悟り

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

悟りとは完全な諦め

サレンダーの本当の意味

サレンダー、諦め、、、悟りを学べばこれらの言葉は直ぐに登場してきますが、、、なかなかこれらの言葉の意味が分からない、、、それもそのはず、、、自我はこれらの理解を大変嫌がります。なぜならばこの諦めとは自我が完全に無意味であることの理解だからです。川の流れのように我々の行動は自分では全く決めることができないこと、、自分という存在が何かしらの経験を積んでいるというのが真っ赤な嘘であるということ、幻想であるということ、、、これを腹落ちさせることは、、自我にとっては諦めです。

そんなことはない、、、の猛反撃

普通に生きていたらこれはもう分かるわけがない、、、、この体の中に自分が居て自由意志でこの人生を切り開く、、、これはもう完璧な洗脳なのですが、、、これを見抜くのは容易なことではないのです。なぜならばあまりにもリアリティがあるから、、、あまりに実感があるからです。。ですが覚者の気づきをしっかりと学んでいきますと、、確かにこれは、、、錯覚であることが腹落ちしていきます。

1万回聞いても理解が起きない

内容はとんでもなくシンプルなのです、、ですが理解が起きないのです、、、理解が起きないから、、直ぐに日常に取り込まれてしまう、、自由意志をフル発揮しようが湧いてきてしまう、、、この繰り返しです、、、今経験しかない、、、この体が在るは錯覚、、、だから今しかない、、、、時間はない、、、これも直ぐに日常に取り込まれ時間を気にする毎日、、、、この繰り返しです。。

ある時ふと、、、腹落ちが起きる

ある時にふと腹落ちが起きます、、、あれ、、なんか分かった、、、本当に自由意志ってないよね、、、本当に経験しかないよね、、、本当にこの体の中に自分が居るって錯覚だよね、、本当に気づきだけがいつもあるしいままでも在ったよね、、、突然の腹落ちが起き始めます、、

悟りとは教えではない

教えという時点で個人が出現する

師弟関係、、これは教える存在と教えをこう存在を生み出します。。ですが悟りにかんしては教える存在、教えを乞う存在の二者を全否定します、え????教えてもらえない????そうです、、教えてもらう自分が居ないというメッセージこそが悟りです。ですから悟りを自己啓発の延長線上に捉えると混乱します、全否定されるのです。

じゃあ、、悟りはどう学べばいいのか???

メッセージを淡々と理解していきます、、教えてもらうべき人も居ず、教えてもらう自分も居ないという滅茶苦茶な状況でことが進むわけです。これまでは教えを請う自分が確実に居ました、、、ですが悟りではこの自分が居ないというメッセージなのです。混乱しますよね、、、そうです、、この混乱こそが最重要、この混乱こそが価値があるのです、、この混乱に価値を置ける時に悟りが起きます。

悟りとは自分が居ないという事実を受け入れるということ

世の中の情報のほぼ全てはこの自分にとって重要か、重要じゃないかだけでしょう、、、ですが悟りはその情報を受ける自分が居ないというメッセージです。ベクトルが180度違うんですね、、でも空気を読まずにそれだけを発信するのが覚者です、、、事実に気づいちゃった以上それ以外できない、、、それが本音です。見かけ上の私もそれ以外したくない、、事実以外伝えたくないが今起きています。

決まっている、決まっていない論争

どこを主語にするか、、、

自分という存在が居るという前提話をもっていきますと、、、全ては決まっていません、、その人を通じてただ全体から起こりが起きているだけです。全体から起こりが起こることは「決まっています」。このシステムは決まっているんです。化学反応(全体)から何かが起こることは決まっています。全体が常に揺れ動き変幻自在の現象が起きることは決まっています。個人の立場に立ってみれば次に何が起きるかは全く決まっていません。

自由意志があるように感じることが起きた

コーヒーを飲むぞ、、コーヒーを作った、、そして飲んだ、、、、この流れは完全なる自由意志です、、これを否定できる個人は居ないはずです、、、だからこの世界は苦しみに満ちます。。。しかしながらこの一連の出来事がただ全体から起こったとして誰がこれを否定できるのでしょう。できないのです、、どこまでいってもこれを否定できない、、、

何も決まっていない、、自由意志もない、、

何も決まっていることはなく、、自由意志もない、、、絶望的なこのメッセージが悟り、ノンデュアリティです。個人にとっては絶望的すぎるこのメッセージ、、これが悟り、ノンデュアリティです。ですが見かけ上のこの私はこのメッセージが大好きです、安心します、平和になります、もう戦わなくていい、、安堵感が込み上げてきます、、至福に包まれます。

全体として存在しなぜ人の言葉で傷つくことができるのか???

無我夢中の状態で

何かに没頭して無我夢中に、、、この時至福に居ます、全体に居ます、神に居ます、、この状態で誰かから悪口を言われた、、、、気にならない、、、なぜならば既に至福だからです。至福に居るとは現実離れではない、、、いや現実という現象の中で、、、現象そのものになっている状態です。その悪口すらも現象の現れ、、、気にならない、、、悪口そのもの、、、です。

批判を気にするスターは、、、

批判を気にするスターは、、、全体になりきれていない、、、、成し遂げた功績をこの個人が所有している、、だから苦しい、、、この時に批判を受けると、、、テンパってしまう、、苦しさが重なる、、、功績よりも無我に入るそのことこそに至福を覚えるならば、、、周囲に対する関心が薄くなる、、結果批判も気にしない、、、

自我全開プログラムを脱す

悟りとは自我全開プログラムが落ちることです、、このプログラムは非常に強固で簡単にはアンインストールされません。ですからゆっくりゆっくりこの自分はプログラムであり、、このプログラムを紐解く必要があるのです。音楽とは音の組み合わせであり、、、これに実態はありません、あの曲が好き、、という時、、それは異なった音の組み合わせのことです。。。。この自分というプログラムも、、、言語の組み合わせで形成されており、、実態がないのです。音の組み合わせです。。。

だからこそこう生きよう、ああ生きようとは真逆

もっと自然体で生きようよ、、、、、アベシ、、、、こんなメッセージが一切意味をなさないのは、、、生きるのが個人だからです。。。そうではなくこの個人をいかに解体させるかです。。。今を生きよう、、、、、ヒデブ、、、、今を生きるのが個人ならば、、、何を今やっても苦しい、、、個人に向けたあらゆるメッセージはその瞬間の幸福を得れても、、しれは全て一時的なまやかしです。

あれを伝えないと。。。

会ったらこのことを伝えないと、、

次にあの人に会ったらこれを伝えなくては、、、こ話をしないと先に進まない、、、思考は人間関係の中でいかに優位に立つか、、、一生懸命この個人を守るために働きます、、、そして確かにその効果がある場合はあります。あざとい、小賢しい、、思考があまりにその個人のために目先に走る時に出る言葉です、、ですが個人の存在に騙された状態で生きる人は全員実は小賢しいのです。そうならざるを得ないのです。

次々に思考は個人の損得を計算する

この行動が一番損をしないのでは、、この言動が今回は一番得だ、、、全部個人にとってです、私にとってです、、、ですが今苦しみを湧き出しているのが「この個人が居る」という感覚です。損得感情をフル発揮しようと、、この苦しみを作り出しているのは紛れもなく「個人」の存在なのです。こん矛盾にいつ気づくかです。覚者は悟りこの個人延命プログラムの罠に気づきました、、自由意志があるという大勘違いを前提に、、次々にプログラムが発動されます、、思考というプログラム、、、

思考プログラムがフル発揮しても、、、

思考プログラムは、、、個人を幸福にしようと、、、働きますが、、、実はこの「個人が居る」というプログラムこそが苦しみの根源だった、、、アベシ、ヒデブ、、、、です。そうです、、、全く見当違いなことが起こっていたのです、全体から。幸福にしないといけない個人はそもそも居なかったのです。勿論それでもこの体を食べさせなくれはならない、、これも事実でしょう、、、ですがそれと苦しみには何も関係がないのです。

悟りとは学問ではない

悟りとは事実そのもの

事実を追及することが悟りです、、、これは学問ではありません。自分が居るというのは思考ですね、、これは事実ではない、、、なぜならば自分を証明することは不可能だからです。悟りとはどこまでいっても事実しか相手にしない、、これが悟りです。

あれがこうかもね、、ああかもね、、、全部思考

あの人はこう考えているに違いない、、、全部思考です、、事実ではない、、、あれが起こったということはこういう裏事情があるのでは???全部思考です、、事実ではない。、、、悟りとは事実だけと向き合うことで、、、この自分という存在が嘘であることを見抜き、、全体の気づきしかないことを見抜くことです。

究極の物理学

私は悟りとは物理学だと思っています、、、この物理現象をしっかりと見つめ、、この物理そのものが現象であることを見抜くことだと思っています。本当にこの物理現象はあるのか???ありません、、現象ですから、、、いやでもしっかりと五感で感じいるけど、、、違います、、五感で感じることで存在を疑わないという現象が起きています。

責任など一切ないが、、

それでも責任を取らされる、、

この二元の世界で犯罪を犯せば当然捕まります、、これは事実です。ですが悟りの観点からお伝えすれば、、それも起きただけということになります。その行為がその人を通じて起きました、、、、その行為が法律に触れれば捕まるという現象が起きます、、、これをどう捉えるか、、、、ですがその捉え方自体も全体から起きます。。。

責任感が強い人間が犯罪を、、、

あの人が犯罪を犯すなんて、、あんな人格者が犯罪を、、、ですが事実は、、全体からただそれが起こっただけ、、、そこに意味はないのです、、、、多くの方はそこからあらゆる思考を張って、、、あの人も本当は孤独だったのでは、、、あの人も実は家庭環境が悪かったのでは、、、と詮索しますが、、、、事実はただそれが全体か起こりました、、、

これを悲惨と取るか、、、軽いと取るか、、、

この事実を多くの人はどう捉えていいか分からない、、、、それは悲惨だよね、、、それは冷酷だよね、、、違います、、これが軽いのです、、だって全責任が自分にあるっってめちゃくちゃ重いじゃないですか、、、絶対。分別がある大人にならなくては、、、、ですが事実は全体から淡々と起きます、、、、、これを腹落ちすると本当に楽になるのです、、、だからと言って犯罪を犯していい、、なんて言っていませんよ、、これを全体が起こしているという事実が重要なのです。

I am

私は誰それです。。。

私という存在を絶対的に疑わない理由は、、意識があるからです、、、風邪を感じる、、香りを感じる、、湿気を感じる、、、この意識に対し疑うものは居ないでしょう、、、だからこそこの私がそれを意識しているという勘違いが発生したのです。。。。本当はI amだけ、、、私は居る、、だけです、、、、、私はこの体ではないのです、、私は00坐右衛門ではないのです、、、私は意識そのものです、、、、ただの意識なのです、、、今光を感じ、苦しみを感じ、、楽しいを感じている、、その意識のみの存在なのです。

I am 〇〇から〇〇を取り除くとI amに

悟りとは至って簡単なこと、、、私は00です。から私はです。に変えるだけ、、、、私の存在を疑わないのはこの意識が確実にあることを知っているから、、、意識が今全五感を感じています、、、ただそれだけ、、、感覚を所有する意識そのもの、、経験そのものです。。00から00を削ぎ落とすと、、、感覚だけ、気づきだけが残るのです。

気づきの感覚は本当、私は00は思考

火の光を感じる、、、絶対に嘘はありません、、、ですが私は〇〇○男、、、これは思考です、、事実ではありません、、太陽の熱を感じる、、絶対に嘘はありません、、ですが私は〇〇○男は思考です、、、五感を通じて感じる意識が存在するのは間違いありません、、意識が感じることを所有する〇〇○男は思考ですから幻想です。幻想から、、、〇〇○男を削げば、、、、意識だけが残るのです。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。