分自身と勘違いすることからこの人間ゲームはスタートするわけですから人間のデフォルトは苦痛、不足、欠乏です。苦しいのがデフォルトであって幸福がデフォルトでは決してありません。ですから人間は普通に生きていれば苦しさだけがあります、この事実を先ずは認めなくてはなりません。その上でいかにこの苦しみから解放されるかが唯一の目標、夢になります。なぜ人間はお金持ちと結婚したら、良い会社に就職できたら、良いパートナーに巡り合えたら、、、いつか幸福になれると幻想を抱き続けるのはこの苦しみから逃れる方法があると思い込んでいるからです。ですが実際はそのような不足感を埋めてくれるような対象などあるわけがないのです。なぜならばそもそも対象と苦痛とは何も関係がないからです。

対象と苦痛とは何も関係がないにも関わらず

対象と苦痛が何も関係がないにも関わらず人間はなぜ埋めてくれるだろう対象を探し続けるのか。それはそれにしか希望が持てないからです。目に見える何かしか私の欠乏を埋めることができないと信じるぐらいしか希望がないのです。故に人間は愛人、お金、地位や名誉、安定という対象を求め続ける人生を歩むのです。ではもしもこれらの対象が人間の不足感を埋めることができないとしたらどうしたら良いのでしょうか。そうです、不足感を対象で埋めるのではなく苦しみの根源である自我を追いやるしかありません。行為に没入することで無我の状態に入り徐々に無我の状態にシフトしていく。今ここで無我に入ることで自我を追いやる、これしかありません。夢から覚めた感覚、至福の感覚を今感じることで至福に見つけてもらうことしかありません。無我に入り込むことで無我に見つけてもらうしかないのです。

非二元ブームはなぜ起こったか

この現実がどこまで行っても苦しいことに大勢が気づき始めた

自我は先ず経済的満足を追求します。腹が減っては戦ができん、では無いですが自我は先ずは経済的満足を追求します。収入の良い仕事、将来性のある仕事、恋人、家、結婚などなど、、そして多くの満足を得たにも関わらず全く満足できない自分自身に驚愕します。得た直後は満足感はありますがその後にくる喪失感、退屈感の襲撃、この感覚にほとほと疲れ果てたのちに次に求めるのが精神的満足です。地位や名誉、プライドをみたし精神的満足を得ていきます、しかしここでもまた挫折が、、、どこまで行っても全く満たされない心、欲望の存在です。そこで次に登場するのがスピリチュアルと呼ばれる精神世界への探究です。ここではオーラ、チャクラ、ハイアーセルフとこの世界ならではのヒエラルキーが登場しそこを着実に登る山登りが始まります。この探究、この山登りこそが本当の幸福、至福に自分自身を目覚めさせてくれると。ところが、、このスピリチュアルの探究でもやっぱりダメ、どこまで登っても全く至福に至れないのです。ここまできて初めて人は非二元、悟り、というアイデアにたどり着くのです。そう、自我の探究、自我の山登り、自我の向上では至福にが至れないということを。自分を自分と思い込むこの自我こそが不幸、不足、枯渇、孤独を生み出してきた張本人であることに気づいてしまうのです。これが非二元、ノンデュアリティーです。

もう山登り、自分向上は辞めたい、、

あの人は素晴らしい、あの人は悟っている、あの人は何かが違う、、、この人を称賛する自我の動きは実は苦しみのメカニズムです。人を持ち上げるということは人を見下すことでもあるのです。つまり人間を階級で考えているのです。この考え方は世の中には人間という個別の存在がありそしてそこには称賛できる人もいれば逆に見下げるべき人もいるという山登りを証明します。自分よりも先に登っている人、自分よりも登れていない人がいるというこの強烈な錯覚こそが人を苦しめるのです。もうそろそろ気づかなくてはなりません、世の中に称賛すべき人も非難すべき個人も存在しません。全ては存在の顕れ、存在の現象化、存在の人間活動です。全て全く同じ粒子で構成されています。上下比較できる対象ではないのです。人を称賛すればそこに至っていない自分自身を見下すことになります、無価値観を強めます。人を見下せばその時は悦に入れますがそれも一時期、そのあとはただのプレッシャーに変わります。人間同士の比較も、人間という存在のカラクリも見破る時期が来ました。

夢の登場人物を比較する無意味さ

あなたは自分自身が毎晩見る夢の中での登場人物に優劣をつけることに意味を感じるでしょうか。自分自身で作っておいてそこに優劣をつける意味はありません。もちろんゲームとして優劣をつけることは自由ですがそこに何か価値はありません、ただの遊びです。これはこの現実社会も同じです、夢の登場人物に優劣をつけそこに自分自身も入れて比較しプレッシャーで苦しんでいるのが人間ゲームの苦しさの一つの原因です。どこまで山登りして自分自身を高めてもそこには答えがないことをそろそろ気づく時なのです。夢の登場人物として自身を高めていくことと至福とは何も関係がないことを悟る時が来ました、これがノンディアリティー非二元です。比較する対象は何もないということ、自分と他人も、自分と対象物も何もない、、ただそこには夢の登場人物がいるというだけです。

有名人の自殺に思うこと

有名俳優、有名女優の自殺について

コロナに入り有名人の自殺がニュースになりました。名実共に評価を受けるような役者さん、女優さんの自殺は一体なぜ起きるのでしょうか。顔も良く、スタイルもよく、かつ収入も良いといった世間的には全てが勝ちゲームの状態でなぜ有名人は死を選ぶのでしょうか。この事実に自我はどう答えを出すのでしょうか。自我は常に不足、欠乏で欲求が起こります。自分がこんな小さな体一つで体以外の世界は全て自分以外。とてつもない小さな自分と、とてつもなく大きな自分以外、、これで自我は孤独、欠乏という感情を生み続けるマシーンになります。本当は存在そのもの、神そのもの、が自我というこの体の中こそが自分というメカニズムに乗っ取られてしまった結果強烈な無価値観に苛まされてしまうわけです。結果地位も名誉もより良きパートナーも、子孫も、見た目も全部欲しいという欲しい欲しいマシーンになっていきます。

最初から諦めて絶望と共に生きていくか、チャレンジを繰り返し最後に絶望をするかの二択

人生には二択が用意されています。最初から人生を諦めてこんなものだと絶望して生きていく生き方と、あらゆるチャレンジを繰り返し、地位や名誉、収入を手に入れながらもやっぱり何も永遠に満たされることはないと最後に絶望するかです。どちらも最後は絶望というところが同じです、つまり自我のプログラムが起動している状態で永続する満足を手に入れるのは不可能ということです。ですからそのことを若くに悟り何も目指さないと決め込むか、徹底的にチャレンジし自我が欲する欲望を満たし続け最後に疲れ果てるかの二択が用意されています。亡くなってしまった有名人は私からすれば後者になります。

もう一つの選択肢、夢から覚めてしまう

そして最後の選択肢があります。それがこの世、夢から覚めてしまうということです。今見ている夢から覚めてしまえば絶望感を味わないですみます、そしてこの夢から覚めるのは誰か、それは人間活動を行っている自我ではありません。存在がこの夢、自我を通じて見ている夢から覚めるということです。渇望ゲーム、不足ゲーム、快不快ゲーム、刺激退屈ゲームであるこの夢から覚めてしまうということです。これで絶望を味わなくて済みます。

これは情報や知識ではない

知識とは自我がより快適に存続するためのもの

本屋に行けばあらゆる情報、知識がありますがこれらは全て自我が快適に存続していくためのノウハウ本です。就職のための知識、婚活のための知識、お金儲けのための知識、、、全て人間としての存続をより確かなものにするための知識なのです。ところがこのブログでお伝えする内容はその自我こそが錯覚、幻想、嘘だという内容のものです。そしてこの自我が存続するための世界もまた夢の世界という内容です。

より知識を得ていけばより自我が強化されていく

自我とは思考を自分のものと捉えるプラグラムです。知識を得ていけばその知識でもって思考が強化されていきますから自我が強固になっていきます。自我が強固になっていけば自我があるという錯覚も強化されていきますから夢に没入していくことになります。夢に没入すればするほどにジェットコースターも強化されていきますから人生から苦しみは絶えなくなっていくわけです。

情報や知識ではないこのブログは一体何なのか

自我ゲーム、人間ゲームの最大の醍醐味はこの世が夢だったということに気づくことです。この世のアトラクションゲームよりもこの世が幻想、夢だったということに気づくことこそが存在の感動です。存在はこの感動を得るためにこのゲームの夢からいつか覚めるわけです。怖い夢から覚めた時の安心感を人間が体感するように存在もこの夢から覚めて感動します。このブログは人間ゲームに苦しんだ自我が読むことでその奥にある存在が目を覚ますように書いています。

輪廻転生は自我の延命アイデア

輪廻転生から外れる、夢から覚める

輪廻転生、ハイアーセルフ、アセンデッドマスター、、、これらのアイデアは自我が自我としてあり続けるためのアイデアの一つです。分離ゲーム、人間ゲームを継続させるためにあらゆる設定が加えられていきます。死んだ後も輪廻は続く、そして卒業したら次のステージ、ハイアーセルフのステージがある、全て自我の延命、自我が自我としてあり続けることを可能にするためのアイデアです。

本当はこの夢だけがあり、夢が覚めればただ存在だけがある

自我があり、この体は自分自身だという壮大なギャグ、錯覚が抜け落ちれば、、そこには時間も空間もなく存在だけが残ります。輪廻転生もハイアーセルフも、アセンデッドマスターもギャグをより詳細に詰めたものでありそのディテールの細かさはアメージングとしか言いようがありません。この分離ゲームをいかに夢から覚めずに続けていけるか、ディズニーランドのアトラクションのようにそれはそれは凝った作りになっているのがこの人間ゲーム、分離ゲームの凄さです。

この夢の中では至福には至れない

夢が夢であり続けるためには主人公が至福に至り存在が夢から覚めてしまっては困るわけです。ですからこの夢では主人公に次から次に事件が起こり、良いこともあれば悪いこと、快適なことがあれば不快なこと、人気者であれば不人気者の時期があるのです。しっかりと相対の事件が起こり続けていくのです。ですから主人公にとってはたまったもんじゃありません、絶対に至福は訪れない、、延々にジェットコースターのこの世界から離れることはできないのです。夢から覚める以外は。

明晰夢とは

夢の途中でこれが夢であると気づくこと

明晰夢という言葉があります。これは夢を見ている最中にこれが夢だと気づくことです。この感覚をこの人間ゲームの最中に気づくこと。これが悟り、目覚め、一瞥体験です。そしてそれに気づくのは誰か、それはこの夢の主人公ではありません、夢を創造している存在、つまり本当の自分、我あり、です。

無我夢中の時、それでも意識があるのはなぜ?

無我夢中の状態、ゲームに没頭する、仕事に没頭する、映画に没頭する、、、このような状態にいる時意識はなくなっているでしょうか、無くなっているわけがありません。むしろ明晰、むしろ鋭敏な状態。決して朦朧ではなく意識そのものです。無我夢中なのに意識があるのはなぜでしょうか、無我なのだから自分はいないのになぜ意識はあるのか?それは自我こそが後付け、自我こそが錯覚、無意識状態だからです。自我がなくなればそこには意識だけが残るのです。この意識そのものの感覚を思い出すことこそが神、ワンネス、大いなる一つの状態です。至福の状態です。この感覚を思い出したならばこの意識で日々を送ることです、これがワンネスがこの夢を夢と理解した状態での生活、つまり明晰夢です。

何かに集中できる人はその瞬間神になっている

マイケルジョーダンが試合中に神になったとよく形容されますがこれは実は本当です。神がかったプレーと称されるその瞬間、実はそこには自我が消えていて無我だけが残ります。自我の勘違いが抜け落ちそこにが無我、神が残っています。神が意識が直接人間を動かしているのです。自我が払い退けられて状態、この状態を人はゾーンに入ると言いますがそのゾーンは意識の状態です。無意識ではなく意識しかない状態、自我が自分でプレーしているという勘違いをしていない状態です。この瞬間に意識的に入れる人は達人、仙人、悟り人、マスターと呼ばれます。神が人間ゲームを遊んでいる状態です。