夢であることの実証方法

夢の中でも一個の経験しか積めない

自分が見る夢の中で不思議なことがあります。例えばバンジージャンプをしながら、友人と食事できません。夢の中だから本来は二つを同時進行で進めれるはずなのに絶対にできない、、これってなぜでしょう?誰もこれを不思議に思わないものです。夢だから同時進行であらゆる経験をしたっていいわけです。ですがそれはできない。実は夢の中って自由のようでいてこの現実世界と同じような点が多過ぎるのです。

現実社会も同じ

この現実社会も同じで一度に2つのことを経験できません。今私はブログを書いていますが同時にスポーツできません。お風呂に入りながら友人の家に遊びにいけません。いやそれは当たり前だろう、この体を持っているのだから。いや違います、夢の中でも同じこと、一つの経験以上を同時にできないのです。バンジージャンプを飛びながら友人の家に遊びに行けないのです。もしかしたらバンジーの途中で友人の家に遊びに行くということを夢でやったとします。すると、、、、バンジーをやっている自分がいなくなります。夢と現実の違いって実はないのです。

夢の中でもミシュランレストランの味を再現できる

夢の中でミシュランレストランの店に行くとしましょう、夢の中でも十分に美味しい料理を堪能できます。夢の中でも熟成したワインの味を再現しています。あれ?おかしい。。。。夢の中でワインの味覚を味わえるとしたら我々が現実のこの社会で味わっているこのワインは本当に脳で感じているのか????ということになります。夢の中で熟成ワインの香り、味を堪能できるならば、、、現実で堪能しているのは何なんだ?ということです。実はこの現実は夢でして、、、脳の電気信号など起こらずともワインを堪能しているのです。

これが夢である証明

夜見る夢も全く同じ

夜夢において主人公には五感というのがあると思いますが全五感を常に感じているかといえば全くそうではなく常に何かしらの一個だけです。夢の中で歌を歌えば歌が聞こえますから聴覚が発動していることにはなります。実際にはしてませんが。食事をしていれば美味しいという感覚、楽しいという感覚、、、、この時にもしかしたら音楽は聞こえなくなっているかもしれません。夢の中では何を感じるかは自由に決めます。これ重要です。一方この現実社会において、、五感は確実にあります、ですが私はこのブログを書いている時、靴下を履いているという感覚も下着をつけているという感覚も確実に無くしてします。五感とは実はフォーカスしたもの以外は消え失せます。変幻自在なのです。これって夢と同じですよね?

目の前で交通事故が起きたら

目の前で交通事故が起きたとしたら、、、自分の歯の痛み、二日酔いの気怠さ、睡眠不足の憂鬱感、、、全部吹き飛びます。交通事故の視界以外何もなくなります。五感とは実はフォーカスしたとこしか機能しません。これって夢の中と全く同じです。この現実は夢ではないって言い切ることができるでしょうか?夢の中で駅に向かって歩きます、夢の中では自分が進むと景色が誕生します。自分が進まなければ景色は誕生しません。この現実社会でもこれ全く同じです、自分が進むと景色が広がります。自分が進まなければ景色が広がりません。夢と何が違いますか?

夢の中で友人に電話する

夢の中で友人に電話します、電話すると友人がでます。それまで友人は夢の中には登場しません。電話することで初めて友人が誕生します。この現実社会でもあなたが友人にかけるまでは友人は誕生しません、電話して初めて誕生します。友人と夢の中で会う約束をします、あった時に初めて友人が誕生します。この現実社会でも同じ、会うまでは友人は誕生しません。仮にLINEではやりとりしていたとしましょう、するとLINEでだけは誕生します。夢と全く同じです。友人の存在とはあなたがアプローチした時だけ誕生するのです。夢と同じです。

夢と現実は何も変わらない

夢のメカニズムを理解できない人はいないでしょう。毎日自分で夢を見ているからです。ですがこの現実社会が全く同じメカニズムで進んでいるとは?こんな衝撃、こんなギャグ、こんなジョークあるでしょうか?私はこの真実に気づいた時に腰が抜けるほどビビりました。というよりもズッコケました。ギャグです。覚者が悟ると拍子抜けするのが理解しました。これってギャグですよね。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。

この体は全体との境界線であると信じ込むことで孤独が生まれた

この体は聖域

この体、この体を全体との境界線であると信じ込むことでこの分離ゲームはスタートします。この体は全体とは分離していないと信じていれば小さな子供のように無邪気なままです。大人は子供に対してあなたは個別の存在であると徹底的に教え込みそして孤独感、分離感、不足感を植え込みました。子供から無邪気さが無くなる瞬間です。勿論、この体は全体から分離しているように感じることはできます。五感が機能することでこの体が外界をその五感で感知できます。感知できるからこの独立した体が個別にあるという初期設定が完成します。

苦しみのメカニズムを全部この境界線で説明できる

私は基本何でも疑います、先ずは信じて何でもやってみますが根底には実験という感覚を常に持っています。人格を磨けば人生は楽になる、霊的進化を遂げれば人生は楽になる、高収入、安定を手に入れれば人生は楽になる、、、これらは全部試してきました。独自の実験で淡々と試してきましたが人間の苦悩がこれでは解消しないことは次第に分かってきました。友人の数も信頼の数も、お金の数も称号の数も、、人生を楽しくしてくれますが楽にしてくれるわけではありません、全て一瞬のこと、時間限定です。

もう一瞬の楽を追い求めない

金メダルを達成しても本当の安堵は取った瞬間のみ、次の瞬間から次回のオリンピックへの意気込み、プレッシャー、お世話になった人へのお礼、スポンサー廻り、母校巡り、、、そこからの講演会、、、とやるべきことが押し寄せてきます。人間はこの体を外界との境界線と信じ込んだ瞬間から延々と続く不足感、孤独感との戦いが始まりました。苦しみのメカニズムを理解できたらこの人間境界線ゲームから脱人間境界線ゲームへの大きなシフトが重要です。

独自の経験が独自の解釈を作り独自の人生ストーリを生む

経験という唯一の事実が解釈を生み出す

全財産を友人から奪われた、、この事実がその人にとっての今後に人生の価値観に組み込まれます。人は信用できない、人はお金の前では過ちを犯す、、などです。これがその人の価値観に強く組み込まれると、もう人は信用できない、、、が基盤になり、、その目でニュースや人を観察し始めます。すると本当にこの世で信用できる人はいなくなります。こうしてこの人の人生ストーリーは出来上がっていくのです。ですがこれは夢です。全財産を奪った友人が現れたとしてもそれも夢、全財産をくれる友人が次の日に現れることもあり得ます。夢ですから。そうなると人は信用できないという価値観が一瞬で崩れるのです。人は親切だに変わる可能性があります。

どんな経験が起きようとも、、、これは夢

全財産を突然くれる老人が現れても夢、全財産を奪う友人が現れても夢です。夢ですから何が起きても不思議ではない、この夢の中に固定のルールはないのです。あるとすれば自身がこの現実とはこういうものだと決め付けるということです。夢にも関わらずこの現実はこうだ!と決めつければその決めつけによってこの夢は変幻自在に変化します、夢の中で。大人になればなるほど、これが夢、というメッセージが届きません。あらゆる経験を積んできていますからその分固定観念が固まりそれに基づく夢物語を見ているからです。

こんな時代だから将来のために、、、、、

将来はこうなるらしい、将来の準備を今のうちに、、過去にこんな景気があったから今のうちに、、将来の病気に備えて今から保険を、、、こうして人間は過去に囚われ、将来を憂いて今をそのためだけに使うようになります。過去の反省を踏まえ、将来のために今をこう使おう、、、このノリです。ですがこのノリで生きていきますと死ぬ直前まで来年の準備のために今を使うだけの人生になってしまいます。老後のために今があるという恐ろしい事態に。過去に起こったことを踏まえて、、人生の価値観を定め、、、将来のために準備する、、、ですがこれは夢ですから過去も未来も因果に関係なく何でも起きます。そして夢の中にいる限り人間とは不足感発生器であり苦しみのままです。

因果を超える

因果は幻想の一つ

犯罪を犯せば捕まる、横領すれば捕まる、交通自己を起こせば捕まる、、これらは因果応報と言って自分がした行動(因)が原因になって結果(果)が起こるということを指します。この幻想ゲーム、夢ではこれが起きます。ですから多くの宗教ではカルマ、ダルマ、報い、徳を積む、、など日頃の行動に気をつけなさいと唱えるわけです。教会に行けば懺悔があり、毎週のように教会に通います。ですがこれは夢ですから因果を超えて物事は起きます。徳を積み続けていたら直下型大地震が起きて全財産を失う、、こんなことも起きるわけです。因果は間違いなくこの幻想ゲームではありますが因果を超えても何でも起きます、夢ですから。

お釈迦様は因果に怯えるのではなく解脱せよと説いた

因果はこの夢、幻想ゲーム、バーチャルリアリティーでは確実ありますが、因果を超えて何でも起きてしまうこのゲームを因果で乗り越えようというのは無理があります。因果では至福に至れません。生まれて直ぐに台風で亡くなる子供、生まれて直ぐに地震で亡くなる子供、、因果で説明がつきません。勿論これも過去世、過去過去世が原因であるという因果で説明されてしまうのかもしれませんが。どちらにしてもこの夢では因果を超えて何でも起きますから今世は徳を積み続けて至福に至ろうなどという苦労はしないことです。積極的に苦しみに耐え抜いて過去のカルマ精算をしようなどとは思わないことです。釈迦はただ一つ、苦しみから抜けるには解脱しかないと説きました。

因果とただ「起こるだけ」の二つを理解するのに時間がかかった

自分自身はこの因果と、覚者が話す「ただ起こるだけ」の区別が全くつかず理解に苦しみました。理解に苦しんだというよりも覚者の言葉「ただ起こるだけです」が迷宮入りをさせました。コーヒーを飲めばカップが空になる、、この事実が目の前で起きているにも関わらず自由意志もなくただ起きるだけ、、非常に困惑したのを覚えています。因果は確実にあります、自由意志も見方によっては確実にあります。ただそれは夢の中で起きているということです。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

神(一つ)がバラバラになることはできない

だがバラバラに見せることはできる

これは神(一つ)が見る夢です。この夢は神(一つ)が人間(バラバラ)になり切ることでこの世はバラバラであると錯覚できる場所を生み出しました。本当は一つ(神)ですからバラバラになることはできません。だからこそバラバラと錯覚するしかできません。これが我々が生きる世界です。バラバラではなくバラバラと錯覚できる世界です。

人間が体験できるのは一つ

この世界がいかに分離しているように見えようとそれは幻想です。その証拠に我々が体験できることは常に一つです、バラバラと体験できる、錯覚できることはできてもバラバラを証明することはできません。例えば良い音楽を聴くという経験はできますが良い音楽が自分と分離して存在することを経験することはできません。今音楽を聴いているという経験はできますが自分と音楽が別個として存在しているという経験を証明することはできません。美味しい料理を食べるという経験はできても美味しい料理と自分が分離してあるという証拠は経験できません。美味しそうな料理を「見る」という経験はできますがそれ以外はできません。香りの良い料理を「嗅ぐ」という経験は積めますが私と料理が別個に存在するということを経験できません。

バラバラ体験はできるがバラバラを証明できない

神(一つ)がバラバラになることはできません。バラバラに見えるという経験はできます。神(一つ)はどこまで行っても分離できません。分離している風の体験はできます。これが限界です。一つは一つゆえにバラバラにはなれません。ですがバラバラになったような体験(一つ)はできます。どこまでも体験(一つ)は一つ(神)です。神(一つ)は一つゆえにバラバラになれません、だからこそバラバラ風の体験(一つ)をしました。

それでも分離体験最高

神は無駄なことをしない

これは神の見る夢です、神が人間体験をする夢です。夢を物語化するために脳という記憶機能を作り出し過去を誕生しました。これによって 人間は成長し成人し、年を重ねやがて老い、死を迎えるという一連の流れを経験できます。このストーリーは神が神のままでは経験できないことです。神は過去を悔やむことも過去を振り返ることも過去を後悔することもできません。全て人間様があってこそです。憂鬱に過去を悔やむ神はいません、人間あってこそです。ということで分離体験最高ということになります。もしもあなたが今最低最悪な気分だとしてもそれは記憶をベースに比較してのことでしょう、過去の私と。それは神のままではできないことです。

人間ストーリーは最高だがそれでもしんどい

そういう意味で人間ストーリーは神が神のままでは経験できないことを経験できますから神にとっては最高です。ですがこれは同時に非常に苦しいことでもあります。そう人間に成り切った神としては最高でも人間としてはただ辛い、、ということで辛さでお腹がパンパンになったならばもうこの辛さ体験は終わりにしましょう。この無限地獄、不足感解消ゲームは終わりにしてもいいかもです。貧乏があるから豊かさがわかる、孤独があるから仲間の大切さが分かる、病気があるから健康の有り難さがわかる、、、ただそれももう十分ということはあります。

もう人間なんてしない、絶対

釈迦は悟りこの人間ゲームが苦であることを理解しました。そして苦行が悟りへのツールではないことも知りました。夢から覚めるのに苦行はいらないと。そしてこの夢から覚めることを解脱と称してその方法をその後の人生で伝え続けたわけです。輪廻転生をしながらカルマを解消しダルマを積むのではなくその輪から抜けてしまいなさいと。終わりのないこの夢物語を継続するのではなく夢物語から覚めてしまいなさいと提案したわけです。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。