幻想

このメッセージを伝える誰かはいない

ノンデュアリティのメッセージは矛盾を抱える

今機能上の私がこのメッセージを書いています、、これは機能上の私であって実在する存在ではありません。誰かがこのメッセージを書かなければ、誰かに伝えることはできないのですが、、、誰かと誰かが居るというこの錯覚、幻想こそが、、、これが夢の中である証拠になります。全てはたった一つの意識の中で起きる神羅万象の動きでしかありません。神羅万象には一切の分離はなく、、あるのは分離しているという感覚のみです。

分離とは見かけ上の脳内でのみ起きている

分離はこの見かけ上の脳内でのみ起きています、、、実際の神羅万象には一切の分離は存在しません、、、我々の脳内でのみ分離は起き、、、我々はその分離の世界で生きているという夢を見ているのです。夜見る夢とこれは全く変わらず、、、意識と脳が作り出したこれは共同作業です、、、熟睡時以外我々はひたすらに夢の中に居るのです。

夢だけれども

夢ではありますからいつでも醒めてしまえば、、この夢は終わりです、、、ですがそれができない、、なぜならばそれができる個人という存在が居ないからです、、、、この夢が覚めるのは、、覚めるということが起きるのを待つ以外にないのです、、全体、気づきの意識がこれが夢だと気づき、、、夢を終わらせるが起きなくてはなりません。夜夢を見ている時に、、、なんとなくこれって夢だな、、、そんな気づきが起きる時ってありますよね、、、まさにそれ、、、それが今起きているのです。

「自由意志はない」は個人には絶望的

自由意志はない、、、これは個人にとって絶望

10代の若者に、、、自由意志はない、、、と伝えれば逆上するでしょう、、、これからの人生をどう生きようかと悩んでいる若者にこのメッセージは絶望的に映るはずです。。。ですがこれが30代、40代になると変わってきます、、、なぜか????自由意志を行使してきたけれど、、、もう疲れたよ、、、無いと言い切ってくれた方がありがたい、、、だって責任がまったくこの自分にないのだから、、、です。

あると思い込んでいる方が絶対にきつい

真実では自由意志はないのです、、、にもかかわらず有ると思い込む方が絶対に辛いのです。。。後悔後悔後悔、、、これをエンドレスに続けてしまう人もいるでしょう。。。大きな大失敗をし、、人に一生の怪我を、、、後悔、後悔、後悔です、、、、そんな時に「自由意志はない」のメッセージは、、無罪釈放宣言に匹敵します。

本当はないのだから、、、

神羅万象の動きしかない、、だから分離した個人の「自由意思」は幻想、、これが真実です。。。夢の中では自由意志はあるように感じることができる、、、ただ実際にはないのです。。。だから後悔もなければ期待もしなくていい、、、そんな無責任な人生でいいのか???いんです、、なぜならば責任の取りようがないからです。自分が居ないし、自由意志もないのですから、、夢以外では。

全価値観は真実の前で砕け散る

平均的幸福を目指しても、、

平均的幸福だけを求めて生きてきたにも関わらず突然の末期癌宣告、、成功だけを夢見てガムシャラに走り抜けていたら突然の末期癌宣告、子供のために全部を費やして生きよう、、子供が末期癌宣告、、、何に価値をフォーカスしてもこの事実の世界、真実の世界では簡単に壊されます。では我々は何を大事に生きればいいのでしょうか???真実を知ることです、、真実をしることに重きを置くのです。

私も私の人生も思い込み

私というのは後天的に学んだアイデアです、、私の人生も後天的に学んだアイデアです、、アイデアであって事実、真実ではないのです、、、真実ではないにも関わらずこれをどうやって幸福にする方法があるのでしょうか???幸不幸すらも思い込みですから、、解決のしようがないのです。無いものをあると信じて生きているだけ、、、もしも私に出来ることがあるならば、、、真実をお伝えすることだけです。

私も私の人生も実はなかった

子供のために全てを費やしてきたにも関わらず子供が末期癌に、、、、だから不幸のどん底に落とされました、、違います、、、元々苦しかったのです、、苦しいを解決するために子供に夢を預けたのです、、、その子供が末期癌になることで、、元々苦しかったことを思い出したのです。だから不幸のドン底と感じるのです。そうではなく、、、私も私の人生も実が幻想で、、ゆえに苦しいのだという事実と向かいあうことです。すると苦しみの根本が薄れていきます、、今まで中途半端に隠し巧妙に逃げていたから苦しかったのが分かります、肌感覚で。

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。

悟りすらも人生の充実に利用しようとする自我

悟ったらどんな人生になれるだろう????

悟ったらどれほど人生が充実するだろう???悟れれば今の苦しみが消え失せ毎日の人生が楽になるのでは???これが自我の陰謀、策略です。悟りとはこの自分もこの自分の人生も、、全部もともと無かったという気づきです、、自分も人生も全く存在しなくても、、しっかりと意識だけは元々あった、、、この気づきの意識に戻ることが悟りです。

自分も自我も存在していなかった世界に戻る

結論から言えばこの自分に意識がフォーカスすることで思考が溢れ出て言動が溢れ出てこの言動に振り回され続け苦しみが生まれます。このメカニズムに圧倒的に気づき、、いやそもそも自分なんてなかったよね、、、という究極の気づきに至ることが悟りです。自分なんて存在せず、存在なくして普通に生きていた赤ちゃん、、、ところが後天的に発生したこの自分に意識のフォーカスが集まることで、、自分ストーリーが始まった、、、そこからが苦しみの毎日に、、、

悟りとは全部諦めるということ

悟りが自己啓発と全く異なるのは、、、全部を諦めるのが悟りだということです。全ての言動がただ気づきの意識、全体から起きているという究極の諦めです、、、、そこに自分は何も介在できない、、いや自分が居ない、、、自分が居ないわけだから充実した人生が虚偽だった、幻想だった、妄想だったという気づきです。これの何が良いのか???自分には良くないのです、、、ですがなぜか至福感に包まれる、、全てを手放した時至福が現れます。

自分の存在を全く疑わない現代人

自我を作るのに三年がかりにも関わらず

生まれてきた子供に三年がかりで自我を形成させる、、自分という存在を認識させるにも関わらず、、我々はこの自我が絶対的な存在、実在だといつの間にか信じ切っています。。おかしい、、、元々そんなものは絶対に無いことを両親は知っています、、、なぜこの後天的存在に全権力を持たせるのか????自我の形成に伴って湧いてくる思考、、行動も一緒にして「その人の言動」となっていきます、そしてそれを赤の他人から評価される、さらにこの自分も人を評価する、、、

自我を否定すると、、、拒絶反応???うそやん

三年がかりで自我を形成しといて、、、あとでそんものは無いんですよ、、、と言われると、、拒絶反応が起きる、、、何かがおかしい、、、、この拒絶反応は、、、、無いことを知っている、、実は分かっている、、確信犯の反応、、、そうです、、、確信犯なのです、、、誰が、、、全体です。全体から起きた架空の存在「私」は架空ゆえにその存在を否定されると、、、激情が起きます。

架空の存在であることを知っている全体

全体からこの自我は湧き出しています、、そしてその架空の存在を起こし続けています、、、そしてこの存在を起こし続けるのは苦しいのです、、、ですから全体は苦しいに気づき続けている、、、、だがここで「自我ってないよね」という発言が起こると、、、「パニック」が全体か起きます。鼻を触り続ける友人に、、さっきから鼻を1時間触っているよ、、と言えばパニックが起こる、、、自我の存在を否定されると「パニック」がす自然現象として起きるのです。

自我がなくても何も問題なく毎日が進む

もともと存在していなかった自我、、ですからこの存在を無視しても何も問題は起きません、、、そしてそもそも自分が自由意志で言動を決めていたというこの不文律が実は幻想であったという気づきが起きますと、、、さらに問題が起きず進んでいきます、、、いや、、、自分が居ないが腹落ちすると、、、この人生そのものが消えてなくなり、、、ただこれがある、、に変わる、、ただ経験だけがあるに変わる、、、何もない、、、全部が現象、、、空足是色、色即是空が腹落ちします、、腹は幻想ですが、、、

悟りとは完全な諦め

サレンダーの本当の意味

サレンダー、諦め、、、悟りを学べばこれらの言葉は直ぐに登場してきますが、、、なかなかこれらの言葉の意味が分からない、、、それもそのはず、、、自我はこれらの理解を大変嫌がります。なぜならばこの諦めとは自我が完全に無意味であることの理解だからです。川の流れのように我々の行動は自分では全く決めることができないこと、、自分という存在が何かしらの経験を積んでいるというのが真っ赤な嘘であるということ、幻想であるということ、、、これを腹落ちさせることは、、自我にとっては諦めです。

そんなことはない、、、の猛反撃

普通に生きていたらこれはもう分かるわけがない、、、、この体の中に自分が居て自由意志でこの人生を切り開く、、、これはもう完璧な洗脳なのですが、、、これを見抜くのは容易なことではないのです。なぜならばあまりにもリアリティがあるから、、、あまりに実感があるからです。。ですが覚者の気づきをしっかりと学んでいきますと、、確かにこれは、、、錯覚であることが腹落ちしていきます。

1万回聞いても理解が起きない

内容はとんでもなくシンプルなのです、、ですが理解が起きないのです、、、理解が起きないから、、直ぐに日常に取り込まれてしまう、、自由意志をフル発揮しようが湧いてきてしまう、、、この繰り返しです、、、今経験しかない、、、この体が在るは錯覚、、、だから今しかない、、、、時間はない、、、これも直ぐに日常に取り込まれ時間を気にする毎日、、、、この繰り返しです。。

ある時ふと、、、腹落ちが起きる

ある時にふと腹落ちが起きます、、、あれ、、なんか分かった、、、本当に自由意志ってないよね、、、本当に経験しかないよね、、、本当にこの体の中に自分が居るって錯覚だよね、、本当に気づきだけがいつもあるしいままでも在ったよね、、、突然の腹落ちが起き始めます、、

I am

私は誰それです。。。

私という存在を絶対的に疑わない理由は、、意識があるからです、、、風邪を感じる、、香りを感じる、、湿気を感じる、、、この意識に対し疑うものは居ないでしょう、、、だからこそこの私がそれを意識しているという勘違いが発生したのです。。。。本当はI amだけ、、、私は居る、、だけです、、、、、私はこの体ではないのです、、私は00坐右衛門ではないのです、、、私は意識そのものです、、、、ただの意識なのです、、、今光を感じ、苦しみを感じ、、楽しいを感じている、、その意識のみの存在なのです。

I am 〇〇から〇〇を取り除くとI amに

悟りとは至って簡単なこと、、、私は00です。から私はです。に変えるだけ、、、、私の存在を疑わないのはこの意識が確実にあることを知っているから、、、意識が今全五感を感じています、、、ただそれだけ、、、感覚を所有する意識そのもの、、経験そのものです。。00から00を削ぎ落とすと、、、感覚だけ、気づきだけが残るのです。

気づきの感覚は本当、私は00は思考

火の光を感じる、、、絶対に嘘はありません、、、ですが私は〇〇○男、、、これは思考です、、事実ではありません、、太陽の熱を感じる、、絶対に嘘はありません、、ですが私は〇〇○男は思考です、、、五感を通じて感じる意識が存在するのは間違いありません、、意識が感じることを所有する〇〇○男は思考ですから幻想です。幻想から、、、〇〇○男を削げば、、、、意識だけが残るのです。

「今ここ」に居ようとしてはいけない

全ては「いまここ」ですよー、、の罠

覚者の言葉がそのまま鵜呑みにするとまんまと思考の罠に取り込まれます。「いまここ」と言う言葉もその一つでいまここが全てと聞くと、、一生懸命「いまここ」に居ようとするわけです、、、これは全くの誤解、思考、幻想です。いまここは結果です、、、今こことは「居よう」とする場所ではなく、、、結果的に「いまここ」しかなかったという気づきなのです。

今ここに居ようとすればするほどに、、、

今ここに居ようとすればするほどに今ここから完全に離れます。なぜかいまここは個人がたどりつく場所ではないからです。個人は完全にいまここから離脱しています、自分という言葉は全体から自ら分かれた存在でありこの存在はいまここを探すのは不可能なのです。いまこことは全体のことであり、、、全体から完全離脱した自分が全体を探すのは不可能なのです。いまここを探す自分を完全否定した時に「いまここ」はバコっと登場します。

自分を完全否定????

自分なんて居ない、、、、自分など居るはずがない、、、この言葉を放った主人が「自分」ならば何の意味もありません。自分という存在を探してみても、、どこにも見つからなかった、、、これが悟りです。誰が自分を探したのでしょうか、、誰が自分の居場所を見つけようとしたのでしょうか、、、最初は「自分」が探したのでしょう、、「自分」で「自分」を証明しようとしたのでしょう、、、そうしたら証明できなかった、、、ヤバイ、、マジか、、、、これが悟りです。その時にいまここがニョキッと現れます。自分が完全に居ないならば、、ここがどこだ、、いまここです。

悟りをしっかり閉じる

超現実的な子供はしっかり悟りを閉じる

悟りを開くには悟りを閉じるこが重要です。しっかりと悟りを閉じればしっかりと悟りが開きます。このギャップが最高起爆剤なのです。悟りを閉じるとは究極のリアリスト、超現実的になることです。現実的、、、実が現れるこの世界にどっぷりと浸かることです。現れるこの現象にしっかりと騙されて、、しっかりとこの現象に巻き込まれ、しっかりと七転八倒するのです、八方塞がりを何度も繰り返し、酒池肉林、餓鬼畜生に染まるのです。するとこの現実の世界に中に真実を見ることができるようになります。

現象をしっかりと見つめる

この現象は、、中途半端に見つめてもそれが幻想、3D映像、蜃気楼であることを見抜けません、、しっかりとしっかりとこの現実を眺めるのです。すると、、、事実がボコっと現れます、真実に入っていきます、そこから無我に入り込みます。中途半端のこの現象と向き合ってもそれほど苦しくもないし、それほど辛くもない、、その通りです。大人になってもなんか子供っぽいよね、、ていうのは悟りが閉じ切っていないのです。これでは人生が中途半端になってしまいます、、ぬるま湯での苦しみが続くわけです。

とはいえ全て決まっている

とはいえそれすらも全部川の流れ、決まっています、、どのぐらい苦しむかが決まっていないことが決まっているのです。そこに個人の判断、力は全く関与せず、、全て大元からの川の流れにこの個人は委ねるしかありません。そして強制的に八方塞がりに入り、強制的に七転八倒に入る可能性もある、緩い緩い川の流れになっているかもしれない、、そして最終的には全員が悟りに入ります、なぜならば真実は一つしかなく、、真実に流れ着くしか道は無いからです。