幻想

指を指たらしめているのは「思考」

思考がなくなれば腕全体と指の境目は消える

我々はこんな簡単なトリックに騙されてきたのか????これが覚者が悟った後に気づく感想です。こんな簡単なことなのになぜ気づかなかったのか???悔しい、、、、要はこういうことです。腕全体の中の指が独自に思考を操るようになり、、その思考によってこの指は腕全体とは何も関係がないという思考を持ちました。これは思考です、、、そしてその思考を通じてこの世界(腕全体)を眺めるとまさかの本当に指が腕全体から切り離されているように見えるのです。なぜならば我々が見ているこの世界は脳内で見ているからです。思考を信じ抜いた際には脳内ではそのように真実が変換されるのです。これが究極のトリック、人類が騙され続けてきたトリックです。そしてその騙した存在こそが思考と脳のセットです。この二つの存在によって我々は何万年間という歳月騙され続けたのです。

腕全体と指には境目はない!!

人間であればそんなことは全員が知っています、指と腕全体には境目はなく、、、人間が勝手に指という名称を使い出し指はこの世に誕生しました。ですが実際には腕と指には確固とした境目はなくこれはあくまで概念です。ですがそのように概念が作られ、さらに指から見える世界では指が完全独立して見えるならばそれはもう概念ではなく事実に置き換わるのです。脳というのは凄まじい機能を持っていて名前をつけた対象は脳の中で完全独立して見えるという事実があります。この事実こそが人間を全体から完全分離した存在であると錯覚を起こすことに成功しました。

脳のトリックを見破れ!!

人間は実はこの全体から全く分離独立していません、にも関わらず脳にかかってしまえば完全分離した存在に見せてくれます。脳のトリック、脳の幻想上映です。だからこそ人間はどこまで行っても腹が空く、満足ができず、違和感が拭えず、居心地の悪さが解消されないのです。これが人間という存在のカルマ、宿命、苦しみです。ですがこの事実に気付けたならばもう大丈夫、徐々に徐々に自身が全体であったことを思い出せばいいのです。

独立国家「指」は腕全体の中を彷徨う

指は腕全体の中にあって理由もわからず彷徨う

腕全体から完全独立(錯覚)した指はなぜか焦燥感、孤独感に襲われ動き回るようになります。それが時空間です。時空間とは腕全体なのですが腕全体には指は見えません、、、なぜか独立した指はそこに両眼がありその「両眼」を通じてこの世界(腕全体)を見ることになるのですが本質とは全く異なった世界に写っています、なぜならば指には価値観というものが発達しているのでその価値観を通じた世界しかもう見えないのです。だからこそ目の前にホーム、全体、腕全体があるにも関わらず全くの幻想の世界を歩き回ることになるのです。これが独立国家「指」の地獄のストーリーです。

「指」は朝起きるとなぜかやることが沢山

指は朝起きるとやるべきことが沢山あります、会社に行く、学校にいく、買い物にいく、地域の集会に行く、会合に行く、、、、、ととにかく忙しいのが指の特徴です。ですが冷静に考えるとやるべく事など一切なく、、、腕全体の中で指が動き回るのはおかしな事です。老後の心配、年金問題、就職問題、結婚問題となぜか独立した指には解決すべき問題が恐ろしい勢いで襲ってきます。そもそも独立などしなければこれらの問題は皆無にも関わらずなぜこんな問題を抱えてまで独立したのか?という話です。しかも独立は錯覚です。

腕全体が、、、指体験をしてみたかった

腕全体は腕全体では腕の偉大さ、大きさ、力強さを感じることができません。腕以外の存在があればそれも比較検討できるのですが腕は全体ゆえにそれができません。そこで腕全体は指を形式上完全独立させて指体験を積ませたのです。完全独立と言っても指は構造上指自体では何も動くことはできず、、、決定権も一切ない、、、そこで独立したと錯覚させてその感情を味わい尽くすことにしたのです。人間が最終的に全員が至福に戻るのは、、、人間には何一つ自由意志はなく至福に帰る以外の選択肢がないということです。指が最後には腕全体であったことに気づくように、人間も全体であったということに気づくことになります。

腕全体であったという気づき後もひたすらに思考は湧く

指ではなくなっても思考は続く

腕から完全独立したと錯覚した指も途中でこれは錯覚で本当は腕全体でしかなかったという気づきが起こります。これによって指の完全独立錯覚は消え失せるわけですが、、、それでも思考は湧いてきます。この思考の湧き出しをまた腕全体が掴みとってしまうとまた腕全体の中に指という独立国家が誕生します。ですから気づき後の後も思考の湧き出しには注意が必要です。私自身無我の状態を意識的に作れるようになった後もその成果を我がモノにしようとする思考の取り込みに何度も負けてきました。

無我に入るとは腕全体になっているということ

悟りという決まった形式というのは当たり前ですがあるわけではなく、、意識的に無我に入れることが悟りと私はしています。思考に乗っ取られ、思考に振り回されている状態が悟りが閉じている状態、、、思考の湧き出しに意識的になりいつでも無我の状態をキープできることが悟りを開いた状態です。友人と話をする際には当たり前ですが相手はこの私に話しかけてきますから、、、私という独立国家を演じなくてはなりません。ですが会話が終わればまた独立国家「私」から無我に戻ります。指から腕全体に戻るのです。そんなことは可能なのか???という話ですが「私」というのが思考でありそれを維持する方が大変なのです。

無我は虚しい???

自我ベースで生きている人は、、無我なんて虚しいのでは???と思うはずです。ですがこれはおかしな感覚で指という独立国家として生きるのと、、腕全体として生きるのとどちらが虚しいか??という話です。本当は独立していないにも関わらず指という独立国家があると信じ込んで生きていく方が虚しいのです。腕全体よりも指の方が、、、快適で安心で楽しい、、、というのは幻想です。

各指は全行動、全思考を自分がやったと認識するメカニズム

各指が完全分離したわけではない

腕全体を神、全体、大いなる一つとした場合、指がこの人間、自分です。そもそもが指には何一つ決定権はなく腕の一部としての活動がありました。ですがある時に指に思考が湧き出し指を腕とは全く違う独自の存在とする認識が起きました。それが自我、自分です。自分は何かをする力があるのではなく、、起こった行動、思考を自分がやったと思い込むメカニズムです。そしてこの自分が見る世界は、、自分の価値観が反映され価値観に準じた世界に形成されます。

引き寄せの法則とは

個人、自我に何かを引き寄せる力は絶対にありません、なぜならば自分は幻想だからです。ただの思考です。思考に何か現象を引き起こす力はありません。思考もただの起こりだからです。ですが価値観はその人間が見る世界を価値観に準じたように見せることができます。本質を価値観に沿って切り刻むことができます、なぜならばその人間が見る世界だからです。価値観に準じた世界を作ることはできますからそれを引き寄せの法則と呼ぶこともできるかもしれません。

腕と完全分離した指はない

指はあくまで腕の中の一部であって完全分離した指などあろうはずがありません。指が完全分離してしまえば指の機能は消え失せます。人間もこれと同じで全体から完全分離した人間などあろうはずがなく、、それゆえ人間は完全分離しているという認識が強ければ強いほどに苦しむことになります。人間の姿形は指よりも分離しているように見える分その誤解は深刻を極めるのです。

各指は自分が一番特別だと思う

特別になろうとする指

腕全体である神から指だけが独自に意識を持ち、この指は自分だと勘違いしたのが人間です。これによって指は独自の経験を積むことになり我が人生が作り上げられていきます。ですがこれは大いなる勘違いの上に構築された虚構ですから覚者はこれに気づきこれを幻想、ストーリーと称すのです。この指こと人間は、、自身をこの全体、腕から完全分離したという思考が機能しているので、、、常に心細い状態になります。心細い思考を自らこしらえておいてその心細さの原因に気づかないこの指は、、、周囲から注目を集めてこの心細さを癒そうとします、これも全部思考の策略です。要は特別であろうとするわけです。

競い合うように特別になろうとする各指

各指はそういう理由から我こそは特別だ、我こそは周囲よりも優秀だと自己主張を重ねていきます。ですが実際にどれほど特別だと思ってもらっても本来は指自身ではないのでこの心細さが消える事は絶対にないのです。そこでもっと特別にならなくてはもっと特別にならなくてはと必死になっていくわけです。これが思考の罠から抜け出せなくメカニズムです。

各指が自身を指だと勘違いしているのは思考

腕全体(神)から指だけが分離独立していると勘違いしているのは思考です。この思考が湧く出てくることで指は独自の世界を作り上げていきます。指は腕全体の中を動き回りそれによって空間、時間が生まれました。本当はそんなモノは存在しません。なぜならば「独立した指」自体が錯覚だからです。指は腕の一部でしかなく指という名称すら本来はないのです。ですが本来は無いにも関わらず指があると勘違いが進んでしまったわけですからこれはもうしょうがないのです。この事実を受け入れていくことでこのトリックに気づく以外にありません。

各指は独自の解釈の中で独自の世界を生きる

各指は全く異なる世界を生きる

腕全体(神)の中で指を自身と認識した「自分」はあらゆる経験を積み重ねていくことで独自の価値観を形成するようになります。この価値観こそが腕全体の見方になります。腕は指の解釈によって全く違ったように映るようになります。ですから各指によって見える世界は全く違ってしまうのです。それが指の価値観です。価値観とは腕の分断方法です。腕を全く違う姿に切り刻んで独自の世界を作ります、ですが腕は腕ですから本質を見た指はびっくりするわけです。そしてその時に自分(指)は腕だったという気づきに至ります。

各指は全く異なる世界を生きている

人間というのはどこまで行っても分かり合えないのは各指は全くことなった経験を積みその「経験」を元に価値観を形成しその価値観で腕全体を見ますから全く違う世界を生きています、表面上。そうなるとコミュニケーションとは悲惨なもので最初から分かり合えないというのが分かっています。いつか分かり合える、、これはあり得ないということです。もしも分かり合えることがあるならば自身が腕だったという気づきの後でしょう、お互いに。

指として生きている期間は苦しい

指が独自の意識を持ち、全行動、全思考を自分のモノと捉えるようになります。これが自我です。この自我の状態で生きていくのはエキサイティングですが疲れます。もしもこの疲れを解消したいならばこのトリック、自我が思考、幻想であることを見抜く必要があります。しかもそれは真剣に見抜いて行かなくてはなりません。これが自分だという思考は強烈で、、7年間の歳月、何万回という呼称によってシステムナイズされています。これを打破するのは至難の技です。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。

神は人間に化け、モノに化け、自然物に化け、、、

覚者はこの事実に気づいた

悟った覚者が話す言葉には多くの共通点があります。その一つがこの世は幻想であるという言葉、、ですが同時に違う覚者はこうもいいます、これしかない、、、なんのこっちゃです。この世は幻想なのにこれしかない???意味不明です。幻想にも関わらずこれしかないならば何もない、、になります。事実はこうです、、我々人間がみている世界は神が何かに化けた世界なのです、自分に化け、友人に化け、机に化け、コーヒーに化け、お金に化け、、、、全て神の化身ということです。化身ですからそこには実態がなく全て幻想ということですね。ですがその化身であるいう事実を見破った時に、、、ここに神が居るということになります。これしかないです。

絶対絶命の時にこれを見破っている

バンジージャンプをやった人ならわかると思います、、、終わった後に恐ろしい安堵感、歓喜、平和が襲ってくることを、、あれは何か????意味不明ですね、、、なぜバンジー後に平和が襲ってくるのか???バンジー中に思考が完全に抜け落ち、五感全開になり、、、今に強烈にある状態に、、、、それこそが非二元、神、無我です。その残滓が残っているため平和、歓喜、安堵に浸れるのです。だから多くの方はあの感動を求めて何度もバンジージャンプをやりに行くのです。なぜ30メートルも落ちて平和に襲われるのか????意味不明ですよね、意味完璧なのです。

思考が抜けたら平和安堵ならば、、、思考を放置せよ

思考が抜けると、、、平和、安堵、歓喜に襲われるならば、、、思考を放置すればいい、、、思考こそが苦しみの世界、幻想の世界に意識を導く道具ですからそこに乗ってはいけません。何もバンジージャンプをやる必要はないのです。思考が湧いたらそのまま放置です。山に籠もって修行などしなくても日々思考の湧き出しに意識的になり放置すればいいのです。毎日をバンジー後のように生きることができます。そこが無心、無我、非二元の世界の入り口です。

思考を放置するのは現実逃避ではない

思考こそが現実逃避

多くの方はここを勘違いします。思考こそが現実逃避なのです、現実とは思考以外の世界のことであり思考の世界こそが幻想の世界、虚の世界です。実の世界は思考が介在しない世界なのです。ですから苦しくなったら先ずは運動、、みたいな発想は本質を突いています。苦しくなったら人間は思考の世界に入っていきますがその世界こそが現実逃避です。虚の世界の住人になり結果苦しみの世界のドツボにはまります。

でも苦しくなるとさらに思考が湧いてくるのはなぜ????

ですが実際には苦しい時ほどに思考が湧いてきます、これが事実です。そのため多くの方はそのまま思考に取り込まれていきます。ここで何とか思考に取り込まれない、思考を放置する、、、この習慣をつけましょう。思考とは苦しみの世界を自ら作り出しその世界に意識を取り込む道具なのです。この事実を多くの方は知りません。思考することを善とまで勘違いしています。悲劇、喜劇です。

現実とは思考が全く介在しない世界

現実とは非二元です。現実とは神です。現実とは大いなる一つです。この世界が現実です、この現実に対して思考で持ってモノ??に名前をつけてモノ化し対象化し、顕現化し、、全部の現象を化させた世界こそが偽りの世界、人間が現実と呼んでいる世界です。この世界は思考によって化けた世界のことです。我々は言語によって化けた世界に生きています。この化けた世界こそが苦しみの世界なのです。にも関わらず何か苦しいことがあると考えてさらに化けの世界に入り込んでいきます。