悟り

マインドはいつも騒ぐ

これもエンタメ

マインドはいつも騒ぎます、、この自分が居るという前提で動きがあるのがマインドですから悟りに関しては特に騒ぎ立てます、、、悟りとはこの個人が実は居ないというメセージですから、、とりわけ騒ぐわけです。マインドの最後の抵抗です、、、。自分を守るため、維持するためにマインドは徹底的に抗戦します。悟りという言葉がいつまで経っても市民権を得ない、ゲテモノ扱いされるのは当然といえば当然なのです。

マインドの抵抗こそが証拠

悟りに対しいマインドは異常に騒ぎ立てるわけですが、、これこそが悟りを過剰意識するマインドの仕組みが理解できます。マインドにとって悟りとは自己の解体、自己の終焉、、、マインドが守ってきた存在の終焉を意味します。マインドはここに徹底的に歯向かうわけです、、、ですが事実として真実として自己は存在しませんから最後は降参するわけです。

マインドが騒ぎ立てるからこそ

マインドがこれだけ騒ぎ立てるからこそ、、、そこには何かがあるのです。その何かとは、、真実です。マインドが隠しておきたい真実がそこにあるのです。この自分が居て、、、居ません、、、そこを隠しておきたいわけです、、マインドは、、、だから過剰に反応する、、、、最後は明け渡すことも分かっている、、、気づきの意識が個人が居ないということに気づくが起きるまで、、、これが続きます。

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。

機能としての自分を生きる

自分とは機能

悟りを開いたから、、、この個人とは全く無縁に生きていく、、これは不可能です、、、名前としての自分、機能としての自分は存在します、、、この夢の中で。交通違反をして警察官に呼び止められているにも関わらず「自分は居ないから」と言って逃げれば捕まります。機能としての自分を果たしてしっかりと違反切符を切ってもらう方が楽です。つまり機能としての自分はしっかりと果たしていくことになるのです、夢の中で。

どんな機能を果たしたいですか???

思考が湧いてもただ全体から起こっただけ、行動が湧いてもただ全体から起こっただけ、、このように気づきの意識の立場で言動の観察を始めますと、、、空白の時間が増えていきます、、、、自称自分に全く邪魔されない時間が増えます、、、役割を果たす時間が増えていきます、機能としての自分を果たす時間が増えていくのです。その時に中から湧いてくる衝動こそが気づきの意識そのものの衝動、機能としての自分をいかに果たすかの衝動です。

全ては自分の捉え方次第

この個人絶対的に存在すると考えますと、、、思考の波に飲み込まれていきます、、、思考はこの個人の損得のために一日中フル活動しているのです、、、、これが個人で生きている人たちの苦しさなのです。全部の言動はただ全体から湧いている、、このような視点で言動を観察しますと、、、思考が湧いてこなくなります。。。思考は観察されると静かになるのです、、、その結果機能としての自分が果たす役割が増えていきます、、この状況は深刻さがなくただ楽しいが湧いてきます。

「自由意志がある」はサレンダーではない

本当の降参

降参とはもう参りました、、完全なる敗北を認めることです、、、完全なる敗北、、すると自由意志があるという認識は真逆、、、何かを自由に決めることができる自分が存在するならば、、、敗北では終わらない可能性があるのです、、、気持ちとしては完敗を認めましたけど、、、、いやいや明日になれば分からない、、、これは降参、、、サレンダーではありません。

悟りとは降参

自由意志も、自分も全く存在していなかった、、、これこそが個人の完全敗北、降参でしょう。。。これを認めてしまったらもう何もない、、、、勿論夢の中では、、、この個人は自由意志を発揮して、、、何かにチャレンジするでしょう、、夢の中では、、、、ですが視点を変えれば個人は何もしていないのです、自由に、夢ですから。

夢としてだったら自由意志をフル発揮していいのか???

勿論です、、、ですが夢であることが本当に腹落ちした状態で、、、、果たして自由意志をフル発揮してまで成し遂げたいことが本当に湧いてくるのでしょうか??朝起きて夜寝る瞬間まで多忙を極める、、を望むのでしょうか????恐らく起きないでしょう、、、それよりも夢から覚めた感覚を追い求めるのではないでしょうか。

夢の中でのあらゆる戦略は無駄に終わる

夢の中で夢の外のことは分からない

我々が生きている世界は間違いなく夢の中の世界です、、、事実、リアリティ、神羅万象は我々の目の前に確実にあります、、、ですが、、、そこに大脳が作り出した、、、イリュージョンが重なっていきます、、独立した存在(名前が付けられた)がボコボコと現れ、、、自分(名前付き)も現れ、、、劇場がスタートします。これは自分劇場という夢です、、、なぜならばこの現象界に独立した存在など不在だからです、、、にも関わらず我々にはハッキリとそう見えます。一度このイリュージョンを現実と勘違いしてしまったら、、なかなか夢から覚めるのは難しい、、なぜならばこのイリュージョンの世界の中に覚める方法が落ちていないからです。

メッセージを受けてもピンとこない

悟りというネーミングは小学生ぐらいで学びますが全くピンとこない、、、悟りとは???という疑問すら湧かない、、、それはそのはず当初はこのイリュージョンが楽しくて仕方がないからです、、、、ですが大人の階段を登り始めた途端に、、徐々に重くなる、、、気づいてみたらどっぷりです。そして夢であるという事実は完全に忘れ去られています。。。。ですがあれ???こんな苦しかったっけ???です。

まーまー苦しいですけど、、、

大人の階段を徐々に登り、、、しかもしっかりと登り始めると、、、かなりこの自分劇場は苦しくなります。。。そこで我々は精神世界やスピ、哲学、、そして悟りを学び始めるのです。。勘が良い方は、、、恐らく解脱以外に幸福になる方法はないことを悟りますが、、しかしメッセージが難解なのです。なぜならば悟りは体感で得ていくものだからです、、、メッセージを徐々に徐々に体に染み込ませるこのプロセスは骨が折れるのです。

メッセージが腹落ちしていく、、

悟りを体得しないとこの苦しみは絶対に終わらないという半ば諦めこそが悟りへの情熱になります、、あらゆる経験を重ねることでこの想いは確実に増えていく、、、なぜならば夢の中でのあらゆる幸福戦略はどれもはかなくも砕け散るからです。ということで年々増していく悟りへの衝動こそがこの体得を完成させるのです。

悟りとは全てが同価値であることの気づき

優先順位がないことの気づき

全ては神羅万象の現れ、この自分、相手も、世界の全てもが神羅万象の現れですから、、、そこに良否、善悪、優劣は絶対にないわけです、、あったらおかしい、、、、全ては同価値、、、、これが真実です。ですがその中で生きる我々は常に優先順位を考え、、、何を優先するかを考えていきています。。。これは間違っているのか???違います、、、、本来は完全なる同価値であることを把握し、、その上で、、、便宜上、機能上優先順位を付ければ苦しくないのです。。。

全ては同価値、、、

これは本当に幸福なことなのです、、全てに価値がるという気づきは幸福です、、、自分だけが価値があり、、それ以外には価値がない、、、これは苦しい、、、悟りとは全肯定、全価値平等、、そこが分かった上で、機能上、、何かを優先して生きていきます。。。本当は全てが同価値であることが分かっている、、、この認識の有無が幸福に大きく影響します。

空に触れる

空に触れる、気づきの意識そのものになる、、、この体感が神羅万象、全てが同価値であることに気づかせます。私は何かに集中する、無我に入ることでこの体感を得ていきました、、、そして人間の全ての行為が神羅万象から、気づきの意識からただ起こっている気づきを得ました、、、この自分という存在ですら神羅万象の動きの一つであるという気づきが起きました、、、これは体感で得ていきます。

自分を雑に扱うことではない

全ては同価値であるのは分かった、、、では自分よりを他人を優先して生きていってもいいんですよね????という疑問が生まれるはずですが、、、自分を大切にしなければ、、先ず生きていくことができません、ですからこれは他者優先主義ではありません。機能としての自身を大切にしていくことになるでしょう、、、とはいえ、、、神羅万象の動きから脱して自分が何かを自由意志で行うことはありませんから、、、そこに介在できる自分が居ないというのが答えです。

矛盾

悟りのメッセージは矛盾だらけ

悟りのメッセージは矛盾が多いのも特徴の一つです。これは主語が変わると全く異なったメッセージになってしまうからです。私という主語、、、この私をこの体の所有者としての私、、、全体そのものである私、、、神羅万象としての私、、神羅万象すらをも起こす存在としての私、、、とそれぞれ異なるのです。。。主語が違えば、、、結論は全部異なりますから混乱します。

コミュニケーションでは、、、

コミュニケーションでは、、、この体の所有者としての「私」が必要になります、、、相手はこの「私」に話しかけてくるからです。。。ですがこの「私」の不在を悟りではお伝えするわけですから混乱します、、、「私」が「私」の不在を説明するという意味不明な現象が起きるわけです。「蜃気楼」が「蜃気楼」の不在を説明するという現象が起きます。

神羅万象が「蜃気楼」を通じて蜃気楼の不在を説明する

悟りメッセンジャーとは、、、神羅万象が「蜃気楼」を通じて「蜃気楼」は実は無いんですよ、、と説明しているようなものです。蜃気楼が説明してしまったら、、、あるじゃん!!になってしまうのが辛いところ、、、ですが蜃気楼が実在しなくとも、、、視覚としては100%ありますね、、これと同じです。。人間は五感レベルでは100%在るのです、、そこに脳の六感が加わり、、その中に「私」が居るが100パーセント感じられているのです。

なぜみんな悟りに興味が湧かないのか?の罠

神羅万象の動きは完璧

なぜ多くの人は悟りに興味を持たないのか????悟りに興味がある人は抱くかもしれません、、、ですがこれも罠です、、自我の罠です、、、神羅万象の動きにミスは100%ありません、、神羅万象はただ動くのです、、この動きに思考が当て込まれ、、、そのように見える現象が浮かびました、、そこを忘れてはいけません、、、あの人も悟りに興味を持てばもっと楽になるのに、、、、違います、、そのような神羅万象の動きがあっただけです。

自身の統合

見える世界は観念の世界、、この観念の世界は、、、自身の統合によって統合されていきます、、、自身の絶対肯定によって再統合されていきます、、、、あくまでも見える世界は自身の分離感が投影された世界であることを自覚します。。すると見える世界には一切の問題がないことが分かります。。。。これは自身の鏡、分離発見機ぐらいの感覚でいいでしょう。

問題を抱えている人は居ない

全ては神羅万象の動きですから、、、そこに問題を抱えている人が居るように見えてもそれは見えているだけです、、、神羅万象の動きに、、、問題を抱えた独立した存在は居ません、、、これははっきりしています、、つまりそこに問題を抱えている人が居るように見えるならば、、、、私の中に分離が存在しているのです。私の中の分離がそこに投影されているのです。

声を大にして伝えるわけ

難しいものという概念こそが自我の罠

悟りなんて、、、どこか遠くのインド人が達成するもの、、、これが多くの日本人が抱く悟りのイメージです。ですが実際には悟りは決して遠い国のファンタジーではありません、むしろ超現実、現実そのものです。あまりにも身近なために自我は遠くに悟りを押し込め、、、気づかせないのです。

こんなに近くに答えがあるからこそ、、、

我々が追い求めていた悟りは、、、まさか生まれてきてこれまで常に自身と一緒に居ました、、、???遠くに押し込めようがないのです、、、完全に毎瞬毎瞬、、、もっとも近くに居た存在です、、、、光の気づき、温度の気づき、食感の気づき、感情への気づき、、、、全部に対する気づきこそが、、、悟りです。。。。そうです、、人類全員が持っているこの意識こそが悟りです。。。。全員というのが重要、、これは、、、決して体調不良、病気でも失われない感覚なのです。。。自身が体調が悪いと感じる、、この感じている感覚、、、これが悟りです。

意識だけが先ずある

朝起きて、、、意識がない、、、、ということはありません、、、体調が悪い、、、だから意識が無い、、、それはない、、、そうです、、、意識は常に在るのです、、、絶対的に、、、この絶対的な存在、、これが悟り、気づきの意識、全体です、、、、この意識を誰が所有するのか????これまでは自分が所有していると信じてきました、、、違います、、この意識が全部を所有しているのです、、、意識がこの自分も所有しています、、意識が、、、ただ意識そのものであるという気づき、、、意識の中で、、全てが起こっているという気づき、、これらが悟りです。

今気づいている存在が最終ゴール

これまで探し求めていた存在が今気づいている存在

今ここで何かに気づいている存在、、、これがこれまで見かけ上の「私」が探してきた存在です、、、今ここで光に気づいている存在、、、これこそが私がひたすらに探し求めてきた存在です。この事実が分かってしまうともう何かを探そうという衝動が起きなくなります、、、何かを成し遂げようとする衝動が起きなくなります、、なぜならば見つけてしまったからです、最終ゴールを、、、、生まれてこの方、、、ずっと一緒に居た存在が、、探し求めていた答えだったのです。

いつも一緒に居たよね、、、、

自分が悲しんでいた時、苦しいんでいた時、何かを達成して喜んでいた時、、、全部に気づいていた存在、、、それが探し求めてきた答えです。意識そのもの、、、これをズッと探し求めていました、、、どこかにあると信じて探してきた答えは、、、、1秒たりとも離れることなく、、、ここに居た存在でした。究極のダイアモンドは、、この気づきの意識です。

どこか違う場所に、、、

悟りを開けば視界が開き、、、、天国が突如として出現する、、、全く違った感覚が自分を覆い、、、全く味わったことのない感覚に襲われる、、、、、そうではないのです。。。これまでずっと意識してきた感覚、、、全てを意識してきた感覚が、、、、主人公だったという気づきが起きます。見かけ上の私はこの意識が意識していただけ、、、そして机もテーブルも、カップも、TVもこの意識が意識していただけだったという気づきが起きます。その時にもう何も探さなくていいという安堵が起きます。