自我

苦しいことにホッとする

思考との同一化に安心する

信じられないことに、、苦しいことに安心するという状況があります、、、思考と完全同一化した意識は、、、、苦しいという感覚に安心します、、、、色々問題が無くなったりすると逆に不安になる、、、何か問題があるのでは???と必死になって問題を探すのです。思考している=偽りの自分の存続ですから、、こうなります、、、何か問題があるのでは????です。

人間関係も揉めることに安心する

人間関係に関しても、、、揉めていることに自我は安心します、、揉めるということは強烈に自分を意識できますから実は安心しているのです、、敵が居て自分が際立つわけです、、、ですから無意識に敵に飢えているわけです、、相手が気になるような言葉をかけることで相手の自我を刺激し、、敵になってもらえるように無意識に促すわけです、、こうして思考の渦にどっぷりと浸かっていきます。

問題があることを無意識に求める

偽りの自己が実は問題をかき集めています、、、問題が全部無くなってしまったら、、自分の存在価値が無くなってしまう、、、問題があればその問題を所有するのがこの偽りの自己だからです。。仕事が上手くいきそうになれば、、問題が起きるように導く、、、、こうして偽りの自我、自己は常に問題が起きるように起きるように動くのです。

状況を問題に変え続ける天才

自我というのは状況を問題に変える天才なのです、、、、無ければ無理やり作ってでも問題化していきます、、この動きに自覚的になることです、、、自我は思考が湧いてくれないと、、、存在が危ぶまれるために、、問題に飢え続け、問題を生産し続けるのです、、、この動きに自覚的になるのです、、気づきの意識として自覚的になっていきます、、、

思考無しに目的達成などあり得るか???

計画は最重要

大きなプロジェクトにおいて計画は確かに大切でしょう、、ですがそれと思考に取り込まれていいというのは全く別の話です、、、思考自体がダメなのではありません、、、思考していることに気づかないほどに、、、思考に取り込まれている状態が苦しい状態なのです。。。思考に取り込まれた状態とは思考していることに気付いていない状態です。

今私は思考している

今私は思考している、、、そのような気づきを持っている人はどれ程いるでしょうか??多くの場合は思考していること自体に気づいてもいないでしょう、、、癖というのはその動きにすら気づいていないことを言います、、思考癖も同じで思考していることに気づいてもいません、、ですから思考に取り込まれないことを意識するだけで思考癖は解消できるのです。

癖とは自覚するだけでいい

あなたは実は一日中思考していますよ、、、この気づきで、、思考癖は緩和されます、、思考とは突然起こり、、思考に取り込まれ思考していることにすら気づかない、、、この事実に気づくだけで、、、人は思考から解放されます、、というよりも自我が解放されます、、、思考する自分という存在が解放されます、、、気づきの意識が残ります、、、、存在が残ります、、、アイアムが残ります、、、

どのメッセージも思考に取り込まれる

結局思考は全部取り込む

自我の動きか、、こうでああで、、、このようなメッセージすらも思考に取り込まれ思考の渦に巻き込まれていきます、、、あらゆるメッセージは自我、思考の肥やしになり、、、思考を止めるまでには至らない、、、ナイスバドバイス、、こうして思考にそのメッセージは思考として取り込まれる、、、やっぱり思考は大切だよね、、で終わりです。

そんな素晴らしいメッセージ(思考)があるとは、、、

悟りの究極のメッセージすらも自我は素晴らしい思考を有難う、、、とせっせとまた思考に励み、、思考に意識が取り込まれていきます、、、自我はあらゆるメッセージを思考として取り入れ思考に多様性を持たせることに成功します、、するとさらに思考の渦に意識を閉じ込めることができるのです。そんなことよりも思考を観察した方が良いいよ、、このようなメッセージが届けば、、、なぜ???という疑問を投げかけまた問答の世界(思考)に入り込みます。

思考が悪いのは分かった、、、じゃあその根拠について思考しよう

とりとめのない思考こそが苦しみを作っているのは分かった、、じゃあその根拠について徹底的に思考しよう、、こうやって自我は思考に意識が向き続けることをやります、、答えは分かった、、でも根拠がまだまだ曖昧だから根拠が明解になるまで思考しよう、、、こうやって思考と意識の同一化は継続されます。意識は思考を手放すのが怖いのです、、だから新しい習慣、、思考を観察する者になるという習慣になかなかシフトできません。

キャラが立つとは?

キャラが立つは褒め言葉

あの人はキャラが立っているよね、、、こんな言葉を聞いたことがあるはずです、、、キャラ立ちする、、自然とキャラが完成し好印象を与えている人のことを指したりします。どうしたらキャラって立つのでしょうか???重要なことは自然と立つということです、、明日からキャラを立たせていこう、、、これは無理です、、、来年はしっかりとキャラを立てていくことにしました、、、これも無可能です。。。。キャラは立てようとしたら逆に立たないのです。

機能になれるか???

この体をこの宇宙の役割であるという気づきを得ると、、、機能がシャープになります、、機能が研ぎ澄まされます、、、このシャープさ、エッジこそキャラ立ちです。思考と自我を切り離し、、、自我を消滅させ、、その上でこの体を大いなる一つ、気づきの意識の役割として発動させる、再出現させると、、、機能性が上がります、、、そこには思考がべったりと絡み込んだかつての自我が存在しないのです。

思考を認識し、、思考に意識的になる、、自我を消滅させる

自我を消滅させるための最重要事項は思考を観察することです、、思考は一瞬の隙間を使って入り込み、、、思考していることすら完全に忘れさせて自我と完全合一します、、、思考していることを完全に忘れている状態、、これが思考自我完全合一作戦成功の形です。思考の湧き上がりを常に意識化します、思考が湧いたら即認識します、、、この時気づきの意識は気づきの意識のままです。。。これは格闘技と同じ、思考の湧き上がりに取り込まれてはいけません。すると思考と自我の絡みつきがなくなり、、、、自我が薄まり最終的には消滅します、。機能としてのこの体が残ります、それがキャラ立ちです。

悟りが日常会話に登場しない理由

悟りとは自我の完全敗北

悟りという言葉を真剣に議論するなどまず一般社会では起きません、、どこかファンタジー、インドの山奥の話、、みたいな扱いを受け続けてきました、、、悟りについて熱く語り合うなど、、、現実離れの戯言、、、といったノリでしょう。。。。ところが事実は全くの逆、、、悟りとは事実、真実、スーパー現実の話なのです、、、思考との一体化、感情との一体化に成功した自我は、、、悟りを最も遠い場所に置き、、、自我繁栄の邪魔をさせません。

10分間何も考えないでいてください、、、

待合室で看護師さんから、、、10分間何も考えないでその場に居てください、、、、そうお願いされてそれができる人がどれほど居るでしょうか????10分間点滴を打っていてください、、これはできます、、、10分間口を閉じていてください、、これもできます、、、ですが10分間何も考えないでください、、、、これができない、、、、、ここです!!ここがポイント、、、、自我は思考と完全一致し、、思考を止めるなどやったことがないのです。

それだけはできない、、、

思考を止める???そんなこと出来るわけないじゃないですか、、、、思考なんて勝手に湧いてくるわけで、、、どうやったら止まるんですか????そうです、、、止まらないんですよ、、、簡単には、、、どうするか????思考を観察する存在になるのです、、、思考が湧いてきたら、、、湧いてきたことに気づく存在になるのです、、、これを新しい習慣にするのです、、、これを続けます。。。実は簡単なのです、、思考の存在にしっかりと意識的になるのです、、ただこれだけです、、、すると思考と同一化した自我の存在が薄まっていき、、思考が出しゃばらないという状態が出現します。

言いたいことは分かった、、でも出来ない

分かったことは実践する

水への顔付けに成功すると、、泳げるようになりますよ!!、、、、言いたいことは分かった、、でもそれが出来ないんですよ、、、、この手の流れは頻繁にありますね、、、、顔付けって概念、思考ではないんですよね、、、顔つけって実践です、行為です、、、顔付けをもっとももっと分かりやすく説明して欲しい、、、というのは自我の遅延行為なんです、、、自我が、、、顔付けをしなくてもいい理由を探している時間なんです、、、これだけです、、、、でも、、この遅延行為も森羅万象からただ起きているんです、、それが悪いわけではありません。

森羅万象の遅延行為に飽きることが起きる

私って理屈ばかりこねて結局動けないんですよね、、、、ここまで分かっていて動けないのはまだ飽きていないからです、、、動けないことに、、、本当に飽きていたら、、、話にもしたくないものです。。。ですから全く問題がない、、、森羅万象の動きにただ従うのみです、、、本当の飽きが森羅万象から起きれば、、、次に進むのです。

出来ないことも森羅万象の動き

この世界の動きの全ては森羅万象の動きそのもの、、、良否、優劣、善悪などそもそも全くないのです、、、森羅万象の動きに優劣、善悪、良否の判断を下すのは人間としての自分だけです。自分の損得を勘定して判断を下しているだけなのです、、その判断には何の意味もないのです、自分以外に。究極の癒しとはそのことに気付いてしまうことで、、究極の安らぎとは、起こる全てに判断をしないことなのです。。森羅万象の動きがただそうだった、、終わり、、、です。

悟りをコンフォートゾーンに

気づきの意識の状態に慣れる

瞑想とは気づきの意識そのものの状態に慣れることです、、、無我夢中になって何かに集中するのも同じことです、、自我のない状態に率先して慣れていきます、、、するとそこに至福、静寂、平和があることにはっきりと気づきます、気づきの意識が、、、これが悟りです。自分など全くの不在の場所にこそ、、、平和があることに気づくのです。自分が美味しい物、刺激物を得なくても、、、その場で安堵、平和、至福に至れることに気づきます、気づきの意識が。。。これが悟りです。

悟りを理屈として理解し実践して慣れる

悟りについての正しい理解は大切です、、これをしないと自我は全てを所有し、、コンフォートゾーンをズラすことができません。自分がはっきりと居るという認識の中で無我に入ろうと、瞑想をしようと、、、その獲得を全て自我が所有するという場所に戻るでしょう。理屈として悟りを理解し、、その上で瞑想、無我になって集中することで、、自己の不在が安定します。

機能としての自分に戻る

自己の不在が安定してもこの幻想の世界、夢の中の世界、イリュージョンの世界が続く限り、、機能としての自分は存続していきます、、、機能としてこの世界での役に立っていかなければ食べていくことができません。機能としての自己を維持していくことになるのです、、、、ですがこの時にはマインドはこの状態を維持しようとしますから、、、機能向上にただ努めるでしょう、、、機能としての自分磨きに入るはずです。。。

自我同士の会話に興味がなくなる

赤の他人の会話に入れない

赤の他人同士が楽しくおしゃべりをしている、、、、自我同士の会話とは損得の会話がほとんど、、、そこへの興味が減っていきます、、、機能としての自分ではなく、、、主人公同士の会話、、、、これは苦しい、、、ですがここでも機能としての自分が何か役立てればそこで役目を果たし、、役目がなければ参加しなければいいのです。

機能としての自分で社会に参加する

この自分は実は居なく、、、機能としての自分しか存在していない、、、これが腹落ちしますと、、、機能として社会にどのように関わるかしか興味がなくなります。。。自分の損得で周囲と関わることはもはや不可能です、、なぜならば損得では幸福になれないことを完璧に理解しているからです。そこからの人生は機能としての自分がいかに社会に役に立てるかしか興味が湧かないでしょう、、先ず見える人間全てが同価値に見えますから、、特定の誰かのみを大切にしたいという執着がないのです。

ただしその行動も自由意志は働かない

とはいえこの自分には自由意志は完璧にありませんから神羅万象の動きにこの機能上の自分は身を委ねるしかありません。これしか選択肢が用意されていないのです。ただこの事実こそ多くの方は全く理解できないでしょう、、これは理解ではなく体感で感じていくものです。何かに集中し無我に入る、自由意志がないと思って生活してみるなど、、、です。。これが理解ではなく体感に切り替わった時、、安堵が湧いてきます、、平和が訪れます。

なぜみんな悟りに興味が湧かないのか?の罠

神羅万象の動きは完璧

なぜ多くの人は悟りに興味を持たないのか????悟りに興味がある人は抱くかもしれません、、、ですがこれも罠です、、自我の罠です、、、神羅万象の動きにミスは100%ありません、、神羅万象はただ動くのです、、この動きに思考が当て込まれ、、、そのように見える現象が浮かびました、、そこを忘れてはいけません、、、あの人も悟りに興味を持てばもっと楽になるのに、、、、違います、、そのような神羅万象の動きがあっただけです。

自身の統合

見える世界は観念の世界、、この観念の世界は、、、自身の統合によって統合されていきます、、、自身の絶対肯定によって再統合されていきます、、、、あくまでも見える世界は自身の分離感が投影された世界であることを自覚します。。すると見える世界には一切の問題がないことが分かります。。。。これは自身の鏡、分離発見機ぐらいの感覚でいいでしょう。

問題を抱えている人は居ない

全ては神羅万象の動きですから、、、そこに問題を抱えている人が居るように見えてもそれは見えているだけです、、、神羅万象の動きに、、、問題を抱えた独立した存在は居ません、、、これははっきりしています、、つまりそこに問題を抱えている人が居るように見えるならば、、、、私の中に分離が存在しているのです。私の中の分離がそこに投影されているのです。

声を大にして伝えるわけ

難しいものという概念こそが自我の罠

悟りなんて、、、どこか遠くのインド人が達成するもの、、、これが多くの日本人が抱く悟りのイメージです。ですが実際には悟りは決して遠い国のファンタジーではありません、むしろ超現実、現実そのものです。あまりにも身近なために自我は遠くに悟りを押し込め、、、気づかせないのです。

こんなに近くに答えがあるからこそ、、、

我々が追い求めていた悟りは、、、まさか生まれてきてこれまで常に自身と一緒に居ました、、、???遠くに押し込めようがないのです、、、完全に毎瞬毎瞬、、、もっとも近くに居た存在です、、、、光の気づき、温度の気づき、食感の気づき、感情への気づき、、、、全部に対する気づきこそが、、、悟りです。。。。そうです、、人類全員が持っているこの意識こそが悟りです。。。。全員というのが重要、、これは、、、決して体調不良、病気でも失われない感覚なのです。。。自身が体調が悪いと感じる、、この感じている感覚、、、これが悟りです。

意識だけが先ずある

朝起きて、、、意識がない、、、、ということはありません、、、体調が悪い、、、だから意識が無い、、、それはない、、、そうです、、、意識は常に在るのです、、、絶対的に、、、この絶対的な存在、、これが悟り、気づきの意識、全体です、、、、この意識を誰が所有するのか????これまでは自分が所有していると信じてきました、、、違います、、この意識が全部を所有しているのです、、、意識がこの自分も所有しています、、意識が、、、ただ意識そのものであるという気づき、、、意識の中で、、全てが起こっているという気づき、、これらが悟りです。