イメージ

思考はドラッグ

思考とはドラッグだった

思考について多くの方は甘く考えています、、、思考とは「こ・と・ば」で出来ています。。。これは音の組み合わせ、、発音の組み合わせを用いて、、、何をイメージさせる道具です、、、、「り・ん・ご」という音の組み合わせ、発音の違いを利用した、、、イメージ化ツールなのです、、、、この言葉を7歳ぐらいまでに覚えた子供はこの言葉を利用して、、、、イメージ化に成功します、、、、独り言を言ったりします、、、これは呪文です、、思考でファンタジーを作り出し、、、ファンタジーの世界に住むのです、、これはある種刺激的であるがゆえ人はこれにどっぷりハマるのです。。。

もしもあの子と付き合えたら。。。

小学生高学年ぐらいになれば、、、人間はしっかりと言葉を使ったイメージ化に成功し、、気になるあの子のことを想像するというファンタジー制作に勤しむことになるのです。これが大変刺激的であるがゆえに、、ハマりにハマるのです。。。。ですがこれは完全にファンタジーの世界への没入ですから「満足感」が抜けています、、ただ刺激的なだけです、、、「虚しい」のです、、、ファンタジーですから。

満足とは、、、

満足とは何でしょうか?????満足とはこの世界での真実に触れることです、、、真実に触れることしか、、「満足」は絶対にありません。。。。。では真実に触れる唯一の方法はなんでしょうか????幻想を経験することです、、、幻想にしっかりと経験を起こすことです、、、、この幻想の世界(現実)で体験、経験、五感を作るのです、、、これだけが真実です、、、それ以外は幻想です、、、、

思考しないで体験だけしていれば、、、、大満足????

え?????てことは、、、全く思考せずに、、、体験だけを積んでいけば、、、大満足の人生なのか?????そうです、、、、本当です、、、、ですが、、、、自我OSシステムは絶対にそれをやらせないでしょう。。。。。これは得か損か?????この行為はコスパが良いか????あの時あんなことをしなければ、、、、と大連発で起こり続けることでしょう、、、、

だから覚者は、、、、

だから覚者は、、、、思考を観察せよ!!!と連呼するのです、、、、思考の創造主ではなく観察者であれ!!!と、、、、思考の湧き上がりに注意せよ!!!!と、、、、自分が思考しているということに気づけば、、、自分が思考というドラッグに手を出していることに気づけば、、それで半分終わりです、、、、あ、、、また思考してたな、、、、は、、、、あ、、、またドラッグに手を出していたな、、、と同じです。

コンフォートゾーンの崩壊

快適域

個人は、、、コンフォートゾーン、快適域の中で生きます、、、、会社員をやっている、、年収はだいたいこのぐらい、、、快適と思える生活を無意識にしています、、、、私というイメージは、、、、、、慣れ親しんだ空間、生活、友人関係を維持しようとします、、、、脳は、、、生き抜くために、、、快適域を設け、、、、その中で良くも悪くも生きるのです。

個人が居ない

個人が居ないとなりますと、、、、このコンフォートゾーンが崩れます、、、、、快適域に収まる個人が居ないのですから、、、快適域自体が消えてなくなるのです、、、、私というイメージに見合った、、空間、友人、財産、、、全てが消えてなくなります。。。。この時に気づくのです、、、、この快適域は、、、、実は個人という妄想を縛り付けていたのだと、、、この快適域こそが個人を絶対的なものに仕立て上げていました、、、、

あなたってこういう人だよね

〇〇さんってこういう人だよね、、、〇〇さんらしいね、、、これらは全部周囲が認識する、、、、「私」のイメージです、、、、、このイメージが、、、この私というイメージを強化します、、、、、やっぱり「私」ってこういう人なんだ、、、、と。。。。ですが全ては妄想、イメージ、概念です、、、、本当は、、、「私」は居ないんです、、、、、ですから「私」に見合った、ちょうど良い、環境は存在しません、、、、あえていうならば「私」とは見渡す限りの現象全てです、、、生命現象、幻想そのものです、、、、

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

どうでもいい、、ではない

全ては同価値

悟り、ノンデュアリティのメッセージは、、、ある種世捨て人的な概念、イメージを植え付けます、、、ですがこれは全くの誤解です、、、、全てが同価値になるのです、、、、母親も、近所のおばさんも、その猫も、、、全部が全部同価値の世界、、、全くの虚無主義です、悲観主義とは真逆です。なぜそうなるのか???それは真実の現れに優劣が全くないからです。。真実はたった一つ、、目の前の経験であり、、、それ以外もそれ以内もないのです、、、ただこれだけ、、、、

全人類が生徒

全人類が学校の生徒、、、、先生は生徒の価値に優劣をつけません、、なぜならば成績の優劣は、、生徒の価値の優劣とは全く異なるからです。。。これが悟りです、、、、全生命現象に優劣がなく、、、全人類の思考に優劣もあるわけがなく、、、全人類の行動にも優劣がないことが完全にわかっった時に、、、この感覚が芽生えていきます。

悟った、、、

強烈なリアクション

多くの方が悟りに懐疑的なのは、、、悟った人に対し、、、自身がとてつもなく不信感の目でその人を見てきたからです、、、、嘘くさい、うさんくさい、怪しい、、、のオンパレードです、、、ヤバイ!!!!自我防衛システムにとって悟りとはこのシステムの崩壊を意味します、、一生懸命この体を守るために機能してきたシステムを崩壊させるなどありえない、、、だからそれが崩壊した人が登場すれば懐疑的な目のオンパレードです。あら探し、自我探し、悟り詐欺を見抜いてやる、、、になります。

だからこそ、、、

だからこそこの自分が悟りを開くなどあるわけがない、、、あの怪しい輩の仲間入りなどしてなるものか!!!になるのです、、、、ですが本当の悟りは個人に起きるものではありません、、、個人が居なかったという強烈な気づきが起きるだけなのです、、、、自我防衛システムがシステムでしかなかったことを見破るだけなのです。ですからこれは、、、多くの方が考えている悟りのイメージとはまるで違う、、パラダイムシフトです。

自我を愛する

実は、、、自我を冷静に愛することが、、、、自我解放に最高なのです、、、なぜならば自我はこの体を守るシステムであり、、このシステムは間違いなく有効にこれまで機能してきたのです、、、この機能を否定するなど、、、完全なる空気読めない行動です、、、自我という鉄壁な防衛システムは誉め殺しに限ります、、、自我は褒めてなんぼ、、そして自我を褒め殺すことで、、、本当に消滅させます。

自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

天使も悪魔も

本当に居ると思えば

天使も悪魔も妖怪も、、、本当に居ると確信すれば、、観念のレベルまでもっていけば、、、それが見えます、、この現象界でそれが姿を現します、、、、見えるということはそれが観念化したということです。見えないということはそういう観念ではないということです。この現象界は「無限」の鏡の世界です、、観念化すればそれが現れます。

だからもう追いかけなくていい

天使が現れ、悪魔は現れ、妖怪が現れ、河童が現れ、、、信じれば出現する世界、、これが現象界です。。。重要なことはこれは観念を映し出す鏡の世界だということです、、、これは「無限」の姿見の世界です。。この観念の世界を観念と見破らない限り、、、終わりがない、、、無限です、、、いつこの無限を終わらせるのか???いつこの無限の世界の表現(私物語)を終わらせるか????今です。

空想を出る

「天使をはっきりと見たんです」、、、事実でしょう、、、ですが天使を見るには「天使」という言葉を絶対に知っている必要がある、、、先ず「天使」とそのイメージを持っている必要がある、、、この大前提が無ければ、、、天使は絶対に現れない、、、、、なぜならばこれは観念が映し出す世界だからです。ここを完全に見抜くことが悟りです。

イメージを着る

ブランド品の数々

ブランド品とはイメージです、、、エルメス、グッチ、ディオール、、これらはイメージの世界です、、、エルメスには歴史があり、、その歴史の全てがイメージを支えます、、、ブランドにはゆえに時間が必要なのです、、時間という絶対的な概念がブランドを支えます、、、時間がなければブランドは存在できません。ブランド=時間です。

ブランドには意志はない

エルメスというブランド名には意志は存在しません、、、ですが意志があるかのような物づくりをします、、エルメスならではの作品を作ります、、、エルメスらしくないことはしません、、、ですが実際にはエルメスというのは名前であって実在ではない、、意志は全くないのです、、、、ですがまるで意志があるかのうようなブランド展開に成功することがこの幻想の世界での一つの在り方です。

人間の自我も全く同じ

人間には「名前」というブランドが付いています、、、これはただの名前です、、、ですがこの名前を持つ自我という存在が確実に居るという大前提で人は動きます、、エルメスと全く同じです、、、私にふさわしい行動をとります、、私にふさわしいパートナー、私にふさわしい会社、、私にふさわしい友人、、私にふさわしいマンション、私にふさわしい子供、、、です。。。。ブランドが大きくなればなるほどに苦しくなっていく、、、ブランドに耐えきれなくなっていく。

本当は居ないに気づく

自我など本当は100パーセント実在しません、、ブランド同様、、、周囲の反応がまるで居るかのような反応をするから勘違いが起きたのです、、、自我など100パーセント居ない、エルメスという実在、自由意志がある実在は100パーセント存在しません、、、この現象界は、、たった一つの実在、、、空、神、絶対の鏡の世界です。

何を焦って成し遂げることがあるのか??

究極の安らぎ

今ここに究極の安らぎがあって、、、何を一体焦って叶えることがあるというのでしょうか???今ここに完全な至福があるのに、、、なぜ焦って何かを掴もうとするのでしょうか????これは完全なジョークです、、、人間は脳が進化することで、、その脳が言葉を生み出し、、言葉がイメージ、幻想を作り出し、、、その言葉を絶対的なものであると信じたことから、、、我々は幻想に閉じ込められました。。。。この幻想の中でなんとか幸福になろうともがくのが我々の本質です。

言葉を盲信しない

小説では、、、妄想で10人以上を作り上げ、、、楽しむ、、、、小説を人間が楽しめるのはイメージ力、、、これしかありません、、、このイメージ力が、、、、今目の前の現象にそのまま加わります、、、何かを見れば、、その物には名前がありますから、、、名前に不可されたイメージ、意味ががっつり加わります、、、目の前の現象が、、しっかり意味のある現象に切り替わるのです。。。だから全く同じような現象が起きても全く異なった意味が生じ、、、全く異なった感情が生まれるのです。

そして意味を選べない

ではその意味をハッピーな意味に変えちゃえば、、、全部が全部ハッピーになりますよね、、、、となりますがそうではないのです、、、、この世界において、、個人は幻想で居ません、、ですから意味をコントロールできる個人が実在しないのです、、、勝手に思考、感情、行動が湧き上がりますから、、、、どういう意味が付くかは、、、完全に非コントロール状態です。

我々ができることは、、、

つまり、、だからといってこの我々は能動的に意味づけを変えるなど不可能なのです、、、、できることは、、、、この事実に気づくだけです、、、この事実、、、この事実に触れて、、、今この「私」を取り込む状況を確認するしかありません、、、するとこの環境を変えなくては、この状況を変えてやる、、なんとか這い上がってやる、、、、みたいな思考、感情が湧かなくなっていき、、、観念が崩れてきます、、、、言葉が作りだした幻想が緩んでいきます。

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。