いまここ

日本は合わない、、海外へ

どこも全部全体の現れ

日本よりも海外が合う、、これが起こることは当然あります、、ですがこの日本も紛れもなく生命の現れそのものです、、そこに気づきが起こらず、、、ただこの苦しい国日本を逃げても、、、海外も苦しい、、、可能性があります。。。。日本は神の国、、違います、、全部が神の国です、、、日本には天照大神が居て、、、違います、、、、全部の国は神の表現です、、、

ただそれが起こる、、、

海外に住みたい、、、この衝動も神から起こっています、、、何の問題もありません、、、そして海外にいざ出陣、、、これが神から起きました、、、そこに介在する個人は居ません、、、個人が居るという神の勘違い以外は、、海外旅行ばかり行っていたが最近それほど楽しくない、、、最初は無我夢中になれて至福に包まれますが、、、それが当たり前になると無我夢中になれない、、つまり無我じゃない、、至福じゃない、、です。

無我は今ここでなれる

無我とは今ここで入れます、、今何かに集中しきると、、、無我に入ります、、、今ここで、この感覚を掴むと海外に行かなくてはという焦燥感が抜けていきます。常に至福に包まれてきます、、、全てを全体からの起こり、言動も神の起こり、周囲も神からの起こり、神そのもの、、これに気づくと、、ただそこに居るだけで、、至福に包まれます。自分も周囲も神の表現、、全部を神が回収している、、、そして全てに気づく自分は実は神だった、、、神以外だった時は無かった、、という気づき、、海外も日本も神そのもの

筒人間だと思って生きてみる

もしかして筒人間かも

エックハルトいいます、、気づきの意識だと思って自分の思考を観察してみてください、、と私は提案します、、自分を筒人間だと思って生活してみることを。ただ思考、行動がこの筒人間を通じて起こっているだけなのだと。すると本当にこの私から発せられる言葉、行動は自分が決めていないことに気づきます。なんかしらないけど言葉や行動が湧いているだけだということに気付きます。

あれ、、今まで一度も、言動を作っていなかったかも

本当に朝から晩までの行動を自分で決めてやっているでしょうか。。。コーヒーを飲む動き、排泄の動き、歩く時、、友人と喋る時の会話のあれこれ、、全部筒人間としてやっていないでしょうか、、、なんであの時あんなことを言ってしまったのだろう????こんな機会は多いはずです。そうです、我々は筒人間だったのです。筒を通じて起きる言動をこの筒が自分で決めたと勘違いをしているだけなのです。

ではこの言動を作っているのは誰だ???

全体です、、それは分かった、、、じゃあその全体はどこに居るんだ、、どこに隠れているんだ????今ここに居ます、、、???どこ???今ここで起こることに気づいているのが全体です、今ここで音を感じ、光を感じ、感情を感じているのが全体です。。。。????そうです、、今、今を感じているのが全体です。。この私とは全体のことです。

「人生という旅」の完全否定

旅はない、夢の中でしか

人生を旅に重ねることがります、人生という大海原を彷徨って、、、のように、、ですが実際には人生は存在しません、、、人生があると断言するには記憶が絶対的に必要になります、ですがその記憶を司る脳が実在していないとしたらどうでしょう???人間の体は五感で感じることができる蜃気楼です。蜃気楼ですから実在していないのです、すると脳も実在していないことになります、すると記憶とはどこに存在するのでしょうか、、、記憶は空(ゼロ、サーバー)にあります。

色は現象のみ、色に記憶はない

この世界は色(現象)です、、現象ですから物があるように見える世界です。見える、、ですから実際には存在していないのです。すると記憶を司る脳も実在していませんから記憶はこの現象界には無いことになります。記憶は空(ゼロ、サーバー)に在ります。その証拠に過去の人生全部が今ここに有るという実感が有る人はいないでしょう。記憶とはその時その時に蘇り湧き出すものなのです、全体(空)から。この記憶があるかた「自分」という感覚が全体から起こり、記憶が全体から湧くから人生というアイデアも湧くのです。

本当はこの色(現象)だけが在る

本当はこの個人もゼロからの記憶がそれを起こし、、この個人の人生も空からの記憶によって形成されています。どこまでいっても空の独壇場、色はその独壇場を支える場所です。記憶と個人の二人三脚でこの人生という旅が完成されます。記憶があるから個人が居る、個人がいるから記憶ができる、、、現象しか無かったは見抜けない、、、

「今ここ」に居ようとしてはいけない

全ては「いまここ」ですよー、、の罠

覚者の言葉がそのまま鵜呑みにするとまんまと思考の罠に取り込まれます。「いまここ」と言う言葉もその一つでいまここが全てと聞くと、、一生懸命「いまここ」に居ようとするわけです、、、これは全くの誤解、思考、幻想です。いまここは結果です、、、今こことは「居よう」とする場所ではなく、、、結果的に「いまここ」しかなかったという気づきなのです。

今ここに居ようとすればするほどに、、、

今ここに居ようとすればするほどに今ここから完全に離れます。なぜかいまここは個人がたどりつく場所ではないからです。個人は完全にいまここから離脱しています、自分という言葉は全体から自ら分かれた存在でありこの存在はいまここを探すのは不可能なのです。いまこことは全体のことであり、、、全体から完全離脱した自分が全体を探すのは不可能なのです。いまここを探す自分を完全否定した時に「いまここ」はバコっと登場します。

自分を完全否定????

自分なんて居ない、、、、自分など居るはずがない、、、この言葉を放った主人が「自分」ならば何の意味もありません。自分という存在を探してみても、、どこにも見つからなかった、、、これが悟りです。誰が自分を探したのでしょうか、、誰が自分の居場所を見つけようとしたのでしょうか、、、最初は「自分」が探したのでしょう、、「自分」で「自分」を証明しようとしたのでしょう、、、そうしたら証明できなかった、、、ヤバイ、、マジか、、、、これが悟りです。その時にいまここがニョキッと現れます。自分が完全に居ないならば、、ここがどこだ、、いまここです。

マリオには自由意志も自由行動も一切ない

マリオを通じてただ思考、行動が起きている

マリオは3D画像です、そしてこの3D画像には五感が備わり、、このマリオゲームに臨場感が加わります。そしてこのマリオの中からは思考や行動がわき起こっていきます。マリオ自身には一切思考を生み出す力も行動を生み出す力もありませんからただ全体を通じてこれが起こっているのです。全体から思考も行動も浮かび上がり、、失敗すれば今度は悔しいが湧き上がりこれを全体が全部回収していきます。全体から全てが湧き上がり全体が全てを回収します。マリオは3D映像に過ぎず、、そこが最重要ポイントになります。

全体から思考、行動、感情がわき起こり全体が回収する

マリオ(私)のゲームの中で感情思考が湧き上がっているのがマリオだけという理由は、、、全体から思考感情が湧き上がり、、全体がそれを回収していますから、、、視界に何人のキャラクター(他人)が居ても、、もしもキャラクター(他人)から思考感情が湧いているならば全体が全回収しますから今ここで全部を感じることができるはずです、マリオの同様に。ところがそれは起きない、、つまり、、、マリオしか感情、思考が起きていないということになるのです。

全員の感情を今全体が回収しているが、、マリオののみを感じているようにしているだけでは??

この理論は最もな意見なのですが、、そうすると、、、ピーチ姫、クッパ、ノコノコの感情はどこに行ってしまったのでしょうか???全体は全部であるから全体なのであってここに全体があるのならば、、全体が回収する感情も全部ここにあります。ここ以外に感情が存在してしまったらここは全体では無くなってしまうのです。これが答えです。ここが完璧なのはここに全部があるから完璧なのです。ここ以外に感情の存在が確認されてしまたらここは全体、至福では無くなってしまいます。だとするならばここでは絶対に全体(至福)は見つからないことになります。ですが我々は毎日熟睡時に至福に戻っています、それがここに全体(至福)がある証拠です。だからこそ今起きている思考、感情が全体の全てなのです。

全く感情移入できない、、それでいい

他人から相談を受けても全く感情移入できない

他人から悩みを相談されても全く感情移入ができません、、それでいいのです。なぜならば他人に感情など全く湧いていないからです。見える映像は紛れもなく在りますが、、そこには感情など湧いていません、もしも湧いているならば感情というエネルギーの本質で在る自分自身が気づきます、しかもハッキリと。他人がこうこうこういうことで悩んでいるのだが、、と言ったならばその言葉は実在します、だから把握したのです。ですが悩んだという事実は絶対にない、なぜならば悩んだという事実で在る私自身がそれを把握していないからです。

妹が悩み過ぎてノイローゼに

全く問題ありません、、、妹は実は何も悩まずにノイローゼになりました。本人は離婚が原因、夫の浮気が原因、と嘆くでしょうが、、、それで悩んだという事実は絶対にないのです。もしも悩みが実在するならばその実態で在る自分自身が把握するからです。悩む妹の映像だけが事実です。そしてノイローゼという病気の状態は事実です、映像として。

何もやる気がしない

そんなことを聞いてしまったら全くやる気が湧いてこない、、、それでいいのです。やる気は自分で湧かせるわけではない、、ただ根源から湧いて来ます、その時はそのやる気も自分自身ですからやる気に気づくのです。今ここで見える映像、そしてこの体から湧いてくる感情、思考、行動、これだけが事実です。これだけが自分自身です。それ以外は何もない、、もしもあるならば自分自身以外が存在するとうこと、、そうなることこの自分自身は完璧ではなくなってしまいます。全部が自分、そしてこの世には何もないの真相です。

あの世などない

あの世があるならこの世は不完璧

あの世がある、、私は何十年もこの言葉を信じてきた一人です。この世で死んだらあの世に行く、、非常に魅力的な(考え方)です。ですがこれは事実ではありません。事実は簡単この世は今見える場所だけ。これ以外は一切存在しません、もしも存在するならば今見えている世界はごく一部(不完璧)になり完璧では無くなってしまいます。今ここで感じる静寂がごく一部ならばこの静寂は完璧では無くなってしまいます。そうですあの世を肯定するということはこの世が完璧で在ることを全否定することになるのです。

この世が完璧であるわけがない、、

この世のどこが完璧なのか??毎日あらゆる犯罪が溢れ返り民事刑事裁判が起き続け、、争いが絶えないこの世のどこが完璧なのか???完璧なのです、不完璧に見えているだけで、そして不完璧に見えていることこそも完璧なのです。完璧な世界が不完璧に見えるためには、、神羅万象、この現象(色)に名前を付けまくりさも独立した存在同士が争っているように見える必要があります。そこまでの手間隙をかけて初めて争いが起こっているように見えているのです。これが完璧なのです。種明かしをすれば全ての素粒子は完璧で、完璧でできた素粒子が構成するあらゆる物質が争いを起こしているように見えることで不完璧を感じるが起きているのです。

この世が絶望的までに不完璧に見えるから

この世が絶望的なまでに不完璧に見えてしまうからこそ人(アイデア)はあの世を想像し(アイデア)輪廻転生を(アイデア)を思いつきました。今まさに夢、幻想を言葉のマジックで見ることができる自分(アイデア)が体が死んでもこれが続くと発想するのは自然なことです。ですが事実はこの目の前に完璧がありこの完璧の上に不完璧に見える世界を作り出しただけということです。紙という完璧な土台に不完璧に見えるような絵を描いただけです。

人に会えば会うほどに孤独感を感じやすくなる

相手は必ず自分感覚を強くする

人との会話とは「自分」と相手を生み出します。相手は必ずこちらの名前を呼んできますからそこには確実に名前が付いた存在を感じるわけです。自分という感覚が強化されるに決まっているわけです。だからこそ人は孤独になると人と会いたがりそして人と会うとでより分離感、孤独感を強めていくのです。友達は多ければ多いほどに良い、これは自分感覚が強い証拠になります。自分とは本来存在せずこれは感覚でしかありません、この感覚が強化されればされるほどに分離感、孤独感は強化されるのです。

一人の方が楽、、は至福と友達である証拠

一人の方が楽、、これは孤独感が強い人には無理な発想です。自分という感覚が強い人には信じられない発想です。ですが一人が楽というのは本当です、一人の時人は自分を意識しにくくなります、呼びかけてくる相手が居ないからです。そして何かに夢中になって静寂を知り、目を閉じて静寂に触れることができれば常に静寂(至福)が目の前にあることを肌感覚で知っています。静寂の場所、至福の場所がいまここにあることを知るのです。

至福が常に在るのに人に会わなければはない

自分から静寂、至福に会える人が、、人間という相手を渇望するということはありません。1日に何回か会話ができればいい、に切り替わっていきます。自然とそれが起こります。そして常に静寂の中に入りたいが起こってきます。常に至福に包まれたいが起こってきます。この衝動が起こり始めると悟りは近い、人間よりも静寂、至福への渇望が起こっているのですから。

今ここに対する違和感

今ここどころじゃない

今ここに全てがある、、、それを聞いた時に多くの人は幻滅するはずです。今ここなど何の価値があるのかと、、これによって悟りへの興味が逆になくなる人も居るでしょう、つまり多くの人にとって今ここは全く価値がない景色でしかないわけです。ですから今ここに全てがありますよというインフォメーションは多くの人にとっては残念なメッセージになってしまうのです。

今ここに全てがある

今ここに全てがあるというのは情報ではありません、伝えて納得できるものでもない、これは体感して初めて 伝わるものであり言葉で伝わるものではないのです。ですが覚者はこれを言葉で伝える際にこの言葉を使わざるをえないのです。なぜならばいまここに全てがあるのが真実だからです。美味しいワインを飲んだ際にもう他に何も要らないという気持ちになります、それこそいまここに全てがあると感じる証拠です。これは言葉では伝えることができないメッセージです。

全体を感じる以外に全体を知る方法はない

今ここに全てがあるのは事実ですがこれを知るには本当に全てがあることを感じる以外に方法はありません。この事実をメッセージで聞いたとしてもこれを感じる以外に知る方法はないわけです。知るためには五感を使って感じるしかありません、悟りのメッセージの確認方法は五感を使った経験で完結します。今ここに全てがあることを五感を通じて確認していきます。

目の前の全体は本当に全体なのか???

九州で土砂災害が、、、

毎日ニュースを騒がす様々なニュースは本当に起きているのでしょうか????答えは起きていません。あなたの目の前以外で何かが起きるのは不可能なのです。事象というのはあなたの五感無くして起きようがないのです。ですから全てのネットニュースは見なくて大丈夫です。なぜならば何も起きていないからです、あなたの目の前以外では。これは物理学です、あなたの五感がなければ何かが起きる起きたということを証明できないのです。

九州で戦後最大の土砂災害が、、、

こんなニュースがあっても一切気にする必要がありません、なぜならばあなたの目の前で土砂災害が起きていないならば起きていないのです。いやそんなことはない、九州でそれを目撃をした人が何千人も居る、、、しかしそれは情報です。事実ではありません。目の前に全体があるにも関わらずあなたの目の前以外で何かが起きるならばもう目の前は全体ではないのです。非全体になってしまいます、非神、非ワンネス、非オールザットワンになってしまいます。

目の前は絶対に全体

覚者が話す内容は一致しています、目の前が全体だった、目の前が全てだった、いまここしかない、、、全会一致でこの意見です。先ずはそこを認めてしまうことからスタートしましょう、すると不思議にも全くニュースに興味がなくなります、そしてニュースを見ていないにも関わらず何も問題なく毎日が進んでいきます、それは当たり前のこと、、、目の前以外に世界(全体)は存在しえないのです。