他人の感情はどう対処するのか??

夢の中の登場人物

正直に言いますと、、、夢の中の他の登場人物から生じる感情は、、縁起、、、つまり反応につぐ反応が起きているだけであって、、どうにもこうにもなりません、、ただこの夢の中であらゆる化学反応が起き続け、、続いていきます、、この世界の中で楽に生きるには、、、そこを見抜く以外に方法はない、、一人一人を幸福にするなど全くもって不可能です、、夢ですから。。

何が起きても夢だと見抜く

何が起きても、、これは夢の中での出来事です、、ここは絶対に変わらない、、、この体も、他人の体も、、全感情、全行動、全衝動、、が夢の中で起きています、、そしてこれを経験しているのは夢を見ているこの私だけ、、です。ですから、、、他人が深刻に悩んでいても、、その感情を味わっているのは自分、真我、神しか居ないのだという絶対的理解が必要です。

だから大丈夫

苦しむことができるのは神だけなのです、、神しかそれを味わう権利がないのです、、神が苦しみ、神が悲しみ、神が困惑しています、、なぜ神を心配する必要があるのか???ないのです。神はいつでもこの苦しみを終わらせることができます、、神ですから。ということでこれが夢だと悟り、、この夢の中でただこの夢を堪能していく旅にでます、、ただし堪能というのは何か???私がこの夢の創造主であり、経験者であり、夢のスペースであるという気づきを深めることです。

夢だと気づき夢を生きる

夢だと気づいたとて

これは夢です、、その気づきが突然起きます、、ですがこれが夢だと気づいても、、世界が変わるわけではない、、このコップ、このマンション、この体、この友人、、、全部が残ります、、夢の中で。そしてこの夢の中の生活が続きます、、ですが今までと違うことがはっきりとある、、それはこの体の中に自分は居ないということ、、全経験を所有する自分という存在は夢を見る存在であって、、この体ではない。。という確固たる気づきがあります。

気づいているのは全部夢を見る自分

この夢を見ている存在、それが自分です、真我、神と言ったりします、、、この自分がこの体の全経験を所有します、、鳥の声も夢を見る自分が聞いています、、「聞く」という言葉で表された体験ではなく、、音そのものを感じます、、ただそれだけ、、、夢の中のこの体が全部を経験しているという勘違いがある時と、、、夢を見る存在がそのまま感じている時は感覚に違いが生まれます、、思考の邪魔が入りません、、感情の邪魔が入りません、、衝動の邪魔が入らないのです。

当事者意識が無くなる

これが夢であるという圧倒的気づきがおきますと、、この体に当事者意識がなくなります、、この体をなんとしても幸福にしなくてはという義務感がなくなる、、、この体は存在し続けるツールに成り下がる、、ですがこれは体を雑に扱うことではない、、むしろこの体を使ってこの夢の中の世界にいかに貢献するかが湧き上がる、貢献のためのゲームになる、、だって世の中の反応は面白いから。

夢だと気づき、この体を使い始めると

夢だと気づいた後にこの体を使い始めると、、、重さがないために自由奔放に使える、、だから目立つ、、すると夢の中他の登場人物は、、動揺する、、この動揺による反応に気を付けなくてはならない、、、動揺とは生命の危機と同じ感覚、、、怒り、攻撃の対象になる可能性がある、、自由奔放は楽しいが周囲の反応には慎重に行動を取らなくてはならない、、という感じです。

神がこの体の中に居るわけがない

全知覚を行う神がなぜこの体の中に?

我々の苦しみの原因は、、全知覚を行う神がこの体の中に居るという勘違いが起きていることです、、、この私とは神のことであり、、この私が在るをこの体の中に閉じ込めることで苦しみが生み出されました。。今見ている世界で経験をできるのは、気づきを得ることができるのは神しか存在せず、、この体、あの体、、あそこの体の中にそれを知覚できる存在は居ないのです。

この知覚をこの体がやっているという勘違い

この体がコップを触ります、、触ったっという確かな感覚が生まれます、、この感覚に気づいているのは神です、、人間ではありません、、、神がこの感覚に気づきました、、次のこの感覚はこの体の中で感じたという思考が生まれます、これが自我のメカニズムです。。。鳥の動きを視界で感じます、、これを感じたのは神です、、この感覚をこの体の中で感じたという思考が生まれます、、、ただこれだけ、、この思考が生まれなければ、、苦しみは起きない、、、ここに気づきます、、誰が?神です。

悪口を言われた

友人から悪口を言われました、、この悪口を聞いたのは誰か?神です、、神しか経験はでいないのです。。次にこの体の中の私が言われたという思考が湧きます、、、これで頭に来るという思考が湧きます、、これを感じるのは誰か?神です、、、次に私は頭にきている、、という思考が生まれます、、、この思考を感じるのは誰か?神です。全ては全てこのメカニズムで動いています。。この現実の世界に「私」という体の中の存在はいないんです。

リーラ

神の遊び場

この世界は神の遊びの場所、、まさにその通り、、、これは夢ですから、、この夢の中で何が起きたって誰も傷つかない、、傷つくのは傷ついたという個別体験を神が起こしただけです、、、、何が起きてもそれは神の動きによって個人が出現し、、それによって個人の活動が起きたという夢が起こったのです、、、ですが夢です、、全ては、、、

この夢を作りあげた存在

私とはこの夢を作り上げた存在、この夢の中で起こる全ての経験を構成する存在、、全動きを起こす力、、です。。私がこの体の中に居るという思考もこの私が起こしたのです、、、それによって将来を心配するという動きも起こりました、、夢を夢と気づく動きも私が起こしたのです、、私とは神です、、動きを起こす神、、そしてこの動きを起こす神を起こすスペース、、ここも私、、つまり神、、スペースとしての神、私です。

何が起きても大丈夫

何が起きても大丈夫、、これはこれが夢だと気づいた存在(私)から自然と湧いてくる感情です、、、だって夢ですから完全に、、、試しにこれを夢だと思って生きてみてください、、全く矛盾がない、、、夢と何も変わらない、、いやいや夜見る夢は整合性が取れていない場合もありますよ、、、整合性が取れている方が夢ではなく、、、整合性が取れていないのが夢であるというのは誰が決めたんでしょうか???決めれる存在は居ません。両方夢なのです。

絶対的理解

信じるとかじゃない

私は神を信じます、私は仏様を信じます、、、違います、、、信じてる時点で嘘だと気づいています、、私は今飲んだのがコーヒーだと信じます、、、これはない、、絶対にない、、、確信できないから信じるという言葉が生まれるのです、、、悟りとは、、、「私は神だった」という絶対的理解です、、絶対的認識です、、、信じるとか信じないとかの次元ではない、、、私が食べたのはラーメンではなかろうか???そんなことは起きない、、

私は神だった

なぜそんなこをが絶対的に認識できるのか?????それは簡単です、、事実がそうだからです、、、信じるとかのレベルではなく確実にそうなのです、、、それが大前提、、そしてその感覚を幼少期は誰しも確実に持っていた、、、だから悟りとは幼少期の感覚を思い出すだけ、、たったそれだけ、、、、偉大とか、そんなんじゃない、、、騙し絵を見抜くぐらいのこと、、。騙し絵を見抜く人間は偉大でしょうか????

全生命、全物質、全思考、全行動

全生命、全物質、全思考、全行動をそう在らしめている動き、エネルギーこそが真我です、、私が経験した全ての動きこそが真我です、、、この世界で起きた動きが自分(真我)です、、、視界を今ずらす、、視界が変化しました、、この動き、、これが真我(自分)です、今この体に思考が起きました、、この動きが真我(自分)です。このブログの突然の理解がおきました、、この動きが真我(自分)です。よく考えてみてください、、全部が全部動き(真我)です、、、動き以外のものがない、、、

例外を自分と信じた世界

この体のごく一部が例外

この体の極々一部、、、これだけが「自分」がコントロールできていると思っている箇所です、、筋肉の一部の動き、、思考の一部の動き、、これだけ、、、これだけがコントロールが利いていると思っている部分です、、、これ以外の全ては全くコントロールが利きません、、、全くです、、、、結論から言えば、、、この全くコントロールが効いていない部分が自分です、、、コントロールが利かない全部が全部自分です、、、そして例外の部分、、コントロールが利くと思っている箇所、、、これが自分以外です、、、騙し絵です、、究極の騙し絵です、、、まんまとこの騙し絵に引っかかりました、、、誰が、、、自分(真我)が、、

例外に迫る

では例外の部分に迫ってみます、、、、コントロールが利く部分、、、一部の筋肉運動、、と一部の思考、、、、「スタバに行こう」という思考を作り、、「スタバに行く」という行動を起こす、、これは例外ですよね、、、コントロールが利いています。。。本当でしょうか???スタバに行こうという思考をどうやって作ったんですか????エンルギーとして確実に作り出した証拠を出してください、、出ませんよね、、、だから嘘なんです。。。分かった、、じゃあスタバに行ったという事実はどうだ、これは完全に私がコントロールできなければできないじゃないか、、、、違います、、「スタバに行くことが決まったから、、スタバに行こうという思考が起きたのです」、、、逆なんです、、スタバに行くことが事故的に起きることが決まったのです、、その後にスタバに行こうという思考が湧きました、、、これが事実です、、、この事実が確定しますと、、、一部の筋肉運動、一部の思考活動も、、、コントロールが利いていない、、、全部が全部コントロールが効いていない世界、、、全部自分が立証されます、、真我しかない、自分しかない、神しかいない、、、

だから何だ?

だから何だ?が出る内は理解していない

頭に鳥の糞がついてますよ!だから何だ??にはならない、、、直ぐに頭を触るはず、、、そうです、、真理の理解とは、、疑問が起きない、、、、分かったらもう戻れない、、、気づきとはそういうもの、、今ここに全部がある、真我の活動のみ、、鳥も声も太陽の光も、それを感じるという動きも、全部が全部真我の動き、、求めていた全てはここにあった、、この理解が起きるのを待っていた、、、何処に行かなくてもいい、、、全部ここに在る、、、

動かなくては、、と動きたい

人間活動の特徴は忙しないこと、、、あれは、、、今が苦しいから、、ですが悟りが起きれば、、苦しいがないから焦らない、、、焦って成し遂げたいことはなくなる、、、ただこれをやりたいは起きる、、、満腹にケーキを食べた直後に、、直ぐにラーメンを食べたいが起きない、、この状態、、、精神的満腹状態、、、これが悟り、、

この体しか自由にならないから

この体だけしか自由にならない、、この体しかコントロールが利かない、、、だから悔しい、、モドカシイ、物足りない、、、そこで個人は他人をコントロールしようとする、、、なんとなく偽りの万能感を味わう、、偽物、、他人から評価を受けることで万能感らしきモノを味わう、、虚しい、、、大誤解が続く、、、全然ポイントがズレてます、、、そうじゃない、、全部が全部自分の活動、、それしかない、、全感情、全思考、全経験、全物質がこの自分、真我の活動、、、、全く視点が違う、、論点が違う、、、

真我生まれ真我育ち見える物全部真我

我々は真我から一度も離れたことがなかった

我々は真我から一度たりとも離れたことがありません、、そんなはずは????こんなに苦しいのに、、なぜ???真我から離れていないのならば、、なぜ苦しい???そうですよね、信じられないですよね、、、ですが、、本当なのです、、真我から一切離れていなくても、、事実はがっつりそうなのです。真我がこの苦しくなるような動きを起こしたのです、、それが自我です、、、これは真我が生み出した創造物です、、この事実に気づくことが起きた時、この苦しには解消されます。

苦しみを作り出したのは真我

一切何も問題がないのは苦しみを作り出したのは真我そのものであること、自分でこの苦しみを作り出したのですから、、何も誰も悪くない、、悪いと言えば真我になりますが、、、真我も自由意志でこれを作ったのではなく、、ただそれが起こった、、という事実です。良い行い、悪い行い、、全部真我からただ湧き起こります、、良い悪いという判断すらも真我から湧き起こる、、、どこまでいっても真我劇場です。

真我総指揮自我物語

この世界は真我総指揮自我物語です、、ですから喜怒哀楽の全ては真我が作り出しています、自我があってこの物語があって喜怒哀楽がある、、、この全てを作り出しているのが真我です。。今私は映画を観て楽しくなった、、この経験の全てを作り出したのが真我です、、、神です、、そしてこの活動が起こるスペース、これも真我です、、もしくは空、絶対などと言います。だからなんだ???この疑問すらも今真我から生まれました。だったらもう深刻に考えなくていいな、、この感想も今真我から生まれました。

完全なる夢だという気づき

生命の動き

もしもこの私の体を動かすエネルギーが、、私なのだとすると、、、心臓、肺、思考、感情、衝動を起こすエネルギーが私なのだとしますと、、、この私と、、、今目の前に居る人間とは別々の存在でしょうか?今目の前に居る人間を動かすエネルギー、心臓、肺、肝臓、思考、感情、、を動かすエネルギーは私の体の中を動かすエネルギーとは別物なのでしょうか?私がこの心臓、肺、思考、感情を起こしているという実感がないにも関わらず、、、そして相手も心臓・肺、肝臓、思考、感情を起こしているという実感がないのですから各エネルギーが別物だという証明ができません。

この体、コーヒーカップ

この体を動かすエネルギーが自分だとします、、目の前のコーヒーカップをコーヒーカップたらしむエネルギーは誰の物でしょうか????この体の心臓、肺、肝臓、腎臓を動かすエネルギーとコーヒーカップを動かすエネルギーがもしも別々だとしたら、、、そこを切り分ける種別は何でしょうか???ありません、、、、私を動かす全エネルギーとコーヒーカップを動かす全エネルギーは同じものです。

これって夢と同じだよね、、、

今日私が見る夢の中のこの自分と、相手を構成するエネルギーは全く同じものでできています、、、夢を構成するエネルギーをもしもここで出せるならば全く同じエネルギーで、自分、相手、登場人物でこの夢は構成されます。今私が生きているこの世界も全部同じエネルギーで運営されているならば、、、これは夢と同じですね。では誰が見ている夢でしょうか???この夢は空、神、絶対が見る夢です。

この体の中を観察する

心臓も肺も

この体の中において何が起きているのか???心臓が動き血液が動き、血管が収縮し、、肺が動く、、勝手に自然に動き続ける、、、思考も同じ、、勝手に湧き上がり、勝手に無くなる、、、感情も同じ、、勝手に起こり、勝手に静まる、、、全部が全部全自動、森羅万象の動きでしかない、、、

だから何?

それが何の意味があるのか???ないのです、、、私と言われる体の中が完全に森羅万象の動きでしかないというこれが事実です、、これだけ、、、だから私の人生には価値があるとか、、嘘です、、だってただの森羅万象の動きでしかない、、、しかし森羅万象の動きに価値はないのか????価値も何もそれしかないのです、、、神の動きです、、、神の動きに意味を見出すのは不可能、、、

心配も後悔も滑稽

心配するも後悔するも意味がない、、、なぜならばこれが森羅万象の動きとして起こったのだから、、、森羅万象の動きを後悔する???誰が???ギャグです。森羅万象の動きを後悔できるのは森羅万象をコントロールできる存在です、、、誰????居ません、、、空から生まれた色(森羅万象)はただ動くののです、、目的もなく意味もなく、、、動くから動かない存在に気付けるだけ、、色即是空です。