いまここ

進化する必要などない

完璧な世界で進化は必要ない

この世界は完璧なあるがままの表現の世界です、そもそもが完璧がアートしている世界において個人が進化する必要などあるわけがありません、既に完成完璧なのです。ですから進化成長を善とする文化は矛盾している、履き違えているのです。既に完璧でしかないこの世界になぜ進化を求めるのか?という話です。もしもこの世界が不完全に見えるのだとしたらそう見えるだけです、この世界はあるがまま、完璧のアートでなかった時などないのです。

それでも個人は成長すべきでは???

なぜ個人は成長するべきなのでしょうか???環境が完璧なのですからその中で個人が成長すべきという発想がおかしいのです、、、個人は成長することに意識を向けることで今ここで発生する苦しみから意識を逃れようとしているのです。成長とは完璧を否定する行為です、この世界はどこまでいっても完璧の表現でしかないのです。

輪廻転生はファンタジー

輪廻転生、これってあるんですか???という話ですがこの世界は大いなる一つ、あるがまま、無限の表現の世界ですから何でもあります、、輪廻転生という概念が現れるのはここが無限の表現の場所だからです、、だからあります。と同時にここは完璧の表現の場所ですから進化しなくてはいけない理由は一切ありません、進化も退化も許される場所です。地球が進むべき姿などないように個人も進むべき姿などない、現代社会の進むべき姿などありません。世界は本当に自由にどのような変化もありえるというただそれだけです。

これからどうなる?

多くの方は心配に意識を向ける

これから世の中ってどうなっちゃうんだろう???多くの方は将来に対しいネガティブなイメージを湧かせます。残念!!!この世界はあるがまま、大いなる一つの表現の場所ですよ、無限の存在のアートの場所で何を憂いているのか??おかしくないですか、、、この大宇宙を作り出した存在の表現の場所にも関わらず何を憂いているのか???です。

この大宇宙で小さく考える矛盾

この大宇宙は常に変遷膨大しているわけですが人類が考えた常識が来年も通用するって逆におかしすぎるわけです。この地球の中に常識って何なんだ、、という話ですし、、この日本の常識って何なんだという話です。宇宙は常に動いていて太陽系も動き続け、地球も動き続けているのです。この体を生きるばせるために小さく小さく考えて生きるって虚しすぎるわけです。

たった一つのエネルギー

宇宙がどんなに広大無辺であろうと、、、今ここにあるエネルギーが全てです、ここ以外にエネルギーは存在しません。ここ以外に宇宙は存在しえないのです。もしもここ以外に宇宙が広がっているならばここはたった一つのエネルギーではないことになります。ここは部分ではなく全部です。今私がいる場所が全部です、そしてこの私も実は存在しません、私という分離したエネルギーは存在しえないからです。

桜木花道の中には自我が確実にある

人気漫画の登場人物には自我が存在する

なぜ人気漫画は泣けるのか?なぜ人気漫画は興奮するのか???それはキャラクターの中にしっかりと自我を認識できるからです、、こんな時桜木花道だったらこんなこと言うよね!!です。これが確立しないアニメは全く人気がでないのです、、、キャラがブレブレで、、全く信憑性がない、、、そもそも漫画のキャラに自我など存在しえないわけですから言動で自我があるかのようにやってくれないと困るのです。

自我があるかのように無意識に行動していく

矢沢永吉は矢沢だったらこんな時どうするか???と考えて矢沢を確立していきます、、本当は居ないのです、、、ですが世間が求める矢沢を一生懸命演じるのです、、、まるでスター矢沢永吉が実在するかのように。これをみんなやっているのです、、親が求める自我を育てていくのです、両親が期待する、仲間が期待する自我を育て上げていくのです。これを人間はやっていくのです。

仕事場では仕事場の、仲間内では仲間内用の自我を作る

両親が期待する自我と就職した職場が求める自我が全く異なる時、、苦しいが際立ちます。そんな自我用意していないんですけど、、です。ですが家に居ても家用の自我は100%存在しますから結局は苦しいのです。自我は本当は無いのですから、生き延びるために方便として成長させてきたこの自我をどこかで見抜かなくてはならないのです。

矢沢永吉を辞めた矢沢永吉は楽になる

矢沢永吉が矢沢永吉を辞めると楽になるんです、だって本当は存在しないんですから。そして自我が自我を辞めると楽になるんです、だって自我って本当は無いんですから、思考の産物ですから。このことが分かってくると人生ってシンプルになるんです、だって死ねば自我は消えます、最終的には全員が至福に帰るんです。どうせ死んだら至福に戻れるならば、、今ここで至福に帰ってもいいんです、自我って100%存在しないよね!!が分かれば至福です。

小学校卒業時のクラスメイト

あの時のみんなは今

それぞれの人生があってそれぞれの道を歩む、、もう二度と会わない人もいるでしょう、、、卒業式の先生の言葉、、、実際に今みんなは何をやっているのだろう????ふと思う瞬間があります。みんな子供が居て忙しくやっていたりもしくは専業主婦になってのんびりやっているんだろうな、、、です。ところがこれは概念、思考、想像です、真実は全く違います。真実は誰も存在しない、です。

今この瞬間に存在しない人は宇宙に存在しない

今ここに当時のクラスメイトは居ませんよね、、その場合、、、そのクラスメイトは宇宙に今存在しません、当時の先生も、クラスメイト全員が宇宙に存在しません。今宇宙に存在するのは今見えている人だけです。嘘だろ????なわけない、、地球だけで80億人が居るんだけど、、、居ません、、、居ないんです。いまここにないエネルギーはないんです、いまここにたった一つのエネルギーがあるのです。たった一つです、もしも見えない場所にクラスメイトが居たら、、いまここのエネルギーはたった一つではなくなってしまうのです。

もっと深い話

今目の前の友人と話をしています、、、、友人が考え込んでいます、、、何を考えているの????大谷翔平の移籍先についてずっと考えていたんだよ、と答えるとしましょう、、、、本当でしょうか???これは真実ではありません。友人がもしももしも大谷翔平について考えていたのならば、、その思考に気づくはずです、、誰が?気づきの意識です、、気づきの意識が気づかない現象(思考)は存在しないのです。つまり友人にはそのような思考は湧いていないのです。

気づきの意識が気づかない現象はない

「明日吉牛食べよう!」こんな思考が湧いたとしましょう、、、なぜこの思考は認識されたんでしょうか????それは脳がそのなっているからだ!となります、、、違うんです、、気づきの意識がそれに気付いたのです。脳というのは幻想としてはありますが、、実在はしていないんです。気づきの意識がその思考に気付いたからその思考が認識されたのです、、「私」ではありませんよ、気づきの意識です。

物理的失敗時に気づくこと

何も変わらない

物理的成功時にはお金がなくなってしまったら相当ひもじい精神状態になるのでは???です。ですが実際にそのような状況に置かれてみた時に気づくのです、意外と何も変わらないと。お金とはあれば使いたくなるものですが無ければ使いたいという欲望がないので何かを買いたい、使いたいという欲求が減るのです。結果欲求不満にはならない、、となります。多くの方は今ここで感じる違和感の理由を物質的な何かのせいにしたがるのです。お金が少ないから、家が狭いから、旦那が気が利かないから、、と。ですが本当は本当はこの違和感は「自分」というこの存在自体が生み出したものなのです。

物理的失敗時に気づく

物理的失敗時に、、対して何も変わらないや、、、だからこのままでもいいや、、とはならない。。やはり自分という存在から発せられる違和感、孤独感、苦しみは常に続くのです。。経済的失敗がこの違和感の理由ではなかった、、このことに気づくだけです。ですからこの時こそチャンス、本当の本当の違和感の原因を解消に意識が動くのです。ただし自分を無くそう、自分を無くそう、、、という努力は、、自分にとっての目標になるので自分を強めます。

自分を無くそう!も画面内の努力

マリオが、、、苦しみの原因はマリオ自体だったと気付いて、、、マリオを画面から消そう、消そうという努力をしてもそれは画面内での努力になります。努力をしているのは誰ですか??マリオです。自分の尻尾を捕まえようと動き回る狐のようです。そうではなくマリオが全体に再吸収される仕組みに気づくのです、そもそもマリオの中には自分は居ないんです、居ないことを理解すれば居るという錯覚は消えます。誤解を解くだけです。

私を振ったあの人は存在しない

酷い別れで居なくなった相手

知らないところで浮気をしまくり逆キレして居なくなってしまった元恋人、、今でも私はあの人のことを恨んで恨んで忘れられません。残念ながらその人は今ここに居ないということはこの世界に存在しません、万が一電話をすれば声としてこの世界には登場するでしょう、ですがその瞬間のみです。あの人はのほほんと他の女と楽しんでいると思うと、、、残念、、、その人は今ここに居ないのですから存在しません。気づかれない現象はないのです。

じゃあ、、あの人は今どこに居るんですか???

存在しないのです、存在できないんです、気づかれていないから。この人は腹黒い人だ、、いつも腹の中では違うことを考えている、、、残念、、その腹の中の思考は存在しません、、気付かれていないから。今目の前で起きていること以外は何も起きていないのです。腹黒い人の体の中では本当は細胞分裂、リンパが流れ、血流が流れ、心臓が鼓動し、肺胞が膨らみ、、、起きてないです、、気付かれていないのですから。

ガンをもっと早く見つけていれば、、、残念!

病院に行ったら癌が発見された、、先生からはもっと早く来てくれていれば、、、と言われ、、残念!気付かれれいない時ガンは全く現象化されていないのです、気づかれない現象はないのですから。違和感を感じた時には違和感だけが現象化しました、その違和感をレントゲンで撮った時に、、その映像が現象化しました。それだけです。

至福に至ろうとするエネルギーがあるがままを隠す

探求の先にはない

どこに至福はあるのか??どこにあるがままはあるのか???この探求は自我のエネルギーの特徴です、探求者です。私がそれを見つけ出すんだ、、ですがこの見つけるというステージは確実に幻想の世界で行われるがために至福は見つかることはありません。マリオが必死になってスーパーマリオゲーム本体を探している状態です、画像の中で。画像の中にゲーム本体は存在しないのです、むしろ画像全てが本体の投影です。

探求を諦める

マリオが画面の中で至福(ゲーム本体)を探すのを諦めた時実は最もそれに近い状態にあります。マリオが必死になって探している間は絶対に絶対に見つからないわけです。探すという行為が自分(マリオ)以外を見てますからそれはもう分離のエネルギーしかないわけです。分離(マリオ)が分離を探している状態です。我々が唯一できることはこの仕組みを理解すること、ゲーム内での行為によって至るではなく仕組みを理解しゲーム本体にマリオが再吸収されるのを待つだけです。

あるがままへの誘い

今ここで感じる苦しみはあるがままへの帰還、誘いです。今苦しみを何十年間もこのゲーム内で解決しようと懸命に努力し、物理次元では解決できないと思うと情報空間、スピの世界で解決しようと努力しました。ですがそれらの努力は報われません、、この自分が何者かになろうとする努力自体がゲーム本体(あるがまま)への帰還を妨げるのです。この苦しみは自分という存在が起こしている、この事実に向き合うことです。自分という存在が苦しみを作り出すのです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

至福に至るには「私」だ

この私が至福から追い出されただけ

どうやらこの世界には至福が常にあってそれはいまここにあるらしい、時間もなく空間もなくたったひとつのエネルギー至福がいまここにあるのならばこの「私」が絶対に見つけ出してやる!!!自我はこの作戦で至福に戻るのを妨害します。自分という存在こそが至福から幻想の世界に飛びたした張本人にも関わらずその自分がこの幻想の世界でそれを見つけ出してやると意気込むのです。

私があるがままに再吸収される

この私が消滅された時にあるがままは現れます、いつでも、、私という存在があるがままの世界から幻想の世界に入り込んでいるのです。勿論「私」もあるがままの表現の一つですがその「私」がいる世界は幻想のストーリーの世界(あるがままの表現)ここは苦しいのです。この世界に居る限り至福には至れないのです。「私」が至福を見つける時にはまだ「私」が存在します、、これでは絶対に至福に至れないのです。

私を無くすことなどできるのか????

私を無くすことなどできるのか????先ず大前提でこの世界には自由意志は一切存在していませんから意図を持って無くすということは不可能です。ですがあるがままの表現といて「私」があるがままに再吸収されることはあるでしょう、その時がくればそうなります。もしかしたらそうなるかもしれない、少なくとのこの「私」が自由意志を持って再吸収されよう!はないのです、、見かけ以外には。