悟り

思考って何??化けの世界を作る道具

神は神のままでは何も苦しむことができませんでした、神は神のままでは孤独も喪失感も孤独感も居心地の悪さも感じることができませんでした。そのため神は考えました、この神の中にゲームを作ろうと、ゲームならば孤独、喪失、絶望、不足を経験できると、、そしてその反対の快楽、面白さ、新鮮、友情、親しみも経験できる、、こんな素晴らしいゲームを作ろう、、、そのために思考を利用しました。人間の脳をさらに進化させてし思考を作り出し、、先ずは人間に「自分」というアイデアを授けました、、これによって自分がこの神の世界に誕生したのです。さらにこの延長線上であらゆる現象に名前をつけてそれを個別分離した存在に作り上げていきました。神の分裂現象です。これによって「自分」は神の中を歩いて歩んでいくという体験を積むことができるようになったのです。

簡単に終わってしまっては困る

せっかく作り出したゲームですから簡単に終わってしまっては困ります。そのため自分には次々に思考が湧いてくるように設定しこの自分を維持していく工夫がされています。何かを「自分」が経験したら思考が湧く、その思考に取り込まれるとさらに苦しくなりさらに思考が湧くのループです。「自分」というのは基本苦しい存在なのでその苦しみの解消を思考でやってもらうという無限地獄を作り出したのです。これで神が考え出した「自分」は生きて死ぬまであらゆる経験を積むことができます。放置しても勝手にあらゆる経験を積んでくれるのです。神の完全自動人間自分体験です。

このシステムはさすがにどこかで気づかれる

人間として最初にこのシステムに気づいたのがゴーダマシッダルータです、彼はインドのある地域の王様で贅沢三昧な生活をしていました、にも関わらずなぜこれほど満たされないのか???頭の良い彼はそこから悟りの世界に入っていきました、そしてそこで悟りを開いたのです。彼が気づいた事実とはまさに上記のこと、人間とは苦しみのメカニズムから抜けない限り苦しみが永続するというモノです。人生とは苦である、です。ヨーロッパ地方でこれに気づいたのがイエス・キリストです。彼は人間は原罪と称しました、この罪という言葉は勘違いを意味しています。

目の前にピカソがあるか落書きがあるか

悟りとはこのこと

ピカソとは目の前の生命現象を生命現象のまま絵にしました。ゴッホも目の前の生命現象を英明現象のまま描きました。モーツアルトも神秘的な音色が頭の中を流れそれを楽譜にしました。いずれも目の前の生命現象に気付いていたかいないかの違いです。我々人間は生き抜くためあらゆるモノに名前をつけまくり、自身の中は思考フルスロットルにして、、生命現象を切り刻み尽くして見ています。ピカソの絵が落書きに成り下がるまで切り刻んで見ているのです。

切り刻み方が異常になると自死を考える

この切り刻み方が異常レベルになると人はうつ病になったり自死を考えるようになります。考えれば考えるほどにこの生命現象を切り刻むことになり世界は重く曇っていくのです。思考の恐ろしさを知らない極限状態です。人は苦しければ苦しいほどに思考の入り込みます、これによって世界はより重く曇っていくのです。その世界では何をやっても面白くない、、こんな人生を続けて何か意味があるのか?となります。

思考は放置する

思考の凄さは、、、ピカソの絵が落書きに見えてしまうとこまで生命現象を曇らせることができることです。これが思考です、これでも思考を信用しますか、これでも思考を使いますか、これでも思考と一緒に生きていきますか、、となります。思考とはこの全体、神、ワンネスを切り刻んで切り刻み体験をするための道具です。どこまで切り刻み体験をするか??そこは注意が必要です。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。

体は何も所有できない、思考はあらゆる物事を所有していく

軽いの究極が悟り

軽いの究極が悟りです、重いの究極が苦しみです。体は何も所有できません、所有するのはいつも思考です。体の感覚に身を委ねて生きていきますと何も所有できなくなります。一方思考優先で生きていきまストあらゆるものを所有していくことになります。体優先は事実優先、事実の先には真実があり、真実の先に悟り、非二元があります。ですが思考の先には思考しかなく、これは虚の世界、幻想の世界です、ここは真実からどんどん離れていく世界です、苦しい世界です。

仕事など3割の力でできることでいい

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなりました、真面目な方だったということです。真面目な方は手を抜くのが嫌いですから何でも全力投球、それは素晴らしいことです。ですが自身の実力が至らないようなステージに上がってしまっても頑張ってします、何とか爪痕を残そうとする、、、これらは思考の世界です。思考の世界にガンガンに入っていきます、苦しくなります。仕事は三割の力でできるようなことがあるはずです、そこで真摯に向き合ってやればいい、この仕事は格好が悪い、見栄えが悪い、評価が低い、、、これらは思考です。苦しみの世界です。

思考のトリックを見破る

仕事で結果を出せなくて悩む、思考する、、、すると思考の世界に飲み込まれていきます。どんどん苦しくなります。そしてなぜこれほど思考しているのに苦しいのか?とさらに悩みます。結論を言えば思考しているから苦しいのです。仕事で結果を出せないのは実力が至らなかったから、それだけ。淡々とその事実を受け入れ実力で食べれる世界を探すのみ、そこに思考は実は入りません。ですがそこで考えてしまう、どうしたら結果が出るだろうか??ここから苦しみの世界に入り込んでいきます。

子供が悟りに興味がないのは悟っているから

悟りとは悟っていない人が興味を持つ

小学生で悟りの勉強ばかりをしてる子供はほいないはず、、それは本人が悟っているからです。思考が発達していないので多くの時間において「自分」が存在しないのです。自分が居ないということは無我でいるということです、つまり悟っているのです。非二元の世界に居るのです。そもそもそこに居ながらにして悟りを開くとか意味が分かりません。大人になると思考に支配されるので悟りが閉じます、二元の世界、自分の世界、幻想の世界が住居になります。すると悟りの世界、快適な世界、非二元の世界への欲求が湧いてきます。そこから悟りへの興味になります。

だが、、、思考が悪いわけではない

子供が大人になるためには思考を身につけなくてならない、、物事を知らなくてはならない、、、だからそれが悪いわけではない、、、ですがこの思考を絶対善とするのも良くない、、、思考イコール自分であり、、、思考フル回転は自分フル回転、、、この世界は全体から分かれた世界、、、自分の世界、無我ではない世界、、ここは平和から離れた世界です。安堵から離れた世界です。酸素が薄い世界です。

子供の世界には自分が存在しない

子供には羞恥心というのがありません、プライドがありません、自己顕示欲がありません、、、全部「自分」が薄いのです。。。自分が薄い、、自我が薄い、、無我が濃い、、、酸素が濃い世界の住人です。大人は自分が濃い、自我が濃い、無我が薄い、酸素が薄い世界の住人です。ですからこれからは簡単「自分」=「思考」を放置して生きていきます。思考が湧いても全放置です。これで酸素が濃い世界に戻れます。

思考が無我を自我に引き戻す

思考=自我

思考が湧いてきても放置していいのは、、、この思考こそが無我から自我を引き出してきます、思考に取り込まれますと自我、自分が湧き出てきます。自分の世界は、幻想の世界、二元の世界に、、、引き戻されます。非常に空気が薄い世界です、苦しい世界です。自分の世界、二元の世界、自我の世界に居続けていますと酸欠になっていきます、そして寝ることで回復します。寝れば無我、無心、非二元、悟りの世界に入ります。

考えてはいけないのか??

考えてはいけないのか???そんなことはありません。ただ考える、思考すれば自分、自我、二元の世界に入り込んでいることを自覚してください。ここは空気が薄い世界、神が薄い世界、非二元が薄い世界です。酸欠状態になります。水の中に潜った状態です。苦しいのです。自分から思考、感情、二元の世界に入り込むと、、苦しいです。

思考してもいいんです

思考してもいいんです、ですが思考すればそのまま自分、自我、二元、幻想、時空間に入り込むことを自覚ください。そこは神が薄い世界です、空気が薄い世界です。その覚悟を持って思考するのは問題ないです。苦しくなったら無心、無思考、無我に入ればいいのですから。重要なことはそこに自覚的であることです。コーヒーを飲む、食事をする、会話をするのがなぜ非二元なのか?そこに自分が居ないからです、自分が居ないならば無我しかいません。

非二元は徹底的に感じるもの

無我も無心も非二元も徹底的に感じ尽くす

エックハルトは思考を観察せよと説き、金森さんは思考を放置して日常生活を感じろと説く、私は何からでも無心に入りましょうと説きます。要は思考が抜け落ちな状態を体感しましょうです。思考が抜け落ち非二元の状態、無我の状態、無心の状態を経験しますとそこが余りにも恍惚感がありそこに居続けたくなるのです。もう思考の世界、二元の世界、幻想の世界に興味が無くなる。人から何を思われてもどうでもいいのはその恍惚感を知っているからです。例えが悪いですがドラッグ中毒の人が人間生活に興味が無くなるのはキマッた状態が快楽過ぎるからでしょう。無我無心非二元とはそのような状態なのです。

思考の世界は苦しいよ

思考の世界とはこの「自分」の世界です。自分とはこの体、思考、感情のことです、、、思考が湧き続けていないと心配になるのは自分ではなくなってしまうからです。ですが思考が抜け落ちた状態、自分が居ない状態こそが悟りの世界、無我の世界、非二元の世界です。ここが一番の場所です。なぜならば我々全員はここから生まれたからです。母親の子宮の中の感覚でしょう。

思考が湧いたら放置する

思考が湧いた、、、そこからそこに取り込まれない、、、感情が湧いた、、、そこからそこに取り込まれない、、どこから湧いたのか???なぜ湧いたのか??そこから自身の観念を観察する、、、これも一つです。どのような観念を持っているからこの思考が湧いたかを観察する、、、ですが多くの方にはこれは難しすぎる、、、ならば思考を放置せよ、、です。そして常に五感の世界を味わい尽くすのみ、そこは今、無我、無心、非二元の世界です。つまりそこには平和、歓喜、安堵が横たわっています。

思考を放置するためには勝手に湧いたことを理解する

思考は勝手に湧く

もしも思考を自分が作り出したならばそれに注力しそこから思考を広げるのも一つでしょう。ですが実際には思考は勝手に湧いてきています、「私」の責任ではなく勝手に湧いてきている、、、ですからその湧いてきた思考に注力する必要はないのです。その思考を大切にしてそこから広げる必要はありません。ただ放置するだけで勝手に消えていきます。

思考は勝手に湧いて勝手に消える

思考は勝手に湧いて勝手に消えます、それにこの「自分」が注力するとそこから思考に取り込まれていきます。ですからここは意識的に放置です、思考を放置することで消えるのを待ちます。絶対的意識でこの思考を放置するのです、そこから思考に取り込まれないように意識します。すると五感に注力できます、見えるもの、聞こえる音、触った感触と体で感じる五感に神経を集中できるのです、そこが今です。そこが非二元です、そこがワンネスです。非二元とは遠いどこかにあるのではなく今ここにあります。

今ここで至福に至れるのに何を求めるか?

体の感覚、五感に意識を向ければ今ここで非二元、ワンネス、至福に入れます。にも関わらず何を求めるのでしょう、人間は今ここから悟りに入れます、思考の乗っ取りに邪魔されなければ人間は今にあるしかできません。今とは非二元、全存在、悟りのことです。こんな簡単に無心、無我に入れるのですからもう何かを貪る必要はありません。

完璧に触れ続けることで完璧に戻る

日々の生活の中の完璧に気づく

体というのは今にしか存在できません、体を過去や未来に持っていくことはできない、、そうなると体は確実に今にあることになります。ですが思考は違います、思考は過去や未来について考えます、過去を悔やみ、将来をを常に不安に思っているのが思考です。思考の特徴は今に在れないことです。そうなると体の感覚に一切の集中をしていきますとひたすらに今に在れることになります、体の五感だけを感じていれば常に今です。そして今とは完璧の場所です。今五感が感じることのみに意識を向け続けるということは今、完璧に触れ続けることになります。

思考が湧いても放置する

五感に意識を向け続ける、ただこれだけで、今、完璧に触れ続けることができます。全体に触れ続けることができます。そこに思考が入り思考に意識を向ければいきなり過去、未来に連れて行かれます。今、そして完璧から離れていきます。今、完璧から離れるトレーニングに入ります。そうではなく思考が湧いても放置して、、直ぐに五感で感じることのみに集中します、すると今、完璧に触れるトレーニングに入ります。どちらのトレーニングに集中するかです。

今、完璧、全体に触れ続けると、、、完璧が理解できる

五感に触れ続け、思考の罠に入り込まない、、思考が湧いても放置し続けますと、、、今、完璧、全体に触れ続けることができるようになります。1日のほとんどの時間を今、完璧、全体に触れ続けることができるようになります。そうなると今、完璧、全体が分かってきます、今、完璧、全体に馴染んできます。この延長線上に悟りがあります。常に今にある、常に完璧にある、常に全体にある、、常に悟りにあるです。

朝起きた時の違和感は正常

朝起きると必ず違和感がある

人間は朝起きると違和感を感じます。熟睡時は神に戻りますが朝起きれば再び人間としての活動が再会します。神の人間体験が始まります。そのさいに通常の感覚、違和感が早速湧いてきます。そしてその違和感を思考が解消しようと、、お水を飲む、音楽を聞く、シャワーを浴びる、食事をすると、、、ひたすらに思考、行動が起き始めます。ただそれらが起きていきます。そして「それを自分がやった」という認識も起こります。これをひたすらに行っています。

神の人間体験は違和感がデフォルト

どんなに寝起きが良い人もやっぱり違和感を少し感じています。今日も人間活動が始まる、、これは絶望です。起きる前は完全なる神、全体だったのが突然この人間活動に切り替わるのです。五感+思考+感情の活動に切り替わります。神がこの人間の体に閉じ込められて人間としての活動に朝切り替わるのです、そして夜になるとまた全体、神に戻ります。

神の人間活動は面白いが疲れる

ほとんどの人はこの人間活動はしんどいはずです。神がこの小さい体に閉じ込められていますから基本が苦しいのです。この苦しみを回避するためにあらゆる気晴らしがあるわけですが、ですがそれが一時的な気晴らしであることは本質では分かっています。神はこの体に閉じ込められた時に神であること、全体であることを完全忘却していますからいかに違和感があってもなぜ違和感が湧いているか分からないのです。

違和感解消気晴らしに飽き飽きしたら直ぐ、、

違和感解消気晴らしを延々と行っていくのがこの人間活動ですがそれも徐々に徐々に辛くなっていきます。そこで人間に成り切った神は、、この違和感は一体どこから来てるのだろうか?気晴らしをこのまま継続しても意味がないのでは??と思考するようになります。神はそこから徐々に実は自身が神であることに気づき始めます。そうでないとこの違和感の意味が理解できないからです。これが自己超越、悟りの始まりです。