五感

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。

海であることを忘れた波は夢に夢中になる

夢中になれない夢ならば意味はない

海であることを忘れた波にとってこの世は夢物語、波物語です。波の観念によって大きく様変わりする夢です。リアリティー全開、五感全開の夢ですからこの夢を夢と見抜くとのは至難の技です。思考すればするほどにこの夢は複雑に入り込んでいきます、そしてその夢の中でいかに自由に快適に生きようかと思考をフル回転させればさらに複雑な夢、リアリティーが誕生するという見破れないパターンが進みます。

全存在がこの世を作ったのは夢にどっぷり浸かるため

この夢がなぜあるかと言えばまずはこの夢にどっぷりと浸かるためです。最初からバレバレな夢ならば夢から醒める感動は皆無です。ですから先ずはいかにこの夢にどっぷり浸かるかが重要です、どっぷりと浸かり深刻に人生を考え、重く将来を憂うことから人生はスタートするのです。だからこそそこから夢を見破ることに価値はあるし夢から醒める感動もあるわけです。

簡単に醒めない夢だから価値がある

この世が簡単に見抜けてしまう夢ならば価値はありません。この夢の醍醐味とは夢から覚めたときの感動です。あまりにリアリティーがあって夢とは思えないからこそ夢から覚めたときの感動があるのであって簡単に夢だと気づけてしまうのならばこの夢の価値は半減するのです。この心身こそが自分であるという錯覚を作り出すエネルギーは紛れもなく全存在のエネルギーでありこの夢は悪意で創造されたわけではありません。全存在が自身のエネルギーを使ってこの心身が自身であるという錯覚ゲームを創造したのです。ツッコミどころ満載、アラ全開のこのゲームを愛おしいと思うぐらいの余裕があればいいのですがそうではこのゲームの醍醐味は薄れます。

人類を発展させ続けてきたこの思考こそが苦しみの根源とは、、波には理解できない

思考こそ人類を動物よりもはるかに進化させた黄金の道具

人間は考える葦である、思考がなければ人間は動物と同じ、思考で成功せよ、、、思考は今現在の社会では絶対王者、思考が優れた人間はこの社会ヒエラルキートップに君臨します。偏差値とは思考の優劣を判断するもの、SPIテスト、IQ、学歴、、、知能が謳歌しています。だからこそこの知能、思考こそが人間を苦しませ続けるというメカニズムは盲点中の盲点、古畑任三郎、コロンボでもこの真犯人は発見できないわけです。過去にこの真犯人を発見し世の中に大体的に発表したのが釈迦やキリストですが彼らが死んで何十年も経たないうちにこれらの教えは自我の配下に戻りました。

真犯人はこの体、思考こそが自分自身だと嘘ぶき洗脳に成功した

文明の進化にしよって人間の思考信仰はこれから益々進むはずです。より優れた思考を手に入れた人間がマウントを取り続けていくでしょう。思考によるマウント合戦は今後弱まっていく予感はしません。ですがこれらの思考勢力に打ち勝つ方法があるのです、それは簡単、自身の嘘を見破るだけ、これが自分だというこの思考が実は勘違いであることを見破るだけです。実はこの波物語、人間ゲームは主人公であるあなたがいて全部成り立っています。全ての現象はあなたの五感とセットで成り立っているのであなたの初期設定を変えてしまうとこのゲームそのものが変わってしまうのです。この波物語、人間ゲームが幻想と呼ばれる所以はあなたの五感なくして成立しないからです。

だからこそこの五感を使って幻想を見破る

この現象界が現象界であるためにはあなたの五感が必要なのです。あなたが五感を使って感知しなければこの現象界は存在できない、あなたなくしてこの現象界は存在できないのです。だからこの現象界に翻弄されるのではなくその五感を使って悟りに入る、海に戻る、全存在にシフトするのです。五感を集中させて無心に入り無我に入る。そこに至福、歓喜、平和は常にあります。そこが分かるともうこの現象界に翻弄されることができなくなります。

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

夢から覚める

こんな緻密で巧妙な夢はない

生まれてから死ぬまで続くこの夢の完成度の高さはハリウッド映画やネットフリックスとは比較にならないものがあります。毎日気候が変わり、社会情勢も変わりつづけ、さらに自身の体も変化していきます。1日として同じ日はないようにこの夢は変化し続けます。毎日毎日変化していくこの夢に多くの方はこれが夢だという疑いなど一切持たずに生活し続けていくのです。99%以上の人は死ぬまでこれが夢だったということに気づきません。

もしかしたらこれが夢かもと一度でも疑問に持つと

ですがもしもこれが夢なのでは?と疑問に持つことができるようになると人生は大きな変化を起こします。夢だという可能性に日々気づいていくことになります。例えばこの物理次元と呼ばれる社会は有限の世界とも呼ばれますが、、、物があるという大前提で理論を構築していきますと、、日本の外には地球があり、地球の外には太陽系があり、太陽系の外には銀河系が、、銀河系の外には宇宙が、、宇宙の外には、、と延々と続く無限ループであることに気づきます。つまり人間が思っているようなこの物理次元は辻褄が合わないのです。ここだけとってもこの見えている世界は見えているようにはなっていないということがわかります。

触ればもちろんそこに人がいるが

この物理社会が夢だとして、、ですが当然人に触れればそこにしっかりと人はいます。触覚はこの夢のデフォルトです。匂いを嗅げば匂いがあります。嗅覚もデフォルトです。五感+思考+感情がデフォルトで設定されたこの夢を我々は実は生きています。映画マトリックスではないですが、、この夢を夢と見抜き夢から覚めるという決断をいつするか、、この夢の隣人は誰もそのタイミングを教えてくれません。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。