幻想

人間とは考える分裂切り裂き機

切り裂いて切り裂いて重苦しい世界を生きる

人間とはこの世の切り裂き魔です。人間すらもこの世から切り抜きました。そしてその切り抜きは自分に留まらずあらゆる分野に及びます。TVニュースを一日中見てみてください、世界が重苦しくなりませんか???これが切り裂きです。ニュース、そして解釈を暗記することでその分世界が切り裂かれます。このニュースは果たして人を幸福にするのか??しません。ですがその分人間という体を生き伸ばす情報にはなったかもしれません。ですがそれだけです。

幻想の世界に降り立った自分

自分という存在をまずはこの全体から思考は切り裂いて見せました。そしてこの自分はこの存在を維持すべくさらに情報をかき集めて維持させていきます。どこに収入があるか、どこにお金になる仕事はあるか、どこに安定はあるか、、と情報をかき集めていきます。そして情報をかき集めれば集めるほどに世界は重く苦しくなっていきます。ですがこの自分は維持しやすくなっていきます。

生きるための情報は手にした、、だが苦しい

生きるための情報は手に入れてきた、、自分を老後まで生き伸ばす方法はわかった、、だが苦しい、、、これが幻想の世界に降り立った人間です。この苦しみはどうすればいい???この苦しみは自分、自我が生き延びるためにかき集めてきた情報、知識、解釈がそうさせています。先ずはこの親しみまくってきた思考を手放すことからしてみてはどうでしょうか、、この分裂世界を作り出した思考と距離を置くことからスタートします。思考が湧いても放置です。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。

これは究極のギャグ

思考が湧いて幻想に入るだけ

思考が湧いていない時、ただ非二元が広がっています。今ここにです、これは遠い世界の話ではなく、、ただこの瞬間も目の前には非二元が広がっています。そこに「思考」が湧いてきます、そこに意識が向きます、幻想に入ります。「思考」は過去以来に意識を連れていきます、今この瞬間から離れます、そこが幻想です。自分が生まれます、幻想として。思考が消えてなくなりました、すると非二元に戻ります。そこには「自分」「私」はもういません。非二元だけがあります。

自宅から駅に向かう

自宅から駅に向かう毎日の道、、、何も考えず何も思考せずそこに向かう時、、、、そこには自分がいませんからただ景色が移り変わっていきます、自分と景色という境目もありませんから全体が動くのみです。そこに思考が湧いてきます、すると思考する自分も現れ幻想の世界に入ります。すると「自分」が駅まで歩いていくというストーリーがスタートします、幻想として。それまでは駅に向かう自分は存在せずただ全体が変わっていただけです。

名前をつけたら感動が消えた

何かが聞こえました、、、すぐさま思考が働き「雀」だと気づきます、、その一瞬前にはただ声が聞こえる、、が起こっています。その後に「雀」という認識が起こります。これは「雀」という名前を覚えたからです。海外旅行に行くと見るもの全ては輝いて見えます、なぜならば名前が付いていないから「自分」の中で。それは生命のまりのままの姿、名前がつけらえる前の生命そのものです。そこにガイドが来てこれは「〇〇」これは「〇〇」と名前を教えてくれます、これで生気が奪われます。概念の世界に引っ張られるのです。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

サーフィンをした後にこの世界が輝く

学生時代の不思議な体験

学生時代にサーフィンにハマった理由は、海から上がった後に世界が変わって見えるからです。これは大袈裟な話ではありません、本当に違う世界になっているのです。自分という性格が変わってしまったのかというぐらいに何かが変わっているのです。食事の味、ジュースの味、友人との会話、車から見る世界の輝き、ステレオから流れる音楽、、、全部が何か輝いているのです。学生時代はこの感覚がなぜ起こるのか理解できませんでした。

究極の五感体験

今はその理由が理解できます、サーフィンは海の中でのスポーツなので、、全五感が働きます、全五感を駆使しないとこのスポーツはできません、そのため五感の働きがフルスロットルになり、、、思考が入り込んでこないのです。ですから海から上がった後も五感がフル回転になり思考を抑えることができたのです。何もしていないのに幸福、この感覚は思考の湧き出しを抑えた結果だったのです。五感が研ぎ澄まされていると、、今に強制的に入れるので思考が湧いてこないということです。今とは非二元、至福の世界です。思考は幻想の世界です。

究極の五感体験を日常で作る

サーフィンで学んだこの究極の五感体験を日常生活で入れれば今日から非二元に入れます。ではどうするか??五感の感覚に集中するのです、コーヒーの味、香り、温度、、そこから思考に入りません。音楽の音色、リズム、パワー、そこから思考に入らない、、、全部が全部その調子、、、五感の感覚から思考に入らない、、、これを習慣化していきますと五感全開に。思考のトリック、思考トリップに入らなくて済みます。五感全開世界は、今全開世界、今全開世界は非二元全開世界、非二元全開世界は平和、歓喜、安堵全開世界です。

自我すらない、、

ただこれだけがある、、、

ただこれだけがある世界に、、、思考が湧き出てこれに取り込まれます。これのよって初めて自分という存在が生まれます。それまでは自分などどこにいません、ですが思考が湧き出すことで自分も一緒に生まれるのです、これが自我のメカニズムです。そこから思考に取り込まれて続けているうちに自分はより確固たるものになっていきます、幻想上。目の前に友人がいます、本当はただこれだけがあります。そのただこれだけを見て思考が友人であると認識します、そこからその友人が生まれます、それだけです。全部この場所でただこれだけが思考によって切り刻まれ分離錯覚させているだけです。非二元は非二元でしか存在できません、これをその場で切り刻み分離錯覚世界にしているだけです。

そうしたら非二元に戻れるか

究極のギャグです、今も非二元の世界が先ずそこにあり、そこに思考の認識が始まり世界が切り刻まれているだけです。瞬間に人間の思考が解釈を加えます。そしてそこから思考が湧き上がりその思考にしがみつきます。自作自演のメカニズムです。この思考の自作自演に取り込まれている間は苦しみの世界が続きます。非二元は平和、歓喜、安堵ですが、、そこから分離の世界、幻想の世界に入り込むことで非二元が薄くなっていきます、神が薄くなっていきます、ワンネスが薄くなっていきます。ただそれだけです。

思考の自作自演を見抜く

ですが我々は思考を暗記してしまったので、解釈なしの世の中に戻するのはできません。何もない世界に戻すことはできません。だから先ずは五感の感覚にだけ戻していきます、五感は今にしか感じることができません。先ずは今にある習慣を掴んでいきます、そこから思考に流れていきません。今にあることを習慣化していきます。完全に分離して見えてはいますがその世界の中で今にある習慣化をしていきます。

五感の感覚だけを感じて1日を過ごす

五感の実況中継

我々は既にノンデュアリティの世界に生きています。と言うよりもノンデュアリティしかこの世界にはありません、そこに思考が湧き出しそこにしがみつことで思考の世界に取り込まれていく「自分」が作り出されそのまま思考の世界を生きることになります。どちらも幻想です。その幻想の世界が苦しいので人はこの世は苦しいとなるのです。自ら思考の世界に張り込み窒息しようになっています。

解決しなくてはならないことがある、、、

とは言え解決しなくてはならない問題がある時はどうするのだ?何も思考しなければ問題は解決しない、、、それを理解して思考を使っていることに自覚的であるならば問題ないでしょう。ですが多くの方は考えるのがデフォルトになり常に考え続けています、考えていないと不安だと言わんばかりに。結局は思考に取り込まれ続けています。思考に取りこまれれば非二元から離れていき苦しくなっていきます、結果苦しいからまた考えるのループに入るのです。

五感だけに触れていく

それが分かればもう簡単です、五感だけに意識的に触れて行けばいいのです。五感の感覚を自ら実況中継して五感の感覚に思考を挟み込まない癖をつけていきます。こんなアナログなこと?そうです。こんなアナログなことなのです、思考は常に入り込む隙間を狙っていますがそこに隙間を与えない、、こんなアナログな行為の連続で思考がない世界の心地よさを思い出していきます。その心地よさの先に非二元がいつでも横たわっています。その世界は平和、歓喜、安堵の世界です。

体は何も所有できない、思考はあらゆる物事を所有していく

軽いの究極が悟り

軽いの究極が悟りです、重いの究極が苦しみです。体は何も所有できません、所有するのはいつも思考です。体の感覚に身を委ねて生きていきますと何も所有できなくなります。一方思考優先で生きていきまストあらゆるものを所有していくことになります。体優先は事実優先、事実の先には真実があり、真実の先に悟り、非二元があります。ですが思考の先には思考しかなく、これは虚の世界、幻想の世界です、ここは真実からどんどん離れていく世界です、苦しい世界です。

仕事など3割の力でできることでいい

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなりました、真面目な方だったということです。真面目な方は手を抜くのが嫌いですから何でも全力投球、それは素晴らしいことです。ですが自身の実力が至らないようなステージに上がってしまっても頑張ってします、何とか爪痕を残そうとする、、、これらは思考の世界です。思考の世界にガンガンに入っていきます、苦しくなります。仕事は三割の力でできるようなことがあるはずです、そこで真摯に向き合ってやればいい、この仕事は格好が悪い、見栄えが悪い、評価が低い、、、これらは思考です。苦しみの世界です。

思考のトリックを見破る

仕事で結果を出せなくて悩む、思考する、、、すると思考の世界に飲み込まれていきます。どんどん苦しくなります。そしてなぜこれほど思考しているのに苦しいのか?とさらに悩みます。結論を言えば思考しているから苦しいのです。仕事で結果を出せないのは実力が至らなかったから、それだけ。淡々とその事実を受け入れ実力で食べれる世界を探すのみ、そこに思考は実は入りません。ですがそこで考えてしまう、どうしたら結果が出るだろうか??ここから苦しみの世界に入り込んでいきます。

完璧な事実に対し不満をいう「思考」

現象は全部完璧

我々の前に現れる現象で完璧でないものなどありません。山に行けば完璧でない自然現象など絶対にない、、川があり木が育ち、動物がいて、、完璧なバランスで成り立っています。不完全を探す方が難しい、、、これは人間社会でも全く同じで全てはバランスで成り立っていますから完璧に向かって宇宙現象がただ起こっています。この宇宙現象に対し人間の思考(自我)が不満を言います。この不満は恐ろしいほどの無知から成り立っています、だからここに乗っ取られると苦しくなるのです。

不満を言いたがる「思考」

思考は常にこの目の前の事実、現実、現象に不満を言いたがります。というよりも不満を言うのが仕事みたいなものです。思考の役割はこの体を維持して行くことにありそれが最優先です、ですからこの不満は当然と言えば当然です。ですがせっかくのこの思考に引き込まれていきますとひたすらに苦しい、なぜならば思考が述べる不満は事実とは全く関係がないからです。そして事実には苦しみがありません。

思考で悟ることもできない

しかし思考によっては人を軽くしてくれるものもあるではないか??一時的にはしてくれるかもしれませんがあくまでも実戦でそれを腹落ちしなければそれはその場しのぎです。自己啓発セミナー、成功セミナーの受講生がなぜほとんど成果が出ないのか??それは実践が伴わないからです。実践とは五感(事実)の世界です、五感(事実)が五感(真実)を呼びます。五感(事実)の先にあるのが非二元、無心、無我です。思考の先には思考(幻想)しかありません。幻想の先には重さしかありません。

五感以外に事実はない

事実と思考を完全に引き離す

A地点からB地点までは二キロの距離がある、、これは事実ではありません。私がA地点からB地点まで歩いて行くとします、A地点から歩いて行く間に目に入る景色、足が感じるアスファルトの感触、会話をしている歩行者の声、これは事実です。確実に私の五感が感じています。そして最後にB地点に到着しました、これも事実です。ですがその距離が二キロあったというのは事実ではありません。これは我々の思考です。非二元では空間はないというのはこのことからです、空間を感じることができない、感じることができないのは事実ではないということです。事実はこの体が感じたという事実だけです。

時間もない

時間もありません。瞬間瞬間我々は今を感じています、この瞬間を確実に感じています。ですが時間を感じることはしていません。時計を見たら五分経っていたというのは時計を見たからそう思っているだけです、自身が五感で時間を感じていません。過去の写真を見たから時間の経過を信じているだけです、これは思考です。冬になってきたら寒くなった、、、これは時間ではないです、ただ寒いを感じているだけです。時間もこの五感が感じていないから事実ではないのです。

事実はいつも非二元で思考はいつも二元

事実はいつでも非二元です、神です、ワンネスです、、要は重くないのです。そして事実から思考に移るとそこは二元、自分、自我、幻想、、この世界は重いのです。我々人間は直ぐに思考をつかたがります、なぜならば思考=自分だからです。何かアクションを起こすと同時に思考が湧き出してきて思考の世界に取り込まれます。そして重い世界に身を置きます。思考の世界は常に自分と一緒に入れます。一方事実の世界は自分が居ません、非二元がただあります。ここは軽い世界です。