悟り

あっさり自我を否定すれば

相手の反撃にあう

悟りという分野に対して多くの方が拒絶反応が湧くのはもう当たり前で、、これはこの体の最重要防衛システムの破壊だからです、、最重要防衛システムはこの体を両親から守るために構築されたものであり、、これを簡単に捨てるのは自殺に近い行為です。。だからこそ、、悟りとは、、、どこか遠くの準備ができた人間だけが近寄る分野だったのです。そこを簡単にカジュアルに発信すれば、、あらゆる自我防衛システムの反撃に合います。

自我の必要性から迫る

自我の必要性から迫っていくのが正しいやり方かもしれません、安全なやり方なのかもしれません、、、自我という体の最重要防御システムを完全に理解し、、その上で自我というこのシステムを俯瞰していく、、すると、、自我という防御システムの作用が分かり、、、それを俯瞰する本当の自分、真我が現れるという流れです。

殺されないために自我は生まれた

だから難しい

自我とは両親から殺されないために形成されたプログラムです、、ですからこれを除去しようとすれば、、恐れの感情がとんでもなく湧くのは当たり前のことです。もしも無人島で生まれ勝手に育ったのならば自我など形成されていません。つまり自我は後天的にこの体を守るために蓄積されてきたプログラムなのです。ですから自我の終焉を悟りでは願うわけですがこれはそう簡単にはいかないに決まっています。

自我形成を俯瞰する

自我形成とは両親から見捨てられないように作られたプログラムです、、ですからこのプログラムの削除は徹底的な抵抗に合います、、アラームが鳴りまくるわけです、、、そんなことをしたら体が滅びるぞと、、、そんなメッセージを体が受け入れるわけがありません。自我とは体を守るためのシステムですし、本を読むのも自我がやっているという前提で起きているからです。そしてその内容を理解するという動きが「自我防御システム」の中で反抗が起きずに済むのか????済むわけがない、、、となります。

自我そのものを否定するのは難しい

自我そのものを否定し、、それに気づかせるよりも、、、自我形成の背景を理解し、、自我の必要性を完全にチューニングするのが安全なやり方であると今は分かります。自我形成はこの体を両親から見捨てられないように発展した、、だから自我の存在否定は、、この体を抹殺させてしまう恐怖心の起き上がりを招く、、この事実に向き合ってプロセスを歩むほかありません。

簡単に見抜けるわけがない

既に悟ってる???冗談じゃない

つまりはこういうことです、、、我々の全行動は自我記憶システムが反応しているだけですから、、、自我なんていないんですよ、というメッセージが届いても、、それが自我記憶システムの反射が起きます、、この自分は反応しかできない存在なので、、、、思慮深く考えているつもりでも、、その行為が自我記憶システムの反射になっているのです。ですからいつまで経ってもこの時間空間、夢の中でそのプロセスが反射しているだけなのです。。この個人はいつでもメッセージに反応しかできないのです、、、そんな個人が悟りを開くというのは、、完全なギャグなのです。

個人ができることは

個人ができることは、、、個人が実は居ないという気づきが「どこか」で起きるのを待つ以外にないのです、、いつかその時が来る、、、それを信じて結果を手放すのです、、、悟りに対するその執着が抜けた時に、、起きる可能性がでてくる、、、、個人はどこまでいっても自我記憶システムの反応しか起きない存在、、、主体的に悟など不可能なのです、、、ですがその理解が進むということは自我記憶システムに緩みが生じている証拠です。

自我記憶システム

記憶によって自我は形成され(妄想)その自我が体験した全てが全部記憶されていく、、この記憶がさらに自我の存在を明らかにする、、、そして見える世界はその記憶が織りなす観念がベースになっており、、、見える世界は自我を証明する現実が起きている、、これで簡単に見抜けるわけがないのです。しかも自我はこの体を守るために形成されていますから絶対必要な存在なのです、体にとって。この完璧な枠組みの中から自我の正体を暴くのは至難の技です。

それは突然起きる

仮面ライダーって居ない

それは突然起きます、、仮面ライダーを信じていた子供が、、小学校に通い、、、在る時に突然気づきが起きます、、仮面ライダーって本当は居ないんだ!!!、、、これはもう突然起きます、、これがきっかけという大きなコトではなく、、、、何かが何かと重なり合って過去の記憶が全部重なって突然起きます、、、悟りも全く同じ、、、これだ!!!というキッカケなど実は存在しない、、、個人としての全記憶が重なり合って突然の化学反応が起こり、、それが起きるのです。

本当に居ない

理屈は分かるんだけど、理屈では腑に落ちているんですけど、、、、これを何度も繰り返し、、ある時突然気づきが起きる、、、それが何がきっかけという直接的なものではない、、、あらゆる要因の積み重ねによって天動説が地動説にひっくり返る、、、それでも毎日の生活は続く、、、ですがそこには前の自我システムが働かない。

これまで悟りが起きなかった理由が明確に分かる

今は分かります、悟りとは自我が幻想であることの完璧な理解です、、ですがこれまでは自我は、、この体を守るための最重要アイコンとして君臨してきました、、、この体を守る最高権力者を突然居ない、、、と宣言してもそれを言っているのが自我システムですから、、、全くの無駄、、、意味がないのです、、、ですが諦めず、、自我を突き詰めていきますと、、突然の理解が起きます、、、本当にこれは居ないと。

自我とは自分を守るために形成された

本当の自分からの自我形成

真我そのままの体の状態が子供の状態です、、彼らは何も考えずあるがままに動き遊びまくっていました、ある日親からこれはやってはダメ、これもダメだと、、言われ続けるようになり、、、真我は自我という偽りの自分自身を作り出し、、親に食わせてもらうように自我を作り出しました。つまり自我とは、、生き延びるために、、、親にとって都合の良い形であると言えるのです。。子供は嫌に嫌われてしまったら生きていけませんから、、そこで偽りの自我を作り出したのです。

全員の自我は偽り

自我とは偽りの存在です、、真我が真我のままでは生き抜く事ができない時に、、体に偽りの自我を形成させ生き延びようとした起こりです。ということで自我の状態で生きるのは辛いのです、、本質が本質のままではないからです。自我という偽りの存在を信じて生き続けるのは苦しみの人生なのです。だから人生とは=苦しみなのです。

自我が実在しないことを見抜く

自我はこの体を守るために形成されているわけですから、、この自我は偽り、嘘、無いと信じるのは大変怖いことなのです、、、自我が無かったら生き延びてきていないのですから、、、大変な危険、リスク行為なのです。悟りが非常に難しのはかつての命綱、かつての生命線、かつてのセイフティーネットを捨てることだからです。ですがこの恐怖心のメカニズムが理解できますと、、自我の緊張が緩みます、、もう必要ないことの理解が起きます、気づきの意識から。。。

親は意図的にそれをしていない

親の自我も完全に偽りです、、そしてそこから出てくる思考、感情、行動も完全に自我ではなく真我から起き上がっています、、ですからそこには何も意図がないのです、、ただその人を支える観念からこれらは飛び出してきました。。それに反射されるように、、子供の体の中に偽りの自我が形成されたのです、、、全部が全部自動反応です。

ど根性

これが真実じゃないことは分かってる

覚者の書物を読めば、、、これが真実じゃない事は絶対にわかるのです、、、覚者は、、、皆、、同じような雰囲気のことは言っている、、、だから今目の前に広がる世界は実は違うんだと、、、、ここは分かる、、、、だけど、、、、分からない、、、、真実が見えない!!!!ア・ベ・シ

騙し絵みたいなもの

悟りに能力が関係があるか、、、全くない、、、悟りに人格が関係があるか???全くない、、、悟りに愛嬌が関係あるか、、全くない、、、全く何も関係がありません、、、、、在り得ないほどに何も関係がないのです、、、、根性だけです、、、騙し絵を見抜く、、根性だけ、、、、

偽りの世界に閉じ込められるなんて冗談じゃない、、、、これは私の本音でした、、、なぜ偽りの中で死を迎えなくてはならないのか、、、冗談じゃない、、、、仕事???どうでもいい、、、プライベート???どうでもいい、、、とにかくこの偽りの世界から出してくれ、、、、です。今は分かります、、、完璧なタイミングでその理解が自動的に起きたことを、、、、そして世界は完璧なタイミングしかないことも理解できます。焦って解決する問題など皆無です。

個人を手放す

手放すというよりも、、、

手放す、サレンダー、解放、、、あらゆる言葉がありますが、、、どうしても悟りの言葉というのは、、個人が何かをすることをイメージさせます、、、個人が強烈に匂います、、、これは至極当然のこと。。。。ですがこの認識のまま悟りを学んでも、、入りにくい。。。どうしても個人の観点から本を読んでしまうからです。どちらかと言えば、、、一回個人という観念を外して完全なるフラットな視点で読めば理解できるかもしれません。

誰目線???

この世界は、、、個人という絶対的存在が間違いなく居るという前提で全てが構築されていますから、、、それがない、、、、なんて言われてしまっても拒絶に次ぐ拒絶です、、それで終わり。個人が居るという観念が、、全思考、全感情、全行動を起こしてこの個人を守っていますから、、、拒絶が半端がないのです。ですがそれは至極当然のこと、、、それも完璧です。

やられた!!!!

最初の気づきはこんな感じです、、、、確かに個人はいない、、、相手もいない、、、誰もいない、、、やられた!!!!!騙されてた、、、、まあしょうがないか、、、ですね。。。こんな流れです、、、気づきとは。。覚醒という大袈裟な言葉に違和感も感じながらもとはいえ、、この気づきは、、、人生の中ではトップクラスの気づきです。それは間違いない。

個人はただのラベル

全ては全自動で起きている

我々はあまりにも長い期間、、個人が「何かをする」「何かを思う」「何かを信じる」という原理で物事が動いていると信じ込んでしまったのでこの観念が崩れません、、、これが現実であると完全に信じています。するとその観念が反映した世界が人がありますから、、益々その観念が映し出す世界が本物だ!!という経験をしていくことになります。。本当はこれは観念で、、真実、現実とは異なりますから、、この観念の中に閉じ込められている限りは苦しみが続きます、、、なぜならばこれは事実ではないからです。

言葉では分かる

言葉では分かるんですが、、、、、そうなんです、言葉では分かっても、、、、あまりにも長い期間、、個人を中心に物事を構築するのに慣れてしまったので、、、観念を書き換えることができません、、というよりも観念を捨てることができない。これは至極当然のことで、、この個人を守るために言動が構築されてきたのですから、、、簡単に理解できてしまったら危ないのです。

信じる者は救われない

個人が居るという観念を信じる者は救われません、、真実の世界の中で嘘の信念で生きていけば苦しいに決まっています。真実の世界の中で偽りの観念に沿った物語を構築しても、、苦しいが湧くだけです。ただこれを終わらせるだけ、、、ただこの間違いに気づくだけ、、、悟りとは非常に簡単なことです、、ですがシンプルだからこそ、、シンプル過ぎるからこそ、、、拒絶も大きいのかもしれません。

知りたい

何を知りたいのか?

人間はなぜ学びたいのか、なぜ知りたいのか???小さい子供はなんでなんで????と一日中聞きます、、、なぜか?????知りたいのです、、、全部を、、、なぜ?????自身の本性が全部だからです、、、そしてこの欲求は終わることがありません、、、なぜか????自身の本性が無限の存在ですから、、知るべきことは無限に広がるのです。

新しい経験

個人が新しい経験を積むと、、、嬉しい!!が湧きます、、、これは神から湧きます、、、なぜか???神(無限なる存在)が新しい経験を獲得したからです。。。。家で本だけを読んでいても楽しくないのは、、、読んだ思想、価値観を経験する場所こそがこの世界だからです。無限なる存在は無限の体験を回収したいのです。

全ては無限の経験のために

自分自身が全く何も経験を詰めていない、、そのように思えても反省の必要は一切なし、、、その経験こそがただ起こったのです。。「この私が確実に居る」という思考が起こっている時、、、これは真実ではありませんから必ず極限の苦しみまで入り込みます、、ゴールがない道を歩けば人は必ず途中で諦めます、、、この諦めがおきるから大丈夫なのです、、、自我の性質上、、これしかない、、、究極の諦め、やぶれかぶれ、山頂がない山を歩き続ければ、、、絶対に途中で諦める、、、これが悟りの入り口です。

ないモノにエネルギーが収縮していた

エネルギーの収縮だけがあった

私というのは私が居るという言葉で作ったイメージに対しエネルギーが収縮していた状態です、何もないもの(イメージ)にエネルギーが収縮していた状態です。このエネルギーの収縮が起きなくなった状態、、これが悟りです。もうそこにエネルギーが集まらない、エネルギーの収縮が起きない状態です。自分をしっかりもって、、、これは自分というイメージにエネルギーが収縮した状態です。

収縮の解放

そもそもが何もない、、イメージに、、、エネルギーが収縮し、、、自分が居るという感覚が起き上がっていました、、、ところがそれがない状態、、、自分という感覚を持てない状態、、これが悟りです。ただ機能としてのこの体が残り、、思考感情行動が起こりますが、、、それを自分のモノとする感覚がおきえない状態、、、

陽が転じて陰になる

自分というイメージにエネルギーがガッと集中し、、この感覚が生まれ出しているのですが、、、この集中が極端に行けば行くほどに苦しくなる、、、このエネルギー、気の集中が解放されますと、、、、エネルギー、気は真逆のベクトルに解放され、、世界が全部になります。