悟り

先ずは「苦しい」を終わらせる

悟りを求める人々の大勘違い

なぜ覚者と質問者との間のコミュニケーションは食い違うケースが多いのか???質問者は自分が幸福のなる方法を聞きたがります、、ですが覚者は、、自分が居ないということ回答し続けます。その回答を聞いて、、自分が居なるための方法を質問者は問いてきます、、覚者はもともと自分が居ないから自分を無くす方法が無いと答えます。質問者はでも自分が居る感覚は確実にある、、どうすればいいか?と問いてきます、、覚者はどうすることができる自分が居ないと回答します。

これは非常に難解な問答になる

今まで生きてきて、、この体の中の自分が居ない、、、などのメッセージを聞くことは皆無です。総理大臣、国連事務正長ですら、、体の中に自分が居ると信じて疑わないでしょう。だからこそこの世から苦しみを解消することは不可能なのです。つまり大前提の勘違い、、ここに全ての根本理由があるということです。ですがこれを理解するのは至難の技、、なぜならば一歩外のでれば今もその前提で世界は回っています。TVを観ても、小説を読んでも、映画を観ても全部が全部このパターンです。

気づきの意識がこのカラクリに気づくまで続く

このカラクリに気づくのは個人ではありません、個人が居ないということを個人が気づくということは不可能です。マリオにのめり込みすぎてしまった子供がハッとゲームを止める瞬間が悟りです。個人に意識し過ぎてしまいこの世界にのめり込むことに、カラクリを発見し気づき直すことが悟りです。悟りとは気づきの意識の気づきのことです。この気づきが起きますと「苦しい」は消えます、、するとこれからの人生の課題や、人生の目的、、など今まで重要課題がどうでもよくなります。今までくるしかったから色々な課題を見つけては改善していたことに気づくのです。

サレンダーの本当の意味に気づく

降参とは粋な表現

降参という言葉、、、今となっては本当に素晴らしい表現だと気づきます、、スピを学び始めた際にも、悟りを学び始めた際にも、、言葉では理解できるのではどうしても腹落ちしない、、、でもここに何か真実があることだけは分かっていました、、、今はハッキリと分かります、、、究極の脱力、、これを求めていたんだなと、、自我の完敗、乾杯です。

それを言ったらお終いよ

結局何が苦しかったかと言えば、、、一度でも自分の力で何か良い結果を出してしまったことだったんです、、結局自分の努力で何かを勝ち取った、、自分のアイデアで楽ができた、、、自分の発送でお得感を感じれた、、、こんな小さな小さな勘違いが大勘違いを生み出し苦しんでただけだったのです。自分が居て、その自分には自由意志があり、、のゲームに上手く乗せられていただけだったのです。それが「自分も自由意志もない」、、、と覚者全員が宣えば、、、それだけは言っちゃいけない、、言ってほしく無かった、、

あれ???ちょいちょい出てくる自由意志がない、、発言、、、

大和田菜穂さんの動画を見ていると、、ちょいちょい自由意志がないって言っているような、、金森さんの動画を聞いても、、、溝口あやかさんの動画を聞いても、、アジャシャンティの本を読んでいても、、、あれ、、、なんかちょいちょい出てくるぞ、、、まーそこは気にしないでおこう、、、でも気になる、、、、そしてどこかでハッキリと、、、「自由意志はない」を言い切る人も、、、もう諦めよう、、、、が見かけ上の私に起きました。

ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。

スピと悟りの関係

スピは自我を緩める

物質史上主義の人にとってスピは自我を緩めてくれる大きなメリットがあります、、目に見える世界が全てという価値観の人にとって目に見えない世界を見せてくれるスピの世界は重要です。私は江原さんのスピ系の書籍を読むことで現世に対する執着が確実に緩和しました、、現世において絶対に失敗したくないという執着が減ったのです、これによって今世は今世として徹底的に楽しもうという感覚にリセットできました。

自我が緩めば、、

自我が緩みますと、、逆に今世を徹底的に楽しんでやろうという思いが募っていきました、、結果願望実現系のメセージに傾倒しそこに逆に執着していきました、、、今世を安全に生きることに興味がないん分、徹底的に成功することに執着が起こったのです、、ですがそうは問屋が卸さない、、成功が約束された道などないのです。

成功を諦めた次に

成功というのは自身の興味と事業の方向が一致しなくては難しい、ですがこればかりは自身ではどうにもならない、、なぜならばそれを決めることができる自分が存在しないからです。運任せ風任せなのです、、、事業成功に興味が薄れた自分は悟りへの興味を募っていきました、、スピによって自我が緩み、、悟りへの階段を確実に進んで行ったのです。

力が抜けてしまうという副作用

もう頑張らなくていい、、という脱力

全体から全部の言動がただ起きている、、、この事実を突きつけられますと、、、もう頑張れない、、、だってそこに自分がいないのです、、頑張ってきたと思っていた自分が居なかった、、、もう何も無理ができない、、サレンダー、、、今日はこれをやって明日はこれをやらなきゃが、、、出てこない、、、究極の脱力、、これが悟りです。。いやそんなんじゃ生きていけないのでは、、、違います、、今までも全部全体からの起こりが起きていただけです。

頑張らなくては、、、という自我が抜け落ちる

頑張らなくては、、、これが起きることも当然あります、全体から。ですが自分が頑張らなくては、、がない。。。。この違い、、、全責任を自分が背負っていた重責、重さがガッツリ抜け落ち、、、ただ頑張るが起きれば頑張る、、やる気が起きればやる、、、ただそれだけ、、、そこに自分は居ない、、、、拍子抜け、脱力、無力、、、

行動に対する思考の分析が消える

この行動に対し、なぜこんなことをしてしまったのか?もっと良い方法があったのでは???がない、、何も検証が起きない、、、ただ行動が全体から起こっただけ、、、そこを検証することができない。。。それをする自分も居ない、、、これは世捨て人なのか、、、、違います、、ただ事実を理解しただけです、、、事実に即した行動が起こっただけです。

悟りすらも人生の充実に利用しようとする自我

悟ったらどんな人生になれるだろう????

悟ったらどれほど人生が充実するだろう???悟れれば今の苦しみが消え失せ毎日の人生が楽になるのでは???これが自我の陰謀、策略です。悟りとはこの自分もこの自分の人生も、、全部もともと無かったという気づきです、、自分も人生も全く存在しなくても、、しっかりと意識だけは元々あった、、、この気づきの意識に戻ることが悟りです。

自分も自我も存在していなかった世界に戻る

結論から言えばこの自分に意識がフォーカスすることで思考が溢れ出て言動が溢れ出てこの言動に振り回され続け苦しみが生まれます。このメカニズムに圧倒的に気づき、、いやそもそも自分なんてなかったよね、、、という究極の気づきに至ることが悟りです。自分なんて存在せず、存在なくして普通に生きていた赤ちゃん、、、ところが後天的に発生したこの自分に意識のフォーカスが集まることで、、自分ストーリーが始まった、、、そこからが苦しみの毎日に、、、

悟りとは全部諦めるということ

悟りが自己啓発と全く異なるのは、、、全部を諦めるのが悟りだということです。全ての言動がただ気づきの意識、全体から起きているという究極の諦めです、、、、そこに自分は何も介在できない、、いや自分が居ない、、、自分が居ないわけだから充実した人生が虚偽だった、幻想だった、妄想だったという気づきです。これの何が良いのか???自分には良くないのです、、、ですがなぜか至福感に包まれる、、全てを手放した時至福が現れます。

名前を付けない限り、、それは存在できない

独立分離した存在を作るためには名前をつける必要がある

人間は一度に二つの物をしっかりと認識することができません、、目の焦点をそこに集中しなければ、、しっかりとしれを認識できないのです。。これが「やかん」だという記憶を作らなければ視界に入ったやかんに焦点が合わないのです、焦点が合わないということはそれはこの視界に存在しないことになります。PCとTVを同時に焦点を合わせることができません、PCに焦点を合わせ、TVに焦点を合わせています。これがPCであるという認識がなければそこに焦点を合わせることができません。

これがエアフォースワンという認識

スニーカー好きはこれがエアフォースワンだと認識したことで、、街を歩くたびにエアフォースワンが登場します、そこに焦点が合います、、、これでこの世界にエアフォースワンが登場します。老人が一日中歩き回ってもエアフォースワンは登場しません、そこに焦点が定まらないからです。名前を覚えない限り実はそれはこの世界に登場できないのです。現象化しないということです。

老婆と若い娘は同時に登場できない

騙し絵で有名な老婆と若い娘の絵画、、、この二人は同時に登場できません、どちらに焦点を合わせるかだけです、、、我々は今全員が同じ景色を見てると思っていますが実は人によって全然違う景色を見ているのです。これがこの現象界の仕掛けです。本当はただ生命が揺れ動き、、そこに名前をつけることで独立区別された存在が登場しています。この仕掛けを見抜くことで生命の現れしかないことに気づくことが悟りです。

抽象度を上げていくということ

上から見渡してみたら、、、

抽象度を上げるとは、、、この世界を上から眺めることで、、、実際には何が起きているかを知ることです。例えば我々は今住んでいる環境を上から眺めたことはないでしょう、、上から航空地図で眺めたらビックリ、、え、、こんな近くにこのお店が、、、え、、、こんな近くに、、あの人が、、、と必ず気づきが起きます。抽象度を上げるとはそういうこと、、、この名前が付きまくった現象の世界を全く違う概念でもう一度見直します。

最終的に全部を見渡す、、

悟りとはつまりこの現象界を完全に理解することです、、この現象界に取り込まれず、、ただそのままにこれを理解することです、、、あらゆる独立した風に見える物事は実は名前がないということ、、この体の中に自分が居ると思っているが、、これが事実ではないこと、、、ただ経験だけがあること、、、この時間は実は存在せず、、、記憶されたデータに過ぎないこと、、、

全部見えたら何もなかった

全部をしっかりと眺めていきますと、、、まさかの何もないという事実が突き刺さってきます、、、あれ、、、色々視界には写っているけど、、、これ映っているだけだぞ、、、この体はあらゆる経験を五感を通じてしているが、、、この体の存在は証明できないぞ、、ただ経験だけがあるぞ、、、え、、、何もないではないか???本当は経験しかなく、、、その経験に気づく存在しかいない、、、私はこの気づく存在なのか???それしかない、、

あれ、、時間なんてあるわけがない、、、

今時間は絶対に存在しない

時間というのは今を記憶し、それを繋ぎ続けることで発生します、便宜上、、、時間を誰も時間を見たことがある人が居ないのは存在しないからです。今というこの瞬間、生命の現れ、、、ここには経験しか実は存在しません、、今画像が在る、、今音が在る、、今味覚がある、、今食感がある、、今触感がある、、今匂いがある、、、これだけです、、この体は、、、その画像が在るのみです、、ですからどこを探しても時間はないのです、、ただ経験だけがあります、、、これも見かけ上の脳が記憶し、、時間があるというアイデアが湧きました。

時間に取り込まれるデメリット

時間に取り込まれていくのはこの自分です、この自分が時間の中に取り込まれていきます、、時間は自分に依存し、自分は時間に依存します、共依存です、、、幻の存在同士が共依存で生き残ろうとするが全体から起きます。覚者は悟り、、時間がないことを見抜きます、、自我の終焉には重要なことです、、この自分がこの時間の中で何かをしなくてはならない、、、これが苦しみを作り出す強固なシステムです。

便宜上の時間に至福を邪魔させない

時間とは便宜上のものです、、この時間に取り込まれていきますと、、、至福感が消えていきます、、時間に追われるのはいつだってこの自分だからです。時間がない、時間が足りない、、、それは「自分」、、、だから苦しい、、忙しい、忙しい、、、忙しいのは誰??自分です、、、だから苦しい、、、時間はこの自分をストーリーの中に埋没させます、、時間というアイデアが、、自分を自分劇場に埋没させるのです、、だから覚者は何度も「時間なんてないんですよ」「今この瞬間しかないんですよ」を言います。。。