悟り

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

海であることを忘れた波は孤独と欠乏感、不足感を抱えて生きていく

海であることを忘れてしまった波は疲労困憊になるまで波で居続ける

我々人間は生まれてきたときは海が波の形をとって生まれてきます、そしてそのときは海としてまだ生きています。ですがそこから7年間かけてあなたは波であって海ではないという教育、洗脳を受けていきます。この洗脳が完成するのが小学校二・三年生でしょうか。そこで圧倒的に自分は小さな存在でありここから必死に波として生きていかないことを教え込まれるわけです。あなたは小さな波なのだから努力し、仕事をし、周囲に気を使って生きていかければならないと教え込まれます。そうか自分はちっぽけな波なんだと覚悟を決めた波から受験勉強、就職競争、出世競争、結婚、子育てと、、逞しく波として戦っていくわけです。そしてどこまで戦っても、どこまで逞しく生きても一向に楽にならないこの波としての人生に徐々に疲れていくのです。

疲れ果てた波はもう逞しく生きることに興味がなくなる

逞しく生きてきた波はあるとき気づくわけです、、どんなに受験戦争で勝ち抜き、出世競争に勝ち抜き、子供のお受験に勝ち抜いてもいつまで経ってもこの孤独感、不足感、欠乏感はなくならないと。どこかで無くなると聞いていたこの渇望感はおそらくこのまま生きていてもなくなることはないだろうと。そこで急にこの波として人生に嫌気がさし死を意識する波まで現れるのです。もしくはたまたま悟り、ノンデュアリティーなどの情報に触れた波はそこに強烈な興味を抱きます。

波として至福になることができないのならば死を選ぶか目覚めしかない

リア充と呼ばれるような生活や、幸せと言われるような生活をしているにも関わらず満たされない感情を抱え続ける波は、死ぬか、覚醒するしか道がないことにどこかで気づきます。自分を波だと思っている限りは至福に至れないことを腹の底から理解した波は運が悪ければ死を選び至福(海)に帰るか、波の形を残しながらも海に戻る(覚醒)を目指します。我々が見ているこの世界は波という自覚を持つことで誕生した夢、幻想、現象界です。波物語という夢から覚めることを強烈に意識して生きていく、そのお手伝いをするのがこのブログです。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。

なぜ存在、大いなる一つを言葉で説明することができないか

言葉で説明できることは自我の説明

大いなる一つ、存在とは何かを言葉で説明するのがなぜ難しいのか。それは言葉を使っている存在(自我)自体が存在を見えなくしているからです。つまり存在とは自我がいない時に出現するもの、それを言葉(自我)を使って説明するのは至難の技なのです。ですから書道、茶道、剣道でも真髄は言語で説明できないところにあると説くのです。所作の中から存在、大いなる一つを感じるものであり言葉で説明できるものではないのです。もしもそれが可能ならば通信教育で事は足ります。

お味噌汁の美味しさを言葉で正確に伝えるのは不可能

外国人の方にお味噌汁の美味しさを正確に伝えることは不可能でしょう。外向人の方に納豆の美味しさを言葉で伝えるのは不可能です。あの味を正確に表現できる言葉などありません。つまり言葉には限界がありにも関わらず現代人はその言葉で至福に至る方法までも手に入れようとするところに苦しみが始まります。言葉で悟りを理解する、解放を理解できるのならば中学生は皆学校でこれを学ぶだけでいいはずです、ですがそうは簡単にいかにのはそれが言葉を超えた存在だからです。

マインドが必死に至福を探しても見つからない理由

マインド、思考、これを自分自身と絶対視することが自我の証明です。湧き上がるマインド、思考こそを自分自身と捉えることで苦しみが始まります。そのマインドを強化することで至福、存在、自由に至れると勘違いすることが苦しみです。マインドを自身と勘違いすることこそが苦しみの原因ですからこれを疑うこと、これを自分と勘違いしないことこそが至福に至る唯一の方法になります。

何を希望に人は生きているのか

人間に希望などない

夢も希望もない話をすれば人間に希望などありません、いつか幸福になれるという幻想を抱き続ける人間に希望などない、これが真実です。極限を言ってしまえば人間=絶望です。なぜならば人間という初期設定が錯覚だからです。もちろんこの心身こそ自分という思い込むメカニズムも存在のなせる技です。ですから神が自分に技をかけている状態、その技とは必殺不足地獄です。一度この技を仕掛けれたら最後、この技を解けるのは人間である自分ではありません、それはこの技をかけている張本人、そう神、存在、大いなる一つだけです。

神よ、この技を速やかに解いてくれ

とはいえ人間にも全く光がないわけではありません。例えば眠りに落ちる際にこれをテクニックとして説明できる人はいないはずです。よし今から寝ようと覚悟を決めて寝ることはできませんが眠りに落ちる感覚がなんとなく把握しているはずです。これはこの必殺不足地獄も同じ、人は何かに没入することで無我夢中になることでこの必殺不足地獄から一時的に抜けれることを知っています。自我がない状態、無我に入る状態をどこかのタイミングで知ります。故にサーフィンやロッククライミング、レースなど極限状態に自身を追い込むことでこの状態に入る輩もいます。そうではなく掃除や仕事、子育てや、友人との会話、これら全て人間行為の中でこの無我に入る感覚を掴む人もいます、これを達人と世の人々は呼ぶわけです。

茶道や剣道、柔道など道がつく人間行為はこれを説いていた

日本に昔からある茶道や剣道、柔道などの世界は実はこれを説いていました。道を極めるというこの動作の中でそのまま悟りに入る、無我に入る、存在と共にあることを説いていました。感覚でそこを掴むことを道と説いたのです。道の先に神がいるのではなく道を歩むその道こそが神、存在、大いなる一つであるということです。仕事から悟りに入る、食事から悟りに入る、掃除から悟りに入る、、全て行為から悟りに入る、これしか人間が苦痛、絶望から解放される方法はありません。最後は悟りが人間を見つけ、自由が人間を見つけ、至福が人間を見つけます。

病気にしがみつく自我

病気は便利なアイデンティティー

病気に好きでなる人はいない、病気を手放そうとしない人もいない、これが世間の一般常識です。自ら好き好んで病気になるなどあるわけがないのです。ですが実際には違います、病気は自我にとっては大好物、病気になれば病気の私という強烈なアイデンティティーを築けるのです。そんなわけがない、、、多くの病気に苦しむ方は困惑するでしょう、ですが自我は病気の時の自分を強烈に意識できるのです。これが自我が病気を手放さないメカニズムです。調子の悪い私、体調不良の私は、、だからこそ大切に扱ってほしい、だからこそ慎重に扱ってもらえる、、、といった生存戦略が効果的なのを熟知しています。こうして自我は病気を利用して生存を継続していくのです。

体調が悪い=特別視してもらえる

自我は熟知しています、病人は特別視してもらえる、病人は大切に扱ってもらえる、病人は高待遇をえられると。ですから自我は病気をなかなか手放そうとしないのです。自営業者では有名な話ですが自営業になると風邪をひかない、、これはなぜかと言えば風邪を引けば売り上げが少なくなって損しかないからです。風邪をひいたお店のオーナーの店に好き好んで行く人はいないのです。自我は基本損得しかありませんから風邪を引くメリットがなければ絶対に風邪をひかないのです。

体調に悩む人は体調不良を利用する自我に気づくチャンス

体調不良は自我の大好物であることを先ずは気づくことが重要です、そして体調不良を直したいならば運動や食事を義務としてやるのではなくそこに無我夢中になることでそこから悟りに入ることが最重要です。運動や食事に集中することでそこから悟りに入るのです。そこから無我の境地、至福の境地に至ります。

若さに執着する自我のメカニズム

見た目に執着する自我

見た目に自身がある人は見た目に執着します、見た目に自身のアイデンティティーを重ねることで自我が見た目に同一化するのです。本来であれなただの生命現象、ただの存在の顕れでしかない人間の体に自我ががっつり同一化、しがみ付きを行うことでそこに執着します。分離など全くない世界にがっつりした分離が起こるのです。問題がこの人間の見た目はやがて衰えるということです、しがみ付いた先のこの体は時間と共に衰えていくのでそれはそのままその方、その自我の苦しみになるのです。

化粧品がこれだけ高く売れるのは必然

化粧品がこれだけ高く売れる理由は見た目にしがみつく自我にとっては当然のこと、お金で見た目を買えるのならばお安いことです。健康美容商品や、健康美容医療、医療商品がこの世から決してなくならない、むしろ増え続けるのはこのような理由です。若くて勢いがあったときの自身の見た目、容姿にしがみつきそれをアイデンティティーにする自我のメカニズムは多発します。

見た目、健康美を維持するために無我に入る

見た目、健康美を目指すことが悪いことでは全くありません。生涯健康で美しあることは素晴らしいことです。ですからそこに執着するのではなくそこを目指すことで無我に入ればいいのです。健康のためにトレーニングをする、美味しい食事を作る、マッサージをする、、、その行為を通じて無我に入っていきます。そこに集中することで至福に至ります、そこに無心で入り込むことで悟りに入るのです。そうすればもうその先にある健康、美容、容姿に執着することがなくなります。もうそこには渇望や意固地、苦悩はなくなります、なぜならばそこを目指すことで既に至福に至っているからです。

非二元ブームはなぜ起こったか

この現実がどこまで行っても苦しいことに大勢が気づき始めた

自我は先ず経済的満足を追求します。腹が減っては戦ができん、では無いですが自我は先ずは経済的満足を追求します。収入の良い仕事、将来性のある仕事、恋人、家、結婚などなど、、そして多くの満足を得たにも関わらず全く満足できない自分自身に驚愕します。得た直後は満足感はありますがその後にくる喪失感、退屈感の襲撃、この感覚にほとほと疲れ果てたのちに次に求めるのが精神的満足です。地位や名誉、プライドをみたし精神的満足を得ていきます、しかしここでもまた挫折が、、、どこまで行っても全く満たされない心、欲望の存在です。そこで次に登場するのがスピリチュアルと呼ばれる精神世界への探究です。ここではオーラ、チャクラ、ハイアーセルフとこの世界ならではのヒエラルキーが登場しそこを着実に登る山登りが始まります。この探究、この山登りこそが本当の幸福、至福に自分自身を目覚めさせてくれると。ところが、、このスピリチュアルの探究でもやっぱりダメ、どこまで登っても全く至福に至れないのです。ここまできて初めて人は非二元、悟り、というアイデアにたどり着くのです。そう、自我の探究、自我の山登り、自我の向上では至福にが至れないということを。自分を自分と思い込むこの自我こそが不幸、不足、枯渇、孤独を生み出してきた張本人であることに気づいてしまうのです。これが非二元、ノンデュアリティーです。

もう山登り、自分向上は辞めたい、、

あの人は素晴らしい、あの人は悟っている、あの人は何かが違う、、、この人を称賛する自我の動きは実は苦しみのメカニズムです。人を持ち上げるということは人を見下すことでもあるのです。つまり人間を階級で考えているのです。この考え方は世の中には人間という個別の存在がありそしてそこには称賛できる人もいれば逆に見下げるべき人もいるという山登りを証明します。自分よりも先に登っている人、自分よりも登れていない人がいるというこの強烈な錯覚こそが人を苦しめるのです。もうそろそろ気づかなくてはなりません、世の中に称賛すべき人も非難すべき個人も存在しません。全ては存在の顕れ、存在の現象化、存在の人間活動です。全て全く同じ粒子で構成されています。上下比較できる対象ではないのです。人を称賛すればそこに至っていない自分自身を見下すことになります、無価値観を強めます。人を見下せばその時は悦に入れますがそれも一時期、そのあとはただのプレッシャーに変わります。人間同士の比較も、人間という存在のカラクリも見破る時期が来ました。

夢の登場人物を比較する無意味さ

あなたは自分自身が毎晩見る夢の中での登場人物に優劣をつけることに意味を感じるでしょうか。自分自身で作っておいてそこに優劣をつける意味はありません。もちろんゲームとして優劣をつけることは自由ですがそこに何か価値はありません、ただの遊びです。これはこの現実社会も同じです、夢の登場人物に優劣をつけそこに自分自身も入れて比較しプレッシャーで苦しんでいるのが人間ゲームの苦しさの一つの原因です。どこまで山登りして自分自身を高めてもそこには答えがないことをそろそろ気づく時なのです。夢の登場人物として自身を高めていくことと至福とは何も関係がないことを悟る時が来ました、これがノンディアリティー非二元です。比較する対象は何もないということ、自分と他人も、自分と対象物も何もない、、ただそこには夢の登場人物がいるというだけです。

有名人の自殺に思うこと

有名俳優、有名女優の自殺について

コロナに入り有名人の自殺がニュースになりました。名実共に評価を受けるような役者さん、女優さんの自殺は一体なぜ起きるのでしょうか。顔も良く、スタイルもよく、かつ収入も良いといった世間的には全てが勝ちゲームの状態でなぜ有名人は死を選ぶのでしょうか。この事実に自我はどう答えを出すのでしょうか。自我は常に不足、欠乏で欲求が起こります。自分がこんな小さな体一つで体以外の世界は全て自分以外。とてつもない小さな自分と、とてつもなく大きな自分以外、、これで自我は孤独、欠乏という感情を生み続けるマシーンになります。本当は存在そのもの、神そのもの、が自我というこの体の中こそが自分というメカニズムに乗っ取られてしまった結果強烈な無価値観に苛まされてしまうわけです。結果地位も名誉もより良きパートナーも、子孫も、見た目も全部欲しいという欲しい欲しいマシーンになっていきます。

最初から諦めて絶望と共に生きていくか、チャレンジを繰り返し最後に絶望をするかの二択

人生には二択が用意されています。最初から人生を諦めてこんなものだと絶望して生きていく生き方と、あらゆるチャレンジを繰り返し、地位や名誉、収入を手に入れながらもやっぱり何も永遠に満たされることはないと最後に絶望するかです。どちらも最後は絶望というところが同じです、つまり自我のプログラムが起動している状態で永続する満足を手に入れるのは不可能ということです。ですからそのことを若くに悟り何も目指さないと決め込むか、徹底的にチャレンジし自我が欲する欲望を満たし続け最後に疲れ果てるかの二択が用意されています。亡くなってしまった有名人は私からすれば後者になります。

もう一つの選択肢、夢から覚めてしまう

そして最後の選択肢があります。それがこの世、夢から覚めてしまうということです。今見ている夢から覚めてしまえば絶望感を味わないですみます、そしてこの夢から覚めるのは誰か、それは人間活動を行っている自我ではありません。存在がこの夢、自我を通じて見ている夢から覚めるということです。渇望ゲーム、不足ゲーム、快不快ゲーム、刺激退屈ゲームであるこの夢から覚めてしまうということです。これで絶望を味わなくて済みます。