イメージ

観念書き換えの嘘

ここで大きく振り出しに戻される

観念書き換え、、これには私も随分騙されました、、、本当にこのトリックは見破れない、、、多くのスピ本に書かれている観念書き換え、、、観念がこの世界を作っている(夢)のだから観念さえ書き換えちゃえばOK!!本当に夢がある話、イリュージョンを利用しちゃえ!!!これには驚かされ、、私もついに最高の観念を所有し夢のような世界をつくるぞ!!!となったのです。。。

大きな勘違い

観念を書き換える自分(イメージ)が存在しない、、、、ここは最重要な落とし穴、、とんでもない言葉のマジック、、、観念を書き換える個人(イメージ)が居ないんです、、、、この夢の登場人物、「私」は言葉が作ったイメージ、概念、妄想であって、、、この私は、、、ただ現象の動きに従うだけ、、、全くもって観念書き換えができないのです、、、これは騙される、、、まんまと騙されます、、、

どこまで行っても受け身

スピと悟りの究極の違いは、、、自由意志の存在の有無です、、、、スピでは、、自由意思肯定派が多い、、ですが悟りは自由意思否定、、、、どこまでいっても自由意志は存在しない、、、つまり観念書き換えを能動的にするのは不可能、、、となるのです。悟りとはただ淡々と事実に向き合うこと、、、事実を認識し、体験し、、諦めていくことなのです。。。。だから悟りはサレンダー、、究極の諦めです。

今この瞬間の観念を確認する

今起きている現象は観念の現れ

個人が居てこの個人が歩む人生がある、、これが我々の基本的な認識です、、、この認識に基づく経験が積み重なっていき観念として形成されていきます。今自分の観念を確認したければどうするか???簡単です、、、今見えている現象、この現実(夢)を見ればいいのです、、この現実がどうなっているかが、、あなたの観念です。私を支える観念こそがこの現実(夢)です。

全く同じお店に入っても

例えば友人と全く同じお店に入っても感じる印象は違いますね、、一方は安くて美味しい店、一方は高くて不味い店、、、と。。。これを左右する存在は何だ????それが観念です、、、大いなる一つ、ワンネスが我々の目に入った瞬間、観念によるイメージ化が起こり、、、そこにあらゆる分離した現象が起きるのです。するとその視界を見て感情が起き上がり、それに気づきます。もうこの現実(夢)が本当であると感じるサイクルに入ります。脳はこの夢を現実であると信じ込ませることで、、この現実(夢)からこの体(自分)を守ろうとする動きを起こすのです。この夢が現実的に見えてもらえないと困るのです。。だからこそ本気で思っていること(観念)がこの夢を作り出し、、、これは間違いなく現実であるという思い込みを起こさせるのです。

観念が大いなる一つを分離した現象に見せ(夢)それを体験することで益々その観念が強化される

観念こそがワンネスを分離した現象化に導きます、、結果、、その夢(現実)を見た自分は、、これを現実と勘違いできるのです、、つまりこの自分は一生この夢を現実と思い続けることが出来るわけです。この自分をこの夢(現実)の中に一生閉じ込めることができます。「やっぱりそうだ!!!」が生きていると連発されるのは、、、観念がこのワンネスをイメージ化しているからです。私が経験した全てが今この目の前に現れています。だから今見える世界が私の観念を証明してくれているのです。

観念書き換えの嘘

多くのスピリチュアル本ではこの観念を好きなように書き換えて好きな世界を作りましょう、、と提案します、、ですがこれは、、、本末転倒、、、これを自由意思で書き換えることができる個人は存在しませんし、、観念を書き換える自由意志も存在しません。。。ただただ淡々と事が起き続け、、、観念が自動的に書き換わっていきます。

死という言葉を知らなければ死を経験できない

我々は覚えた言葉を経験する

死という言葉、、、この言葉を知らない人は、、、死というイメージ、概念を全く持っていません、、その場合ば90歳近くになってもこの自分が死ぬということを全く予想がつかないということになります。そして夜寝ている間に死んだとしたら、、、その人は死を経験せずに死ぬのです。。。。その人の人生には死は存在しなかったことになります。我々は言葉で覚えたことを経験しているのです。

会社という言葉を知らなかったら

もしもTVもなくラジオもないような島で住んでいて会社という言葉を全く聞いたことがなかった場合その人の人生で就職するという経験は起きません、、就職しようも起きない、、、会社で働くも全く起きない、、、その人の人生には会社は全く存在せずに終わるのです。会社という言葉を覚え、会社で働くという言葉も覚え、、先ずはイメージが起こります、、、このイメージが先にあり、、その経験がこの現象界で起こるのです。

我々は覚えた言葉しか経験できない

この人生が夢物語だというのは、、覚えた言葉しか経験できないからです。。。言葉で先ずはイメージを作りそれを経験します。言葉でイメージが作られていきますと、、そのイメージを実体験として体験できるようになるのです。私というイメージが、ホテルというイメージに泊まる、、、私もホテルという言葉を覚えていない期間は私がホテルに泊まったという経験が起きないのです。先ずは経験があってそこに名前をつけたのではなく、名前を先ずは覚えることで経験が生まれています。これがこの夢物語の創造方法です。

先ずは現実(夢)を、、、

悟りは横に一旦置いて先ずは現実を

多くの方はこのような展開で悟りが遠ざかります。。悟らないと幸福にならないのは知っています、、ですが先ずは目の前の現実(夢)を、、、、このパターンで毎回毎回悟りが遠ざかります。。。今は会社が忙しいから、、先ずは現実(夢)を処理して、、、ですが本当のことを言ってしまえば、、今現実が大変なのは悟りが閉じているからです。。。悟りが閉じ切ってこの夢が超現実的だから辛いのです。解決すべきはこの現実(夢)ではなくて、、、悟りが閉じていることです。

この現実(夢)はあなたの観念が作っています。

ここに一輪の花があります、、、この花に神々しさを感じないのならば、、、あなたの観念がこの花をただの物質に見せているのです。。。。花という言葉のイメージがこの花に重ねられて、、、そのイメージを今あなたは見ています。。。このイメージが重苦しいものであればあるほどに花を歪めます。この現実(夢)の歪みは、、観念の歪みです。

現実(夢)とは、、観念の反映

引き寄せの法則、、、、引き寄せる個人が観念ですからこれは観念です。。そうではなく、、、現象を認識する脳が『この個人の経験に基づく観念』をこの真実、現象に観念イメージを重ね、、、そのイメージを見ています。例えばブランドグッチを崇拝する人は、、グッチの靴を履く男性を素敵な人に写します。感動すらします、興奮すらします、、イメージをその現象に重ねているのです。。。ですから現実(観念を反映した夢)が辛いのならば、、、だからこそ悟りの学びが重要になります。。この現実(夢)に惑わされなくなっていきます。

思考の産物から脱出するには??

思考の産物から脱出する

じゃあ具体的にどうしたらこの思考の産物の世界から出ることができるのでしょうか???これが思考の産物だと思って最初は生活してみるのです、、思考が瞬時に作りだした、、イメージの世界、概念の世界に居るということを強烈に意識します。。。意識に意識させるのです、、、これが思考の産物であることを、、、すると徐々にそれを経験できます、、、確かに!!が出てきます。。。

経験するまで学ぶ

悟りとは根性です、、、悟りとは忍耐です、、悟りとは根気勝負です、、、つまり感じるまで学び続けるのです、、、どこから入ってもいい、、覚者は其々全く違うことを言っているように感じます、、、、ですがそれはこちらが気付いていないから、、、全く違うように聞こえるという事実だけです、、、全く違うように感じるという階段を登っているのです。先ずは理解が起き、それが絶対的理解になった時にそれを経験する状況が起きます、、すると経験が気づきを起こします。

この携帯がアイフォンだと理解すると

アイフォンを知らない人の世界にはアイフォンは登場しません、、、、この格好良い携帯、、、アイフォンって言うんだ、、、へー、、、、から突然、、、、その人の人生にアイフォンがガンガン登場します、、、悟りも同じ、、悟りってそういうことなんだ、、、、へー。、、、が起きると悟りの体験がガンガン起きる、、、先ずは悟りってそういうことなんだねーへーが起きなくてはならない、、、そこまでは根性です。

鳥の動きが優雅なのは

優雅さの理由

鳥の動きに焦りがなく、小賢しさがなく、優雅なのは、、、そこに自己が不在だからです、、、、在るという感覚の中でただ動きが起こっているからです。。。「私は今飛ぼうかな??明日にしようか、、やっぱり明後日だ???」これらの思考の動きが皆無です。。。私は周囲からどう見られているかな???という思考も湧かない、、、完全に今に在り、、、動きだけがあります。

思考に取り込まれていると

思考に取り込まれ自我全開、完全ストーリーの中に居ますと、、、、鳥の動きの優雅さに気づかない、、音楽の美しさも、植物の神々しさも、、何もかもが、、淀んだ世界に変わってしまう、、、この神の現象が、、、ただのイメージ、概念に浸っていく、、、、本当はただ今ここに神が起こす現象しかない、、、このことに気付いてきますと、、、観念が落ちていき、、その度に、、光が戻ってくる、、、これは幼少期に見ていた景色、、、

全部を神の起こりであると捉え直す

先ずは練習です、、頭でこれが神の起こりであると認識していきます、、全思考、全感情、全行動が、、、神の起こりであると、、、、徐々に徐々に認識が深められていきますと、、。次はそれを体験として感じるようになっていきます、、、体験としてその事実を経験できるようになります、、、次にただそれを感じる状態になります、、、

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

私というでっち上げ

所詮は脳のイメージですから

私は脳が作り出したイメージです、、、この体の一部である脳が、、この体の中に私が居るというイメージを作り上げ、、、二重の意味でこの体を守らせようとするアイデアです。。時間というアイデアも作りだし、空間というアイデアも作り出し、、この私というアイデアが、、、この時間空間を歩むというアイデアをでっち上げたのです。。。壮大な壮大な茶番をぶち上げたのです。

悟りとは茶番の終わり

悟りとはこの茶番の終わりです、、悟りとはこれが茶番と見抜くことです、、、悟りとはこれを茶番と見抜き、私というアイデアを見抜き、この時空間も概念であることを完全に見抜くことです。。。全経験を感じているのは真我であって、、私というアイデアではなかった、、、私というアイデアがなぜ経験を感じることなどできるのか、、私というアイデアがなぜ経験を積むことなどできるのか???経験という言葉すらも概念です、、本当は経験という概念すらもない、、、

私物語の終わり

私というイメージが、、この時空間というイメージの中を歩むというイメージが起こり続けた、、脳が作り出した壮大な茶番劇、、本質は再び本質に戻り、、本質として、、感じ続ける、、、私というイメージを通じた経験ではなく、、、本質が本質そのものをただ気づくというそれだけ、、、言葉の全ては概念で、、、その概念が抜け落ちた世界、、、ただこれだけ、、、、

どちらが居心地が良いか

自我、無我

覚者は、、、孤独感、不足感、焦燥感、から解放されます、、、この私というイメージ、妄想が、、この物語を作り出し、、、この中に収まっていますと、、、孤独感、不足感、焦燥感が湧き出してきます。この事実を見抜き、、この物語から脱出したのが覚者です。この体は勿論残りますが、、この体の中に私というアイデアがありません、、構って欲しいという衝動も起きないのです。話しかけられた時に、、「私」というアイデアを想像し、、その時は「私」として振る舞います。ですが会話が終われば「私」というアイデアは消滅し、、全体に戻るのです。

体とは無我そのもの

体とは無我の表現、真我の表現そのものです、、、体は自我ではありません、、自我は体が生み出したアイデアです。。。。ですから静かに体と共にあるとき、、無我です、、、体をマッサージして、、緊張を緩めれば、、自然と無我に入れます、、、、マッサージの心地よい感覚、、これを感じているのは無我です、、、そのまま無我としてそこに在る状態になります。

真我が作り出した体、体が作りだした自我

自我とは突き詰めれば真我が作り出した、、真我が体を作り、体が自我を作った、、この自我の存在を実在だといく勘違いが起き、この自我実在ストーリーが作られました、時間という概念も作り、空間という概念も作り、、完全な劇場です。自我はどこまでいっても脳が作りだしたアイデアですからこの事実をしっかりと見つめれば自我は消えます、、自我ありきのストーリーも消えます。

孤独感を幻想と見抜く

私は一体何をやっていたんだろう、、脳が作り出した「私」というアイデア、、脳が作り出した、、分離社会、、この中で私という幻想がこの分離社会を生きるというでっち上げの中で生きていました、、、この体を安全に維持するのが最大の目的です。このことに気づきますと、、孤独感、焦燥感、不足感が湧いてこない、、、なぜならば私とは、、この世界そのもの、、現象そのもの、、大自然そのものです、、私とは脳が作り出した「私」というアイデアではない、、、それは100%。もうアイデアとして生きるのは終わり、、人と接する時だけ、、、「私」というアイデアをでっち上げ、、対応するだけ。

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、