悟り

悟りをしっかり閉じる

超現実的な子供はしっかり悟りを閉じる

悟りを開くには悟りを閉じるこが重要です。しっかりと悟りを閉じればしっかりと悟りが開きます。このギャップが最高起爆剤なのです。悟りを閉じるとは究極のリアリスト、超現実的になることです。現実的、、、実が現れるこの世界にどっぷりと浸かることです。現れるこの現象にしっかりと騙されて、、しっかりとこの現象に巻き込まれ、しっかりと七転八倒するのです、八方塞がりを何度も繰り返し、酒池肉林、餓鬼畜生に染まるのです。するとこの現実の世界に中に真実を見ることができるようになります。

現象をしっかりと見つめる

この現象は、、中途半端に見つめてもそれが幻想、3D映像、蜃気楼であることを見抜けません、、しっかりとしっかりとこの現実を眺めるのです。すると、、、事実がボコっと現れます、真実に入っていきます、そこから無我に入り込みます。中途半端のこの現象と向き合ってもそれほど苦しくもないし、それほど辛くもない、、その通りです。大人になってもなんか子供っぽいよね、、ていうのは悟りが閉じ切っていないのです。これでは人生が中途半端になってしまいます、、ぬるま湯での苦しみが続くわけです。

とはいえ全て決まっている

とはいえそれすらも全部川の流れ、決まっています、、どのぐらい苦しむかが決まっていないことが決まっているのです。そこに個人の判断、力は全く関与せず、、全て大元からの川の流れにこの個人は委ねるしかありません。そして強制的に八方塞がりに入り、強制的に七転八倒に入る可能性もある、緩い緩い川の流れになっているかもしれない、、そして最終的には全員が悟りに入ります、なぜならば真実は一つしかなく、、真実に流れ着くしか道は無いからです。

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。

分別ある大人とは地獄の状態

分別

分別ある大人になりなさい、あの人は分別ある人だ、、、、分別とは大人としての判断能力があることを意味し、立派な大人、自立した大人、道理をわきまえた大人であることを意味します。ですが真実を伝える立場から言ってしまえばこの状態こそが地獄の状態、苦しみの状態、悟りが完全に閉じた状態です。なぜか???判断こそがこの現象界をファンタジー化し生き辛くするからです。あの人は分別がある、あの人は良識がない、あの人は節度がない、あの人は狂っている、、、こうなります。これは真実からすると全くの見当違いなのです、

その人をその人たらしめているのは、、、

その人の中に何か人格というものがあってその人格がその人を動かしている、、こレが多くの人が認識している人間の姿でしょう、もしくは魂が宿りその魂いがその体を突き動かしていると、、、ですがこれこそが思考。空想、妄想なのです。事実はただ全体からの起こりがあるだけです、現象があるだけです。磨いて磨いて磨きあげる人格、魂は存在しません。これこそが想像、思考です。

そんなことはない江原さんはしっかりと認識している

違います、江原さんという現象が起き、魂が見えるという発言が現象化しているのです。三輪さんという現象が起き魂が存在しいているわよという発言が現象化しているのです。それすらも全体の表現、アート、現象です。何度も伝えますが現象とはかたち(象)が現れると書きます、、現れているのです。そして現れるという漢字を見てください、、見えると書いてあります。。つまり形が見えているのです。蜃気楼です。

熟睡がいいか?ハッピードリームがいいか?

熟睡は悟り、ハッピードリームは成功

毎晩皆さんは寝ますが、、熟睡から起きた時、凄い楽しい夢を見て起きた時、、どちらが好きでしょうか???私は断然熟睡です。ハッピードリームにはほぼ興味がありません。夢の中でどんなに良い思いをしてもそんなに幸せではなく苦しさが常にあるのを感じるのです、なぜ次から次へと夢の中で幸福を求めるかといえばこの苦しさから逃げたいことをなんとなく分かっています。熟睡はこれとは違い完璧な至福であったと分かります、中途半端な熟睡はなく、、ただ至福だけがあったと気づきます。

現実でも全く同じ

この現実世界現象世界でもこれは全く同じで成功を何度も繰り返し、周囲から羨ましいと思われてもどこか苦しい、、幸せな家庭、幸せな会社、幸せな人間関係に囲まれても常に不安が襲ってきます。これはハッピードリームを見てる状態と全く同じことです。この現実生活の中で熟睡してしまう、、これが悟りです。何も起きていないことに気付いてしまう、、私は思考するし私は行動するがそれが全部全自動で起きていることに気付いてしまう、全ては熟睡時に感じる至福から起きていてそれは現実に一見見えるが完璧に何もないことに気付いてしまう。私が全てを眺めていると思っているがこの私も至福から現象化した幻影に過ぎず、周囲の人間も至福からの幻影に過ぎない、、その中で私が生きているという錯覚がただ起こっている。

ハッピードリームが悪いことではない

ハッピードリームは善でも悪でもありません、ただハッピードリームが熟睡時に感じる至福から湧き上がり、、私を中心にした私ストーリーが起こっているのです。ですがこの私の存在を絶対的に信用しますと同時に苦しさが湧いてきます。そしてこの苦しさをなんとか解消しようと私が次から次へと目標を達成していくのがハッピードリーム、成功と呼ばれる状態です。ハッピードリームはもううんざりだ、、これが悟りへの誘いです。

助けなくてはならないピーチ姫は居ない

両親が瀕死の状態

突然両親が瀕死の状態になってこのまま二十年間は寝たきり状態、、多くの場合これは地獄、地獄絵図です。周囲からなんと不幸な、、なんと不運な、、という状態です。ですが事実だけを伝えればその両親は五感で感じる蜃気楼に過ぎず、そしてその両親がどんなに苦しんでいるように見えても(蜃気楼)そこに苦しみは実在しません。そしてそのように見える私も蜃気楼ですから実在しません。全てが現象、蜃気楼です。それが腹落ちした時に、、苦しい、しんどい、辛いが果たして湧いてくるでしょうか、、この「自分」ありきの思考感情は全く湧いてきません。この状態は八方塞がりでしょうか、、常に至福に包まれます。

八方塞がりは蜃気楼

八方塞がりとは全方位を困難で囲まれてしまった、障害で囲まれてしまった、、状態です。人生においては絶体絶命の状態です。ですがこれも事実を突き詰めていきますと全く困難ではないのです、、先ず八方を塞ぐ多くの場合は人間です、この人間が完璧な蜃気楼なのです、ですがそれを見抜くことでどうでも良くなります、上司も部下も、友人も妻も、旦那も子供も、、全部蜃気楼です。どう扱っても何一つ深刻なことは起こらない、、起こったように見えてもそれは見えただけです。深刻という感情はあくまでこの私が居るという前提で湧き上がるのであって実はそれ以外では実在できないのです。

八方塞がりから学ぶこと

八方塞がりから学ぶチャンスは大いにあります、、、周囲は「私」の感情思考とは何も関係なく「私」に危害を加えるということです。七方位が閉ざされてしまっていれば同情が周囲から入りそこは甘く見てもらえるのでは??よいう思考も湧きますがそんなこととは一切関係なく周囲は「私」に危害を加えることがあります。そうです、周囲の行動は「私」とは何も関係なく起こるのです。これぞ悟りです。こちらの事情は周囲の行動と何も関係がないということ。そして「私」の思考、行動も周囲の人間に関係なく次々に起こり続けるのです。誰一人「自分」に関係なく言動が起き続けるだけです。この状況で何を期待し何に失望するというのでしょう。

神にうっかりは100%ない

神がうっかり自分になった??

神がうっかりこの体を自分と思い込み、、、あるわけがありません。神がこの体を自分と勘違いしてしまい、、全部嘘です。神にうっかりも勘違いも全くありません。全知全能の神にミスはないのです、するこの自分思い込みゲームは完全犯罪、計画犯罪に決まっています。悟りは完璧なタイミングで完璧な形で閉まったのです。すると悟りが開くのはいつか??それも神が完璧なタイミングで起こします。ですが何も努力なく、何の苦労もなく確かなタイミングで悟りは開くのです。

悟りを自分の努力の延長上にしない

悟りが閉じたのは、、、周囲からの呼びかけ反応です。名前をエンドレスに呼びかけられ、、この体に自分が居るという錯覚が起こりました。ここに自分の努力は全くありません。自然に悟りが閉じたのです。では悟りが開くには何が必要なのか???ここも自分の存在など完全に無力です。悟りの開閉に個人は完全に無力なのです。神、全体が、、完璧なタイミング悟りを閉ざし、完璧なタイミングで悟りを開きます。

川を流れる葉っぱは勝手に悟りを閉じ、勝手に悟りを開く

川を流れる葉っぱは、、川の流れ初めは完全に川の流れに委ねてきました、、葉っぱには自由意志などなくただ川の流れに身を任せてきました、、川と葉っぱの境目などそもそもなく葉っぱは川の模様の一部のようなものです。これは幼少期の感覚です。ところが葉っぱに脳が発達し、、葉っぱ(自分)が川の中で自由に動いているのだ、、という錯覚が起きました。これが大人になるということです。自由意志があるはずなのに自由に行かないこともある、上手くいく時もあれば上手くいかないことがある、なぜだ??です。あれどうも葉っぱには自由意思なんてなくてただ川の流れに従っているのでは???という疑問が起きます、、そして最後に川と自分(葉っぱ)には境目などないのでは???あれ川も葉っぱもただの名前であって全体しかなかった、(悟りが開く)が起きるのです。

全ては自分の鏡

今見ている世界

今目の前に見えている世界は脳内映像です、人間の体をベースに解説すれば我々は人生を通じて脳内映像を見ています。脳内映像を見ているのは分かった、では現物はどこにあるのでしょうか????脳内映像ではなく現物の在り処を教えてくれ、、、、それは目の前にあるだろう、、、その証拠に目の前のコップを触れば確実に感触があるではないか???違います、脳内映像のコップをやはり脳内映像の手が触れて間違いなく感触はあるが、その場所は特定できていません。答えを言いましょう、、全てあなたの体の中に全体そのものがあります。そして全体そのものが脳内映像に映し出され映っているのです。

全体そのものがあなたの中に全部ある

全体そのものがあなたの中に入り込みその映像をあなたが確実に見ています。ですから覚者は悟り「目の前に全てがあった」と話すのです。本当に目の前に全てが映し出されているのです。そしてそこで繰り広げるドラマの全てを全体が回収します。そんなことはない、、目の前で泣き叫ぶ子供の感情は何もこちらは分からないぞ、、、全体が全部回収しているならば泣き叫ぶ子供の感情も分かるはずじゃないか、、、その通りです。全体が回収できない感情などあるわけないのです。つまりその泣き叫ぶ子供は現象に過ぎず、何の感情を湧いていないのです。

人間に感情が無いのならば、、

人間に感情が無いのならば人間関係なんて何も面白くないじゃないか、、、無感情の人間と話していて何が面白いのか???大丈夫です、今までも全く感情が湧いていない人間(現象)と十分やってきました。そしてこれからもそれが続くだけです。無邪気な子供が、、困っている大人の周りで遊び続けることができるのは、、大人の心情を理解できないからではありません、、、大人の中に感情がないことを知っているからです。間違っているのは大人の方です。

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

この事実を伝えなければならない相手は居ない

自分がそれに気づいたとて

悟りの勉強は面白い、ノンデュアリティメッセージは突き刺さる、、すると多くの人はこれを周囲の人間に知らせたいという衝動が起きたりします。ですがこの衝動は放っておいて大丈夫です。なぜならば知らせたい周囲こそがただの現象、3D映像、五感で感じる蜃気楼ですから教えたところでその事実は何も変わらないのです。そして相手には相手の人生があると本気で思っているかもしれませんがその人の人生は存在しないのです。

「スーパーマリオ」はあっても「スーパーノコノコ」はない

あなたの体はマリオでそのマリオの人生は「スーパーマリオ」と呼ばれています。ではマリオの脇役でちょいちょい出てくる「ノコノコ」にはノコノコの人生はあるのでしょうか????実際にはこのノコノコの人生「スーパーノコノコ」は存在しないのです。もしもノコノコの人生が在るとしたらマリオが見ていない場所でもノコノコの活動が続くことになります、ですがそのじような事実はないのです。ノコノコはマリオが画面の中心にいる場所の脇でたまに登場するしか存在できないのです。つまりノコノコは画面から外れると空、ゼロに戻っているのです。

ノコノコに感情が有るならば、、その場で全体が回収している

マリオはゲーム上、ノコノコを常に踏みつけ殺していきます、その際にノコノコは表面上痛そうな表情をして死んでいきます、ですがこの時ノコノコの中で悔しい、モドカシイ、残念無念!という感情は湧いているでしょうか?湧いていません。もしも湧いているならばその感情をTV画面は回収しているはずです。TV画面上でその感情を回収できます、マリオはその感情を認識できないのは当たり前としてゲーム本体は必ずこれを回収します。ですがそれが無いのです。なぜ言い切れるか、、マリオの感情を回収し、それを認識している存在こそがゲーム本体だからです。????ということは普段マリオが感じている悲しい、辛い、ムカつく、は、、マリオ(自分)ではなくゲーム本体が感じているのです。私が感じているつもりだった「悲しい」、「孤独」「妬み嫉み」「嬉しい」「楽しい」は、、、ゲーム本体が受け取っていたのです。つまり「私」はマリオの中に居るのではなく、、ゲーム本体だったのです。

私がゲーム本体ならば、、空ではないか、、、

私がゲーム本来ならば、、、私はこの現象界を現象化する空であり、ならば現象界そのもの色ではないか、、、その通りです。つまり現象界そのものであり、この現象を湧き出す存在なのです。ゲーム本体です。ゲーム本体であなければマリオの感情は回収できないのです。そしてこのマリオ(かつての私)を主人公にしたこのゲームはマリオのためだけに存在しておりマリオ(かつての私)オリジナルゲームです。ですからこのゲームには私(ゲーム本体)しか存在しておらず大いにこれを独占して遊び尽くせばいいのです。周囲の批判が怖い、周囲の評判が怖い、、、残念!!!周囲に居ると思われている人々(映像)には感情すら湧いていません。

この体がマリオだと思って生活する

マリオだと一日中感じて生活する

この体はマリオ同様3D映像です、五感で感じる蜃気楼です、空からの現象です。つまり空洞、幻影、ゼロ、空即是色です。ですから今日を1日この体をマリオだと思って生活します。そして周囲もマリオゲーム同様3D映像、幻影、空からの現象(色)です。マリオゲームですから歩いても本来周囲の画像が切り替わっているだけでマリオの位置は変わりません。マリオは土の感覚、階段の感覚、アスファルトの感覚を感じますがこれはあくまで感じるのみ踏み込む対象は全て3D映像です。

話しかけれられてもマリオとして対応する

話しかけられることもあるでしょう、その際にはマリオに成り済まし対応します。こちらからマリオとして話しかけても良いかもしれません。マリオになり切らない限り怒りや、憎しみ、嫉妬の感情は湧いてこないでしょう。マリオになり切らない限りそこに映る現象(人)と本気で仲良くしたいなど思わないはずです。つまり人間関係(映像関係)は軽いのです。深刻になれません。

マリオは腹が減るのだから働かなくては、、

問題なのはこのマリオは腹も減るし、光熱費も払わなくてはなりませんから、、まあまあ面倒なわけです。ということで働かなくてはならないでしょう、ですがマリオの名誉のために働く、マリオの名声のために働く、マリオの評価を上げるために働く、マリオの女受けを良くするために働くといった衝動は到底湧いてきません。なぜならばマリオはただの3D映像です。そういう意味ではかなり気楽でしょう。

マリオから出てくる欲求が少なくなっていく

この体をマリオだと思って生活していくとなぜか欲求が減っていくのが分かります、なぜか孤独感が少なくなっていくのが分かります、なぜか不足感が少なくなっていくのが分かります。これぞマリオマジック、悟りマジックです。この世界のカラクリが見えてきて同時に苦しさが無くなっていくのです。なぜならばこのマリオが実在しているという本気の思い込みこそが「苦しみ」の根源だからです。逆に言えばこのマリオゲームではマリオが実在しているという思い込みからくる「苦しさ」を脱してしまったらもう負の感情は湧きようがありません。それしかないのです。