いまここ

今ここで悟りを開く

今この場所が爽快

爽快であるのに条件が必要ならばそれは私というストーリーの中にい住んでいます。幸福であるのに条件が必要ならば私というストーリーの中に住んでいます。我々の本質は爽快そのものですから爽快であるために条件など全くいらないのです。覚者と呼ばれる人々が穏やかそうに見えるのはそれは本質が穏やかそのものだからです。自分を手放した覚者とは穏やかそのものにシフトした状態、もはや人間ではありません。人間という器を通じて全体が語りかけているだけです。

開く自己がいない

悟りを開くという言葉は人間が覚醒するイメージがありますがこれは間違い、体に住んでいるはずの自分は実はいなかった、自分が居るという思考が湧いてこない状態を言います。人間の体を通じて自分が居るという思考が湧いていなのがその思考がもはや湧いてこない、、この状態が悟りです。悟りを開く自己はいなかったという気づきが湧くことです。

嬉しい、楽しい、幸せを掴む自己がいない

嬉しを感じるのに自分は必要ありません、楽しいを感じるのに自分は必要ありません、幸せを感じるのに自分は必要ありません。ただその感情が湧くだけで何も問題はない、、、ところが嬉しい、楽しい、幸せを感じる自分が居るという思考が湧いてくる、、、感情を所有する自分が居るという思考が湧き続けます。これが苦しみを湧かせます。この嬉しい、楽しい、幸せを永遠に感じたいという思考が湧くのです。これで苦しくなるのです。なぜならばそんな自分は居ないからです。自分とは事実ではなく空想だからです。空想に顔を埋めると苦しくなるのです。水に顔を埋めると苦しくなるように空想に顔を埋めると苦しくなるのです。苦しいという完璧な感情が湧いてくるのです。ではどうしたらいいか?空想という場所に顔を埋めるのを辞めることです。

個人の次元、存在の次元

次元の垣根を越える

覚者はいいます、今ここに全体があると、、目の前に輝くダイアモンドのような全体があると、、ですが人間はそれを聞いても全く意味がわかりません、なぜならば生きている次元が違うからです。同じモノを見ているようで全く違うものを見ているのです。偉大な人のことを称する時に見ている次元が違うと表現したりしますがあれは本質を突いています。自分を生きている人と覚者では生きている次元が違うのです。

個人は全体を解釈した世界に生きている

個人はではどこに居るのか???それは全体の次元から分離錯覚し、価値観というフィルターで装飾した世界に居ます。存在から独立分離したと先ずは自身を切り抜いてみせさらにその切り抜かれた自分が存在を切り抜いたん分離世界に住んでいると錯覚した世界に居ます。全体とは別次元に住んでいる状態です。全体の中で夢を見ている状態です。全体の中で寝ている状態です。

熟睡後は存在の残滓が残る

個人の熟睡とは個人が一時的に解消した状態ですから存在の次元に戻ります、ここは平和、歓喜、安堵の世界です。だからこそ熟睡後には個人はなんとも言えない至福感にしばらくの時間過ごすことができるのです。そして意識がしっかりしてくるとまた存在とは違う次元に戻っていきます、空気が薄く、酸欠状態になる次元です。そこは時に楽しくエキサイティングですが安堵の至福感とは全く違う焦燥感が残る世界です。

「私は在る」の上で全生命活動は行われている

全生命活動は「私は在る」の上で起こる

全生命活動共通の感覚「私は在る」この感覚の上で我々の生命活動は行われています。この感覚がない場所は一切ありません、この「私が在る」が全生命活動の基盤です、、、この基盤から離れれば苦しくなり、この基盤と近ければ平和、歓喜、安堵です。人間はこの「私は在る」の基盤の上で思考活動に入り、、「私は在る」から離れていきます、完全に離れることはできませんが、、そうなると苦しいが湧いてきます。動植物はこの「私は在る」から離れることができません、ですから常に平和の中にいるのです。

「私は在る」の上で思考活動が続く

覚者は悩める迷い人に「何もするな」と提案します。なぜならば何もしなければ「私は在る」しかないからです。ですがこれを多くの人はすることができません、思考し、行動し、、、、どこか満たしてくれる場所を目指すのです。ですがそんな場所は存在しません、「私は在る」が既に土台に在るからです。にも関わらずどこか遠くに満たしてくれる場所、桃源郷が在ると夢見るから我々は夢の中に居ると言われます。覚者はそこを指摘します「今ここに全部ある」と。

「私は在る」はどこにも行かない

我々は最初から最後まで「私は在る」以外の場所に行くことができません、ここがホームです。これ以外の場所で活動は絶対にできないのです。一度たりとも平和、歓喜、安堵というホームから離れたことがないのです。ですがその中で思考は思考します、、これを達成すればこれが叶えばこれさえ手に入れれば、、私は幸せになれる、、と、、そして思考が湧き続け行動が湧き続け慌ただしい生活を続きます。足元には常にホームがあるにも関わらずです。ですがこの人間活動こそを「私は在る」が経験したかったことでもあります。

マインドは目の前のリアリティを隠すのに必死

目の前には常にリアリティがある

目の前には常にリアリティがあります。リアリティはどこか遠くにある桃源郷ではなく、、今ここに広がっています。ですがマインドはこの事実に気づかせないように必死です。今マインド越しに見ているこの世界はリアリティには見えません、なぜならばマインド越しのこの景色は自分にとって間違いなく曇っているからです。ですから私はこれを真の自分、真の世界、望んでいる世界だとは絶対に認めないのです。

そんな曇った世界を私は見て、、、

なんだこの現実は、、しょうもない、、、本当の私が望む現実はどこにあるのか????こうして思考ががっつりと湧いてきます、この思考こそがリアリティを曇らせる張本人です、自分はこの思考と完全に同一化し益々目の前の世界を曇らせていきます。これによって個人は目の前に広がる真実、リアリティに気づかなくなっていくのです。

もっと、もっと、、

私が望む世界はこんなもんじゃない、、もっと違う良い環境が、、もっと違う良いパートナーが、、もと違う良い仕事が、、、、このもっともっとは思考の特徴です。私の目の前に広がる環境を曇らせている張本人が思考です。ですが目の前の現実が曇っているのも事実だから「自分」はまた思考にしがみつき、思考に変化を期待するようになるのです。これが人間を夢遊病者に閉じ込めるメカニズムです。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。

これは究極のギャグ

思考が湧いて幻想に入るだけ

思考が湧いていない時、ただ非二元が広がっています。今ここにです、これは遠い世界の話ではなく、、ただこの瞬間も目の前には非二元が広がっています。そこに「思考」が湧いてきます、そこに意識が向きます、幻想に入ります。「思考」は過去以来に意識を連れていきます、今この瞬間から離れます、そこが幻想です。自分が生まれます、幻想として。思考が消えてなくなりました、すると非二元に戻ります。そこには「自分」「私」はもういません。非二元だけがあります。

自宅から駅に向かう

自宅から駅に向かう毎日の道、、、何も考えず何も思考せずそこに向かう時、、、、そこには自分がいませんからただ景色が移り変わっていきます、自分と景色という境目もありませんから全体が動くのみです。そこに思考が湧いてきます、すると思考する自分も現れ幻想の世界に入ります。すると「自分」が駅まで歩いていくというストーリーがスタートします、幻想として。それまでは駅に向かう自分は存在せずただ全体が変わっていただけです。

名前をつけたら感動が消えた

何かが聞こえました、、、すぐさま思考が働き「雀」だと気づきます、、その一瞬前にはただ声が聞こえる、、が起こっています。その後に「雀」という認識が起こります。これは「雀」という名前を覚えたからです。海外旅行に行くと見るもの全ては輝いて見えます、なぜならば名前が付いていないから「自分」の中で。それは生命のまりのままの姿、名前がつけらえる前の生命そのものです。そこにガイドが来てこれは「〇〇」これは「〇〇」と名前を教えてくれます、これで生気が奪われます。概念の世界に引っ張られるのです。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

この世はたった一つのエネルギーでできている=大いなる一つ

目の前に大いなる一つはあった

大いなる一つ、神、ワンネス、、、こんな壮大なネームがこの非二元業界にはたくさんありますがこれらは一体どこにあるのか???遠いどこかにあるのか???もしも遠いどこかにあるのならばここはどこだ??ということですが大いなる一つは今ここにあります。我々の目の前の世界こそが大いなる一つでありワンネスであり神です。ですが我々はその素晴らしさを全然把握できていない、感じていない、、、なぜならばひたすらに思考の世界に取り込まれているからです。目の前にあるこの存在を無視して思考の世界に飛び出てしまっているから分からなくなっています。

思考を無視し続けて、、、

目の前のある大いなる一つを感じるためには日々感じていかなくてはなりません、そのためには思考を放置するこちです、思考に取り込まれる癖を見抜きそこに入っていかないことです。そうすればいつでも大いなる一つは目の前にある、、目の前の食事、鳥の声、雨の音、風の感触、空気の味、、、この全部が大いなる一つそのものです。この素晴らしさに気づくないのは、、、ただ思考に取り込まれているからです。思考が湧くとその思考に取り込まれ戻って来れなくなってしまう、、、ただそれだけです。

ただ事実だけを感じていく

お茶を飲んだら味だけを感じて、景色を見たら景色を感じる、鳥の声をただ感じる、、音楽を聞いたらただ聞き入る、、、そこから思考の世界に入らない、、、、思考の世界の入って行くと目の前の大いなる一つが薄くなっていきます。波動が荒くなっていきます。苦しくなっていきます。苦しくなりとさらにより思考することに入って行く、、この連続で人生は苦しみの渦中に。

思考を放置するためには勝手に湧いたことを理解する

思考は勝手に湧く

もしも思考を自分が作り出したならばそれに注力しそこから思考を広げるのも一つでしょう。ですが実際には思考は勝手に湧いてきています、「私」の責任ではなく勝手に湧いてきている、、、ですからその湧いてきた思考に注力する必要はないのです。その思考を大切にしてそこから広げる必要はありません。ただ放置するだけで勝手に消えていきます。

思考は勝手に湧いて勝手に消える

思考は勝手に湧いて勝手に消えます、それにこの「自分」が注力するとそこから思考に取り込まれていきます。ですからここは意識的に放置です、思考を放置することで消えるのを待ちます。絶対的意識でこの思考を放置するのです、そこから思考に取り込まれないように意識します。すると五感に注力できます、見えるもの、聞こえる音、触った感触と体で感じる五感に神経を集中できるのです、そこが今です。そこが非二元です、そこがワンネスです。非二元とは遠いどこかにあるのではなく今ここにあります。

今ここで至福に至れるのに何を求めるか?

体の感覚、五感に意識を向ければ今ここで非二元、ワンネス、至福に入れます。にも関わらず何を求めるのでしょう、人間は今ここから悟りに入れます、思考の乗っ取りに邪魔されなければ人間は今にあるしかできません。今とは非二元、全存在、悟りのことです。こんな簡単に無心、無我に入れるのですからもう何かを貪る必要はありません。

ノンデュアリティの革命

金森将さんはノンデュアリティの革命家

私は日本人の非二元スピーカーを何人か注目していますが金森将さんはその中の一人です。彼の理論はとてつもなくシンプルでありながら誰でも実践できる理論を打ち上げています。この日常生活から非二元に触れるというモノです。瞑想をするでもなく思考観察をするでもなく花道など何かに集中するでもなく、、、日常生活にただシンプルに触れていくという画期的なメッセージです。ですがこれは真理を突いており素晴らしいアイデアです。

非二元を日常で触れ続けることで非二元を理解する

日常生活において非二元とは何か??それはこの体が五感で感じる瞬間です、朝起きてコーヒーを飲む、音楽が耳に入る、小鳥の声を聞く、青空を眺める、、シャワーが肌に触れる、、、、この全てが非二元です。つまりこの体に在るということ、体の感覚に今この瞬間在るということを実感する、、、この体の感覚こそが今ここに在るということ、非二元です。思考を放置してこの体に在り続ける、、、そして非二元に触れ続けることでそのまま非二元に馴染んでいく。。。禅などはこの手法をとるのかと思いますがこれを日常生活のあれこれで実践できるということが素晴らしい。

思考を放置

思考が湧いてきてもただ放置する、、、そこに関わらない、、無視を決め込むのでもなく、、、ただ放置する、、そして再び五感での体感に注力する、、、そこから非二元を感じる、、、非二元の素晴らしさが分かってくる、、、非二元になる、、、周りくどい説明は一切抜きにしてただ非二元に近づいていく、、、言葉や概念から非二元を理解するのではなくあくまで感じていく、、、ノンデュアリティの革命です。