高級品にしがみつく自我

高級品を多く持っていればいるほど安心する自我

高級品に目がない自我は存在します。高級時計、高級車、高級バッグ、、、、自身の身の回りを高級品で揃えそれを誇示する自我の存在、自我はそもそも存在していないので周囲から羨望を集める=自我の存在を再確認することに安心感を覚えるのです。少なくとも周囲が自身を羨望の的に思っている関心を持っているということは自身(自我)が確実に存在すると思い込めるのです。高級品収集の問題点は、この自我の満足を満たし続けていくと全財産をなくして追いつかないということです。最後は借金をしてでも高級品を集めてまでも自我を満足させていきますがどんなに無理をして手に入れても至福には至りません。さらに今度はこれら高級品を失った場合自我は急激に小さくなったと錯覚し苦しむのです。高級品の量=自我の保障ですから、高級品の現象=自我の存続危機です。

かつて豪邸に住み、高級品に囲まれていた人生からの転落劇

高級品に同一化した自我は、高級品を増やしていくことで自我を確固たるものにしようとします。そのためここは多少無理をしても継続して収集していくわけです。ですがそれを維持していくためには体力、労力などかなりのパワーを必要とします。このパワーが枯渇しない間は維持できますがいずれ人間の体は衰えていきますからここにおいても無理が生じるのです。その時にこのメカニズムが崩壊し始めます。高級品を維持していくのが難しくなります、すると自我そのものが毎日のように縮小していく錯覚に苛まされることになるのです。

高級品を持つことを目標にして無我に入る

高級品が悪いわけでは決してありません、高級品は職人さんや企業努力の賜物でできたものであり素晴らしいものです。ですがそこに自我を同一化するとこの高級品が別の意味を持つことになるのです。素晴らしい高級品を持つことを目標に無我に入りましょう。仕事に無我夢中になることでそこで至福に至るのです。ビジネスや栄養管理に無我夢中になることでそこから至福に至ります。高級品を持つことを目標に技術をつけることに無我夢中になりそこから至福に至るのです。本当の幸福は高級品を持つことではなくそこへの道そのものにあることに気付いてしまうのです。高級品を所有するころには高級品への関心はなくなり無我に入り込めた事実に関心は向きます。そこに至福があったことに気づくのです。

若さに執着する自我のメカニズム

見た目に執着する自我

見た目に自身がある人は見た目に執着します、見た目に自身のアイデンティティーを重ねることで自我が見た目に同一化するのです。本来であれなただの生命現象、ただの存在の顕れでしかない人間の体に自我ががっつり同一化、しがみ付きを行うことでそこに執着します。分離など全くない世界にがっつりした分離が起こるのです。問題がこの人間の見た目はやがて衰えるということです、しがみ付いた先のこの体は時間と共に衰えていくのでそれはそのままその方、その自我の苦しみになるのです。

化粧品がこれだけ高く売れるのは必然

化粧品がこれだけ高く売れる理由は見た目にしがみつく自我にとっては当然のこと、お金で見た目を買えるのならばお安いことです。健康美容商品や、健康美容医療、医療商品がこの世から決してなくならない、むしろ増え続けるのはこのような理由です。若くて勢いがあったときの自身の見た目、容姿にしがみつきそれをアイデンティティーにする自我のメカニズムは多発します。

見た目、健康美を維持するために無我に入る

見た目、健康美を目指すことが悪いことでは全くありません。生涯健康で美しあることは素晴らしいことです。ですからそこに執着するのではなくそこを目指すことで無我に入ればいいのです。健康のためにトレーニングをする、美味しい食事を作る、マッサージをする、、、その行為を通じて無我に入っていきます。そこに集中することで至福に至ります、そこに無心で入り込むことで悟りに入るのです。そうすればもうその先にある健康、美容、容姿に執着することがなくなります。もうそこには渇望や意固地、苦悩はなくなります、なぜならばそこを目指すことで既に至福に至っているからです。

恋愛依存症と自我のメカニズム

恋愛とは強烈に自我が自我の存在を実感できる安心材料

恋愛の特徴、それは特定の誰かが、自分のことを一番と認めてくれることです。恋愛とは特定の誰かがあなたの存在を他の人間よりも第一優先にするという約束です。ですから自我はこの恋愛行動が大好きなのです。自我にとってあなたが一番と選んでもらえることは自我の存在を確固たるものできたと錯覚できるのです。もしも長澤まさみがあなたのことを好きだと選んでくれたならば『あなた』という存在を強烈に感じることができるはずです。世界に確固たる地位を築けるのです。ですから自我はこの恋愛を巧みに利用します。

本来存在していない自我にとって「あなたこそ特別」は最高の言葉

本来存在していない自我は自身の存在を認めてくれる存在、自身のことを称賛してくれる存在を探し回っています。誰が一番自分の存在を認めてくれるかです。認めてくれる=存在の保障、だからです。本当は存在していない自我にとって存在を保障してくれるかのような存在は神様のように偉大な存在になるのです。あの有名な社長が認めた、あの有名な偉人が認めた、クラスで一番の美人が自分を認めた、、、全て自我にとっては涎が出るような甘美です。

恋愛にトラブルが絶えない理由

そんな恋愛の多くには別れが訪れます、それだけ自我ににとっての保存プログラムがなぜ崩壊することがあるのでしょうか。それはある人にとって特別な存在であり続けることが非常に疲れるからです。パートナーの前でオシャレを維持し、体型を維持し、収入を維持し、安定を維持し続けるのは至難の技です。ですからどちらかが先ずこの耐久レースから降りるのです、そうなればもう相手にとって特別な存在から降格してしまいますから自我は非常に苛立つわけです。特別扱いしてくれないならばもうあなたは必要ないという逆切れです。恋愛とはお互いを特別視しあうことで成り立つ関係ですからこれは維持をするのに多大な労力がかかるのです。自我を満足させ続けるのは非常に骨の折れる作業なのです。

体裁をやたらと気にするのは自我のカラクリ

体裁を気にするのは自我、体裁は自我そのもの

大人になると体裁を気にします、体裁を死守します、体裁を守ろうとします。体裁は自我そのものです。自我は自身が壊されてしまったらたまったものじゃありませんから必死に存在を守るわけですが、まさにそれは社会的に体裁と呼ばれています。一度築き上げた身分、地位、役割は自我がしがみつく餌の一つです。自我はそもそもが存在していないためこの身分、地位、役割に同一化することで自我を強固にしようとするのです。私はこの会社の社長だ、私はこの人の嫁だ、私は自治会の長だ、、、人間とはなぜここまでにこの役割が好きなのでしょうか。それはそもそもの自身という機能が幻、錯覚だからこそ何も役割がないという状態が怖いのです。自我が幻、錯覚であるということに気づかれないためには自我はあらゆる役割、地位、名誉にしがみつくのです。

巨人軍の監督が、来年からはコーチに降格?という話を聞いたことがない理由

例えば毎年のようにニュースになる巨人軍の人事、原監督が来年からはコーチに降格しました、、というニュースが今後絶対に出ないのはなぜか?それは監督がコーチになるのは降格でありそれを自我は強烈に嫌います。監督とコーチ、ただ役割が違うだけにも関わらずこれを自我は強烈に嫌うのです。これはなぜか?それは役割の影響力が下がっているからです。影響力が下がるということはそこにしがみつく自我にとっては自分が縮小されたことと同じだからです。自分が縮小されることを良しとしてしまったら自我はいずれ消滅ししまう可能性があります。ですから自我はここで強烈な欠乏感、消失感を産んでみせるのです。もしも原監督に、「来年はコーチでお願いできますか?」とフロントが聞けば間違いなく彼は断るでしょう。そして断っているのは彼の自我です。小さくなる私などに興味がないのです。

付き合っている彼女に、、来年からは二番手にさせてくれと頼んだら、、、

今現在付き合っている彼女に、、良い人が見つかったから来年からはあなたは二番手にさせてくれと頼めば、、99%の確率で別れを切り出されるでしょう。それはなぜか、、彼女の自我が絶対に許さないからです。NO1の彼女の地位からNO2の地位に引き落とされることは彼女の存在が小さくなること、彼女の存在が蔑ろにされること、彼女の存在が価値を下げられていることと同意だからです。自我にとって。本当は別に新しく魅力的な女性が一人現れただけでそのことと彼女の魅力とは何も関係ないにも関わらずです。これが自我の反応です、自我は本当は存在しないからこそこのように蔑ろにされるような扱いに耐えられないのです。それならばいっそ別れてしまうことで自我の存在を守ろうとするのです。自分自身が軽く扱われることに対し強烈な怒りを覚えるのは自我が軽く扱われていることと同意、自我が存在を危ぶまれそこに抵抗する自動反応です。

人間にはなぜ目標や夢が必要なのか?

小学校に入ったら次は中学校、次は高校、次は就職、、結婚

人間には目標が必要とされています。小学校入学、中学校入学、高校入学、大学、就職、結婚、子育て、、、と延々に人間には次にやるべき目標がある程度決まっているように見えます。そして多くの方はこのメインストリームに沿って生きています。私は小学校にも、中学校にも、就職、結婚、子育てにも興味がありません。ということを言えば何か外れた、後ろめたさ、苦々しさ、を感じずにはいられません。これはなぜなのでしょうか。目標がいらないという人間は排除されていく傾向があります。

自我には目標が必要、

では答えをお伝えします。要は自我には目標や課題、夢が絶対的に必要なのです。自我というのは本来存在していません。本来は存在しかありません、目に見えるせかい存在そのもの、存在以外何もないにも関わらずそこに個人という存在を無理くり作り上げました、これが自我です。ですのでこの自我は大変不安定な存在です、何にも関わらずあると思い続けなくてならないのです。この自我が自我として確固たる地位を気付き上げるためにはそう、目標や夢、課題が必要なのです。私は中学生にならなくてはならない、私は就職しなくてはならない、私は結婚しなくてはならない、、課題や夢、目標を達成しなくてはならないのは「自分」だと。だか自分が次の自分になるのだと。これこそが自我の最強戦略です。目標を達成するのは常に自分『自我』です。ゆえに自我は次の目標、夢、課題を常に常に常に探し続けるのです。

金メダリストのインタビューで聞かれる質問に注目

オリンピックの大舞台、このステージで優勝、金メダルを手に入れた選手に聞かれる質問の中で最も多いのは「次は何を目標にしますか?次のオリンピックも期待しています。今後の展望は?」です。オリンピックで金メダルを獲った直後ですらこの質問がされることの異様さに誰も気付きません。人間とは自我とは、この目標をなくされてしまう恐怖を実感し直ぐに次の目標を決めさせます。これでまたしばらくは「私はこの体、思考である」というカラクリを延命できます。

自我の目標作戦に疲れ果てたら

自我の目標作戦に疲れ果てなならば、、自我の夢達成製造機に疲れ果てたならば、自我の課題探しロボットに疲れ果てたならばもうこの作戦に乗るのは辞めましょう。自我が次の目標、課題、夢を探してきたならばその目標、課題、夢を通じて行為に没頭しましょう。行為そのものになってしまうのです。勉強に入り込むことで無我を体感しましょう、仕事に入り込むことで無我を体感します、スポーツに入り込むことで無我に入ります、子育てに入り込むことで無我に入ります、自我(思考)がかき集めてくる課題を餌にしてそこから無我に入り込んでしまえばいいのです。その時自我は無我の良いパートナーになります。自我はもう無我から主導権を奪うことなく主導権を無我に明け渡すのです。

成果を上げるために日々動き回る現代人

今日は明日のための1日

茶道とは美味しいお茶を入れるための作戦ではありません。茶道とは美味しいお茶を入れるためのノウハウではありません。茶道とはお茶を入れることで無我に入り至福に至るための行為です。剣道も相手を叩きのめすためのノウハウでもツールでもなくその行為を通じて無我に入るための道、修行です。勝ち負けに価値をおいているわけではありません。つまり結果は二の次三の次、その行為を通じて自我を解放する行為です。

成果を上げても至福には至らない、成果は個人を解放しない

成果が人を至福に至らせるならば億万長者、成功者、著名人、金メダリスト、などで自殺者はいないはずですが実際はそうでは無いです。成功の可否に関わらず自殺者が存在するのは成功が人を至福に至らせないことを証明しています。日本人の多くが今日を明日、明後日、将来のための準備期間に使うわけですがこれは全てこの理論、今日を成果のための道具にしてしまっているのです。美味しいお茶を入れるために今を犠牲にしているのです。これは茶道ではありません。

成果が個人を至福に至らせないならば成果を気にする生き方をやめよう

これまでの人生で成果や結果が個人を至福に至らせたことがないにも関わらずなぜ人はまた成果に依存した生き方をするのでしょうか。今まで一度たりとも成果や結果が永遠の幸福を保障してくれなかったのになぜまた成果、結果を期待した生き方に依存できるのか。これこそが自我の策略、自我の陰謀、自我の存続方法です。次の人参こそはあなたを永久に幸福にするはず、今まではたまたま間違えただけ、たまたま違っただけだ、、、これが自我の存続方法です。もういいでしょう、もう十分でしょう。この策略に振り回される生き方は。成果が人を至福に至らせるのではなく、成果を得るというきっかけを利用してそこから無我に入りましょう、そこから無我の境地、至福に入りましょう。成果と至福を物物交換しようという浅知恵は捨てましょう。至福は今ここで入れます。それは個人が入るのではなく個人を忘れた時、個人が抜け落ちた時に入れます。

非二元ブームはなぜ起こったか

この現実がどこまで行っても苦しいことに大勢が気づき始めた

自我は先ず経済的満足を追求します。腹が減っては戦ができん、では無いですが自我は先ずは経済的満足を追求します。収入の良い仕事、将来性のある仕事、恋人、家、結婚などなど、、そして多くの満足を得たにも関わらず全く満足できない自分自身に驚愕します。得た直後は満足感はありますがその後にくる喪失感、退屈感の襲撃、この感覚にほとほと疲れ果てたのちに次に求めるのが精神的満足です。地位や名誉、プライドをみたし精神的満足を得ていきます、しかしここでもまた挫折が、、、どこまで行っても全く満たされない心、欲望の存在です。そこで次に登場するのがスピリチュアルと呼ばれる精神世界への探究です。ここではオーラ、チャクラ、ハイアーセルフとこの世界ならではのヒエラルキーが登場しそこを着実に登る山登りが始まります。この探究、この山登りこそが本当の幸福、至福に自分自身を目覚めさせてくれると。ところが、、このスピリチュアルの探究でもやっぱりダメ、どこまで登っても全く至福に至れないのです。ここまできて初めて人は非二元、悟り、というアイデアにたどり着くのです。そう、自我の探究、自我の山登り、自我の向上では至福にが至れないということを。自分を自分と思い込むこの自我こそが不幸、不足、枯渇、孤独を生み出してきた張本人であることに気づいてしまうのです。これが非二元、ノンデュアリティーです。

もう山登り、自分向上は辞めたい、、

あの人は素晴らしい、あの人は悟っている、あの人は何かが違う、、、この人を称賛する自我の動きは実は苦しみのメカニズムです。人を持ち上げるということは人を見下すことでもあるのです。つまり人間を階級で考えているのです。この考え方は世の中には人間という個別の存在がありそしてそこには称賛できる人もいれば逆に見下げるべき人もいるという山登りを証明します。自分よりも先に登っている人、自分よりも登れていない人がいるというこの強烈な錯覚こそが人を苦しめるのです。もうそろそろ気づかなくてはなりません、世の中に称賛すべき人も非難すべき個人も存在しません。全ては存在の顕れ、存在の現象化、存在の人間活動です。全て全く同じ粒子で構成されています。上下比較できる対象ではないのです。人を称賛すればそこに至っていない自分自身を見下すことになります、無価値観を強めます。人を見下せばその時は悦に入れますがそれも一時期、そのあとはただのプレッシャーに変わります。人間同士の比較も、人間という存在のカラクリも見破る時期が来ました。

夢の登場人物を比較する無意味さ

あなたは自分自身が毎晩見る夢の中での登場人物に優劣をつけることに意味を感じるでしょうか。自分自身で作っておいてそこに優劣をつける意味はありません。もちろんゲームとして優劣をつけることは自由ですがそこに何か価値はありません、ただの遊びです。これはこの現実社会も同じです、夢の登場人物に優劣をつけそこに自分自身も入れて比較しプレッシャーで苦しんでいるのが人間ゲームの苦しさの一つの原因です。どこまで山登りして自分自身を高めてもそこには答えがないことをそろそろ気づく時なのです。夢の登場人物として自身を高めていくことと至福とは何も関係がないことを悟る時が来ました、これがノンディアリティー非二元です。比較する対象は何もないということ、自分と他人も、自分と対象物も何もない、、ただそこには夢の登場人物がいるというだけです。

悟った人はいない、、という言葉の意味

夢から覚めるのはこの夢の創造主「I am」

この体は私だ、この思考こそ私だ、、、この発言の主は自我です。私の名前は山田太郎だ、、、の私こそ自我です。これは本当の私が見ている夢の中で主人公とされている人間が叫んでいる「セリフ」です。私はこの事件の被害者だ。私はこの建物の所有者だ、、、この夢の中、ドラマの中で繰り広げられる中での私は自我です。そしてそれをひたすらにずっと認識し続ける存在こそが本当の私です。私はただ在る。この夢そのものでありこの夢を認識し続ける、見続ける存在です。ですからこのドラマの中に悟った人は出てきません、自称悟ったと語る登場人物は出てくるかもしれませんが悟とはこのドラマが夢だと存在が気づくことであり、それは自我の開放、自我の欠落、自我の消滅でもあります。と同時に自我ドラマでの登場人物の欠落、消滅でもあります。

夢の中での成功に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味はあるのでしょうか?夢の中での個人の安定に意味はあるのでしょうか?答えを言えば意味なんて何もないということになります。夢の中での成功も失敗も豊かさも不便さも快適さも何もかもが夢の演出でしかありません。そもそもなぜ個人は何か目的のために動くのかと言えばこれが夢だと信じていないからです。この個人が見る世界がリアルな現実であるという確信のもとに日々動き回っています。静止をすれば苦しみが襲いかかってきます。

夢の中での失敗に価値はあるのか

夢の中での個人の成功に意味が無いように、夢の中での個人の失敗も意味、価値はありません。ですが夢の中での個人の失敗を絶望を生み出す可能性はありこの個人の絶望はそのままこの夢からの覚醒になる可能性はあります。あなたが夜見る夢で悪夢と呼ばれる夢を見ている際に非常に怖い出来事に巻き込まれそのまま飛び起きた経験はあるのでは無いでしょうか。これがこの世、この現実からの覚醒です。そういう意味ではこの夢の中での大失敗は絶望へと繋がり夢の終焉に向かう可能性はあります。

夢の登場人物全てを支配する存在

あなたが夢を見ているときに登場人物が発する言葉の全てはあなたが決められている

夢とは?自分自身が見る夢の中にはたくさんの登場人物が出てくると思いますがその中での登場人物が発する言葉、行動の全てはあなた自身が決めているはずです。そこには主人公がいて、それにまつわるあらゆる配役の人々がいるはずです。主人公が発する言葉、行動、配役の発する言葉、行動全てをあなた自身が決めやりとりが延々と継続します。そしてあなたが夢から覚めたときにあなたが創造した夢も終わります。

この世もまさにその夢、存在が創造した夢

この世、現実と呼ばれる世界もあなたが毎晩のように見る夢と全く同じ構造でできています。主人公が思考する内容、言葉、行動の全てをあなた自身が決めているように、、、この現実社会でのあなたの行動、発言全てはこの世の創造主が決めているのです、そしてあなたの周囲にいる配役の人々、恋人、友人、同僚、両親、子供の発言、行動の全てを創造主が決めています。ではその創造主とはどこにいるのでしょうか。あなたが毎晩夢を見ているときあなたがその夢の中にはいないように、創造主もこの世にはいません。ですがその夢を見ているあなたこそが夢そのものであるように、この世は創造主そのものでありその創造主が今もまさにこの世(夢)を見ています。あなたを通じて。

あなたが見る夢に正義が不在のように、、この世にも正義は存在しない

あなたが毎晩見る夢に本当の正義は存在するのでしょうか。しないはずです、なぜならば正義とは何かが一方的に正しいという概念であり、そのような概念は夢の中では全くの無意味です。そしてそれはこの世にも全く同じように言えます。この世が存在があなたを通じて見ている夢である以上正義などは存在しないのです。あるとすれば正義と呼ばれる幻想がただあるだけです。

有名人の自殺に思うこと

有名俳優、有名女優の自殺について

コロナに入り有名人の自殺がニュースになりました。名実共に評価を受けるような役者さん、女優さんの自殺は一体なぜ起きるのでしょうか。顔も良く、スタイルもよく、かつ収入も良いといった世間的には全てが勝ちゲームの状態でなぜ有名人は死を選ぶのでしょうか。この事実に自我はどう答えを出すのでしょうか。自我は常に不足、欠乏で欲求が起こります。自分がこんな小さな体一つで体以外の世界は全て自分以外。とてつもない小さな自分と、とてつもなく大きな自分以外、、これで自我は孤独、欠乏という感情を生み続けるマシーンになります。本当は存在そのもの、神そのもの、が自我というこの体の中こそが自分というメカニズムに乗っ取られてしまった結果強烈な無価値観に苛まされてしまうわけです。結果地位も名誉もより良きパートナーも、子孫も、見た目も全部欲しいという欲しい欲しいマシーンになっていきます。

最初から諦めて絶望と共に生きていくか、チャレンジを繰り返し最後に絶望をするかの二択

人生には二択が用意されています。最初から人生を諦めてこんなものだと絶望して生きていく生き方と、あらゆるチャレンジを繰り返し、地位や名誉、収入を手に入れながらもやっぱり何も永遠に満たされることはないと最後に絶望するかです。どちらも最後は絶望というところが同じです、つまり自我のプログラムが起動している状態で永続する満足を手に入れるのは不可能ということです。ですからそのことを若くに悟り何も目指さないと決め込むか、徹底的にチャレンジし自我が欲する欲望を満たし続け最後に疲れ果てるかの二択が用意されています。亡くなってしまった有名人は私からすれば後者になります。

もう一つの選択肢、夢から覚めてしまう

そして最後の選択肢があります。それがこの世、夢から覚めてしまうということです。今見ている夢から覚めてしまえば絶望感を味わないですみます、そしてこの夢から覚めるのは誰か、それは人間活動を行っている自我ではありません。存在がこの夢、自我を通じて見ている夢から覚めるということです。渇望ゲーム、不足ゲーム、快不快ゲーム、刺激退屈ゲームであるこの夢から覚めてしまうということです。これで絶望を味わなくて済みます。